卒業式の前日。
きらめき高校の教室は、いつもより少しだけ明るかった。
窓から差し込む春前の光はまだ冷たく、空気には冬の名残が残っている。けれど、黒板の端に書かれた「明日 卒業式」という文字だけが、確かに季節の終わりを告げていた。
机の上には、卒業アルバムが置かれている。
真新しい表紙。
まだ少し硬いページ。
そこには、三年間の時間が綺麗に閉じ込められていた。
入学式の写真。
体育祭。
文化祭。
修学旅行。
クラス写真。
委員会や部活動の集合写真。
どれも見覚えがあるのに、写真になると少しだけ遠く見える。
藤崎詩織は、自分の席でアルバムを開いていた。
周りでは、クラスメイトたちが寄せ書きを交換している。
「ここ書いて」
「何書けばいいの?」
「普通でいいよ、普通で」
「普通って一番難しいんだけど」
笑い声が教室のあちこちで起きる。
受験が終わった生徒もいれば、まだ結果待ちの生徒もいる。進路が決まった者も、これからの者もいる。けれど今日は、誰もが少しだけ同じ場所に戻っていた。
明日で卒業する。
その事実の前では、受験の緊張も、進路の違いも、少しだけ薄くなる。
詩織の机にも、何冊かの寄せ書き帳が回ってきた。
「藤崎さん、これお願い」
「うん」
詩織は丁寧な字で言葉を書いた。
三年間ありがとう。
大学でも頑張ってね。
またどこかで会えたら嬉しいです。
ありきたりかもしれない。
けれど、嘘ではなかった。
言葉はいつも通り整っている。
表情も、いつも通り穏やかだった。
冬の廊下で息ができなくなった日のことは、誰も知らない。
机に向かって、理由もわからないまま涙を落とした夜のことも、誰も知らない。
翌日には、詩織はいつも通り学校へ来た。
いつも通り挨拶をして、いつも通り授業を受け、いつも通り受験勉強をして、いつも通り笑った。
だから、きっと誰にも気づかれていない。
藤崎詩織は、最後まで藤崎詩織のままだった。
そのはずだった。
「藤崎さん、アルバム見た?」
友人が声をかけてきた。
「少しだけ」
「文化祭の写真、結構いい感じだったよ」
「本当?」
「うん。ほら、これ」
友人がページを開く。
文化祭の写真だった。
教室の飾り。
笑っているクラスメイト。
受付に立つ詩織。
そして、後片付けの時に撮られたらしい一枚。
廊下の端で、彼が段ボールを持っている。
その少し後ろに、彼女がいる。
写真の中の二人は、特別に寄り添っているわけではない。
手を繋いでいるわけでもない。
ただ、同じ方向を見て、同じ片付けの途中にいる。
それだけの写真だった。
けれど詩織は、その時の夕暮れを思い出した。
彼が彼女の重い荷物に気づいたこと。
彼女が遠慮したこと。
彼が自然に手を伸ばしたこと。
二人が、互いに相手の作業へ入り込んでいくように見えたこと。
あの日、詩織は知った。
彼女が彼を支えているだけではない。
彼も、彼女を大切にしている。
そのことを。
「懐かしいね」
友人が笑う。
「そうだね」
詩織も笑った。
胸は、少しだけ痛んだ。
でも、冬の廊下の時のように息が止まることはなかった。
大きく崩れることもない。
痛みはある。
けれど、それはもう突然刺さるものではなく、胸の奥に静かに置かれているものになっていた。
慣れたわけではない。
ただ、何度も見てしまったから。
何度も聞いてしまったから。
彼と彼女の距離が、もう一時的なものではないことを、詩織のどこかは知り始めていた。
その時、教室の入口が少し賑やかになった。
彼女が来ていた。
別のクラスの少女。
彼と付き合っている少女。
手には卒業アルバムと、小さな寄せ書き帳を持っている。
「ごめん、ちょっとだけいい?」
彼女が教室の入口から声をかける。
何人かがからかうように笑った。
「またお迎え?」
「卒業前日まで仲いいね」
彼女は少し照れたように笑った。
「そんなんじゃないよ。寄せ書き、書いてもらおうと思って」
彼が席から顔を上げた。
「こっち来れば?」
「いいの?」
「いいだろ、別に」
彼女は遠慮がちに教室へ入ってきた。
もう何度も見た光景だった。
放課後、彼女が教室に来る。
彼がそれに気づく。
二人が少し話す。
それだけ。
けれど、最初に見た時とは、詩織の受け取り方が少し違っていた。
驚きはもうない。
胸の奥が強く跳ねることもない。
ただ、静かに見ている。
彼女は彼の机の横に立ち、寄せ書き帳を差し出した。
「これ、書いて」
「何書けばいいんだよ」
「何でもいいよ」
「それ一番困るやつ」
「普通でいいよ、普通で」
「みんな同じこと言うな」
彼は苦笑しながら、ペンを取った。
彼女はその横で、卒業アルバムを開いている。
「ねえ、この写真見た?」
「どれ?」
「文化祭のやつ。ほら、あなた段ボール持ってる」
「そんなところ撮られてたのか」
「ちょっと真面目そうに写ってる」
「ちょっとって何だよ」
二人は小さく笑った。
教室の中は、寄せ書きや写真の話でざわついている。
だから、二人の会話だけが特別に目立つわけではない。
それでも詩織の耳には届いた。
彼女が言う。
「卒業式終わったら、どうする?」
「明日?」
「うん。式のあと。クラスで写真撮るでしょ? その後」
「ああ……たぶん、こっちのクラスでも少し残ると思う」
「私のクラスもそう。じゃあ、終わったら校門のところ?」
「混むんじゃないか?」
「じゃあ、いつものところ」
「……中庭?」
「うん」
彼は少しだけ考えて、それから頷いた。
「わかった。式の後、行けたら行く」
「行けたら、じゃなくて来て」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
彼女が笑う。
彼も笑う。
それは、何でもない約束だった。
卒業式の後に、少し会う。
写真を撮るのかもしれない。
話をするだけかもしれない。
特別な言葉があるのかどうかも、詩織にはわからない。
けれど、その会話を聞いた時、詩織の胸の奥に静かな波が立った。
明日。
卒業式。
中庭。
いつものところ。
二人の中には、詩織の知らない「いつもの場所」がある。
そして明日の時間にも、二人は互いの予定を入れている。
詩織はアルバムのページに視線を落とした。
写真の中の自分は、受付で綺麗に笑っていた。
その隣には友人がいる。
教室にはクラスメイトがいる。
三年間の思い出が、たくさんある。
それなのに、胸のどこかは、教室の入口近くで話す二人に向いていた。
もう、驚かない。
もう、泣きそうにもならない。
でも、痛みは消えない。
ただ、静かになっただけだった。
彼が寄せ書きを書き終える。
「はい」
彼女が受け取って、中を覗こうとする。
「今見るなよ」
「え、だめ?」
「後で」
「じゃあ後で見る」
彼女は嬉しそうに寄せ書き帳を閉じた。
それから、何か思い出したように彼を見る。
「連絡、ちゃんとしてね」
「何の?」
「卒業した後。大学始まったら忙しくなるでしょ」
「それはお互い様だろ」
「だから言ってるの」
彼は少しだけ目を逸らして、それから頷いた。
「わかった。ちゃんとする」
「約束」
「約束」
短い言葉だった。
けれど、詩織にはその短さがかえって重く感じられた。
連絡。
卒業した後。
大学が始まったら。
二人の会話は、もう高校の中だけに収まっていなかった。
明日で教室は終わる。
制服の日々も終わる。
この黒板も、机も、廊下も、校門も、全部が思い出になる。
でも二人は、その外側の話をしている。
高校生活が終わった後も、互いを失わないための言葉を交わしている。
詩織は、その事実を静かに受け止めた。
受け止めた、というほど強くはない。
ただ、見た。
聞いた。
胸の中に置いた。
冬の廊下で聞いた「終わったら行こう」という言葉。
あの時は、息ができなくなった。
今日は、息はできる。
けれど、今なら少しだけわかる気がした。
あの時の言葉は、ただの約束ではなかったのかもしれない。
二人が、この先も続いていくことを、ごく自然に選んでいる声だったのかもしれない。
もちろん、詩織はまだ、その意味を最後まで考えられなかった。
考えたくなかった。
ただ、そう感じかけただけ。
感じかけて、また心の奥へしまった。
彼女が教室を出ていく。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
また明日。
明日は卒業式だ。
いつもなら何でもない言葉が、少しだけ違って聞こえた。
明日が終われば、その「また明日」は、もう今までと同じ意味では使えなくなる。
彼女が去った後、彼は少しだけ教室の入口を見ていた。
ほんの一瞬。
けれど詩織は見てしまった。
その顔は、穏やかだった。
明日への緊張も、卒業への寂しさも、彼女への親しさも、全部が少しずつ混ざっているような顔だった。
詩織は、アルバムを閉じた。
もう見る必要はないと思った。
少しだけ、胸がいっぱいだった。
「詩織」
声をかけられて、詩織は顔を上げた。
彼だった。
いつの間にか、彼がこちらに来ていた。
手には卒業アルバムと、寄せ書き帳を持っている。
「これ、書いてくれる?」
「あ、うん」
詩織は受け取った。
表紙の角が少しだけ擦れている。
きっと、いろいろな人に回しているのだろう。
「何を書けばいいかな」
「普通でいいよ」
詩織は思わず小さく笑った。
「それ、一番難しいね」
「さっき俺も言った」
彼も笑った。
ほんの少しだけ、昔の空気が戻った気がした。
幼馴染としての、何でもない会話。
重くもなく、遠すぎもせず、近すぎもしない。
詩織はペンを取った。
少し考えてから、丁寧な字で書いた。
三年間お疲れさま。
大学でも、体に気をつけて頑張ってね。
それだけでは少し固い気がして、最後に一行足した。
昔から知っているあなたが、ここまで頑張ってきたことを、私はちゃんと知っています。
書いてから、少しだけ胸が揺れた。
これは書きすぎただろうか。
けれど、消すことはできない。
彼は受け取ると、少し驚いたように文字を見た。
「……ありがと」
「うん」
彼は寄せ書きを閉じた。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「明日で卒業だな」
「そうだね」
詩織は笑った。
ちゃんと笑えた。
彼は窓の外を少し見てから、言った。
「詩織も、大学行っても頑張れよ」
その言葉は、幼馴染としての言葉だった。
昔から知っている相手へ向ける、穏やかな応援。
特別な熱はない。
けれど、冷たくもない。
詩織はその声を、静かに受け取った。
「あなたもね」
短く答えた。
それだけだった。
本当に、それだけ。
けれど詩織の中では、その会話が妙に深く残った。
明日で卒業だな。
そうだね。
大学行っても頑張れよ。
あなたもね。
ただの幼馴染の会話。
最後の前日の、普通の会話。
きっと彼にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
詩織にとっても、そうであるべきだった。
けれど、胸の奥ではなぜか、その言葉がゆっくり沈んでいく。
これが最後かもしれない。
そんなふうに思いかけて、詩織はすぐに打ち消した。
最後なんて、大げさだ。
卒業しても、会うことはあるかもしれない。
連絡だって、できないわけではない。
幼馴染なのだから。
完全に終わるわけではない。
そう思おうとした。
けれど、今までと同じではなくなることだけは、もうわかっていた。
彼は寄せ書き帳を持って、自分の席へ戻っていった。
詩織はその背中を見送った。
背中は、昔より少し大きく見えた。
頼りなかった幼馴染の少年。
自分を見ていた少年。
勉強を聞きに来た少年。
一緒に帰ろうと誘ってきた少年。
その少年は、明日卒業する。
そして、その先には彼女がいる。
詩織は、机の上のアルバムに手を置いた。
表紙は冷たかった。
けれど、指先には少しだけ熱が残っている。
放課後の教室は、少しずつ人が減っていった。
寄せ書きも、写真も、最後の会話も、ひとつずつ片付いていく。
黒板には、まだ「明日 卒業式」の文字が残っている。
誰かがふざけて、その横に小さな桜の絵を描いていた。
詩織はそれを見て、少しだけ笑った。
本当に、明日で終わるのだ。
高校生活が。
この教室が。
同じ制服で過ごす日々が。
そして、何か別のものも。
そう思いかけて、詩織はその考えを最後まで追わなかった。
追えば、また胸の奥が痛くなる気がした。
だから、立ち上がった。
「藤崎さん、帰る?」
友人が声をかける。
「うん。帰ろうか」
詩織は微笑んだ。
いつも通りに。
教室を出る時、彼と目が合った。
「また明日」
彼が言った。
「うん。また明日」
詩織も答えた。
明日。
卒業式。
伝説の木。
その言葉が、胸の奥をかすめた。
けれど詩織は表情を変えなかった。
廊下へ出る。
冬の終わりの空気が、少しだけ冷たい。
窓の外には、まだ芽吹く前の木々が見える。
春は、もうすぐそこまで来ている。
けれど、その前日の廊下で、詩織は穏やかに笑っていた。
誰にも、何も気づかせないまま。
胸の奥に残った痛みを、静かに抱えたまま。
そして、その痛みが明日どんな形を取るのかを、まだ知らないまま。