藤崎詩織は、伝説の木の外に立つ   作:エーアイ

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前話リライトに伴いこちらも改稿しました。


藤崎詩織は、桜のキャンパスで振り返る

 大学の入学式の日、空はよく晴れていた。

 春の光はやわらかく、キャンパスへ続く並木道には桜が咲いていた。

 満開というほどではない。

 けれど、枝先に淡く色づいた花びらが揺れていて、新しい季節が始まるのだと、静かに告げているようだった。

 藤崎詩織は、その桜の下を歩いていた。

 真新しい服。

 少し硬い靴。

 まだ慣れない鞄の重さ。

 周囲には、同じように入学式へ向かう学生たちがいる。

 誰もが少し緊張していて、けれどどこか誇らしげだった。

 ここは、一流大学と呼ばれる場所だった。

 高校時代から目指してきた場所。

 努力して、積み重ねて、届いた場所。

 周囲からは、きっと当然だと思われていた。

 藤崎詩織なら合格するだろう。

 藤崎詩織なら、こういう大学へ進むだろう。

 そんな期待を、詩織は知っていた。

 そして、その期待に応えるだけの努力をしてきた。

 だから、今日ここに立っていることには、確かな達成感があった。

 嬉しくないわけではない。

 緊張していないわけでもない。

 新しい生活への期待も、ちゃんとある。

 高校とは違う環境。

 知らない人ばかりの教室。

 専門的な講義。

 広い図書館。

 自分と同じように努力してきた人たち。

 その中で過ごすこれからの日々を思うと、胸の奥が少しだけ高鳴った。

 けれど同時に、どこか不思議な感覚もあった。

 高校までの詩織は、いつも見られる側だった。

 成績がいい。

 品行方正。

 誰にでも優しい。

 教師からも、生徒からも、一目置かれる存在。

 藤崎詩織という名前には、きらめき高校の中で特別な響きがあった。

 けれど、この大学では少し違う。

 周囲を歩く学生たちは、みんな優秀そうだった。

 落ち着いた雰囲気の男子学生。

 明るく話す女子学生。

 入学前から専門書の話をしている人。

 英語の資料を自然に読みながら歩いている人。

 誰もが、それぞれに何かを持っているように見えた。

 ここでは、自分だけが特別なのではない。

 そのことに、詩織は少しだけ背筋が伸びるような思いがした。

 不安ではない。

 むしろ、心地よい緊張だった。

 ここからまた、新しく始めるのだ。

 そう思った。

 入学式の会場へ向かう途中、声をかけられた。

 

 「あの、藤崎さん?」

 

 振り返ると、同じ新入生らしい女子学生が立っていた。

 高校の制服ではなく、淡い色のブラウスとスカート。

 少し緊張したように笑っている。

 

 「はい」

 

 「やっぱり。きらめき高校出身だよね?」

 

 「うん。そうだけど……」

 

 「私、隣の高校だったんだ。名前、聞いたことあるよ。成績すごかったって」

 

 詩織は少しだけ驚き、それから微笑んだ。

 

 「そんな、大げさだよ」

 

 「大げさじゃないよ。先生たちも言ってたもん。きらめき高校にすごい子がいるって」

 

 別の男子学生も、その会話に加わった。

 

 「藤崎さんって、あの藤崎さん? 入試の成績も良かったって噂聞いたけど」

 

 「噂になるほどのことじゃないと思うよ」

 

 詩織は、いつものように穏やかに答えた。

 否定しすぎず、肯定しすぎず。

 相手が気まずくならないように、少しだけ微笑む。

 高校時代から慣れている対応だった。

 

 すごいね。

 さすがだね。

 藤崎さんなら当然だね。

 

 そう言われることには慣れていた。

 けれど、このキャンパスでその言葉を聞くと、少しだけ違って感じた。

 高校の教室で言われる時は、その言葉は詩織を中心に置いた。

 でも今は違う。

 ここにいる誰もが、それぞれ何かを持っている。

 自分への称賛も、その中のひとつに過ぎない。

 特別であることが、少しだけ薄まる。

 その感覚は、寂しいようで、少しだけ楽でもあった。

 

「ねえ、入学式終わったら、学食見に行かない?」

 

 さっきの男子学生が、軽い調子で言った。

 

「せっかくだし、何人かで。藤崎さんもどう?」

 

 詩織は一瞬だけ考えた。

 大学での新しい友人。

 新しい人間関係。

 断る理由は特にない。

 むしろ、こういう誘いには自然に乗った方がいいのかもしれない。

 けれど、詩織の口から出たのは、少し曖昧な返事だった。

 

 「ありがとう。でも、今日は入学式のあとに少し用事があるから」

 

 「そっか。じゃあ、また今度」

 

 「うん。また今度」

 

 自然な笑顔。

 角の立たない断り方。

 相手も特に気にした様子はなかった。

 何でもないやり取りだった。

 けれど、その瞬間。

 詩織の胸の奥に、昔の声がかすかによぎった。

 

 ――噂になったら恥ずかしいし。

 

 高校一年生の春。

 幼馴染の少年が、少し緊張した顔で言った。

 

 「詩織、今日……一緒に帰らない?」

 

 それに対して、自分はそう答えた。

 柔らかく。

 傷つけないように。

 いつもの藤崎詩織として。

 その記憶は、一瞬だけよぎって、すぐに消えた。

 今の誘いと、あの時の彼の誘いは違う。

 学食へ行こうというだけの話だ。

 何人かで行くと言っていた。

 恋愛の話でもない。

 高校時代のあの放課後と重ねる必要なんてない。

 そう思う。

 けれど、詩織は少しだけ足元を見た。

 真新しい靴が、桜の花びらを踏まないように歩いている。

 新しい場所に来たはずなのに。

 自分は、昔と同じような距離の取り方をしているのかもしれない。

 そんな考えが、ほんの少しだけ胸をかすめた。

 入学式は、滞りなく終わった。

 壇上の挨拶。

 新入生代表の言葉。

 校歌。

 拍手。

 式場を出ると、キャンパスはさらに賑やかになっていた。

 サークル勧誘の声。

 写真を撮る家族。

 新入生同士のぎこちない会話。

 桜の花びらが、風に乗ってゆっくりと舞っている。

 詩織は、配られた資料を鞄に入れながら、人の流れから少し離れた。

 誰かと話すこともできた。

 さっき誘ってくれた学生たちを探せば、学食へ向かう輪に入ることもできただろう。

 それは、きっと悪いことではない。

 新しい場所で、新しい人間関係を作る。

 大学生としては、自然なことだ。

 けれど、詩織はすぐにはその輪へ戻らなかった。

 少しだけ、一人になりたかった。

 入学式の日に一人でいるのは、少し不自然かもしれない。

 けれど詩織は、自分の歩幅でキャンパスの奥へ向かった。

 桜並木が続いている。

 淡い花びらが、風に揺れている。

 新入生たちの声は少しずつ遠ざかり、代わりに、枝先が擦れる小さな音が聞こえてきた。

 詩織は、桜の木の下で立ち止まった。

 大学の桜。

 きらめき高校の伝説の木とは、まったく違う。

 幹も違う。

 場所も違う。

 意味も違う。

 ここには、卒業式の日に女の子から告白されると永遠に幸せになれる、なんて伝説はない。

 ただの桜だった。

 新入生を迎える春の木。

 どこの学校にもあるような、普通の桜。

 それなのに、詩織は思い出してしまった。

 卒業式の日。

 校舎裏の伝説の木。

 彼女が、彼の前に立っていた。

 両手をぎゅっと握りしめて、震えながらも、まっすぐ彼を見ていた。

 彼は、その言葉から逃げなかった。

 少し驚いて、少し照れて、それでもちゃんと受け止めていた。

 詩織は、それを少し離れた場所で見ていた。

 伝説の木の下ではなく、その外側で。

 二人の声は、風に揺れてよく聞こえなかった。

 けれど、彼女が何を言ったのかはわかった気がした。

 彼がどう答えたのかも、表情でわかった気がした。

 彼女が泣きそうな顔で笑ったこと。

 彼も、少し照れたように笑ったこと。

 二人の距離が、ほんの少し近づいたこと。

 その全部が、まだ詩織の中に残っていた。

 まるで、卒業式の日から時間が止まった場所が、自分の胸のどこかにあるようだった。

 詩織は、桜を見上げた。

 あの日、彼女は彼に言ったのだろう。

 好きです、と。

 詩織には、その言葉を聞き取ることはできなかった。

 でも、言ったのだとわかった。

 そして彼は、その言葉を受け取った。

 それも、わかった。

 だから、今さら誰かに確かめる必要はなかった。

 あの二人がどうなったのか。

 今も連絡を取っているのか。

 卒業後も続いているのか。

 そういうことを、誰かから聞かなくても、詩織はどこかで知っていた。

 卒業式の前日。

 彼女は彼に言っていた。

 連絡、ちゃんとしてね。

 約束。

 彼は、少し目を逸らして、それから頷いていた。

 わかった。

 ちゃんとする。

 その声を、詩織は覚えている。

 きっと彼は、ちゃんと連絡しているのだろう。

 そう思った。

 彼は、そういう人になった。

 誰かに向けられた言葉を、ちゃんと受け取れる人になった。

 約束を軽く扱わない人になった。

 そして彼女は、きっとその返事を待てる人なのだろう。

 詩織は、そこまで考えて、胸の奥が少しだけ沈むのを感じた。

 大きな痛みではない。

 息が止まるほどでもない。

 冬の廊下で、未来の約束を聞いた時のような鋭さではなかった。

 卒業式の日に、伝説の木の外で立ち止まった時のような静かな衝撃でもなかった。

 ただ、触れていないはずの古傷を、指先で軽くなぞられたような感覚だった。

 痛い。

 でも、痛いと言うほどではない。

 笑っていられる。

 普通に歩ける。

 新しい生活に向かうこともできる。

 けれど、何も感じていないわけではなかった。

 詩織は、一流大学に入った。

 努力は報われた。

 周囲からも認められた。

 高校時代から積み重ねてきたものは、ちゃんと結果になった。

 それは誇っていいことのはずだった。

 実際、誇らしくないわけではない。

 自分がしてきた努力を、詩織は知っている。

 受験前の夜も。

 問題集に向かった時間も。

 不安を押さえ込んで机に座った日々も。

 そのすべてが今日につながっている。

 ここにいる自分は、確かに自分の努力でたどり着いた自分だった。

 けれど、その成功は、あの日の痛みを消してはくれなかった。

 成績で埋まるものではない。

 合格通知で埋まるものでもない。

 周囲からの称賛で、なかったことにできるものでもない。

 そういう痛みがあるのだと、詩織は初めて少しだけ知った。

 桜の花びらが、一枚肩に落ちた。

 詩織はそれをそっと払った。

 花びらは風に流され、足元へ落ちる。

 その動きを目で追いながら、詩織は小さく息を吐いた。

 自分は、何をまだ抱えているのだろう。

 そう思った。

 けれど、その答えはまだ出なかった。

 

 彼が好きだった。

 そう言い切るには、まだ怖かった。

 

 失恋した。

 そう認めるには、何かが足りなかった。

 彼女に負けた。

 そんな言葉は、まだ遠すぎた。

 

 ただ、あの日の光景が消えていない。

 それだけは、わかった。

 新しい生活が始まれば、自然に忘れていくと思っていた。

 忙しさの中で、薄れていくと思っていた。

 周囲に優秀な人が増え、新しい人間関係ができれば、高校時代のことは少しずつ過去になると思っていた。

 でも、過去はただ遠くなるだけではない。

 時々、思いがけない場所で追いついてくる。

 大学の桜の下で、高校の伝説の木を思い出すように。

 詩織は、キャンパスの奥を見た。

 新入生たちが笑っている。

 新しい友人と連絡先を交換している。

 サークルの勧誘を受けている。

 誰もが、新しい物語の入口に立っているようだった。

 詩織も、その一人だ。

 これから講義が始まる。

 友人もできるだろう。

 忙しい日々になるだろう。

 たくさん学び、たくさん考え、自分の将来へ向かって歩いていくのだろう。

 それは楽しみだった。

 本当に。

 けれど、その未来へ歩き出す自分の中に、まだ高校の春が残っている。

 卒業式の日の、伝説の木の下に立てなかった自分がいる。

 木の外側から二人を見ていた自分がいる。

 その自分を、まだ置いていけない。

 詩織は、桜の幹にそっと手を伸ばしかけた。

 けれど、触れなかった。

 ただ、少し離れた場所で見上げた。

 伝説の木ではない。

 願いを叶える木でもない。

 ただの桜。

 それでも、その花の下で、詩織は自分の胸に残るものを少しだけ見つめた。

 痛みはまだ、名前を持っていない。

 後悔とも、恋とも、敗北とも呼べない。

 ただ、終わったはずなのに終わっていないもの。

 新しい生活の中にも、静かについてくるもの。

 それが、自分の中にある。

 詩織は、ゆっくりと鞄を持ち直した。

 入学式の日は、まだ終わっていない。

 これから説明会がある。

 資料も読まなければならない。

 新しい教室にも行かなければならない。

 立ち止まってばかりはいられない。

 

 「行かなくちゃ」

 

 小さく呟いて、詩織は歩き出した。

 背筋を伸ばして。

 いつものように、穏やかな表情で。

 誰が見ても、新しい生活へ向かう藤崎詩織だった。

 けれど、桜並木を抜ける時、詩織はもう一度だけ振り返った。

 淡い花びらが、風に揺れている。

 それは、きらめき高校の伝説の木とは違う。

 違うはずなのに。

 ほんの一瞬だけ、あの日の木の影が重なって見えた。

 伝説の木の下に立つ二人。

 その外側に立っていた自分。

 そして、卒業式の前日に聞いた小さな約束。

 連絡、ちゃんとしてね。

 約束。

 その声が、桜の風の中で、遠くから聞こえた気がした。

 詩織は目を伏せ、それから前を向いた。

 新しい季節は始まった。

 けれど、終わったはずの春が、まだ胸の奥に残っていた。

 

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