大学二年に上がる少し前の春。
藤崎詩織は、きらめき高校の近くを歩いていた。
特別な用事があったわけではない。
大学の講義で使う資料を探しに出かけた帰り、乗り換えの都合で、懐かしい駅に降りただけだった。
本当なら、そのまま帰ればよかった。
駅前の景色を少し眺めて、懐かしいと思って、それで終わりにすればよかった。
けれど、詩織の足は自然と高校の方へ向かっていた。
昔と変わらない通学路。
少しだけ新しくなった店の看板。
閉店してしまった文房具屋。
制服姿の高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。
その姿を見るたびに、詩織は自分がもう高校生ではないことを思い出した。
大学生になって一年が過ぎた。
一流大学と呼ばれる場所に進み、周囲には優秀な人がたくさんいた。
高校時代のように、藤崎詩織という名前だけで特別視されることは少なくなった。
それは少し寂しくもあり、同時に少し楽でもあった。
誰かの理想でいなくていい。
誰かの期待に、いつも完璧に応えなくてもいい。
そう思える瞬間が、大学に入ってから少しずつ増えていた。
新しい友人もできた。
講義は忙しかった。
サークルにも顔を出した。
同じ大学の男子から食事に誘われたこともあった。
その中には、客観的に見て魅力的な人もいた。
高校時代の詩織なら、条件だけを見れば「悪くない」と思ったかもしれない相手もいた。
けれど、誰かと向き合おうとすると、いつも心の奥で小さな声がした。
――私は、本当にその人を見ているの?
その声が、詩織を立ち止まらせた。
高校時代の自分は、彼を見ていたつもりだった。
幼馴染だから。
自分を好きでいてくれたから。
近くにいたから。
そう思っていた。
でも、本当に見ていただろうか。
彼の未熟さばかり見ていなかっただろうか。
自分の基準に届いているかどうかばかり測っていなかっただろうか。
彼が何に悩み、何を頑張り、どんなふうに変わろうとしていたのか。
それを、本当に見ようとしていただろうか。
その問いは、大学に入ってすぐ答えが出たものではなかった。
入学式の日。
桜のキャンパスで、詩織は一度立ち止まった。
あの日、大学の桜の下で、伝説の木の影を思い出した。
彼女が彼に告白した姿。
彼がそれを受け取った顔。
自分が少し離れた場所で、何も言えずに立っていた時間。
その記憶が、まだ胸の奥に残っていることだけはわかった。
でも、その時はまだ、名前をつけられなかった。
後悔とも。
恋とも。
敗北とも。
どれも近くて、どれも少し違う気がした。
ただ、終わったはずの春が胸の奥に残っていた。
それだけだった。
一年が過ぎた今も、その春は完全には消えていなかった。
詩織は、きらめき高校の校門の前で足を止めた。
春休み中の校舎は静かだった。
部活動の声だけが、遠くから聞こえる。
グラウンドを走る足音。
吹奏楽部の音。
誰かの笑い声。
懐かしい音だった。
詩織は、校門の外から校舎を見上げた。
もう自分の場所ではない。
そう思った。
けれど、不思議と拒まれている感じはしなかった。
ただ、ここにはもう戻れないのだと、静かに知らされているようだった。
そして。
詩織の視線は、自然と校舎裏の方へ向いた。
伝説の木。
卒業式の日に見た、あの木。
あそこへ行けば、きっとまだある。
何も変わらずに、立っている。
詩織は迷った。
行かなくてもいい。
もう終わったことだ。
あの日、彼女は彼に言った。
好きです、と。
詩織には聞こえなかった。
けれど、言ったのだとわかった。
彼はそれを受け取った。
それも、表情でわかった。
二人が今どうしているのか、詩織は詳しく知らない。
同じ大学ではない。
毎日の様子を聞くこともない。
わざわざ誰かに確かめたこともない。
けれど、卒業式の前日に聞いた言葉を、詩織は今でも覚えていた。
――連絡、ちゃんとしてね。
――約束。
そして彼は、少し目を逸らしてから、確かに頷いた。
――わかった。ちゃんとする。
きっと彼は、ちゃんとしているのだろう。
そう思った。
彼は、そういう人になった。
誰かに向けられた言葉を、ちゃんと受け取れる人になった。
約束を軽く扱わない人になった。
彼女は、きっとその返事を待てる人なのだろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけ沈んだ。
大きな痛みではない。
もう、冬の廊下で息が止まった時のような鋭さはない。
卒業式の日、伝説の木の外で立ち止まった時のような、静かな衝撃でもない。
ただ、古傷の場所を指先でそっとなぞるような痛みだった。
そこに傷があったことを、忘れないための痛み。
詩織は、校門の横を抜け、遠回りするように校舎裏へ向かった。
在校生の邪魔にならないように、外周の道を歩く。
春の風が、髪を揺らした。
高校時代より少し伸びた髪。
大学生らしい落ち着いた服装。
手に持った本の入ったバッグ。
鏡に映る自分は、もう高校生ではない。
けれど、心の奥にいるあの日の詩織は、まだ伝説の木の陰に立っていた。
やがて、木が見えた。
伝説の木。
卒業式の日と同じように、静かにそこに立っていた。
春の光を受けて、枝先が淡く輝いている。
詩織は、少し離れた場所で立ち止まった。
あの日と同じ場所だった。
自分が二人を見ていた場所。
彼女が告白し、彼が受け入れた場所。
詩織が、何かの外側に立っていた場所。
あの日、詩織は思った。
何かが終わる、と。
でも、その何かが何なのか、わからなかった。
好きだった。
そう言うには、まだ遠かった。
失った。
そう言うには、まだ怖かった。
負けた。
そう呼ぶには、まだ自分の心が追いつかなかった。
ただ、目の前で二人が笑っていた。
そして自分は、その外にいた。
それだけが、はっきりしていた。
詩織は、ゆっくりと息を吸った。
春の空気は、高校の頃と同じ匂いがした。
少し冷たくて、少し甘い。
その匂いを吸い込んだ瞬間、記憶がよみがえった。
卒業式の日の空。
制服の感触。
卒業証書の筒を抱えた指。
彼女の震える手。
彼の優しい横顔。
二人の距離が近づいた瞬間。
そして、自分の胸の奥で何かが静かに沈んでいく感覚。
詩織は目を伏せた。
あの時は、まだわからなかった。
悲しいのだと思った。
悔しいのだと思った。
自分を好きだったはずの人が、別の誰かを選んだから苦しいのだと思った。
それも、間違いではない。
けれど、全部ではなかった。
本当はもっと単純だった。
もっと幼くて、もっと不器用で、もっと遅すぎるものだった。
「……好きだったんだ」
声に出した瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
驚くほど、自然な言葉だった。
ずっと言えなかった言葉。
高校生の自分が認めなかった言葉。
認めてしまえば、自分が動かなかったことを責めるしかなくなるから、ずっと避けていた言葉。
でも今なら、言えた。
詩織は、彼を好きだった。
少なくとも、好きになりかけていた。
いや、たぶん。
ちゃんと好きだった。
ただ、その好きは、あまりにも遅かった。
好きだと気づく前に、詩織は彼を測っていた。
好きだと認める前に、彼を幼馴染という言葉の中に置いていた。
好きだと伝える前に、彼の好意を当たり前のもののように扱っていた。
そして、彼女が彼に好きだと伝え、彼がその言葉を受け取ってから、ようやく気づいた。
それは恋だったのだと。
詩織は、伝説の木を見上げた。
木は何も言わなかった。
当然だった。
伝説なんて、木が叶えるものではない。
あの日もそうだった。
彼女は伝説に頼ったのではない。
自分の言葉で、彼に好きだと伝えた。
伝説の木は、ただその勇気を見ていただけ。
詩織の後悔も、二人の幸福も、黙って受け止めていただけだった。
「私、ずるかったんだね」
詩織は小さく笑った。
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、言わずにはいられなかった。
彼を好きだった。
でも、好きだと認めるには、彼がまだ足りないと思っていた。
自分が彼を選ぶには、もっといい男になってほしかった。
けれど、彼が本当にいい男になっていくのを、別の少女の隣で見た時、自分だけが傷ついたような顔をした。
それは、ずるい。
ひどく、ずるい。
詩織はようやく、そのことを真正面から認められた。
自分は被害者ではなかった。
彼を奪われた少女ではなかった。
ただ、自分の気持ちを選べなかった少女だった。
そして、選べなかったことの結果を受け取っただけだった。
そう思った時、胸の痛みは少し形を変えた。
鋭い棘ではなくなった。
代わりに、静かな重みになった。
それはきっと、後悔と呼ぶものだった。
けれど同時に、大切なものでもあった。
この痛みがあるから、次は誰かを条件だけで見ないでいられるかもしれない。
この後悔があるから、次は自分の気持ちを後回しにしないでいられるかもしれない。
この遅すぎた恋があるから、次に誰かを好きになった時、ちゃんと自分から歩き出せるかもしれない。
詩織は、バッグの持ち手を握り直した。
彼と彼女が今どうしているのか、詩織は知らない。
知らなくていいと思った。
知れば、また胸が痛むかもしれない。
知っても、何かが変わるわけではない。
今の彼に、詩織が確かめるべきことなどない。
ただ、あの日見た二人の選択が、一時の熱だけではなかったことは、詩織にはわかる気がした。
彼女が積み重ねた時間が、あの日の告白につながっていたこと。
彼がその言葉を、軽く扱わなかったこと。
それは、あの場所に立っていた詩織にもわかった。
だから、今の二人がどうであっても、あの日の事実は変わらない。
彼女は彼に好きだと言った。
彼は、その言葉を受け取った。
詩織は、その外側に立っていた。
そのことだけで、十分だった。
「幸せでいてね」
詩織は、伝説の木に向かって呟いた。
それは二人への言葉だった。
届かない祝福。
今さらの祝福。
でも、たぶん初めて、嘘のない祝福だった。
高校の頃の詩織は、祝福しながら傷ついていた。
祝福しなければならないと思っていた。
幼馴染として、優等生として、藤崎詩織として、正しくあろうとしていた。
でも今の詩織は、少し違う。
痛いまま、祝福していた。
未練が少し残ったまま、それでも二人の幸福を願っていた。
それは完璧な感情ではない。
綺麗なだけの感情でもない。
でも、たぶん本物だった。
詩織は、伝説の木へ一歩近づいた。
手を伸ばせば、幹に触れられる距離。
けれど、触れなかった。
ここは、自分の恋が叶った場所ではない。
自分が何かを願う場所でもない。
ここは、自分が遅すぎた恋を知った場所。
それだけでよかった。
しばらく風の音だけがした。
枝が揺れ、葉がこすれ合う。
その音を聞いているうちに、詩織は不意に幼い頃の彼を思い出した。
小学校の帰り道。
少し頼りない足取りで、詩織の後ろをついてきた少年。
詩織が振り返ると、慌てて笑った少年。
中学の頃、難しい問題が解けなくて、素直に教えてと言えずに遠回しに聞いてきた少年。
高校一年の頃、まだどこか垢抜けなくて、それでも詩織に褒められると嬉しそうにした少年。
そのすべてが、今さら愛おしく思えた。
どうして、あの時気づかなかったのだろう。
完璧ではなかったから。
理想に届いていなかったから。
自分にはもっとふさわしい人がいると思っていたから。
理由はいくつもある。
けれど、本当はひとつだった。
詩織は、恋を知らなかった。
誰かを選ぶということを、知らなかった。
選ばれることに慣れすぎて、選ぶことの重さを知らなかった。
その代償を、今ここで見つめている。
「ごめんね」
今度の言葉は、彼に向けたものだった。
彼には届かない。
届かなくていい。
今の彼に、そんな言葉を聞かせる必要はない。
彼はもう、自分の春を歩いている。
その隣に誰がいるのかを、詩織が確かめる必要もない。
詩織の後悔は、詩織だけのものだ。
彼に背負わせてはいけない。
だからこれは、独り言でいい。
「好きだったよ」
続けて、詩織は言った。
その言葉も、春の風に溶けた。
不思議と涙は出なかった。
泣くには、少し遅すぎたのかもしれない。
あるいは、ようやく言葉にできたことで、涙より先に心が落ち着いたのかもしれない。
詩織は目を開け、もう一度だけ伝説の木を見上げた。
あの日、この木の下で、彼女は好きだと言った。
今日、この木の前で、詩織は好きだったと言った。
たった一文字違うだけなのに、その差はあまりにも大きい。
好きです。
好きだった。
現在と過去。
手を伸ばす言葉と、見送る言葉。
彼女は現在形で彼に向かった。
詩織は過去形で自分に向き合った。
その違いが、二人の結末を分けたのだ。
詩織は静かに笑った。
寂しい笑みだった。
でも、少しだけ優しい笑みでもあった。
「次は、ちゃんと現在形で言えるようにしよう」
誰に聞かせるでもなく、詩織はそう呟いた。
それは誓いというほど強いものではなかった。
けれど、確かな決意だった。
誰かを好きになった時。
その人がまだ未完成でも。
自分の理想に完全には届いていなくても。
それでも、その人の今を見つめられるように。
完成した姿だけを欲しがらないように。
自分から何もせずに、後から失った顔をしないように。
ちゃんと、今の気持ちを今の言葉で伝えられるように。
詩織は、そうなりたいと思った。
風が吹いた。
木の枝が揺れ、春の光が細かく砕けた。
詩織は一歩下がった。
そして、ゆっくりと踵を返した。
もう十分だった。
伝説の木に何かを願う必要はない。
過去をやり直すことはできない。
彼を取り戻したいわけでもない。
今の二人を壊したいわけでもない。
ただ、自分の中で曖昧だった感情に、名前をつけたかった。
それが今日、ようやくできた。
遅すぎた恋。
叶わなかった恋。
けれど、無意味ではなかった恋。
詩織は校舎裏を離れ、通学路へ戻った。
夕方の光が、道に長い影を落としている。
高校生たちの声が遠くから聞こえる。
誰かが笑い、誰かが走り、誰かが名前を呼ぶ。
その声の中に、もう彼の声はなかった。
詩織の高校生活も、もうそこにはなかった。
けれど、胸の奥に残ったものは消えない。
消えなくていい。
詩織はそう思った。
駅へ向かう道で、彼女はスマートフォンを取り出した。
連絡先の中に、彼の名前はまだ残っている。
けれど、開かなかった。
送る言葉などなかった。
今さら伝えるべきこともなかった。
彼の今を乱さないこと。
それが、遅れて恋に気づいた自分にできる、たぶん唯一の誠実さだった。
詩織はスマートフォンをバッグに戻した。
そして、前を向いて歩いた。
春は、また始まろうとしている。
大学二年生になる。
新しい講義。
新しい出会い。
新しい季節。
かつての自分なら、完璧な未来を思い描こうとしたかもしれない。
けれど今の詩織は、少しだけ違う。
完璧でなくてもいい。
未完成でもいい。
大切なのは、目の前にあるものをちゃんと見ること。
自分の気持ちを、遅れすぎる前に認めること。
そして、欲しいものがあるなら、誰かに選ばれるのを待つだけではなく、自分から選ぶこと。
藤崎詩織は、駅へ向かって歩いていく。
背後には、きらめき高校がある。
その奥には、伝説の木がある。
そこで終わった恋がある。
そこでようやく名前を得た恋がある。
詩織は振り返らなかった。
もう、振り返らなくてもよかった。
彼女の中で、あの恋はようやく過去になった。
忘れたわけではない。
消えたわけでもない。
ただ、胸の奥で静かに眠るものになった。
いつかまた誰かを好きになった時。
きっと、この痛みを思い出す。
好きだった、と言うためではなく。
好きです、と言うために。
春風が、詩織の髪を揺らした。
その足取りは、高校時代より少しだけ軽かった。