大学二年の十二月。
街は、どこも少しだけ浮かれていた。
駅前の並木には小さな灯りが巻きつけられ、ショーウィンドウには赤と緑の飾りが並んでいる。
カフェからは甘い匂いが流れ、道を歩く人たちは、いつもより少しだけ足取りが軽い。
クリスマスシーズン。
高校生の頃なら、その響きだけで、どこか落ち着かない気持ちになったかもしれない。
けれど今の藤崎詩織は、そういう季節の空気を、少し離れたところから眺められるようになっていた。
大学の講義を終え、図書館で借りた本をバッグに入れて、詩織は駅前のイルミネーションの下を歩いていた。
白い息が、夜の空気に溶ける。
冷たい風が頬を撫でた。
「……もう、そんな季節なんだ」
小さく呟いた声は、人混みの中に消えた。
大学二年の冬。
高校を卒業してから、もうすぐ二年が経とうとしている。
きらめき高校の制服を着ていた自分は、少しずつ遠い存在になっていた。
大学生活にも慣れた。
講義も、友人関係も、自分なりのリズムができた。
完璧でいようとしすぎなくても、日々は意外と回っていく。
誰かに憧れられることだけが、自分の価値ではない。
そう思える日も増えた。
大学二年に上がる前の春。
詩織は、きらめき高校の伝説の木を見に行った。
そこでようやく認めた。
自分は、幼馴染の少年を好きだったのだと。
好きだった。
その過去形の言葉を、自分の中に置いた。
彼を取り戻したいわけではない。
今の二人を壊したいわけでもない。
彼に何かを伝えたいわけでもない。
あれは、自分の中で名前を持てずに残っていた感情へ、遅れて与えた言葉だった。
過去形でしか言えなかった恋。
でも、言えたことで少しだけ前に進めた恋。
それ以来、詩織は少し変わった。
劇的に変わったわけではない。
誰かに突然積極的になったわけでもない。
過去を完全に忘れたわけでもない。
ただ、自分の胸の奥にある痛みを、以前ほど怖がらなくなった。
あの痛みは、なかったことにしなくていい。
そう思えるようになった。
それでも。
冬の夜だけは、少しだけ記憶が近くなる。
イルミネーションの光を見ていると、高校二年生の冬を思い出す。
まだ自分の気持ちを何もわかっていなかった頃。
心の中で、何かが膨らんでいたのに。
それが何なのか、見ようとしなかった頃。
詩織は駅前のカフェに入った。
窓際の席に座り、温かい紅茶を注文する。
ガラスの向こうでは、恋人らしい二人組がイルミネーションの前で写真を撮っていた。
女の子が笑い、男の子が少し照れながらスマートフォンを構える。
その姿を見ても、今の詩織は穏やかでいられた。
胸が少しだけ揺れないわけではない。
けれど、それはもう鋭い痛みではなかった。
遠い記憶に指先が触れるような、静かな感覚だった。
詩織は、湯気の立つ紅茶に視線を落とした。
高校二年の冬の自分なら、きっとこんなふうには眺められなかっただろう。
当時の詩織は、自分では冷静なつもりだった。
彼が誰かと付き合っていることも、理解しているつもりだった。
彼女が彼に近づいた。
彼はその手を取った。
自分は何も言っていない。
だから、何もおかしくない。
頭では、そう並べることができた。
けれど、心はまったく追いついていなかった。
高校二年の冬。
あの頃の詩織は、彼と彼女が並んで歩いている姿を見るたびに、胸の奥が小さく痛んだ。
教室の前。
昇降口。
放課後の廊下。
校門の近く。
二人が特別に何かを見せつけていたわけではない。
むしろ、二人は自然だった。
自然に話して、自然に笑って、自然に並んでいた。
それだけだった。
でも、その自然さが、詩織には苦しかった。
彼女は、彼の隣にいることに慣れていた。
彼も、彼女が隣にいることに慣れていた。
その事実が、詩織の心をじわじわと削った。
あの頃の詩織は、たぶん怒っていた。
けれど、誰に怒っているのかがわからなかった。
彼に怒るのは違う。
彼女に怒るのも違う。
二人は何も悪くない。
だから、怒りの向け先がなくなった。
向け先を失った感情は、詩織の中で膨らんでいった。
まるで、行き場のない爆弾みたいに。
ゲームの中なら、それはきっと誰かに向けられるものなのだろう。
放っておかれた不満として、相手にぶつけられるものなのだろう。
でも現実の詩織は、そんなふうにはできなかった。
「どうして私を見ないの」
そんなことは言えない。
「前は私のことを好きだったのに」
そんなことは、もっと言えない。
「その子じゃなくて、私を見て」
言えるはずがなかった。
なぜなら、詩織自身が彼に何も言っていなかったから。
彼が自分を好きでいてくれた時間に、応えなかったから。
彼が成長していく途中で、隣に立とうとしなかったから。
何もしていない自分に、何かを求める権利などない。
そうわかっていた。
わかっていたからこそ、苦しかった。
誰かを責められない感情は、自分に向かう。
そのことを、今の詩織は知っている。
高校二年の冬の自分は、まさにそうだった。
心の爆弾は、外には向かわなかった。
誰かを傷つける代わりに、自分の内側で膨らんでいった。
彼と彼女が笑っている。
そのたびに、胸の奥で小さな火花が散る。
彼が彼女に優しくする。
そのたびに、自分の中の何かが焦げる。
彼女が彼の名前を呼ぶ。
そのたびに、昔の自分だけが置いていかれる。
でも、表情には出さない。
藤崎詩織は、いつも通りに笑う。
成績優秀で、品行方正で、誰にでも優しい。
そんな自分を崩さない。
崩せない。
だから、傷は見えないところに溜まっていった。
「……あの頃の私は、ずいぶん不器用だったんだね」
詩織は、紅茶のカップに視線を落として呟いた。
湯気が、淡く揺れている。
高校二年の冬の自分は、きっと自分の心情を理解していなかった。
理解しようとしていなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
彼のことが好きなのか。
ただ、自分を好きでいてくれた人を失ったのが悔しいだけなのか。
彼女に嫉妬しているのか。
自分の傲慢さが痛いのか。
何が本当の感情なのか、わからなかった。
だから詩織は、全部を曖昧にした。
曖昧にしたまま、いつも通りに過ごした。
でも、曖昧にした感情は消えない。
むしろ、名前を与えられないまま、心の底で膨らんでいく。
当時の詩織は、それを「疲れているだけ」だと思おうとした。
勉強のこと。
成績のこと。
進路のこと。
周囲からの期待。
いろいろな理由を並べれば、自分の不安定さを説明できる気がした。
けれど本当は、もっと単純だった。
彼が、誰かの隣にいるのがつらかった。
その誰かが、自分ではないことがつらかった。
そして、そのつらさを感じる資格が自分にはないと思うことが、もっとつらかった。
高校二年の冬。
クリスマスが近づく頃、学校全体が少し浮き立っていた。
誰と過ごすのか。
どこへ行くのか。
プレゼントはどうするのか。
そんな話題が、教室のあちこちで聞こえた。
詩織は、いつものように聞き流していた。
自分には関係ないことだと思っていた。
けれど、彼女が友人たちと楽しそうに話しているのを見た時。
今年は、彼と一緒に出かけるんだ。
そんな言葉が聞こえた時。
詩織の胸の中で、何かが小さく音を立てた。
彼とクリスマスを過ごす。
それは、本来なら自分には関係のないことだった。
彼女は恋人なのだから、当然だった。
それなのに、詩織はその言葉を聞いた日、なぜか勉強に集中できなかった。
帰宅して机に向かっても、問題文が頭に入らなかった。
窓の外は寒く、街灯の光がぼんやり滲んでいた。
詩織はシャープペンシルを握ったまま、何度も同じ行を読んだ。
そして、ふと思った。
もし、自分が何かしていたら。
もし、高校一年の頃に少しだけでも彼へ近づいていたら。
もし、縁日の夜に「私も一緒にやる」と言っていたら。
もし、彼がまだ自分の方を見ていた時に、その視線をちゃんと受け止めていたら。
クリスマスに彼の隣にいたのは、自分だったのだろうか。
そこまで考えて、詩織はすぐにその思考を打ち消した。
馬鹿みたい。
そんなことを考えても意味がない。
彼はもう彼女と付き合っている。
自分は何も言っていない。
それで終わり。
そうやって、蓋をした。
けれど蓋をした感情は、また別の日に顔を出す。
彼が彼女と下校する姿を見た日。
彼女が彼のために何かを選んでいるのを知った日。
彼が彼女に向けて、少し困ったように笑っていた日。
そのたびに、心の奥で小さな爆発が起きた。
誰にも見えない爆発。
誰にも聞こえない爆発。
それはたぶん、詩織自身を少しずつ傷つけていた。
ただし、その頃の爆弾はまだ破裂していなかった。
胸の奥に種が落ちて、少しずつ熱を持ちはじめていただけだった。
クリスマスの約束を聞いた教室。
金魚すくいの水面。
雨の日の傘。
それらが、ひとつずつ心の中に積もっていった。
詩織は気づかないふりをした。
気づかなければ、何も始まらないと思っていた。
でも、気づかないふりをしても、終わるわけではなかった。
今ならわかる。
あれは嫉妬だった。
喪失感だった。
未練だった。
そして、恋だった。
でも当時の詩織は、そのどれも認められなかった。
認めてしまえば、自分が何もしなかったことを直視しなければならない。
自分が彼の好意に甘えていたことを認めなければならない。
自分が彼を幼馴染という言葉の中に置いたまま、何も選ばなかったことを認めなければならない。
だから、心の爆弾は膨らんでいても、その正体を見なかった。
ただ痛いだけ。
なぜ痛いのかは、見ない。
そんな状態だった。
カフェの窓の外で、雪のようなものがちらついた。
本物の雪ではない。
イルミネーションの演出で、白い小さな紙片が風に舞っているだけだった。
それでも、詩織はしばらく見つめていた。
高校二年の冬の自分に、今なら何と言うだろう。
詩織は考えた。
大丈夫だよ。
そう言うのは、少し違う気がした。
あの頃の自分は、確かに大丈夫ではなかった。
平気なふりをしていただけで、心の中ではちゃんと傷ついていた。
忘れなさい。
それも違う。
忘れられるほど軽い感情ではなかった。
彼を諦めなさい。
それも、当時の詩織には届かなかっただろう。
そもそも自分が彼を好きだと認めていなかったのだから、諦めることもできなかった。
では、何と言えばいいのだろう。
詩織は、カップを両手で包んだ。
温かさが指先に移る。
そして、静かに思った。
――痛い理由を、ちゃんと見てあげて。
たぶん、それだけでよかった。
高校二年の冬の詩織に必要だったのは、正解ではない。
彼を奪い返す方法でもない。
彼女に勝つ方法でもない。
ただ、自分の痛みに名前をつけることだった。
私は寂しい。
私は悔しい。
私は嫉妬している。
私は彼を失ったと思っている。
私は、彼が好きだったのかもしれない。
そう認めるだけで、心の爆弾は少し違う形になったはずだ。
爆発して自分を傷つけるものではなく、自分の本音を知らせる信号になったはずだ。
でも、あの頃の詩織にはそれができなかった。
藤崎詩織として正しくあることに、慣れすぎていた。
醜い感情を持つ自分を許せなかった。
嫉妬する自分も。
後悔する自分も。
何も言っていないのに苦しむ自分も。
全部、見たくなかった。
だから、余計に苦しんだ。
「……かわいそうだったんだね、あの頃の私」
その言葉は、思ったより自然に出た。
責める言葉ではなかった。
呆れる言葉でもなかった。
ただ、少し遅れて自分に向けた、優しい言葉だった。
高校二年の冬の詩織は、身勝手だった。
彼の好意を当たり前のように扱っておきながら、彼が誰かの隣にいると傷ついた。
自分から何もしなかったのに、置いていかれたような顔をした。
その身勝手さは、今でも消えない事実だ。
でも。
身勝手だったからといって、痛みが嘘だったわけではない。
未熟だったからといって、苦しみをなかったことにしなくていい。
あの頃の詩織は、自分の感情の扱い方を知らなかっただけだ。
恋を、自分から選ぶものとして知らなかっただけだ。
好意を向けられることと、誰かを好きになることの違いを、まだ理解していなかっただけだ。
そう思えた時、詩織の胸にあった古い痛みが、少しだけやわらいだ。
春に伝説の木の前で、詩織は区切りをつけた。
好きだった。
そう言って、あの恋を過去にした。
そして今、冬の街で思う。
あれは過去になった。
けれど、過去になったからこそ、見つめ直せることがある。
あの頃の自分は、なぜあんなに苦しかったのか。
なぜ爆弾みたいに心が膨らんでいたのか。
なぜ誰も責められないのに、自分だけが傷ついていたのか。
答えは、もうわかっている。
詩織は恋をしていた。
でも、恋だと認めなかった。
彼を欲しいと思っていた。
でも、欲しいと言えるほど自分から動かなかった。
自分が選ばれる側でいることに慣れていて、自分から選ぶ勇気を持てなかった。
その矛盾が、詩織の中で膨らんでいた。
そして高校三年の冬。
卒業後の約束を聞いた廊下で、その爆弾は静かに破裂した。
受験が終わったら行こう。
春になったら。
連絡、ちゃんとしてね。
約束。
二人の未来が、高校生活の外へ続いていくことを知った時。
詩織の中で、もう押し込めきれなくなったものがあった。
それでも、詩織は誰にも何も言わなかった。
彼にも。
彼女にも。
友人にも。
家族にも。
ただいつも通りに笑って、いつも通りに勉強して、いつも通りに学校へ行った。
その裏で、自分だけが傷ついていた。
それが、あの爆弾の破裂だった。
誰にも聞こえない音で。
誰にも見えない場所で。
自分だけを傷つけるように。
とても単純で。
とても未熟で。
とても人間らしいことだった。
窓の外の恋人たちが、笑いながら歩いていく。
詩織はその姿を、穏やかに見送った。
彼と彼女も、きっとどこかでこんな冬を過ごしたのだろう。
クリスマスの予定を立てたり。
プレゼントを選んだり。
寒いねと言いながら、同じ道を歩いたり。
そう想像すると、少しだけ胸に触れるものはあった。
けれど、もう刺さらなかった。
今の詩織は知っている。
二人の幸せは、詩織を否定するものではない。
二人が続いているかどうかを確かめなくても、あの日の選択の重さは変わらない。
彼女は彼を選んだ。
彼は彼女の言葉を受け取った。
その事実は、詩織を傷つけるためにあるものではない。
ただ、二人がそれぞれの気持ちを大切にした結果だった。
それは、尊いことだ。
そして、自分ができなかったことでもある。
だからこそ、今の詩織はそこから学べる。
「私は、次に進んでいるんだよね」
詩織は、自分に確認するように呟いた。
吹っ切れていないわけではない。
未練に戻ったわけでもない。
ただ、過去の自分を理解しようとしているだけ。
心の傷を、なかったことにするのではなく、きちんと見つめているだけ。
それは、後ろ向きではない。
むしろ、前に進むために必要なことだった。
大学二年の冬。
詩織はもう、あの日の少女ではない。
けれど、あの日の少女を置き去りにはしない。
高校二年の冬、心の中に小さな爆弾の種を抱えた自分。
高校三年の冬、誰にも言えず、誰も責められず、ただ完璧な笑顔の下でそれを破裂させてしまった自分。
その自分に、今なら寄り添える。
あなたは恋をしていたんだよ。
でも、それを認めるのが怖かったんだよ。
だから苦しかったんだよ。
そう言ってあげられる。
詩織は紅茶を飲み干し、席を立った。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
街の灯りは、相変わらず華やかだった。
クリスマスソングがどこかの店から流れている。
誰かの笑い声が聞こえる。
冬の夜は、少し寂しくて、少し優しい。
詩織は駅へ向かって歩き出した。
足取りは落ち着いていた。
高校二年の冬のように、胸の奥で爆弾が膨らむことはもうない。
高校三年の冬のように、誰にも見えない場所で破裂することもない。
あの爆弾は、高校二年の冬に生まれた。
クリスマスの約束を聞いた教室で、胸の奥に小さな火種として残った。
そして高校三年の冬、卒業後の約束を聞いた廊下で、静かに破裂した。
誰にも聞こえない音で。
誰にも見えない場所で。
自分だけを傷つけるように。
そして今夜、意味を得た。
あれは、自分の醜さだけではなかった。
あれは、自分の弱さだけでもなかった。
あれは、遅れて届いた恋の痛みだった。
自分の気持ちを知らなかった少女が、自分を傷つけながら出していた、小さな悲鳴だった。
そう思えた時、詩織はようやく、あの冬の自分を許せた気がした。
高校二年の教室で、胸の奥に小さな爆弾の種を抱えた自分も。
高校三年の廊下で、その爆弾を破裂させてしまった自分も。
駅前の大きなツリーの前で、詩織は一度だけ足を止めた。
金色の光が、夜の中で静かに瞬いている。
かつての自分なら、その光の下に誰かと立つ未来を、条件や理想で測っていたかもしれない。
けれど今は違う。
いつか誰かを好きになるなら。
その人を、今のまま見たい。
未完成なら、未完成のまま。
迷っているなら、迷っている姿も含めて。
自分の基準に届くかどうかではなく、その人自身を見たい。
そして、自分の気持ちも遅れすぎる前に見つめたい。
好きだった、ではなく。
好きです、と言えるうちに。
詩織は小さく息を吐いた。
白い息が、冬の空へ消える。
もう、彼への恋は終わっている。
でも、その恋が教えてくれたものは、終わっていない。
それはこれからの詩織の中で、静かに生きていく。
高校二年の冬の自分も。
高校三年の卒業前の自分も。
卒業式の日の自分も。
大学一年の春の自分も。
すべてを抱えて、今の詩織がいる。
藤崎詩織は、ツリーに背を向けて歩き出した。
イルミネーションの光が、後ろから彼女の影を淡く伸ばす。
その影はもう、過去に縛られてはいなかった。
ただ、過去を連れて、前へ進んでいた。