大学三年の夏。
藤崎詩織は、久しぶりにあの縁日を訪れていた。
提灯の赤い光。
屋台から漂うソースの匂い。
人混みのざわめき。
遠くから聞こえる太鼓の音。
高校二年生の夏に歩いた時と、景色はほとんど変わっていなかった。
けれど、そこを歩いている詩織は、もうあの頃の詩織ではなかった。
大学三年生。
就職活動という言葉が、日常の中にはっきり入り込んできた時期だった。
周りの友人たちは、インターンシップや企業研究、自己分析の話をしている。
自分は何をしたいのか。
どんな場所で働きたいのか。
どんな人間になりたいのか。
そういう問いが、大学の講義よりもずっと現実的な重さを持ち始めていた。
藤崎詩織は、昔から優秀だった。
勉強もできた。
努力もできた。
周囲から期待されることにも慣れていた。
だから、就職活動でもきっと大きく失敗はしない。
そう思われていることを、詩織自身もわかっていた。
けれど最近、ひとつの問いが胸の奥に残っていた。
――私は、本当に自分で選んできたのだろうか。
偏差値の高い大学。
周囲から評価される進路。
誰が見ても納得する将来。
それらは確かに、自分が努力して掴んできたものだった。
けれど、その選択の中に、自分の本音はどれだけあったのだろう。
人に選ばれるため。
人に認められるため。
藤崎詩織らしくあるため。
そういう理由で、道を選んでこなかったと言い切れるだろうか。
その問いは、どうしても高校時代の恋に繋がってしまう。
幼馴染の少年。
彼の隣にいた少女。
高校二年の夏、この縁日で見た二人の姿。
あの夜、詩織は金魚すくいの屋台の前で、彼らに偶然出会った。
彼女は彼の袖を引いていた。
彼は少し困ったように笑っていた。
彼女が欲しがった赤い金魚を、彼は不器用に、けれど真剣にすくおうとしていた。
そして二度目で、ちゃんとすくった。
彼女は嬉しそうに笑って、彼の腕に軽く触れた。
その瞬間の彼の照れた笑顔を、詩織は今でも覚えている。
忘れようとしていたわけではない。
忘れられなかったというより、忘れてはいけないものになっていた。
あの時の痛みは、もう生々しくはない。
大学一年の春、伝説の木の前で、詩織は自分の恋に名前をつけた。
好きだった。
そう認めた。
大学二年の冬には、あの心の爆弾の意味を理解した。
高校二年の冬に生まれた小さな痛みが、高校三年の冬には抱えきれないほど大きくなっていたこと。
誰も責められない感情が、自分の中で静かに破裂していたこと。
そして、それは自分の醜さだけではなく、遅れて届いた恋の痛みでもあったこと。
だから、今の詩織はもう、彼に未練を残しているわけではなかった。
彼を取り戻したいわけではない。
彼女から奪い返したいわけでもない。
二人が今どうしているのかを、確かめたいとも思わない。
あの日、彼女は彼に好きだと言った。
彼は、その言葉を受け取った。
詩織は、その外側に立っていた。
それだけで、もう十分だった。
それでも、あの縁日の記憶だけは、時々詩織の中で静かに光った。
痛みとしてではなく。
問いとして。
あの夜、私はなぜ動けなかったのだろう。
あの時、私は何を守ろうとしていたのだろう。
そして今、就職という新しい節目を前にして、その問いはもう一度、詩織の前に立っていた。
「懐かしいな……」
詩織は小さく呟いた。
ひとりで縁日を歩くのは、少し不思議な気分だった。
周囲には家族連れや友人同士、恋人たちがいる。
浴衣姿の女の子たちが笑い合い、屋台の前で子どもがはしゃいでいる。
高校二年の時、詩織も友人たちとここを歩いていた。
あの頃の自分は、まだ何もわかっていなかった。
いや、わからないままでいようとしていた。
彼が誰かと付き合っていること。
その誰かが、自分から彼に近づいたこと。
彼がその子の隣で変わっていくこと。
それらを見て、胸が痛んでいたのに。
詩織は、自分の感情に名前をつけなかった。
金魚すくいの屋台が見えてきた。
あの日と同じ場所かどうかはわからない。
けれど、赤い提灯に照らされた水槽を見た瞬間、記憶が鮮やかによみがえった。
金魚の赤。
水面に揺れる光。
彼女の声。
彼の笑顔。
彼がこちらに気づいて、「詩織もやる?」と聞いたこと。
そして自分が、笑って断ったこと。
――私は見てるだけでいいかな。
あの時の自分の声まで、詩織は思い出せた。
穏やかで、柔らかくて、何でもないような声。
けれど、本当は何でもなくなかった。
詩織は屋台の少し横で足を止めた。
子どもたちが楽しそうにポイを構えている。
水面の金魚は、提灯の光をまとってひらひら泳いでいる。
あの時、隣にしゃがむことくらいできた。
金魚すくいを一緒にすることくらい、たぶん簡単だった。
幼馴染なのだから、不自然ではない。
友人たちもいた。
彼女もいた。
その場に少し混ざるだけなら、誰かを責めることにも、誰かを奪うことにもならなかった。
けれど詩織は、しなかった。
見ているだけを選んだ。
なぜか。
今なら、かなりはっきりわかる。
あの時の詩織は、三つのものを手放せなかった。
選ばれる側でいたい自分。
完璧な藤崎詩織でいたい自分。
彼をまだ幼馴染という安全な場所に置いておけると思っていた自分。
その三つを、どうしても捨てられなかった。
選ばれる側でいたい自分。
それは、詩織の中に長くあった感覚だった。
誰かに見つけられる。
誰かに憧れられる。
誰かが自分のもとへ来る。
それに慣れていた。
幼馴染の少年も、ずっとそうだった。
彼は自分を見ていた。
自分に認められようとしていた。
自分の言葉で嬉しそうにし、自分の沈黙で少し不安そうになった。
その関係に、詩織は甘えていた。
彼の気持ちは、いつか自分に差し出されるものだと思っていた。
だから、自分から取りに行く必要があるとは思わなかった。
けれど、恋は賞品ではない。
誰かが持ってきてくれるのを待つだけのものではない。
彼女は、それを知っていたのだろうか。
少なくとも、彼女はそう行動した。
自分から手を伸ばした。
彼を選んだ。
彼の未完成なところも含めて、その時の彼を見た。
詩織は、それができなかった。
次に、完璧な藤崎詩織でいたい自分。
詩織は、周囲の目をよく知っていた。
藤崎詩織が誰かの隣にしゃがむ。
藤崎詩織が幼馴染に少し特別な顔を見せる。
藤崎詩織が、彼女のいる彼へ、何かを求めるような視線を向ける。
それだけで、自分の中の完成された像にひびが入る気がした。
優等生で、正しくて、誰にでも公平で、誰からも憧れられる自分。
その自分が、嫉妬する。
その自分が、欲しがる。
その自分が、今さら彼の隣に立ちたいと思う。
そんな姿を、詩織は許せなかった。
だから、笑った。
いつも通りに笑った。
平気なふりをした。
彼女にも丁寧に挨拶をして、友人たちの前でも乱れなかった。
でも、本当は胸の奥で苦しんでいた。
完璧な自分を守るために、自分の本音を隠した。
その結果、守られたのは外側の藤崎詩織だけだった。
内側の少女は、ひとりで傷ついていた。
そして三つ目。
彼をまだ安全な場所に置いておけると思っていた自分。
これが一番苦かった。
高校二年のあの時、彼は確かに成長していた。
けれど詩織の基準には、まだ完全には届いていなかった。
だから詩織は思っていた。
まだ早い。
まだ決めなくていい。
もう少し成長したら。
もっと頼もしくなったら。
もっと自分にふさわしいと思えるようになったら。
その時に考えればいい。
けれど、その「その時」は、詩織だけのものではなかった。
彼には彼の時間がある。
彼には彼の出会いがある。
彼には、彼を今のまま見てくれる人がいる。
詩織が答えを先送りしている間、彼女は彼を選んだ。
詩織が自分の気持ちに名前をつけないでいる間、彼は彼女との時間を積み重ねた。
詩織が完成した彼を待っている間、彼女は未完成の彼の隣にいた。
だから、恋愛の初期配置では詩織が圧倒的に有利だったのに、最後には彼女が伝説の木の下に立った。
幼馴染。
彼からの好意。
周囲から見ても特別な距離。
どれだけ有利な条件を持っていても、行動しなければ意味がなかった。
彼女は行動した。
詩織は見ていた。
その差が、あの金魚すくいの水面に映っていた。
詩織は、屋台の前に立つ子どもたちを見つめた。
一人の女の子が、慎重にポイを沈めている。
迷いながらも、手を動かしている。
水面が揺れ、金魚が逃げる。
それでも女の子は笑って、もう一度挑戦する。
その姿を見て、詩織は少しだけ笑った。
失敗しても、手を伸ばしている。
それだけで、あの頃の自分よりずっと強い気がした。
就職活動も、たぶん同じなのかもしれない。
詩織はそう思った。
どこかの企業に選ばれること。
誰かに評価されること。
面接官から良いと思われること。
もちろん、それも大切だ。
けれど、それだけでは足りない。
自分がどこを選ぶのか。
自分が何をしたいのか。
自分がどんな場所で、どんな人間として生きたいのか。
それを考えなければ、また同じことを繰り返す。
選ばれるのを待つだけでは、自分の人生は自分のものにならない。
高校時代の恋は、もう戻らない。
けれど、あの失敗は今の詩織に問いかけている。
あなたはまた、選ばれる側に立つだけでいいのか。
完璧な藤崎詩織を守るために、本音を後回しにするのか。
いつか決めればいいと思って、大切な選択を先送りにするのか。
詩織は、静かに首を横に振った。
もう、同じままではいたくなかった。
大学一年の春、伝説の木の前で、詩織は彼への恋を過去形にした。
好きだった。
その言葉で、自分の気持ちに区切りをつけた。
大学二年の冬には、心の爆弾の意味を理解した。
高校二年の冬に生まれた小さな種が、高校三年の冬、誰にも見えない場所で破裂したこと。
その痛みが、恋の遅れた叫びだったこと。
そして今、大学三年の夏。
就職という節目を前に、詩織はもう一つのことを理解した。
自分は、選ばれる少女から、選ぶ人間へ変わらなければならない。
それは恋だけの話ではない。
人生そのものの話だった。
誰かに評価されるためだけに、自分を整えるのではなく。
誰かに選ばれるためだけに、綺麗な言葉を並べるのではなく。
自分が何を選びたいのかを、ちゃんと見つめる。
失敗するかもしれない。
噂になるかもしれない。
期待と違うと言われるかもしれない。
完璧ではない自分を見せることになるかもしれない。
それでも、自分で選んだと言える道を歩きたい。
詩織は、金魚すくいの屋台に近づいた。
屋台の人が顔を上げる。
「お姉さん、やっていく?」
一瞬、詩織は迷った。
そして、微笑んだ。
「はい。一回だけ」
代金を払い、ポイを受け取る。
薄い紙の張られた小さな道具。
少し力を入れればすぐ破れてしまいそうだった。
高校二年の夜、詩織はこの場所で「見ているだけ」を選んだ。
でも今日は、違う。
詩織はしゃがみ、水面を見つめた。
金魚が泳いでいる。
赤い一匹が、ゆっくりと視界を横切った。
あの日、彼が彼女のためにすくった金魚を思い出す。
あの時の自分は、彼が彼女のために何かをする姿を、ただ見ていることしかできなかった。
でも今の詩織は、自分の手を水面へ伸ばすことができる。
たかが金魚すくい。
けれど、詩織にとっては少し違った。
これは、過去の自分への返事だった。
詩織は慎重にポイを水へ入れた。
水の抵抗が、指先に伝わる。
赤い金魚が近づく。
焦らず、けれど逃げないように。
詩織は、ゆっくりと手を動かした。
次の瞬間、紙が少し裂けた。
金魚はするりと逃げていく。
「あ……」
思わず声が漏れた。
屋台の人が笑う。
「惜しかったねえ」
詩織も、小さく笑った。
失敗だった。
けれど、不思議と悔しくなかった。
いや、少しは悔しい。
でも、それ以上に、どこか清々しかった。
ちゃんと自分で手を伸ばした。
その事実だけで、胸の奥にあった古い何かが、また少しほどけた気がした。
残った紙で、もう一度だけ狙う。
今度は小さな金魚。
完璧な一匹ではない。
目立つわけでもない。
けれど、水面の端で静かに泳いでいる。
詩織は、そっとポイを近づけた。
金魚が乗る。
持ち上げようとした瞬間、紙が破れた。
金魚は水へ戻った。
完全な失敗。
それでも詩織は、笑っていた。
「難しいですね」
「そうだねえ。でも、上手だったよ」
屋台の人の何気ない言葉に、詩織は少しだけ頭を下げた。
何も取れなかった。
けれど、それでよかった。
欲しいものが必ず手に入るとは限らない。
手を伸ばしても、届かないことはある。
でも、手を伸ばさなければ、何も始まらない。
そんな当たり前のことを、詩織はようやく体で理解した気がした。
屋台を離れ、人混みの中を歩き出す。
空には、祭りの明かりが淡く滲んでいた。
遠くで太鼓が鳴っている。
その音に混じって、高校二年の夏の自分の声が聞こえた気がした。
――私は見てるだけでいいかな。
詩織は、心の中でその声に答えた。
もう、見ているだけではいたくない。
誰かの隣を、遠くから眺めるだけではなく。
誰かに選ばれるのを、静かに待つだけではなく。
完璧な自分を守るために、欲しいものから目を逸らすのではなく。
自分で選ぶ。
自分で手を伸ばす。
失敗しても、自分の選択として受け止める。
そういう人になりたい。
屋台の並びを抜けた先で、詩織は少し足を止めた。
そこから見える夜空は、高校二年の時と同じように広かった。
彼と彼女が、今どうしているのかは知らない。
もう、確かめようとも思わない。
ただ、あの日から続く時間の中で、二人はきっと何度も選んできたのだろう。
縁日も、クリスマスも、卒業式も、大学生活も。
同じ形でなくても、同じ距離でなくても、二人はそれぞれの季節の中で、自分の気持ちに向き合ってきたのだろう。
少なくとも、詩織が見たあの日の彼女はそうだった。
彼女は、彼を奪ったのではない。
彼を選んだ。
そして彼も、その言葉を受け取った。
詩織は負けた。
けれど、その負けは、今の自分を作っている。
恋愛としては、もう終わった話。
でも、人生の学びとしては、まだ続いている。
詩織はバッグからスマートフォンを取り出した。
就職情報サイトの通知がいくつか来ている。
企業説明会。
エントリー締切。
面談予約。
かつての詩織なら、評価されそうな企業、周囲が納得しそうな進路、藤崎詩織らしい選択をまず考えたかもしれない。
もちろん、それも悪いことではない。
けれど今は、それだけでは決めたくなかった。
自分が何に手を伸ばしたいのか。
どんな仕事なら、失敗しても自分で選んだと言えるのか。
それを考えたいと思った。
詩織はスマートフォンをしまい、もう一度屋台の灯りを見た。
高校二年の夏。
ここで詩織は、自分が動けない理由を知らなかった。
大学三年の夏。
同じ縁日で、詩織はようやくその理由を言葉にできた。
選ばれる側でいたい自分。
完璧な藤崎詩織でいたい自分。
彼をまだ安全な場所に置いておけると思っていた自分。
その三つを捨てられなかった。
だから、行動した少女に負けた。
でも今の詩織は、その事実をただの傷としては見ていない。
それは、これからの自分を変えるための出発点だった。
夜風が吹いた。
提灯が小さく揺れる。
詩織は、ゆっくりと歩き出した。
人混みの中で、もう一度だけ金魚すくいの屋台を振り返る。
水面の赤い光が、遠くで揺れていた。
その光は、もう詩織を責めてはいなかった。
ただ、静かに告げているようだった。
次は、あなたが選ぶ番だと。
藤崎詩織は、前を向いた。
就職という新しい季節が、少しずつ近づいている。
恋ではない。
けれど、あの日と同じように、自分の手を伸ばさなければ始まらないものがある。
詩織はもう、選ばれる少女でいるだけではない。
完璧な藤崎詩織でいるために、自分の心を閉じ込めることもしない。
大切なものを安全な場所に置いたまま、時間が止まると思うこともしない。
歩く。
選ぶ。
失敗しても、受け止める。
そうやって、自分の人生を自分のものにしていく。
縁日のざわめきの中、藤崎詩織の足取りは静かだった。
けれど、その一歩は、高校二年の夜よりもずっと確かだった。