大学三年の秋。
藤崎詩織は、大学の図書館にいた。
窓の外では、木々の葉が少しずつ色を変え始めている。
夏の名残はもう薄く、キャンパスを歩く学生たちの服装にも、少しずつ季節の落ち着きが混じっていた。
机の上には、企業説明会の資料が何枚も並んでいる。
誰もが名前を知っている大手企業。
安定していて、制度も整っていて、周囲に話せば「藤崎さんらしいね」と言われそうな会社。
その隣には、もう一つの資料があった。
知名度は、それほど高くない。
けれど説明会で話を聞いた時、詩織の胸に何かが残った会社だった。
派手ではない。
大きなブランドがあるわけでもない。
けれど、そこで働く人の言葉が、少しだけ自分の中に残っていた。
自分の手で考え、自分の言葉で提案し、失敗しながら形にしていく仕事。
説明を聞いている間、詩織はなぜか、夏の縁日を思い出していた。
赤い金魚。
水面に伸ばしたポイ。
破れた紙。
何も取れなかったのに、不思議と軽くなった胸。
手を伸ばしても、届かないことはある。
でも、手を伸ばさなければ、何も始まらない。
あの夜、そう思った。
詩織は、大手企業の資料と、気になっている会社の資料を見比べた。
どちらが正解なのかは、まだわからない。
大手企業を選ぶことが間違いだとは思わない。
評価される道を選ぶことも、安定した場所を目指すことも、決して悪いことではない。
ただ、今の詩織は、昔のようにそれだけで決めたくはなかった。
藤崎詩織らしいから。
周囲が納得するから。
失敗しにくそうだから。
誰かに選ばれやすそうだから。
そういう理由だけで、自分の未来を決めたくなかった。
その時、机の上のスマートフォンが小さく震えた。
画面を見る。
同じゼミの男子学生からだった。
講義やゼミで何度か話したことがある相手。
特別に親しいわけではない。
けれど、発表の後に静かに感想をくれたり、資料探しで困っていた時に必要な本の場所を教えてくれたりする人だった。
派手ではない。
けれど、人の話を最後まで聞く人。
詩織は、画面に表示されたメッセージを読んだ。
今日の説明会、藤崎さんも行くんだよね。
終わったあと、少し話さない?
短い文章だった。
それ以上の意味があるのかどうかは、わからない。
就職活動の話がしたいだけかもしれない。
同じ企業に興味があるから、情報交換をしたいだけかもしれない。
あるいは、ほんの少しだけ、それ以外の気持ちが混じっているのかもしれない。
詩織には、わからなかった。
昔なら。
そう思った瞬間、胸の奥に、遠い声がよぎった。
――噂になったら恥ずかしいし。
高校一年の春。
幼馴染の少年が、一緒に帰らないかと誘ってくれた時。
詩織は、そう言って断った。
傷つけるつもりはなかった。
冷たくするつもりもなかった。
ただ、藤崎詩織として自然な返事をしたつもりだった。
周囲にどう見られるか。
変な噂にならないか。
自分がどういう立場でいるべきか。
そういうことを、無意識に先に考えていた。
詩織は、スマートフォンの画面を見つめた。
今も、少しだけ同じ癖が出そうになっている。
角が立たない返事。
忙しいから、また今度。
今日は少し用事があるから。
機会があれば。
そう返せば、何も乱れない。
相手を大きく拒むこともない。
自分も踏み込みすぎずに済む。
藤崎詩織らしい、穏やかで安全な返事。
でも。
詩織は、指を画面の上に置いたまま、少しだけ考えた。
自分は、どうしたいのだろう。
それは恋なのか。
まだ、わからない。
この人を特別に好きなのか。
それも、まだわからない。
ただ、説明会の後に少し話してみたいかと聞かれれば。
話してみたい。
そう思った。
就職のことでもいい。
ゼミのことでもいい。
今日聞く会社のことでもいい。
その人が、何を見て、何を考えて、どんなふうに将来を選ぼうとしているのか。
少しだけ、聞いてみたいと思った。
その気持ちは、まだ小さい。
けれど、小さいからといって、無視しなくてもいい。
詩織は、ゆっくりと返信を打った。
うん。少しだけなら。
私からも、話してみたいことがあります。
送信ボタンを押す前に、一度だけ指が止まった。
これで何かが大きく変わるわけではない。
恋が始まると決まったわけではない。
未来が決まるわけでもない。
この会社を選ぶと決めたわけでもない。
彼と違う誰かを好きになると決まったわけでもない。
ただ、少しだけ自分から近づくだけ。
詩織は、小さく息を吸った。
そして、送信した。
画面に、自分の送った言葉が表示される。
それを見て、詩織は不思議なほど静かな気持ちになった。
昔の自分なら、たぶん選ばなかった返事。
でも今の自分は、これでいいと思えた。
すぐに返事が来た。
ありがとう。じゃあ、終わったら会場の出口あたりで。
詩織は画面を見て、少しだけ微笑んだ。
「うん」と声には出さずに頷き、スマートフォンを伏せる。
机の上には、まだ企業資料が並んでいた。
大手企業の資料。
気になっている会社の資料。
どちらも、まだ答えではない。
詩織は、しばらくそれらを見つめた。
そして、自分が今日聞きたいと思った会社の資料を、一番上に重ねた。
周囲がどう思うかではなく。
藤崎詩織らしいかどうかでもなく。
自分が、もう少し知りたいと思ったから。
その資料を、鞄に入れる。
続けて、もう一社の資料も入れた。
まだ決めない。
けれど、ただ選ばれるためだけに準備するのではなく、自分が選ぶために見に行く。
それでいい。
図書館の外へ出ると、秋の風が頬に触れた。
夏の縁日の熱も、冬のイルミネーションの光も、春の伝説の木も、すべて遠くなったわけではない。
それらは、今も詩織の中にある。
中庭で足を止めた日。
雨の傘を見送った日。
金魚すくいの水面を見た夜。
冬の教室で聞いてしまった約束。
卒業式の日、伝説の木の外側に立っていた自分。
桜のキャンパスで振り返った春。
伝説の木の前で、好きだったと認めた日。
冬の街で、あの爆弾の意味を知った夜。
そして、もう一度縁日を歩き、自分の手で水面へ手を伸ばした夏。
どれも消えてはいない。
けれど、もう詩織を引き止めるものではなかった。
過去は、足枷ではなくなっていた。
歩くために、少しだけ背中を押してくれるものになっていた。
説明会の会場へ向かう道には、学生たちが何人も歩いていた。
誰もが資料を持ち、少し緊張した顔をしている。
その中で、詩織もまた鞄を持ち直した。
まだ、何かが始まったわけではない。
内定が決まったわけでもない。
誰かとの関係が変わったわけでもない。
今日の説明会で、自分の未来が決まるわけでもない。
けれど、今の詩織は知っている。
何かを始めたいなら、自分の足で一歩近づかなければならない。
誰かに選ばれるのを待つだけではなく。
完璧な返事で自分を守るだけではなく。
見ているだけで、時間が止まると思うのではなく。
自分で、選ぶ。
藤崎詩織は、鞄を持ち直した。
そして、自分で選んだ約束の場所へ歩き出した。