藤崎詩織は、伝説の木の外に立つ   作:エーアイ

2 / 18
高校時代の追加エピソードです。


藤崎詩織は、雨の傘を見送る

 高校二年の梅雨。

 きらめき高校の空は、朝からずっと重かった。

 灰色の雲が校舎の上に低く垂れこめていて、昼休みを過ぎた頃から、窓ガラスには細かな雨粒がつき始めた。

 放課後になる頃には、雨はすっかり本降りになっていた。

 校庭には水たまりができ、グラウンドの白線は雨ににじんでいる。部活動の声はほとんど聞こえず、代わりに、軒先を打つ雨音だけが校舎のあちこちに響いていた。

 藤崎詩織は、昇降口で傘を取り出していた。

 紺色の傘。

 きちんと畳まれ、傘袋に収まっていたそれを広げる前に、詩織は何気なく外を見た。

 雨は強い。

 走って帰れば何とかなる、という程度ではなかった。

 傘を忘れた生徒たちが、昇降口の端で困ったように空を見上げている。

 誰かが友人の傘に入れてもらう相談をしている。

 誰かが親へ電話をしている。

 誰かが諦めたように鞄を頭に乗せて走り出そうとして、友人に止められている。

 そんな放課後のざわめきの中で、詩織は彼を見つけた。

 幼馴染の少年だった。

 彼は下駄箱の前で、鞄の中を探っていた。

 何かを探している。

 けれど、見つからない。

 その表情で、詩織にはすぐにわかった。

 傘を忘れたのだ。

 昔から、彼はそういうところがあった。

 天気予報を見ていないわけではない。

 忘れ物が多すぎるわけでもない。

 でも、どこか抜けている。

 大事な日に限ってハンカチを忘れたり、提出物を鞄の奥に入れっぱなしにして慌てたり、雨が降りそうな日に限って傘を置いてきたりする。

 詩織は何度も見てきた。

 小学生の頃も。

 中学生の頃も。

 そして、高校に入ってからも。

 彼が困った顔をすると、詩織は自然に気づいた。

 昔なら、声をかけていたかもしれない。

 

 「傘、忘れたの?」

 

 そう聞いて。

 彼が少し情けない顔で笑って。

 

 「うん。朝は大丈夫かなって思ったんだけど」

 

 そう答えて。

 それなら、と自分の傘を少し差し出す。

 そういう流れになったかもしれない。

 ただし、本当にそうしたかどうかはわからない。

 高校生になってからは、少し違う。

 一緒に帰るだけで、誰かに何かを言われるかもしれない。

 幼馴染とはいえ、男女で一本の傘に入るとなれば、なおさらだ。

 詩織は、傘の柄を握ったまま、ほんの少しだけ立ち止まった。

 声をかけるべきだろうか。

 幼馴染なのだから、不自然ではない。

 困っている人に傘を貸す、あるいは駅まで一緒に入れていく。

 それは親切なことだ。

 何もおかしくない。

 そう思う。

 けれど、足は動かなかった。

 その時だった。

 

 「あれ、傘ないの?」

 

 明るい声がした。

 詩織の視線が、そちらへ向く。

 彼女だった。

 詩織と同じクラスの少女。

 そして、彼と付き合い始めた少女。

 あの日の中庭から数日後、詩織は彼女と彼が付き合い始めたことを知った。

 誰かが大げさに騒いだわけではない。

 ただ、教室の会話の中で、ごく自然にその事実が流れてきた。

 その時、その話を聞いて詩織は「そうなんだ」と微笑んだ。

 それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。

 

 彼女は自分の傘を持って、彼のそばへ駆け寄っていた。

 薄い色の傘。

 雨の昇降口の中で、その傘だけが少し明るく見えた。

 彼は、少し気まずそうに笑った。

 

 「忘れた」

 

 「やっぱり」

 

 「やっぱりって何だよ」

 

 「今日、朝から降るって言ってたよ」

 

 「朝はまだ降ってなかったから」

 

 「そういう問題じゃないでしょ」

 

 彼女は呆れたように言った。

 けれど、その声には責める響きがなかった。

 むしろ、彼がそういう人だと知っていて、少し楽しんでいるような声だった。

 彼は困ったように頭をかいた。

 

 「まあ、走れば何とか」

 

 「無理。絶対びしょ濡れになる」

 

 「でも、駅までそんなに遠くないし」

 

 「だめ」

 

 彼女は、きっぱりと言った。

 それから、何でもないことのように傘を少し持ち上げた。

 

 「入って」

 

 その一言を聞いた瞬間、詩織の胸の奥が、小さく揺れた。

 入って。

 たったそれだけ。

 

 短くて、自然で、迷いのない言葉。

 彼は少しだけ目を丸くした。

 

 「いいの?」

 

 「いいに決まってるでしょ」

 

 「でも、狭くない?」

 

 「狭いけど、濡れるよりいいよ」

 

 彼女はそう言って、笑った。

 彼はまだ少し迷っているようだった。

 その迷い方を、詩織は知っている。

 誰かの親切を受け取るのが下手なところ。

 遠慮して、少し冗談に逃げるところ。

 本当は助かるのに、すぐに頷けないところ。

 昔から変わらない、彼の弱さだった。

 けれど、その弱さに先に手を伸ばしたのは、詩織ではなかった。

 彼女だった。

 

 「ほら、行くよ」

 

 彼女は彼の袖を軽く引いた。

 その仕草は、強引ではなかった。

 けれど、彼が迷っている時間をそっと終わらせるだけの力があった。

 彼は小さく笑った。

 

 「じゃあ、駅まで」

 

 「駅までじゃなくて、途中まで一緒でしょ」

 

 「はいはい」

 

 二人は並んで昇降口を出た。

 彼女が傘を開く。

 ぱさり、と布が広がる音がした。

 雨の中に、二人分の影が入る。

 傘は大きくない。

 だから、自然に肩が近くなる。

 彼は少しだけ身を縮めるようにして、彼女の傘に入った。

 彼女はそれを見て、傘を彼の方へ少し傾けた。

 

 「そっち濡れるよ」

 

 「そっちこそ」

 

 「私は平気」

 

 「いや、俺も平気だから」

 

 「平気じゃない人が傘忘れるんだよ」

 

 彼女が笑う。

 彼も笑う。

 二人の声は、雨音に混ざって少しずつ遠ざかっていく。

 詩織は、その場から動けなかった。

 傘の柄を握ったまま、昇降口の中で立ち尽くしていた。

 何もおかしなことはない。

 彼は傘を忘れた。

 彼女が傘に入れた。

 恋人同士なのだから、自然なことだ。

 困っている人を助けただけでもある。

 何も、胸が痛むようなことではない。

 そう思う。

 そう思おうとする。

 けれど詩織の目は、雨の中を歩く二人の背中を追っていた。

 一本の傘。

 少し近い肩。

 彼女が彼の方へ傘を傾けるたび、彼が慌てて戻そうとする。

 そのたびに二人が笑う。

 その光景は、あまりにも自然だった。

 自然すぎて、詩織には入り込む隙がなかった。

 もし自分が声をかけていたら。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 

 傘、忘れたの?

 

 駅まで入っていく?

 

 そう言っていたら、彼はどうしただろう。

 きっと、困ったように笑った。

 

 「いいの?」

 

 そう聞いたかもしれない。

 そして詩織は、どう答えただろう。

 

 いいよ、と言えただろうか。

 本当に。

 周りの目を気にせず、彼を自分の傘に入れられただろうか。

 昇降口には、生徒がたくさんいた。

 誰かに見られる。

 誰かにからかわれる。

 藤崎さんと彼、相合傘してたよ。

 そんな噂が流れるかもしれない。

 考えただけで、胸の奥が少し硬くなる。

 それは恥ずかしさだった。

 たぶん。

 少なくとも、詩織はそう思った。

 幼馴染とはいえ、そういうふうに見られるのは困る。

 彼にも迷惑かもしれない。

 自分にも、彼にも、余計な誤解が生まれる。

 だから、声をかけなかった。

 そう考えれば、何も間違っていない。

 なのに。

 彼女は、そんなことを気にしていなかった。

 気にしていないように見えた。

 もちろん、まったく恥ずかしくないわけではないのかもしれない。

 傘の下で、彼女の頬は少し赤かったようにも見えた。

 でも、それでも彼女は言った。

 入って。

 その言葉は、詩織には言えなかった。

 言おうとする前に、いろいろなことを考えてしまった。

 周囲の目。

 噂。

 距離。

 関係の名前。

 自分がどう見られるか。

 彼がどう受け取るか。

 考えているうちに、彼女が先に手を伸ばした。

 そして彼は、その傘に入った。

 それだけのこと。

 それだけのはずなのに、詩織の胸は小さく痛んだ。

 

 「藤崎さん、帰らないの?」

 

 同じクラスの友人が声をかけてきた。

 詩織は、はっとして顔を上げた。

 

 「うん。帰るよ」

 

 いつもの声で答える。

 いつものように微笑む。

 手元の傘を広げる。

 ぱさり、と音がした。

 自分の傘は、一人で入るには十分な大きさだった。

 詩織は昇降口を出た。

 雨粒が傘に当たり、小さな音を立てる。

 空気は冷たく、湿っている。

 校門へ続く道の先に、彼と彼女の姿がまだ見えた。

 二人はゆっくり歩いていた。

 彼女の傘は、少しだけ彼の方に傾いている。

 彼は気づいて、傘の柄に手を添えようとしている。

 彼女が何か言う。

 彼が笑う。

 遠くて、声はもう聞こえない。

 けれど、二人が楽しそうなのはわかった。

 詩織は、自分の傘の中で一人だった。

 雨音に包まれると、周囲のざわめきが少し遠くなる。

 傘の内側は、小さな部屋のようだった。

 誰にも見られないようでいて、どこか孤独だった。

 昔、彼と雨の日に一緒に帰ったことがあった。

 小学生の頃だったと思う。

 その時も彼は傘を忘れていた。

 詩織が「入る?」と聞くと、彼は嬉しそうに頷いた。

 二人で一本の傘に入り、足元を濡らしながら歩いた。

 彼は詩織が濡れないように、傘をこちらへ寄せすぎて、自分の肩を濡らしていた。

 詩織が注意すると、彼は笑ってごまかした。

 その記憶は、ずっと昔のものだった。

 子どもの頃。

 何も考えずに一緒にいられた頃。

 誰かに見られても、噂になんてならなかった頃。

 あの頃は、傘に入れることに理由はいらなかった。

 けれど今は違う。

 高校生になった。

 周囲の目がある。

 男女という言葉が、幼馴染という言葉の上に重なる。

 一緒に帰るだけで意味がつく。

 傘に入れるだけで、もっと意味がつく。

 だから詩織は動けなかった。

 動けなかったのに、彼女は動いた。

 その違いが、雨の中で静かに浮かび上がっていた。

 校門に近づくと、彼と彼女は少し先を歩いていた。

 詩織とは距離がある。

 追いつこうと思えば、追いつけない距離ではない。

 けれど詩織は、歩幅を変えなかった。

 同じ道を歩いているのに、わざと少しだけ遅れて歩いた。

 理由はない。

 ただ、二人の後ろ姿のすぐ近くにいたくなかった。

 傘の下で並ぶ二人を、近くで見たくなかった。

 それだけだった。

 雨は強くも弱くもならず、同じ調子で降り続いている。

 彼女が笑う。

 彼が少し肩をすくめる。

 二人の歩幅がそろっている。

 詩織は、その後ろ姿を見ながら、胸の奥にまた小さな違和感を覚えた。

 これは何だろう。

 寂しさだろうか。

 悔しさだろうか。

 それとも、ただの驚きだろうか。

 自分ができなかったことを、彼女があまりにも自然にしている。

 そのことに、少し驚いているだけなのかもしれない。

 詩織はそう考えた。

 彼と彼女は付き合っているのだから、当然。

 自分が彼を傘に入れる理由はない。

 彼女が入れるのが自然。

 何も変ではない。

 そう言葉を並べる。

 並べれば並べるほど、胸の奥の違和感は小さくなるような気がした。

 けれど、完全には消えなかった。

 駅へ向かう道の途中で、詩織は二人と別の方向へ進むことにした。

 少し遠回りになる道。

 普段ならあまり選ばない道。

 けれど今日は、その道を選んだ。

 友人が不思議そうに言う。

 

 「あれ、そっちから帰るの?」

 

 「うん。少し寄りたいところがあるから」

 

 嘘ではない。

 本屋にでも寄ればいい。

 文房具店でもいい。

 何か理由は後から作れる。

 詩織は微笑んで、二人とは違う道へ曲がった。

 角を曲がる前に、もう一度だけ彼らの背中が見えた。

 彼女の傘の下で、彼が少しだけ身をかがめている。

 彼女がそれを見て笑っている。

 その光景は、雨に霞んで、少しぼやけていた。

 それでも、詩織の目にははっきり残った。

 傘の下にいるのは、自分ではない。

 そんな言葉が、心の奥に浮かびかけた。

 詩織はすぐに打ち消した。

 何を考えているのだろう。

 自分は彼の恋人ではない。

 彼を傘に入れる立場ではない。

 そもそも、自分からそうしたいと思っていたわけでもない。

 ただ、困っていたから少し気になっただけ。

 幼馴染だから、心配しただけ。

 それだけ。

 それだけのこと。

 詩織は、そう自分に言い聞かせた。

 けれど雨音は、心の中の声を完全には消してくれなかった。

 遠回りの道は、人が少なかった。

 濡れたアスファルトに、街灯の光がぼんやり映っている。

 傘に当たる雨音が、一定のリズムを刻む。

 詩織は一人で歩いた。

 一人で歩くことには慣れている。

 一人でいるのが嫌いなわけでもない。

 むしろ、一人の時間は好きだった。

 落ち着いて考えられる。

 周囲に合わせなくていい。

 自分のペースで歩ける。

 なのに今日は、その一人分の傘の広さが、少しだけ余っているように感じた。

 その感覚が嫌で、詩織は傘を少し低くした。

 視界に入るのは、濡れた道と自分の足元だけになる。

 雨に濡れたローファー。

 制服の裾。

 白い靴下。

 一歩ずつ、静かに進む足。

 いつも通りの自分。

 藤崎詩織として、乱れのない自分。

 そのはずだった。

 けれど、心のどこかに小さな水たまりができているようだった。

 踏めば波紋が広がる。

 見なければ、ただの濡れた地面のようにも見える。

 そんな感情。

 名前はまだない。

 名前をつけるほどのものでもない。

 詩織はそう思った。

 家に帰ると、制服の肩が少し濡れていた。

 傘を差していたのに、風で雨が入ったのだろう。

 詩織はそれをタオルで軽く拭いた。

 部屋に入り、鞄を机の横に置く。

 教科書を出し、宿題を確認する。

 いつもの流れ。

 いつもの夜。

 けれど、机に向かっても、なかなか集中できなかった。

 雨音が窓の外から聞こえてくる。

 その音に混じって、彼女の声が何度も蘇る。

 

 入って。

 

 いいに決まってるでしょ。

 

 ほら、行くよ。

 

 短い言葉。

 

 何でもない言葉。

 

 でも、そのどれもが、詩織には少し眩しかった。

 自分なら、あんなふうに言えただろうか。

 答えは出なかった。

 出したくなかった。

 詩織はノートを開き、シャープペンシルを手に取った。

 問題を解く。

 文字を書く。

 計算する。

 そうしていれば、余計なことを考えずに済む。

 藤崎詩織は、そうやっていつも通りに戻ろうとした。

 けれど、ふとした瞬間に、雨の昇降口が浮かぶ。

 傘を忘れた彼。

 傘を差し出した彼女。

 動けなかった自分。

 その三つが、静かに重なっていた。

 その日、詩織は結局、いつもより少し遅くまで机に向かっていた。

 勉強は進んだ。

 宿題も終わった。

 明日の準備もできた。

 何も問題はない。

 何も崩れていない。

 でも、眠る前に窓の外を見ると、雨はまだ降っていた。

 詩織は、カーテンを閉める手を少しだけ止めた。

 彼は、ちゃんと濡れずに帰れただろうか。

 そんなことを思った。

 そしてすぐに、思い直した。

 彼女がいたのだから、大丈夫だろう。

 その答えは正しいはずなのに、なぜか少しだけ胸が痛かった。

 詩織はカーテンを閉めた。

 部屋の中が静かになる。

 雨音だけが、少し遠くから聞こえる。

 高校二年の梅雨。

 その日の雨は、ただの雨だった。

 彼が傘を忘れて、彼女が傘に入れただけ。

 詩織は、それを見送っただけ。

 本当に、それだけの出来事だった。

 けれど、その小さな出来事は、詩織の胸の奥に静かに残った。

 まだ後悔とは呼べない。

 まだ嫉妬とも呼べない。

 まだ恋だなんて、言えるはずもない。

 ただ、雨の日に一本の傘を見送った記憶として。

 そして、いつか自分が何を見送っていたのかを知るための、最初のしずくとして。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。