高校二年の梅雨。
きらめき高校の空は、朝からずっと重かった。
灰色の雲が校舎の上に低く垂れこめていて、昼休みを過ぎた頃から、窓ガラスには細かな雨粒がつき始めた。
放課後になる頃には、雨はすっかり本降りになっていた。
校庭には水たまりができ、グラウンドの白線は雨ににじんでいる。部活動の声はほとんど聞こえず、代わりに、軒先を打つ雨音だけが校舎のあちこちに響いていた。
藤崎詩織は、昇降口で傘を取り出していた。
紺色の傘。
きちんと畳まれ、傘袋に収まっていたそれを広げる前に、詩織は何気なく外を見た。
雨は強い。
走って帰れば何とかなる、という程度ではなかった。
傘を忘れた生徒たちが、昇降口の端で困ったように空を見上げている。
誰かが友人の傘に入れてもらう相談をしている。
誰かが親へ電話をしている。
誰かが諦めたように鞄を頭に乗せて走り出そうとして、友人に止められている。
そんな放課後のざわめきの中で、詩織は彼を見つけた。
幼馴染の少年だった。
彼は下駄箱の前で、鞄の中を探っていた。
何かを探している。
けれど、見つからない。
その表情で、詩織にはすぐにわかった。
傘を忘れたのだ。
昔から、彼はそういうところがあった。
天気予報を見ていないわけではない。
忘れ物が多すぎるわけでもない。
でも、どこか抜けている。
大事な日に限ってハンカチを忘れたり、提出物を鞄の奥に入れっぱなしにして慌てたり、雨が降りそうな日に限って傘を置いてきたりする。
詩織は何度も見てきた。
小学生の頃も。
中学生の頃も。
そして、高校に入ってからも。
彼が困った顔をすると、詩織は自然に気づいた。
昔なら、声をかけていたかもしれない。
「傘、忘れたの?」
そう聞いて。
彼が少し情けない顔で笑って。
「うん。朝は大丈夫かなって思ったんだけど」
そう答えて。
それなら、と自分の傘を少し差し出す。
そういう流れになったかもしれない。
ただし、本当にそうしたかどうかはわからない。
高校生になってからは、少し違う。
一緒に帰るだけで、誰かに何かを言われるかもしれない。
幼馴染とはいえ、男女で一本の傘に入るとなれば、なおさらだ。
詩織は、傘の柄を握ったまま、ほんの少しだけ立ち止まった。
声をかけるべきだろうか。
幼馴染なのだから、不自然ではない。
困っている人に傘を貸す、あるいは駅まで一緒に入れていく。
それは親切なことだ。
何もおかしくない。
そう思う。
けれど、足は動かなかった。
その時だった。
「あれ、傘ないの?」
明るい声がした。
詩織の視線が、そちらへ向く。
彼女だった。
詩織と同じクラスの少女。
そして、彼と付き合い始めた少女。
あの日の中庭から数日後、詩織は彼女と彼が付き合い始めたことを知った。
誰かが大げさに騒いだわけではない。
ただ、教室の会話の中で、ごく自然にその事実が流れてきた。
その時、その話を聞いて詩織は「そうなんだ」と微笑んだ。
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
彼女は自分の傘を持って、彼のそばへ駆け寄っていた。
薄い色の傘。
雨の昇降口の中で、その傘だけが少し明るく見えた。
彼は、少し気まずそうに笑った。
「忘れた」
「やっぱり」
「やっぱりって何だよ」
「今日、朝から降るって言ってたよ」
「朝はまだ降ってなかったから」
「そういう問題じゃないでしょ」
彼女は呆れたように言った。
けれど、その声には責める響きがなかった。
むしろ、彼がそういう人だと知っていて、少し楽しんでいるような声だった。
彼は困ったように頭をかいた。
「まあ、走れば何とか」
「無理。絶対びしょ濡れになる」
「でも、駅までそんなに遠くないし」
「だめ」
彼女は、きっぱりと言った。
それから、何でもないことのように傘を少し持ち上げた。
「入って」
その一言を聞いた瞬間、詩織の胸の奥が、小さく揺れた。
入って。
たったそれだけ。
短くて、自然で、迷いのない言葉。
彼は少しだけ目を丸くした。
「いいの?」
「いいに決まってるでしょ」
「でも、狭くない?」
「狭いけど、濡れるよりいいよ」
彼女はそう言って、笑った。
彼はまだ少し迷っているようだった。
その迷い方を、詩織は知っている。
誰かの親切を受け取るのが下手なところ。
遠慮して、少し冗談に逃げるところ。
本当は助かるのに、すぐに頷けないところ。
昔から変わらない、彼の弱さだった。
けれど、その弱さに先に手を伸ばしたのは、詩織ではなかった。
彼女だった。
「ほら、行くよ」
彼女は彼の袖を軽く引いた。
その仕草は、強引ではなかった。
けれど、彼が迷っている時間をそっと終わらせるだけの力があった。
彼は小さく笑った。
「じゃあ、駅まで」
「駅までじゃなくて、途中まで一緒でしょ」
「はいはい」
二人は並んで昇降口を出た。
彼女が傘を開く。
ぱさり、と布が広がる音がした。
雨の中に、二人分の影が入る。
傘は大きくない。
だから、自然に肩が近くなる。
彼は少しだけ身を縮めるようにして、彼女の傘に入った。
彼女はそれを見て、傘を彼の方へ少し傾けた。
「そっち濡れるよ」
「そっちこそ」
「私は平気」
「いや、俺も平気だから」
「平気じゃない人が傘忘れるんだよ」
彼女が笑う。
彼も笑う。
二人の声は、雨音に混ざって少しずつ遠ざかっていく。
詩織は、その場から動けなかった。
傘の柄を握ったまま、昇降口の中で立ち尽くしていた。
何もおかしなことはない。
彼は傘を忘れた。
彼女が傘に入れた。
恋人同士なのだから、自然なことだ。
困っている人を助けただけでもある。
何も、胸が痛むようなことではない。
そう思う。
そう思おうとする。
けれど詩織の目は、雨の中を歩く二人の背中を追っていた。
一本の傘。
少し近い肩。
彼女が彼の方へ傘を傾けるたび、彼が慌てて戻そうとする。
そのたびに二人が笑う。
その光景は、あまりにも自然だった。
自然すぎて、詩織には入り込む隙がなかった。
もし自分が声をかけていたら。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
傘、忘れたの?
駅まで入っていく?
そう言っていたら、彼はどうしただろう。
きっと、困ったように笑った。
「いいの?」
そう聞いたかもしれない。
そして詩織は、どう答えただろう。
いいよ、と言えただろうか。
本当に。
周りの目を気にせず、彼を自分の傘に入れられただろうか。
昇降口には、生徒がたくさんいた。
誰かに見られる。
誰かにからかわれる。
藤崎さんと彼、相合傘してたよ。
そんな噂が流れるかもしれない。
考えただけで、胸の奥が少し硬くなる。
それは恥ずかしさだった。
たぶん。
少なくとも、詩織はそう思った。
幼馴染とはいえ、そういうふうに見られるのは困る。
彼にも迷惑かもしれない。
自分にも、彼にも、余計な誤解が生まれる。
だから、声をかけなかった。
そう考えれば、何も間違っていない。
なのに。
彼女は、そんなことを気にしていなかった。
気にしていないように見えた。
もちろん、まったく恥ずかしくないわけではないのかもしれない。
傘の下で、彼女の頬は少し赤かったようにも見えた。
でも、それでも彼女は言った。
入って。
その言葉は、詩織には言えなかった。
言おうとする前に、いろいろなことを考えてしまった。
周囲の目。
噂。
距離。
関係の名前。
自分がどう見られるか。
彼がどう受け取るか。
考えているうちに、彼女が先に手を伸ばした。
そして彼は、その傘に入った。
それだけのこと。
それだけのはずなのに、詩織の胸は小さく痛んだ。
「藤崎さん、帰らないの?」
同じクラスの友人が声をかけてきた。
詩織は、はっとして顔を上げた。
「うん。帰るよ」
いつもの声で答える。
いつものように微笑む。
手元の傘を広げる。
ぱさり、と音がした。
自分の傘は、一人で入るには十分な大きさだった。
詩織は昇降口を出た。
雨粒が傘に当たり、小さな音を立てる。
空気は冷たく、湿っている。
校門へ続く道の先に、彼と彼女の姿がまだ見えた。
二人はゆっくり歩いていた。
彼女の傘は、少しだけ彼の方に傾いている。
彼は気づいて、傘の柄に手を添えようとしている。
彼女が何か言う。
彼が笑う。
遠くて、声はもう聞こえない。
けれど、二人が楽しそうなのはわかった。
詩織は、自分の傘の中で一人だった。
雨音に包まれると、周囲のざわめきが少し遠くなる。
傘の内側は、小さな部屋のようだった。
誰にも見られないようでいて、どこか孤独だった。
昔、彼と雨の日に一緒に帰ったことがあった。
小学生の頃だったと思う。
その時も彼は傘を忘れていた。
詩織が「入る?」と聞くと、彼は嬉しそうに頷いた。
二人で一本の傘に入り、足元を濡らしながら歩いた。
彼は詩織が濡れないように、傘をこちらへ寄せすぎて、自分の肩を濡らしていた。
詩織が注意すると、彼は笑ってごまかした。
その記憶は、ずっと昔のものだった。
子どもの頃。
何も考えずに一緒にいられた頃。
誰かに見られても、噂になんてならなかった頃。
あの頃は、傘に入れることに理由はいらなかった。
けれど今は違う。
高校生になった。
周囲の目がある。
男女という言葉が、幼馴染という言葉の上に重なる。
一緒に帰るだけで意味がつく。
傘に入れるだけで、もっと意味がつく。
だから詩織は動けなかった。
動けなかったのに、彼女は動いた。
その違いが、雨の中で静かに浮かび上がっていた。
校門に近づくと、彼と彼女は少し先を歩いていた。
詩織とは距離がある。
追いつこうと思えば、追いつけない距離ではない。
けれど詩織は、歩幅を変えなかった。
同じ道を歩いているのに、わざと少しだけ遅れて歩いた。
理由はない。
ただ、二人の後ろ姿のすぐ近くにいたくなかった。
傘の下で並ぶ二人を、近くで見たくなかった。
それだけだった。
雨は強くも弱くもならず、同じ調子で降り続いている。
彼女が笑う。
彼が少し肩をすくめる。
二人の歩幅がそろっている。
詩織は、その後ろ姿を見ながら、胸の奥にまた小さな違和感を覚えた。
これは何だろう。
寂しさだろうか。
悔しさだろうか。
それとも、ただの驚きだろうか。
自分ができなかったことを、彼女があまりにも自然にしている。
そのことに、少し驚いているだけなのかもしれない。
詩織はそう考えた。
彼と彼女は付き合っているのだから、当然。
自分が彼を傘に入れる理由はない。
彼女が入れるのが自然。
何も変ではない。
そう言葉を並べる。
並べれば並べるほど、胸の奥の違和感は小さくなるような気がした。
けれど、完全には消えなかった。
駅へ向かう道の途中で、詩織は二人と別の方向へ進むことにした。
少し遠回りになる道。
普段ならあまり選ばない道。
けれど今日は、その道を選んだ。
友人が不思議そうに言う。
「あれ、そっちから帰るの?」
「うん。少し寄りたいところがあるから」
嘘ではない。
本屋にでも寄ればいい。
文房具店でもいい。
何か理由は後から作れる。
詩織は微笑んで、二人とは違う道へ曲がった。
角を曲がる前に、もう一度だけ彼らの背中が見えた。
彼女の傘の下で、彼が少しだけ身をかがめている。
彼女がそれを見て笑っている。
その光景は、雨に霞んで、少しぼやけていた。
それでも、詩織の目にははっきり残った。
傘の下にいるのは、自分ではない。
そんな言葉が、心の奥に浮かびかけた。
詩織はすぐに打ち消した。
何を考えているのだろう。
自分は彼の恋人ではない。
彼を傘に入れる立場ではない。
そもそも、自分からそうしたいと思っていたわけでもない。
ただ、困っていたから少し気になっただけ。
幼馴染だから、心配しただけ。
それだけ。
それだけのこと。
詩織は、そう自分に言い聞かせた。
けれど雨音は、心の中の声を完全には消してくれなかった。
遠回りの道は、人が少なかった。
濡れたアスファルトに、街灯の光がぼんやり映っている。
傘に当たる雨音が、一定のリズムを刻む。
詩織は一人で歩いた。
一人で歩くことには慣れている。
一人でいるのが嫌いなわけでもない。
むしろ、一人の時間は好きだった。
落ち着いて考えられる。
周囲に合わせなくていい。
自分のペースで歩ける。
なのに今日は、その一人分の傘の広さが、少しだけ余っているように感じた。
その感覚が嫌で、詩織は傘を少し低くした。
視界に入るのは、濡れた道と自分の足元だけになる。
雨に濡れたローファー。
制服の裾。
白い靴下。
一歩ずつ、静かに進む足。
いつも通りの自分。
藤崎詩織として、乱れのない自分。
そのはずだった。
けれど、心のどこかに小さな水たまりができているようだった。
踏めば波紋が広がる。
見なければ、ただの濡れた地面のようにも見える。
そんな感情。
名前はまだない。
名前をつけるほどのものでもない。
詩織はそう思った。
家に帰ると、制服の肩が少し濡れていた。
傘を差していたのに、風で雨が入ったのだろう。
詩織はそれをタオルで軽く拭いた。
部屋に入り、鞄を机の横に置く。
教科書を出し、宿題を確認する。
いつもの流れ。
いつもの夜。
けれど、机に向かっても、なかなか集中できなかった。
雨音が窓の外から聞こえてくる。
その音に混じって、彼女の声が何度も蘇る。
入って。
いいに決まってるでしょ。
ほら、行くよ。
短い言葉。
何でもない言葉。
でも、そのどれもが、詩織には少し眩しかった。
自分なら、あんなふうに言えただろうか。
答えは出なかった。
出したくなかった。
詩織はノートを開き、シャープペンシルを手に取った。
問題を解く。
文字を書く。
計算する。
そうしていれば、余計なことを考えずに済む。
藤崎詩織は、そうやっていつも通りに戻ろうとした。
けれど、ふとした瞬間に、雨の昇降口が浮かぶ。
傘を忘れた彼。
傘を差し出した彼女。
動けなかった自分。
その三つが、静かに重なっていた。
その日、詩織は結局、いつもより少し遅くまで机に向かっていた。
勉強は進んだ。
宿題も終わった。
明日の準備もできた。
何も問題はない。
何も崩れていない。
でも、眠る前に窓の外を見ると、雨はまだ降っていた。
詩織は、カーテンを閉める手を少しだけ止めた。
彼は、ちゃんと濡れずに帰れただろうか。
そんなことを思った。
そしてすぐに、思い直した。
彼女がいたのだから、大丈夫だろう。
その答えは正しいはずなのに、なぜか少しだけ胸が痛かった。
詩織はカーテンを閉めた。
部屋の中が静かになる。
雨音だけが、少し遠くから聞こえる。
高校二年の梅雨。
その日の雨は、ただの雨だった。
彼が傘を忘れて、彼女が傘に入れただけ。
詩織は、それを見送っただけ。
本当に、それだけの出来事だった。
けれど、その小さな出来事は、詩織の胸の奥に静かに残った。
まだ後悔とは呼べない。
まだ嫉妬とも呼べない。
まだ恋だなんて、言えるはずもない。
ただ、雨の日に一本の傘を見送った記憶として。
そして、いつか自分が何を見送っていたのかを知るための、最初のしずくとして。