藤崎詩織は、伝説の木の外に立つ   作:エーアイ

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後から見直して違和感を感じたので改稿しています。


藤崎詩織は、金魚すくいの水面を見る

 夏祭りの夜は、いつもより少しだけ世界が近くなる。

 提灯の赤い光。

 屋台から漂う甘い匂い。

 人混みのざわめき。

 遠くで鳴る太鼓の音。

 いつもの町なのに、浴衣を着て歩くだけで、まるで別の場所に来たような気がする。

 藤崎詩織は、友人たちと一緒に縁日を歩いていた。

 

 「藤崎さん、次は金魚すくい行かない?」

 

 「うん。いいよ」

 

 詩織は笑って頷いた。

 その笑顔は自然だった。

 少なくとも、周りからはそう見えたはずだ。

 高校二年生の夏。

 詩織は、まだ誰とも付き合っていなかった。

 告白されたことがないわけではない。

 むしろ、何度かあった。

 けれど、どれも断っていた。

 軽い気持ちで誰かと付き合うつもりはなかった。

 誰かに好意を向けられることは嬉しい。

 けれど、それに応えるには、もっと確かなものが必要な気がしていた。

 好きかどうか。

 付き合いたいかどうか。

 そういうことは、簡単に決めていいものではない。

 詩織は、そう思っていた。

 だから、彼のことも。

 幼馴染の少年のことも。

 すぐに何かを決める相手としては、見ていなかった。

 小さい頃から知っている。

 優しい。

 一緒にいると落ち着く。

 自分を見てくれていたことも、たぶん知っている。

 でも、それがそのまま恋人になる理由になるのかと聞かれると、詩織にはまだよくわからなかった。

 彼は高校に入ってから、少しずつ変わっていた。

 勉強も前より頑張るようになった。

 身だしなみにも気を遣うようになった。

 部活や委員会にも、以前より真面目に取り組むようになった。

 昔より、頼もしくなったと思う。

 それは本当だった。

 けれど、それでも詩織の中で、彼はまだ幼馴染だった。

 近くて、懐かしくて、安心できる。

 でも、恋という言葉を当てはめるには、どこかまだ曖昧な存在。

 そう思っていた。

 思っていたのに。

 

 「……あ」

 

 友人の一人が、小さく声を上げた。

 

 「ねえ、あれって……」

 

 詩織は、その視線の先を追った。

 金魚すくいの屋台の前。

 人混みの向こう側に、見慣れた横顔があった。

 彼だった。

 詩織の幼馴染。

 そして、その隣には、浴衣姿の少女がいた。

 詩織と同じクラスの子だった。

 いつもよく笑う、明るい子。

 誰とでも自然に話せて、相手との距離を詰めるのが上手な子。

 最近、彼とよく一緒にいると聞いたことがあった。

 噂というほどでもない。

 けれど、教室の中で何気なく耳に入るくらいには、二人の名前が並ぶことが増えていた。

 その少女が、彼の袖を軽く引いていた。

 

 「ねえ、見て。あの金魚、すごく赤い」

 

 「ほんとだ。取れるかな」

 

 「取ってよ」

 

 「え、俺が?」

 

 「うん。期待してる」

 

 彼は困ったように笑った。

 けれど、その顔は嫌がっていなかった。

 むしろ、少し嬉しそうだった。

 詩織は足を止めた。

 友人たちも、気まずそうに一瞬だけ黙る。

 

 「藤崎さん……」

 

 名前を呼ばれて、詩織はすぐに表情を整えた。

 

 「どうしたの?」

 

 自分でも驚くほど、いつも通りの声が出た。

 

 「ううん、知り合いかなって」

 

 「うん。幼馴染」

 

 それだけを言った。

 幼馴染。

 その言葉は便利だった。

 近すぎず、遠すぎず。

 特別なのに、恋人ではない。

 昔からの関係を説明するには十分で、今の関係をごまかすにも十分だった。

 けれど、その言葉が口から出た瞬間、胸の奥に少しだけ違和感が残った。

 いつもなら、何でもない言葉のはずなのに。

 今夜だけは、なぜか少し引っかかった。

 彼がこちらに気づいた。

 

 「あれ、詩織?」

 

 いつもの呼び方。

 昔から変わらない声。

 詩織は微笑んだ。

 

 「こんばんは」

 

 「こんばんは。詩織も祭り来てたんだ」

 

 「うん。友達と」

 

 詩織の友人たちが軽く会釈する。

 彼も会釈した。

 その隣で、浴衣姿の彼女がにこっと笑った。

 

 「こんばんは、藤崎さん」

 

 「こんばんは」

 

 詩織は、彼女にも笑顔を向けた。

 可愛い浴衣だった。

 淡い色の生地に、小さな花柄。

 髪も綺麗にまとめていて、いつもより少し大人びて見える。

 そして何より、彼の隣に立つことが自然だった。

 その自然さが、詩織の胸を小さく刺した。

 

 「二人も金魚すくい?」

 

 友人が場をつなぐように言った。

 

 「うん。彼に取ってもらおうと思って」

 

 彼女は楽しそうに言った。

 彼、という言葉が、詩織の耳に残った。

 幼馴染ではない。

 友達でもない。

 彼。

 たった一文字なのに、その言葉は思ったより強かった。

 詩織には使えない言葉だった。

 

 「いや、そんなに上手くないって」

 

 彼は苦笑した。

 

 「でも小さい頃、縁日でやったことあるって言ってたじゃない」

 

 「それ、だいぶ昔の話だよ」

 

 「じゃあ、思い出して」

 

 二人は笑っていた。

 詩織の知らない最近の彼が、そこにいた。

 昔の彼なら、こんなふうに女の子から期待されると、もっと慌てていた気がする。

 顔を赤くして、言葉に詰まって、ちらりとこちらを見ていたかもしれない。

 でも今の彼は、困りながらも受け止めている。

 照れてはいる。

 けれど逃げてはいない。

 それは成長なのだと思った。

 そう思ったのに、胸の奥は少しだけ落ち着かなかった。

 

 「詩織もやる?」

 

 彼が何気なく聞いた。

 その言葉に、詩織の心が一瞬だけ揺れた。

 昔なら、彼は詩織にそう聞いただろう。

 そして詩織が頷けば、一緒に金魚すくいをした。

 詩織が失敗すれば、彼は少し笑って、でもすぐに励ました。

 彼が失敗すれば、詩織は「仕方ないね」と笑った。

 そんな時間が、たしかにあった。

 でも今は違う。

 彼の隣には、彼女がいる。

 詩織がここで頷けば、どうなるのだろう。

 ただ幼馴染として混ざるだけ。

 きっと、それだけ。

 それだけのはずだった。

 けれど、なぜかすぐには頷けなかった。

 

 「私は見てるだけでいいかな」

 

 詩織は答えた。

 穏やかな声だった。

 きっと、いつも通りに聞こえたはずだ。

 

 「そっか」

 

 彼はそう言って、屋台の前にしゃがんだ。

 彼女も隣にしゃがむ。

 二人の肩が近い。

 近すぎるわけではない。

 けれど、自然に近い。

 詩織は立ったまま、その姿を見ていた。

 金魚すくいの水面に、提灯の赤い光が揺れている。

 彼は真剣な顔でポイを構えた。

 

 「あ、そっちじゃない。こっちの子」

 

 「注文が細かいな」

 

 「だって可愛いんだもん」

 

 「はいはい」

 

 彼は笑いながら、彼女の指差した金魚を狙った。

 一度目は失敗した。

 彼女が「あー」と声を上げる。

 彼は少し悔しそうに眉を寄せる。

 二度目。

 今度は慎重に水面をなぞり、赤い金魚をそっとすくい上げた。

 

 「取れた」

 

 「すごい!」

 

 彼女の声が弾んだ。

 その瞬間、彼女は彼の腕に軽く触れた。

 ほんの一瞬。

 けれど、詩織にははっきり見えた。

 彼は驚いたように彼女を見て、それから照れたように笑った。

 その笑顔を見た瞬間、詩織の胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さった。

 痛い。

 そう言うほど大きな痛みではない。

 でも、確かに何かが引っかかった。

 彼はまだ、昔の面影を残している。

 少し不器用で、少し頼りなくて、照れると視線を逸らすところもある。

 詩織の中では、彼はまだ完全に遠い人ではなかった。

 幼馴染で、昔から知っていて、少し成長したけれど、まだどこか頼りない少年。

 そのはずだった。

 なのに、彼女はそんな彼に自然に笑いかけていた。

 今の彼を、そのまま楽しそうに見ていた。

 足りないところを探しているようには見えなかった。

 そのことが、詩織には少し不思議だった。

 そして、少しだけ苦しかった。

 

 「藤崎さんも、やっぱり上手そうだよね」

 

 彼女が振り返って言った。

 

 「そうかな」

 

 「うん。何でもできそう」

 

 詩織は笑った。

 よく言われる言葉だった。

 藤崎詩織なら何でもできる。

 藤崎詩織なら失敗しない。

 藤崎詩織なら、いつも綺麗に笑える。

 でも、そんなことはない。

 少なくとも今、詩織はうまくできていなかった。

 胸の中にあるものを、どう扱えばいいのかわからなかった。

 彼が彼女に笑いかけると、少し苦しい。

 彼女が彼の腕に触れると、目を逸らしたくなる。

 でも、それを何と呼べばいいのかわからない。

 嫉妬。

 そういう言葉が、一瞬だけ遠くに浮かんだ。

 けれど詩織は、すぐにそれを見ないふりをした。

 そんなはずはない。

 彼は幼馴染だ。

 彼女は同じクラスの、明るくていい子だ。

 二人が楽しそうにしているなら、それでいいはずだ。

 それなのに胸が痛む理由なんて、わからなかった。

 

 「藤崎さん、そろそろ行く?」

 

 友人がそっと声をかけた。

 その気遣いが、かえって胸に染みた。

 

 「うん。そうしようか」

 

 詩織は頷いた。

 

 「じゃあ、私たちはこれで」

 

 「うん。また学校で」

 

 彼が言った。

 また学校で。

 昔は、また明日、だった気がする。

 もっと近くて、もっと当たり前の言葉だった。

 今の言葉が冷たいわけではない。

 むしろ、彼はいつも通りに言っただけだ。

 それでも、詩織には少しだけ距離があるように聞こえた。

 

 「またね、藤崎さん」

 

 彼女も笑った。

 その笑顔に悪意はなかった。

 勝ち誇ったような色もない。

 だからこそ、詩織は何も言えなかった。

 彼女はただ、好きな人と縁日を楽しんでいるだけ。

 彼の隣に、自然に立っているだけ。

 そこに、悪いところなんてひとつもない。

 詩織は笑顔で手を振った。

 それから、友人たちと人混みの中を歩き出した。

 背後から、彼女の声が聞こえる。

 

 「次、りんご飴食べたい」

 

 「さっき焼きそば食べたばかりじゃん」

 

 「甘いものは別だよ」

 

 「そういうもの?」

 

 「そういうもの」

 

 二人の会話が、祭りのざわめきに溶けていく。

 詩織は振り返らなかった。

 振り返らないようにした。

 けれど、頭の中には二人の姿が残っていた。

 提灯の光の下で並ぶ二人。

 金魚をすくう彼。

 それを嬉しそうに見る彼女。

 腕に触れた瞬間の、彼の照れた笑顔。

 詩織は、唇を小さく結んだ。

 彼は変わった。

 それは良いことのはずだった。

 幼馴染が成長して、誰かと楽しそうに笑っている。

 それを喜べない自分は、少し変なのかもしれない。

 そう思った。

 でも、うまく喜べなかった。

 彼が誰かの隣で笑っていることが、思ったより胸に残った。

 彼女が彼を見つめる目も。

 彼がそれを受け止める顔も。

 その全部が、詩織の知らない距離だった。

 

 「藤崎さん、大丈夫?」

 

 友人が心配そうに覗き込む。

 

「大丈夫。少し、人が多くて疲れただけ」

 

 詩織は微笑んだ。

 嘘ではない。

 人は多かった。

 疲れてもいた。

 でも本当は、人混みのせいだけではなかった。

 胸の中にある、名前のつかない感情に疲れていた。

 欲しいわけではない。

 そう思っている。

 でも、誰かのもののように見えると苦しい。

 そう感じてしまう。

 その矛盾を、詩織はまだ理解できなかった。

 理解したくもなかった。

 藤崎詩織は、いつも正しくありたかった。

 だから、理由のわからない感情に振り回される自分が、少しだけ嫌だった。

 

 りんご飴の赤。

 

 金魚の赤。

 

 提灯の赤。

 

 夏祭りの赤い光の中で、詩織は友人たちと歩き続けた。

 笑って、話して、かき氷を食べて、花火も見た。

 周りから見れば、いつも通りの藤崎詩織だった。

 でも、花火が夜空に咲くたびに。

 詩織の脳裏には、金魚すくいの水面が浮かんだ。

 

 赤い提灯の光が揺れる水面。

 

 その向こうで、彼が彼女のためにすくった一匹の金魚。

 

 それは、小さくて、ありふれていて。

 

 きっと、誰にでもある夏祭りの一場面にすぎない。

 

 けれど詩織には、どうしても忘れられないものになった。

 その理由を、彼女はまだ知らなかった。

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