高校二年の十二月。
きらめき高校の教室には、冬の光が差し込んでいた。
窓際の席に置かれた教科書の端が、淡く白く光っている。外の空は高く、冷たく、校庭を走る生徒たちの吐く息は遠目にも白かった。
教室の中は、外よりずっと暖かい。
けれど、どこか落ち着かない空気があった。
期末試験が近いから。
冬休みが近いから。
そして、クリスマスが近いから。
休み時間になると、教室のあちこちからそんな話題が聞こえてきた。
「今年、どこ行くの?」
「駅前のイルミネーション、見に行きたいんだよね」
「プレゼントもう買った?」
「え、まだ。どうしよう」
そんな声が、冬の教室に軽く弾んでいる。
藤崎詩織は、自分の席で次の授業の準備をしていた。
いつも通りだった。
教科書を机の上に揃え、ノートを開き、筆箱を置く。
無駄のない、整った動き。
周囲の浮ついた空気に流されることなく、いつもの藤崎詩織でいる。
それは、詩織にとって自然なことだった。
クリスマスだからといって、特別にはしゃぐ必要はない。
誰かと予定があるわけでもない。
誘われたことがないわけではない。
けれど、曖昧な気持ちで誰かと出かけるつもりはなかった。
藤崎詩織は、軽く誰かと約束するような少女ではない。
少なくとも、詩織自身はそう思っていた。
だから、友人たちが楽しそうに話していても、どこか一歩引いた気持ちで聞いていた。
微笑ましい。
少し賑やか。
高校生らしい。
そのくらいの距離で。
けれど、その声が耳に入った瞬間、詩織の指先は止まった。
「クリスマス、どうするの?」
誰かが、彼女に聞いた。
彼女。
幼馴染の少年と付き合っている少女。
明るくて、人懐っこくて、誰とでも自然に話せる子。
高校二年の夏、縁日で彼の袖を引いていた子。
金魚すくいの水面の前で、彼に笑いかけていた子。
詩織と同じクラスの少女。
幼馴染の少年は、別のクラスだった。
だから、この教室に彼の姿はない。
けれど彼女がいるだけで、詩織の近くに彼の気配が入り込んでくることがあった。
それは不思議な感覚だった。
彼がいないのに、彼のことを思い出してしまう。
彼女が笑うだけで。
彼女が彼の名前を出すだけで。
詩織の中に、見えない糸が引かれる。
「あ、クリスマス?」
彼女は少し照れたように笑った。
その笑い方を見て、詩織は次に出てくる言葉を予感した。
聞かなければいい。
そう思った。
けれど、耳は勝手にその会話を拾っていた。
「うん。一緒に出かけることになってる」
教室の何人かが、小さく声を上げた。
「いいなー」
「どこ行くの?」
「駅前のイルミネーション見て、そのあと少し買い物するくらいかな」
「プレゼントは?」
「まだ内緒」
彼女はそう言って、困ったように笑った。
隠しきれない嬉しさが、頬ににじんでいた。
本当に楽しみにしているのだと、誰が見てもわかる笑顔だった。
詩織は、ノートの端に視線を落とした。
胸の奥で、何かが小さく音を立てた気がした。
ひびが入るような。
薄い氷の下で、水が動くような。
そんな、かすかな音。
彼と、クリスマスに出かける。
それは、当然のことだった。
二人は付き合っている。
恋人同士なのだから、クリスマスに一緒に過ごすのは何もおかしくない。
むしろ、ごく普通のことだ。
詩織は、そう思った。
そう思おうとした。
けれど、心のどこかが追いつかなかった。
彼が、クリスマスに誰かと出かける。
しかも、その誰かは自分ではない。
その事実が、冬の空気よりも冷たく胸に入ってきた。
「いいなあ。あの人、優しそうだもんね」
友人の一人が言った。
彼女は少し得意げに、でも恥ずかしそうに笑った。
「うん。優しいよ」
その言葉は、とても短かった。
けれど詩織には、妙にはっきり聞こえた。
優しいよ。
その言い方には、距離の近さがあった。
誰かから聞いた評判ではない。
遠くから見た印象でもない。
実際に隣で過ごしている人だけが知っている、確信のある言葉。
彼の優しさを、彼女は自分のものとして知っている。
そう感じた瞬間、詩織の胸が少しだけ痛んだ。
彼が優しいことなら、詩織だって知っている。
小さい頃から、ずっと知っている。
雨の日に傘を忘れた時、彼は自分の傘を少しだけこちらに傾けてくれた。
重い荷物を持っていると、何も言わずに手を伸ばしてくれた。
詩織が困っていると、うまく言葉にできないまま、それでも何かしようとしてくれた。
そういう彼を、詩織は知っていた。
誰よりも先に知っていたはずだった。
なのに今、その優しさを自然に語るのは彼女だった。
「どっちから誘ったの?」
別の友人が、からかうように聞いた。
彼女は少し赤くなった。
「私から」
「えー、積極的」
「だって、待ってたら言い出せないかもしれないし」
「彼が?」
「うん。そういうところ、あるから」
彼女は笑った。
その笑顔には、困ったような親しさがあった。
彼の不器用さを知っている顔。
彼の迷うところも、ためらうところも、愛おしいと思っている顔。
詩織は、その表情を見ていた。
見たくないと思いながら、見てしまっていた。
待ってたら言い出せないかもしれないし。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
彼は、言い出せない人だった。
詩織も知っている。
昔からそうだった。
大事なことほど、うまく言えない。
言いたそうにして、結局飲み込む。
こちらの顔色をうかがって、少し笑ってごまかす。
だから、詩織は何度も彼の沈黙を見てきた。
その沈黙に、何が入っているのかも、たぶん知っていた。
でも、詩織は待っていた。
彼が言うのを。
彼がもっとはっきりするのを。
彼が自分の基準に届くのを。
彼が、いつかちゃんと来るのを。
彼女は違った。
待たなかった。
言い出せない彼を知っていて、自分から誘った。
それだけの違い。
けれど、その違いはあまりにも大きかった。
詩織は、ページをめくった。
まだ授業は始まっていない。
なのに、文字が少し遠く見えた。
「藤崎さんは、クリスマス予定あるの?」
ふいに、隣の席の友人が声をかけてきた。
詩織は顔を上げた。
一瞬だけ、返事が遅れた。
けれどすぐに、いつもの微笑みを作る。
「特にはないかな。家でゆっくりすると思う」
「詩織らしいね。勉強とか?」
「少しはするかも」
「さすが」
軽い笑いが起きる。
詩織も笑った。
いつも通りに。
穏やかに。
乱れのない声で。
藤崎詩織らしい答え。
そういう反応をされることにも慣れていた。
クリスマスだからといって浮かれない。
誰かと特別な約束をしなくても平気。
勉強や家のことを優先する。
それはきっと、周囲が思う藤崎詩織に合っている。
だから、詩織はその通りに振る舞った。
でも胸の奥では、さっきから小さな違和感が消えなかった。
本当に、自分は平気なのだろうか。
彼が彼女とクリスマスに出かけることを、何とも思っていないのだろうか。
そもそも、何かを思う資格が自分にあるのだろうか。
そこまで考えて、詩織はそっと息を吸った。
考えすぎだ。
そう言い聞かせる。
彼は幼馴染。
彼女は恋人。
自分は友人。
それだけ。
それだけの関係なのだから、苦しくなる理由なんてない。
ないはずだった。
チャイムが鳴った。
教室の空気が、少しずつ授業へ戻っていく。
彼女も席に戻り、教科書を開いた。
詩織も前を向いた。
先生が入ってきて、黒板に文字を書き始める。
白いチョークの音が、教室に響いた。
詩織はノートを取った。
いつも通りに。
正確に。
綺麗な字で。
けれど、授業の内容はいつもより頭に入ってこなかった。
クリスマス。
駅前のイルミネーション。
彼女から誘ったという言葉。
優しいよ、と笑った彼女の顔。
それらが、黒板の文字の隙間から何度も浮かんでくる。
詩織は、少しだけ眉を寄せそうになって、すぐに表情を戻した。
こんなことで動揺するなんて、おかしい。
自分は彼と付き合っているわけではない。
彼に何かを約束したわけでもない。
彼からの好意に、答えたわけでもない。
それなのに、なぜ。
なぜ、こんなに胸の奥が落ち着かないのだろう。
授業が終わり、昼休みになった。
教室は再び賑やかになる。
詩織は弁当を開きながら、なるべくいつも通りに会話へ入った。
けれど、彼女たちの話題はまた自然とクリスマスへ戻った。
「プレゼント、何にするの?」
「まだ迷ってるんだ。マフラーとか、手袋とか」
「いいじゃん」
「でも、重くないかな」
「付き合ってるんだから普通でしょ」
「そうかな」
彼女は照れながら笑った。
詩織は、箸を止めないように意識した。
マフラー。
手袋。
冬の贈り物。
彼に何かを贈る彼女。
彼がそれを受け取る姿。
少し照れたように笑う彼。
ありがとう、と言う彼。
その想像が、勝手に胸の中へ入り込んでくる。
詩織は、それを追い払おうとした。
けれど、一度浮かんだ光景は、なかなか消えなかった。
昔、彼は詩織の誕生日に小さな文房具をくれたことがあった。
高価なものではなかった。
むしろ、どこにでもあるようなものだった。
でも彼は、渡す時にひどく緊張していた。
「使うかなと思って」
そう言って、視線を逸らした。
詩織はその時、ありがとうと笑った。
本当に嬉しかった。
けれど、それ以上の意味を考えようとはしなかった。
幼馴染だから。
昔からの付き合いだから。
彼は優しいから。
そうやって、すべてを穏やかな言葉で包んだ。
でも今。
彼女が彼にマフラーを贈るかもしれないと聞いて、詩織の胸は少しだけざわついた。
彼女の贈り物には、名前がある。
恋人からのプレゼント。
詩織が昔受け取った文房具には、名前をつけなかった。
つけようとしなかった。
その違いが、なぜか今になって痛かった。
「藤崎さん、どう思う?」
急に話を振られ、詩織は顔を上げた。
「え?」
「男の子にマフラーって重いかな?」
彼女が、少し不安そうに聞いていた。
悪意はない。
むしろ、純粋に意見を求めている顔だった。
詩織は一瞬、言葉を失った。
彼女は知らない。
詩織が今、どんな気持ちでその質問を聞いているのか。
知るはずがない。
彼女にとって詩織は、同じクラスの優しい友人の一人。
彼の幼馴染ではあるけれど、今の関係を揺らす相手ではない。
だから、こうして自然に相談できる。
その自然さが、また胸に触れた。
詩織は微笑んだ。
「いいと思うよ。寒い時期だし、使いやすいと思う」
「本当?」
「うん。きっと喜ぶんじゃないかな」
きっと喜ぶ。
その言葉を口にした瞬間、詩織の胸に小さな痛みが走った。
彼が喜ぶ姿を、自分は想像できてしまう。
彼がマフラーを受け取って、照れて、少し困ったように笑う姿を。
それを彼女が見る。
自分ではなく、彼女が見る。
それは当然のことだった。
なのに、なぜか喉の奥が少し詰まった。
「そっか。ありがとう、藤崎さん」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、本当にまっすぐだった。
詩織は頷いた。
「どういたしまして」
優しい返事。
正しい返事。
誰が見ても、藤崎詩織らしい返事。
けれど、その後しばらく、弁当の味がよくわからなかった。
放課後。
冬の夕方は早い。
窓の外は、もう少しずつ暗くなり始めていた。
教室の中で帰り支度をしていると、彼女が慌てたように鞄を持った。
「ごめん、私ちょっと行ってくる」
「彼のところ?」
友人がにやりと笑う。
「うん。今日、一緒に帰る約束してるから」
また。
一緒に帰る。
その言葉が出てきた。
詩織は、鞄のファスナーを閉めながら、その声を聞いた。
彼は別のクラスにいる。
彼女はそこへ向かう。
自分から。
当たり前のように。
「じゃあまた明日、藤崎さん」
「うん。また明日」
詩織は微笑んだ。
彼女は教室を出ていった。
廊下へ駆けていく足音が、少しずつ遠ざかる。
詩織は、ふと窓の外を見た。
校舎の向こうに、彼のいるクラスの方角が見える。
彼女は今、彼のもとへ向かっている。
その姿を想像してしまう。
教室の入口に立つ彼女。
気づいて顔を上げる彼。
少し照れたように笑う彼。
一緒に帰ろう、と言う彼女。
うん、と頷く彼。
それだけの光景。
でも、詩織の胸の中では、また何かが小さく膨らんだ。
ふくらんで。
圧力を持って。
行き場をなくしていく。
それはまだ、爆発と呼べるほど大きなものではなかった。
ただの小さな違和感。
少し苦しいだけの感情。
けれど、その小さなものは、確かに心の奥へ沈んでいった。
「詩織、帰る?」
友人が声をかけた。
詩織は顔を上げる。
「うん。帰ろうか」
いつも通りに答える。
教室を出て、廊下を歩く。
窓の向こうに、冬の夕暮れが広がっていた。
校門の近くに、二人の姿が見えた。
彼と彼女。
並んで歩いている。
彼女が何かを言い、彼が笑う。
遠くて声は聞こえない。
けれど、二人の間に流れる空気はわかった。
詩織は足を止めなかった。
止めれば、友人に気づかれてしまう。
だから、自然に歩き続けた。
自然に話を合わせた。
自然に笑った。
藤崎詩織として。
けれど心の中では、さっき聞いた言葉が何度も反響していた。
クリスマス、一緒に出かけることになってる。
私から誘った。
優しいよ。
マフラー、喜ぶかな。
一つ一つは、何でもない言葉だった。
恋人同士なら、普通の会話。
同じクラスの友人として、聞き流せばいい話。
それなのに、詩織の胸には、小さな破片のように残っていた。
痛い。
でも、何が痛いのかわからない。
悔しい。
でも、何に悔しがっているのかわからない。
寂しい。
でも、自分が寂しがる理由がわからない。
わからないことばかりだった。
だから詩織は、いつものように心の中へしまった。
きっと疲れているだけ。
試験が近いから。
冬で、少し気持ちが沈みやすいだけ。
クリスマスの空気に、周りが浮かれているから。
そういうことにしておいた。
そういうことにしておけば、明日もいつもの自分でいられる。
藤崎詩織でいられる。
校門を出ると、冷たい風が頬に触れた。
友人が寒いねと笑う。
詩織も、そうだねと笑った。
空はすでに薄暗い。
街の方では、イルミネーションが灯り始めているのだろう。
彼と彼女は、クリスマスにそこへ行く。
そのことを思うと、胸の奥でまた小さなものが膨らんだ。
詩織は、それを見ないふりをした。
名前をつけないまま、心の奥へ押し込めた。
その時はまだ、それが何になるのか知らなかった。
ただ、少し苦しいだけだと思っていた。
少し寂しいだけだと思っていた。
すぐに消えるものだと思っていた。
けれど冬の教室で聞いてしまった言葉は、消えなかった。
彼女の嬉しそうな笑顔も。
彼のために選ばれるかもしれないマフラーも。
自分から誘ったのだという、その何気ない勇気も。
それらは詩織の胸の奥で、静かに沈んでいった。
そして、まだ名前のない痛みの核になった。
いつか、心の中で爆発するものの。
とても小さな、とても静かな種として。