藤崎詩織は、伝説の木の外に立つ   作:エーアイ

4 / 18
高校時代の追加エピソードです。


藤崎詩織は、冬の教室で聞いてしまう

 高校二年の十二月。

 きらめき高校の教室には、冬の光が差し込んでいた。

 窓際の席に置かれた教科書の端が、淡く白く光っている。外の空は高く、冷たく、校庭を走る生徒たちの吐く息は遠目にも白かった。

 教室の中は、外よりずっと暖かい。

 けれど、どこか落ち着かない空気があった。

 期末試験が近いから。

 冬休みが近いから。

 そして、クリスマスが近いから。

 休み時間になると、教室のあちこちからそんな話題が聞こえてきた。

 

 「今年、どこ行くの?」

 

 「駅前のイルミネーション、見に行きたいんだよね」

 

 「プレゼントもう買った?」

 

 「え、まだ。どうしよう」

 

 そんな声が、冬の教室に軽く弾んでいる。

 藤崎詩織は、自分の席で次の授業の準備をしていた。

 いつも通りだった。

 教科書を机の上に揃え、ノートを開き、筆箱を置く。

 無駄のない、整った動き。

 周囲の浮ついた空気に流されることなく、いつもの藤崎詩織でいる。

 それは、詩織にとって自然なことだった。

 クリスマスだからといって、特別にはしゃぐ必要はない。

 誰かと予定があるわけでもない。

 誘われたことがないわけではない。

 けれど、曖昧な気持ちで誰かと出かけるつもりはなかった。

 藤崎詩織は、軽く誰かと約束するような少女ではない。

 少なくとも、詩織自身はそう思っていた。

 だから、友人たちが楽しそうに話していても、どこか一歩引いた気持ちで聞いていた。

 微笑ましい。

 少し賑やか。

 高校生らしい。

 そのくらいの距離で。

 けれど、その声が耳に入った瞬間、詩織の指先は止まった。

 

 「クリスマス、どうするの?」

 

 誰かが、彼女に聞いた。

 彼女。

 幼馴染の少年と付き合っている少女。

 明るくて、人懐っこくて、誰とでも自然に話せる子。

 高校二年の夏、縁日で彼の袖を引いていた子。

 金魚すくいの水面の前で、彼に笑いかけていた子。

 詩織と同じクラスの少女。

 幼馴染の少年は、別のクラスだった。

 だから、この教室に彼の姿はない。

 けれど彼女がいるだけで、詩織の近くに彼の気配が入り込んでくることがあった。

 それは不思議な感覚だった。

 彼がいないのに、彼のことを思い出してしまう。

 彼女が笑うだけで。

 彼女が彼の名前を出すだけで。

 詩織の中に、見えない糸が引かれる。

 

 「あ、クリスマス?」

 

 彼女は少し照れたように笑った。

 その笑い方を見て、詩織は次に出てくる言葉を予感した。

 聞かなければいい。

 そう思った。

 けれど、耳は勝手にその会話を拾っていた。

 

 「うん。一緒に出かけることになってる」

 

 教室の何人かが、小さく声を上げた。

 

 「いいなー」

 

 「どこ行くの?」

 

 「駅前のイルミネーション見て、そのあと少し買い物するくらいかな」

 

 「プレゼントは?」

 

 「まだ内緒」

 

 彼女はそう言って、困ったように笑った。

 隠しきれない嬉しさが、頬ににじんでいた。

 本当に楽しみにしているのだと、誰が見てもわかる笑顔だった。

 詩織は、ノートの端に視線を落とした。

 胸の奥で、何かが小さく音を立てた気がした。

 ひびが入るような。

 薄い氷の下で、水が動くような。

 そんな、かすかな音。

 彼と、クリスマスに出かける。

 それは、当然のことだった。

 二人は付き合っている。

 恋人同士なのだから、クリスマスに一緒に過ごすのは何もおかしくない。

 むしろ、ごく普通のことだ。

 詩織は、そう思った。

 そう思おうとした。

 けれど、心のどこかが追いつかなかった。

 彼が、クリスマスに誰かと出かける。

 しかも、その誰かは自分ではない。

 その事実が、冬の空気よりも冷たく胸に入ってきた。

 

 「いいなあ。あの人、優しそうだもんね」

 

 友人の一人が言った。

 彼女は少し得意げに、でも恥ずかしそうに笑った。

 

 「うん。優しいよ」

 

 その言葉は、とても短かった。

 けれど詩織には、妙にはっきり聞こえた。

 

 優しいよ。

 

 その言い方には、距離の近さがあった。

 誰かから聞いた評判ではない。

 遠くから見た印象でもない。

 実際に隣で過ごしている人だけが知っている、確信のある言葉。

 彼の優しさを、彼女は自分のものとして知っている。

 そう感じた瞬間、詩織の胸が少しだけ痛んだ。

 彼が優しいことなら、詩織だって知っている。

 小さい頃から、ずっと知っている。

 雨の日に傘を忘れた時、彼は自分の傘を少しだけこちらに傾けてくれた。

 重い荷物を持っていると、何も言わずに手を伸ばしてくれた。

 詩織が困っていると、うまく言葉にできないまま、それでも何かしようとしてくれた。

 そういう彼を、詩織は知っていた。

 

 誰よりも先に知っていたはずだった。

 

 なのに今、その優しさを自然に語るのは彼女だった。

 

 「どっちから誘ったの?」

 

 別の友人が、からかうように聞いた。

 彼女は少し赤くなった。

 

 「私から」

 

 「えー、積極的」

 

 「だって、待ってたら言い出せないかもしれないし」

 

 「彼が?」

 

 「うん。そういうところ、あるから」

 

 彼女は笑った。

 その笑顔には、困ったような親しさがあった。

 彼の不器用さを知っている顔。

 彼の迷うところも、ためらうところも、愛おしいと思っている顔。

 詩織は、その表情を見ていた。

 見たくないと思いながら、見てしまっていた。

 待ってたら言い出せないかもしれないし。

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 彼は、言い出せない人だった。

 詩織も知っている。

 

 昔からそうだった。

 

 大事なことほど、うまく言えない。

 

 言いたそうにして、結局飲み込む。

 

 こちらの顔色をうかがって、少し笑ってごまかす。

 

 だから、詩織は何度も彼の沈黙を見てきた。

 その沈黙に、何が入っているのかも、たぶん知っていた。

 でも、詩織は待っていた。

 彼が言うのを。

 彼がもっとはっきりするのを。

 彼が自分の基準に届くのを。

 彼が、いつかちゃんと来るのを。

 

 彼女は違った。

 

 待たなかった。

 

 言い出せない彼を知っていて、自分から誘った。

 

 それだけの違い。

 

 けれど、その違いはあまりにも大きかった。

 

 詩織は、ページをめくった。

 まだ授業は始まっていない。

 なのに、文字が少し遠く見えた。

 

 「藤崎さんは、クリスマス予定あるの?」

 

 ふいに、隣の席の友人が声をかけてきた。

 詩織は顔を上げた。

 一瞬だけ、返事が遅れた。

 けれどすぐに、いつもの微笑みを作る。

 

 「特にはないかな。家でゆっくりすると思う」

 

 「詩織らしいね。勉強とか?」

 

 「少しはするかも」

 

 「さすが」

 

 軽い笑いが起きる。

 詩織も笑った。

 いつも通りに。

 穏やかに。

 乱れのない声で。

 藤崎詩織らしい答え。

 そういう反応をされることにも慣れていた。

 クリスマスだからといって浮かれない。

 誰かと特別な約束をしなくても平気。

 勉強や家のことを優先する。

 それはきっと、周囲が思う藤崎詩織に合っている。

 だから、詩織はその通りに振る舞った。

 でも胸の奥では、さっきから小さな違和感が消えなかった。

 

 本当に、自分は平気なのだろうか。

 

 彼が彼女とクリスマスに出かけることを、何とも思っていないのだろうか。

 そもそも、何かを思う資格が自分にあるのだろうか。

 そこまで考えて、詩織はそっと息を吸った。

 考えすぎだ。

 そう言い聞かせる。

 

 彼は幼馴染。

 

 彼女は恋人。

 

 自分は友人。

 

 それだけ。

 それだけの関係なのだから、苦しくなる理由なんてない。

 

 ないはずだった。

 

 チャイムが鳴った。

 

 教室の空気が、少しずつ授業へ戻っていく。

 彼女も席に戻り、教科書を開いた。

 詩織も前を向いた。

 先生が入ってきて、黒板に文字を書き始める。

 白いチョークの音が、教室に響いた。

 詩織はノートを取った。

 いつも通りに。

 正確に。

 綺麗な字で。

 けれど、授業の内容はいつもより頭に入ってこなかった。

 

 クリスマス。

 

 駅前のイルミネーション。

 

 彼女から誘ったという言葉。

 

 優しいよ、と笑った彼女の顔。

 

 それらが、黒板の文字の隙間から何度も浮かんでくる。

 詩織は、少しだけ眉を寄せそうになって、すぐに表情を戻した。

 

 こんなことで動揺するなんて、おかしい。

 

 自分は彼と付き合っているわけではない。

 

 彼に何かを約束したわけでもない。

 

 彼からの好意に、答えたわけでもない。

 

 それなのに、なぜ。

 

 なぜ、こんなに胸の奥が落ち着かないのだろう。

 

 授業が終わり、昼休みになった。

 教室は再び賑やかになる。

 詩織は弁当を開きながら、なるべくいつも通りに会話へ入った。

 けれど、彼女たちの話題はまた自然とクリスマスへ戻った。

 

 「プレゼント、何にするの?」

 

 「まだ迷ってるんだ。マフラーとか、手袋とか」

 

 「いいじゃん」

 

 「でも、重くないかな」

 

 「付き合ってるんだから普通でしょ」

 

 「そうかな」

 

 彼女は照れながら笑った。

 詩織は、箸を止めないように意識した。

 

 マフラー。

 

 手袋。

 

 冬の贈り物。

 

 彼に何かを贈る彼女。

 彼がそれを受け取る姿。

 少し照れたように笑う彼。

 ありがとう、と言う彼。

 その想像が、勝手に胸の中へ入り込んでくる。

 詩織は、それを追い払おうとした。

 けれど、一度浮かんだ光景は、なかなか消えなかった。

 

 昔、彼は詩織の誕生日に小さな文房具をくれたことがあった。

 高価なものではなかった。

 むしろ、どこにでもあるようなものだった。

 でも彼は、渡す時にひどく緊張していた。

 

 「使うかなと思って」

 

 そう言って、視線を逸らした。

 詩織はその時、ありがとうと笑った。

 本当に嬉しかった。

 けれど、それ以上の意味を考えようとはしなかった。

 

 幼馴染だから。

 

 昔からの付き合いだから。

 

 彼は優しいから。

 

 そうやって、すべてを穏やかな言葉で包んだ。

 

 でも今。

 

 彼女が彼にマフラーを贈るかもしれないと聞いて、詩織の胸は少しだけざわついた。

 彼女の贈り物には、名前がある。

 

 恋人からのプレゼント。

 

詩織が昔受け取った文房具には、名前をつけなかった。

つけようとしなかった。

その違いが、なぜか今になって痛かった。

 

 「藤崎さん、どう思う?」

 

 急に話を振られ、詩織は顔を上げた。

 

 「え?」

 

 「男の子にマフラーって重いかな?」

 

 彼女が、少し不安そうに聞いていた。

 悪意はない。

 むしろ、純粋に意見を求めている顔だった。

 詩織は一瞬、言葉を失った。

 彼女は知らない。

 詩織が今、どんな気持ちでその質問を聞いているのか。

 知るはずがない。

 彼女にとって詩織は、同じクラスの優しい友人の一人。

 彼の幼馴染ではあるけれど、今の関係を揺らす相手ではない。

 だから、こうして自然に相談できる。

 その自然さが、また胸に触れた。

 詩織は微笑んだ。

 

 「いいと思うよ。寒い時期だし、使いやすいと思う」

 

 「本当?」

 

 「うん。きっと喜ぶんじゃないかな」

 

 きっと喜ぶ。

 その言葉を口にした瞬間、詩織の胸に小さな痛みが走った。

 彼が喜ぶ姿を、自分は想像できてしまう。

 彼がマフラーを受け取って、照れて、少し困ったように笑う姿を。

 それを彼女が見る。

 自分ではなく、彼女が見る。

 それは当然のことだった。

 なのに、なぜか喉の奥が少し詰まった。

 

 「そっか。ありがとう、藤崎さん」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 その笑顔は、本当にまっすぐだった。

 詩織は頷いた。

 

 「どういたしまして」

 

 優しい返事。

 正しい返事。

 誰が見ても、藤崎詩織らしい返事。

 けれど、その後しばらく、弁当の味がよくわからなかった。

 

 放課後。

 

 冬の夕方は早い。

 窓の外は、もう少しずつ暗くなり始めていた。

 教室の中で帰り支度をしていると、彼女が慌てたように鞄を持った。

 

 「ごめん、私ちょっと行ってくる」

 

 「彼のところ?」

 

 友人がにやりと笑う。

 

 「うん。今日、一緒に帰る約束してるから」

 

 また。

 一緒に帰る。

 その言葉が出てきた。

 

 詩織は、鞄のファスナーを閉めながら、その声を聞いた。

 彼は別のクラスにいる。

 彼女はそこへ向かう。

 自分から。

 当たり前のように。

 

 「じゃあまた明日、藤崎さん」

 

 「うん。また明日」

 

 詩織は微笑んだ。

 彼女は教室を出ていった。

 廊下へ駆けていく足音が、少しずつ遠ざかる。

 詩織は、ふと窓の外を見た。

 校舎の向こうに、彼のいるクラスの方角が見える。

 彼女は今、彼のもとへ向かっている。

 その姿を想像してしまう。

 教室の入口に立つ彼女。

 気づいて顔を上げる彼。

 少し照れたように笑う彼。

 一緒に帰ろう、と言う彼女。

 うん、と頷く彼。

 

 それだけの光景。

 

 でも、詩織の胸の中では、また何かが小さく膨らんだ。

 

 ふくらんで。

 圧力を持って。

 

 行き場をなくしていく。

 それはまだ、爆発と呼べるほど大きなものではなかった。

 ただの小さな違和感。

 少し苦しいだけの感情。

 けれど、その小さなものは、確かに心の奥へ沈んでいった。

 

 「詩織、帰る?」

 

 友人が声をかけた。

 詩織は顔を上げる。

 

 「うん。帰ろうか」

 

 いつも通りに答える。

 教室を出て、廊下を歩く。

 窓の向こうに、冬の夕暮れが広がっていた。

 

 校門の近くに、二人の姿が見えた。

 

 彼と彼女。

 

 並んで歩いている。

 彼女が何かを言い、彼が笑う。

 

 遠くて声は聞こえない。

 

 けれど、二人の間に流れる空気はわかった。

 

 詩織は足を止めなかった。

 止めれば、友人に気づかれてしまう。

 だから、自然に歩き続けた。

 自然に話を合わせた。

 自然に笑った。

 

 藤崎詩織として。

 

 けれど心の中では、さっき聞いた言葉が何度も反響していた。

 

 クリスマス、一緒に出かけることになってる。

 

 私から誘った。

 

 優しいよ。

 

 マフラー、喜ぶかな。

 

 一つ一つは、何でもない言葉だった。

 

 恋人同士なら、普通の会話。

 

 同じクラスの友人として、聞き流せばいい話。

 

 それなのに、詩織の胸には、小さな破片のように残っていた。

 

 痛い。

 

 でも、何が痛いのかわからない。

 

 悔しい。

 

 でも、何に悔しがっているのかわからない。

 

 寂しい。

 

 でも、自分が寂しがる理由がわからない。

 

 わからないことばかりだった。

 だから詩織は、いつものように心の中へしまった。

 

 きっと疲れているだけ。

 

 試験が近いから。

 

 冬で、少し気持ちが沈みやすいだけ。

 

 クリスマスの空気に、周りが浮かれているから。

 

 そういうことにしておいた。

 

 そういうことにしておけば、明日もいつもの自分でいられる。

 

 藤崎詩織でいられる。

 

 校門を出ると、冷たい風が頬に触れた。

 友人が寒いねと笑う。

 

 詩織も、そうだねと笑った。

 

 空はすでに薄暗い。

 街の方では、イルミネーションが灯り始めているのだろう。

 

 彼と彼女は、クリスマスにそこへ行く。

 

 そのことを思うと、胸の奥でまた小さなものが膨らんだ。

 詩織は、それを見ないふりをした。

 名前をつけないまま、心の奥へ押し込めた。

 その時はまだ、それが何になるのか知らなかった。

 ただ、少し苦しいだけだと思っていた。

 少し寂しいだけだと思っていた。

 すぐに消えるものだと思っていた。

 けれど冬の教室で聞いてしまった言葉は、消えなかった。

 彼女の嬉しそうな笑顔も。

 彼のために選ばれるかもしれないマフラーも。

 自分から誘ったのだという、その何気ない勇気も。

 それらは詩織の胸の奥で、静かに沈んでいった。

 そして、まだ名前のない痛みの核になった。

 

 いつか、心の中で爆発するものの。

 

 とても小さな、とても静かな種として。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。