藤崎詩織は、伝説の木の外に立つ   作:エーアイ

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高校時代のエピソードが少ないので追加しました。ちょくちょく追加するかもしれないです。


藤崎詩織は、放課後の教室で思い出す

 高校三年生の四月。

 新しい教室には、まだ少しだけ落ち着かない空気が残っていた。

 机の位置。

 黒板の見え方。

 窓から入る光の角度。

 同じきらめき高校の教室なのに、学年が変わっただけで、どこか違う場所のように感じる。

 藤崎詩織は、自分の席で教科書を鞄にしまっていた。

 放課後の教室には、帰り支度をする生徒たちの声が広がっている。

 部活へ急ぐ者。

 友人と寄り道の相談をする者。

 新しいクラスにまだ慣れず、少しぎこちなく会話する者。

 その中に、彼もいた。

 詩織の幼馴染の少年。

 高校三年生になって、彼とは同じクラスになった。

 その事実を知った時、詩織の胸はほんの少しだけ揺れた。

 嬉しかったのか。

 気まずかったのか。

 懐かしかったのか。

 自分でも、すぐにはわからなかった。

 けれど彼は、いつも通りだった。

 

 「今年もよろしく、詩織」

 

 そう言って、穏やかに笑った。

 昔よりも、少し落ち着いた笑顔だった。

 高校一年生の頃の彼なら、同じクラスになったことをもっとわかりやすく喜んだかもしれない。

 少し照れて、言葉を探して、こちらの反応を気にして。

 でも今の彼は違う。

 嬉しそうではあった。

 けれど、それは幼馴染として自然に喜んでいるだけだった。

 そこに、昔のような必死さはなかった。

 詩織は、そのことに気づいていた。

 気づいてしまっていた。

 そして、気づいたことを顔には出さなかった。

 藤崎詩織は、いつも通りに微笑んだ。

 

 「こちらこそ、よろしくね」

 

 それだけ。

 それだけで会話は終わった。

 本当に、何でもないやり取りだった。

 けれど、その何でもなさが、詩織には少しだけ苦かった。

 放課後の教室で、彼は友人と何かを話していた。

 新学期の委員会のこと。

 模試の日程のこと。

 進路希望調査のこと。

 高校三年生らしい話題が、あちこちで聞こえる。

 受験。

 進学。

 卒業。

 これからの一年が、これまでの二年とは違うものになることを、誰もが少しずつ感じていた。

 詩織も同じだった。

 最後の一年。

 そう思うだけで、教室の空気が少しだけ重くなる。

 そして、少しだけ眩しくもなる。

 その時だった。

 教室の入口に、ひとりの少女が現れた。

 

 「あ、いた」

 

 明るい声。

 詩織は、反射的に視線を向けた。

 彼女だった。

 幼馴染の少年と付き合っている少女。

 高校二年の縁日で、彼の袖を引いていた少女。

 金魚すくいの水面の前で、彼に笑いかけていた少女。

 今年は別のクラスになったはずだった。

 だから、同じ教室で毎日二人を見ることは少ない。

 そう思っていた。

 思っていたのに。

 彼女は、放課後になるとこうして彼のクラスへ来るのだ。

 それは、考えてみれば自然なことだった。

 恋人同士なのだから。

 一緒に帰る約束をしているなら、どちらかの教室へ迎えに来る。

 何もおかしくない。

 何も悪くない。

 けれど詩織は、鞄の持ち手を握る指に、少しだけ力が入るのを感じた。

 彼が、彼女に気づいた。

 

 「あ、ごめん。ちょっと待って」

 

 「うん。ゆっくりでいいよ」

 

 彼女は教室の入口付近で笑った。

 中に入りすぎない。

 でも、遠慮しすぎてもいない。

 その立ち位置が自然だった。

 彼のクラスメイトたちも、二人の関係を知っているのだろう。

 何人かが、からかうように笑った。

 

 「お迎え?」

 

 「いいなー」

 

 彼は少しだけ照れたように苦笑した。

 

 「そんなんじゃないって」

 

 彼女はくすりと笑って言った。

 

 「一緒に帰るだけだよ」

 

 一緒に帰るだけ。

 その言葉が、詩織の胸の奥に静かに落ちた。

 ただ、それだけのこと。

 隣に並んで、校門を出て、同じ道を歩く。

 たぶん途中で、今日の授業のことを話す。

 先生の話。

 進路の話。

 他愛のない話。

 そんな何でもない時間を、二人は当たり前のように共有している。

 詩織は、彼の背中を見つめた。

 彼は鞄に教科書を入れ、机の横に掛けていた上着を取る。

 動きに迷いがない。

 彼女が迎えに来ることに慣れているのだ。

 彼女と一緒に帰ることに、慣れているのだ。

 その事実が、胸に少しだけ刺さった。

 そして詩織は、不意に一年生の頃を思い出した。

 

 高校一年生の春。

 

 まだ制服の着方にも、校舎の広さにも慣れきっていなかった頃。

 同じ帰り道を歩いていた彼が、少し緊張したように声をかけてきた日があった。

 

 「詩織、今日……一緒に帰らない?」

 

 その言葉は、今でも覚えている。

 声の高さ。

 視線の揺れ方。

 言った後に、少しだけ後悔したような顔。

 あの頃の彼は、まだ頼りなかった。

 けれど、その頼りなさの中に、精一杯の勇気があった。

 詩織は、その勇気に気づいていた。

 気づいていたのに。

 

 「ごめんね。噂になったら恥ずかしいし」

 

 そう答えた。

 柔らかく。

 傷つけないように。

 いつもの藤崎詩織らしく。

 その時の自分は、それが正しい返事だと思っていた。

 彼を嫌っていたわけではない。

 一緒に帰るのが本当に嫌だったわけでもない。

 ただ、周囲に見られるのが少し恥ずかしかった。

 誰かに勘違いされるのが面倒だった。

 幼馴染とはいえ、男女で一緒に帰ることには、きっと何かしらの意味がついてしまう。

 だから、断った。

 そう思っていた。

 あの時の彼は、少しだけ目を丸くした。

 それから、すぐに笑った。

 

 「あ、そっか。うん、そうだよな」

 

 無理をしたようには見えなかった。

 少なくとも、その時の詩織にはそう見えた。

 彼は翌日も普通に話しかけてきた。

 少し頼りなく笑って、いつも通りに挨拶をして、何もなかったみたいに隣を歩いた。

 だから詩織も、何もなかったのだと思った。

 少し断っただけ。

 少し気まずかっただけ。

 それだけ。

 それだけのことだと、思っていた。

 けれど今、放課後の教室で彼女が彼を迎えに来ている光景を見て、その「それだけ」が、なぜか胸の奥で重くなった。

 一年生の時、自分が断ったこと。

 三年生の今、彼女が迎えに来ていること。

 その二つは、直接つながっているわけではない。

 詩織は、そう思おうとした。

 一緒に帰るのを一度断ったからといって、それで何かが決まるわけではない。

 彼が今、彼女と付き合っているのは、もっといろいろな出来事があったからだ。

 彼女が彼に声をかけたこと。

 彼がそれに応えたこと。

 二人が時間を重ねたこと。

 それらがあって、今がある。

 だから、あの時の自分の返事だけを取り出して、何かを考えるのはおかしい。

 おかしいはずだった。

 それなのに。

 

 詩織は、あの時の彼の笑顔を何度も思い出してしまった。

 

 「あ、そっか」

 

 あの一言の後ろに、何があったのだろう。

 本当に何もなかったのだろうか。

 それとも、彼は少しだけ傷ついていたのだろうか。

 自分と一緒に帰ることは、詩織にとって恥ずかしいことなのだと。

 そう思わせてしまったのだろうか。

 そこまで考えて、詩織はすぐに視線を落とした。

 考えすぎだ。

 そう思った。

 彼はそんなに弱い人ではない。

 今の彼は、彼女とちゃんと笑っている。

 自分が一年生の頃にどう答えたかなんて、もう覚えていないかもしれない。

 だから、気にする必要はない。

 ないはずなのに。

 教室の入口に立つ彼女の姿は、詩織の胸を静かに揺らし続けた。

 彼女は、彼と一緒に帰ることを恥ずかしがっていなかった。

 誰かにからかわれても、困ったように笑うだけだった。

 教室の入口に立つことを、特別なことのように扱っていなかった。

 ただ、好きな人を待っている。

 ただ、一緒に帰る。

 その姿は、あまりにも自然だった。

 詩織には、それが少し眩しかった。

 なぜ眩しいと思うのかは、まだわからなかった。

 わかりたくなかったのかもしれない。

 彼が鞄を肩に掛ける。

 

 「お待たせ」

 

 「ううん。大丈夫」

 

 彼女が笑う。

 

 「今日、どこか寄ってく?」

 

 「少しなら。図書館?」

 

 「うん。進路の資料見たい」

 

 「じゃあ行こうか」

 

 二人の会話は、自然だった。

 恋人らしい甘さはある。

 けれど、浮かれすぎてはいない。

 高校三年生として、進路のことも話している。

 隣にいることが、ただの遊びではなく、日常の一部になっている。

 詩織は、そのことが少しだけ怖かった。

 怖い、という言葉が正しいのかもわからない。

 寂しいのかもしれない。

 悔しいのかもしれない。

 ただ、胸の奥に小さな引っかかりがあった。

 彼女と彼が、教室を出ていく。

 彼女が少しだけ振り返って、教室にいる生徒たちへ軽く会釈した。

 詩織にも、その視線が届いた。

 

 「またね、藤崎さん」

 

 「うん。またね」

 

 詩織は、いつも通りに微笑んだ。

 彼もこちらを見る。

 

 「じゃあ、また明日」

 

 「うん。また明日」

 

 何でもない挨拶。

 幼馴染としての距離。

 同じクラスメイトとしての距離。

 その距離は、穏やかだった。

 穏やかすぎるくらいだった。

 二人が廊下へ出る。

 少しずつ遠ざかる声が聞こえた。

 

 「今日の英語、難しかったね」

 

 「小テスト、来週だっけ」

 

 「うん。だからちゃんと勉強しないと」

 

 「じゃあ、帰りに少し見る?」

 

 「助かる」

 

 そんな会話が、廊下の向こうへ消えていく。

 詩織は、しばらく席を立てなかった。

 教室には、まだ何人かの生徒が残っている。

 机を動かす音。

 椅子を引く音。

 窓の外から聞こえる部活動の声。

 すべてはいつも通りだった。

 けれど、詩織の周りだけ少し静かになったように感じた。

 一年生のあの日、自分は彼の誘いを断った。

 三年生の今日、彼女は彼を迎えに来た。

 ただ、それだけ。

 それだけのことなのに、胸の中で二つの場面が重なって離れない。

 詩織は、窓の外へ視線を向けた。

 春の光が校庭を淡く照らしている。

 部活動へ向かう生徒たちが走っていく。

 高校三年生の四月。

 最後の一年が始まったばかりなのに、詩織はもう何かが少し変わってしまった後のような気持ちになっていた。

 けれど、その変化に名前をつけることはできなかった。

 自分が何を惜しんでいるのか。

 何に傷ついているのか。

 何を思い出して、何を悔やみかけているのか。

 まだ、わからなかった。

 わからないまま、胸の奥だけが小さく痛んだ。

 

 「詩織、帰らないの?」

 

 クラスの友人が声をかけた。

 詩織は顔を上げ、いつものように微笑んだ。

 

 「うん。帰るよ」

 

 鞄を持って立ち上がる。

 足元は少しだけ重かった。

 けれど、表情は崩さなかった。

 教室を出る時、彼女が立っていた入口をふと見る。

 そこにはもう誰もいなかった。

 ただ、放課後の光だけが廊下に落ちている。

 詩織は一歩を踏み出した。

 一年生の時、彼はここから自分を誘った。

 三年生の今、彼女はここから彼を迎えに来た。

 同じ学校。

 同じ放課後。

 同じような、一緒に帰るという言葉。

 けれど、その意味はまるで違っている気がした。

 詩織は、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。

 

 あの時、自分は間違えたのだろうか。

 

 そう思いかけて、すぐに打ち消した。

 

 間違えた、というほどのことではない。

 

 一緒に帰るのを断っただけ。

 

 噂になるのが恥ずかしいと思っただけ。

 

 それだけのことだったはずだ。

 

 彼も、きっともう気にしていない。

 彼には今、隣を歩く人がいる。

 だから、自分が今さら何かを考える必要なんてない。

 

 そう思うのに。

 

 彼女が教室の入口に立っていた姿が、どうしても頭から離れなかった。

 誰かを迎えに来ること。

 誰かと一緒に帰ること。

 そんな簡単なことが、どうして自分にはこんなに難しく見えるのだろう。

 階段を下りる途中、窓の外に校門が見えた。

 遠くに、二人の後ろ姿があった。

 

 彼と彼女。

 並んで歩いている。

 手を繋いでいるわけではない。

 肩を寄せ合っているわけでもない。

 ただ、同じ歩幅で歩いている。

 

 その自然さが、やっぱり少しだけ苦しかった。

 けれど詩織は、目を逸らさなかった。

 二人の後ろ姿を、静かに見送った。

 

 春の光の中で、彼女が何かを言った。

 彼が少し笑った。

 その笑顔は遠くて、はっきりとは見えなかった。

 それでも詩織には、彼が穏やかに笑っていることだけはわかった。

 

 胸の奥で、何かが小さく痛む。

 

 でも、その痛みの名前はまだわからない。

 

 嫉妬だとは思いたくなかった。

 後悔だとも、まだ言いたくなかった。

 恋だなんて、もっと言えなかった。

 

 ただ、ひとつだけわかることがあった。

 一年生のあの日、自分は彼の勇気を受け取らなかった。

 そのことを、今さら少しだけ思い出している。

 それだけ。

 本当に、それだけのことのはずだった。

 

 詩織は窓から視線を外し、階段を下りた。

 校舎の外へ出ると、春の風が髪を揺らした。

 まだ少し冷たい風だった。

 けれど、その中には新しい季節の匂いが混じっていた。

 

 高校三年生の春。

 最後の一年は、始まったばかりだった。

 詩織は校門へ向かって歩き出した。

 彼と彼女が歩いていった道とは、少し違う道を選んだ。

 

 特に理由はなかった。

 

 ただ、同じ道をすぐ後ろから歩く気にはなれなかった。

 それだけだった。

 

 歩きながら、詩織はもう一度だけ、心の中で一年生の彼の声を聞いた。

 

 「詩織、今日……一緒に帰らない?」

 

 あの時の彼は、少しだけ勇気を出していた。

 そして自分は、笑って断った。

 

 「噂になったら恥ずかしいし」

 

 その言葉は、当時の詩織にとっては正しい距離の取り方だった。

 けれど今は、なぜか少しだけ冷たく響いた。

 詩織は、唇を小さく結んだ。

 考えても仕方がない。

 もう過ぎたことだ。

 彼は今、彼女と一緒にいる。

 自分は自分の帰り道を歩けばいい。

 そう言い聞かせる。

 けれど胸の奥には、小さな違和感が残った。

 まだ言葉にならない違和感。

 まだ後悔とも呼べない痛み。

 まだ恋だと認めるには早すぎる、曖昧な何か。

 それは、春の風に吹かれても消えなかった。

 藤崎詩織は、いつも通りの姿勢で歩いていく。

 背筋を伸ばし、穏やかな表情で。

 誰が見ても、いつもの藤崎詩織だった。

 けれどその胸の奥では、一年生の春の一言と、三年生の春の放課後が、静かに重なり続けていた。

 その意味を本当に知るのは、まだ少し先のことだった。

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