藤崎詩織は、伝説の木の外に立つ   作:エーアイ

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高校時代の追加エピソードです。


藤崎詩織は、模試の結果を聞けなかった

 高校三年の夏の終わり。

 きらめき高校の教室には、まだ少しだけ夏の熱が残っていた。

 窓の外では蝉の声が弱まり始め、校庭を吹き抜ける風には、ほんのわずかに秋の気配が混じっている。

 それでも教室の中は、まだ暑い。

 開け放たれた窓。

 回り続ける扇風機。

 机の上に置かれた参考書。

 黒板の端に書かれた、次の模試の日程。

 高校三年生にとって、季節はもう単なる季節ではなかった。

 夏が終わる。

 それは、受験が近づくという意味だった。

 藤崎詩織は、自分の席で、返却された模試の結果を見ていた。

 判定は悪くない。

 志望校に対しても、十分に戦える位置にいる。

 周囲の生徒たちが一喜一憂する中で、詩織は大きく表情を変えなかった。

 良かったからといって浮かれる必要はない。

 悪かったからといって崩れる必要もない。

 模試はあくまで通過点。

 本番ではない。

 そういう冷静さを、詩織は持っていた。

 周囲から見ても、いつもの藤崎詩織だった。

 落ち着いていて、隙がなくて、きちんと前を向いている。

 けれど、その日の詩織の意識は、自分の結果だけには向いていなかった。

 同じ教室の少し離れた席。

 そこに、彼がいた。

 幼馴染の少年。

 高校三年生になって、彼とは同じクラスになった。

 最初は少しだけ不思議だった。

 毎朝、同じ教室に入る。

 同じホームルームを受ける。

 同じ黒板を見る。

 昔なら、それだけで彼はもっとわかりやすく嬉しそうにしたかもしれない。

 けれど今の彼は、落ち着いていた。

 

 「今年もよろしく、詩織」

 

 そう言った時の笑顔は穏やかで、幼馴染としての親しみはあっても、昔のような熱はなかった。

 その距離を、詩織はもう知っていた。

 彼には、彼女がいる。

 別のクラスにいる、彼と付き合っている少女。

 だから、同じ教室にいても、彼の一番近くにいるのは自分ではない。

 そのことを、詩織は何度も見てきた。

 それでも、模試の結果が返されたこの日、詩織は彼のことが少し気になっていた。

 彼の結果はどうだったのだろう。

 判定は上がったのだろうか。

 苦手だった英語は、少し伸びたのだろうか。

 彼は、今どんな顔で成績表を見ているのだろう。

 彼は、詩織とは別の一流大学を目指している。

 高校に入ったばかりの頃の彼を思えば、それはずいぶん高い目標だった。

 昔の彼なら、難関という言葉だけで少し身構えたかもしれない。

 自分には無理かも、と笑ってごまかしたかもしれない。

 けれど今の彼は違う。

 少しずつ勉強に向き合うようになった。

 苦手だった科目にも逃げなくなった。

 放課後に図書室で参考書を開く姿も、何度か見かけた。

 努力している。

 それは、同じクラスにいる詩織にもわかっていた。

 だからこそ、気になった。

 詩織は、自分の模試結果を静かに鞄へしまった。

 彼の席の方へ視線を向ける。

 彼は成績表を見ていた。

 表情は、悪くない。

 驚いているような、少しほっとしているような、でもまだ不安を残しているような顔。

 詩織は、その顔を見ただけで、ある程度察してしまった。

 たぶん、前よりは良かったのだろう。

 でも、志望校にはまだ届いていない。

 そんなところかもしれない。

 声をかけようかと思った。

 

 「模試、どうだった?」

 

 幼馴染なのだから、不自然ではない。

 同じクラスメイトとして聞くくらい、何もおかしくない。

 彼もきっと普通に答えるだろう。

 でも、詩織の足は動かなかった。

 机と机の間にある数歩の距離が、妙に長く感じた。

 昔は、こんな距離などなかった。

 中学生の頃、彼はテストが返ってくるたびに、わかりやすく落ち込んだり喜んだりしていた。

 点数が少し上がると、詩織に見せに来た。

 

 「今回は結構よかった」

 

 そう言って、少し得意げに笑った。

 詩織が「すごいね」と言うと、彼は本当に嬉しそうな顔をした。

 逆に悪かった時は、成績表を隠すようにしていた。

 でも詩織が気づくと、観念したように見せてくれた。

 

 「ここ、どうしたらいいと思う?」

 

 そんなふうに聞いてきたこともある。

 その時の彼は、まだ詩織を頼っていた。

 詩織も、それを自然に受け止めていた。

 彼が結果を見せる相手。

 彼が褒められたくて視線を向ける相手。

 それが自分であることを、詩織は疑ったことがなかった。

 けれど今は。

 彼が結果を見せたい相手は、自分なのだろうか。

 その問いが浮かび、詩織はすぐに目を伏せた。

 答えは、なんとなくわかっていた。

 休み時間になった。

 教室の中が一気にざわつく。

 

 「やばい、数学落ちた」

 

 「英語上がった!」

 

 「判定どうだった?」

 

 「見せない」

 

 そんな声が飛び交う。

 詩織は、次の授業の準備をするふりをしていた。

 彼の席の方では、何人かの男子が模試結果を見せ合っている。

 彼もその輪の中にいた。

 笑っている。

 少し照れたように。

 けれど、どこか落ち着かないようにも見えた。

 誰かが彼の結果を見て、「お、上がってるじゃん」と言った。

 彼は苦笑した。

 

 「まあ、ちょっとだけな」

 

 その声を聞いて、詩織は胸の中で小さく頷いた。

 やっぱり、上がっていたのだ。

 努力が少し実ったのだ。

 良かった。

 そう思った。

 素直にそう思った。

 それなら、言えばいい。

 

 よかったね。

 

 頑張ってたもんね。

 

 そう言えばいい。

 でも詩織は、まだ言えなかった。

 

 彼の周りには友人がいる。

 それに、もうすぐ彼女が来るかもしれない。

 そんな予感がした。

 そして、その予感は当たった。

 

 放課後。

 

 帰り支度のざわめきが教室に広がる頃、教室の入口に彼女が現れた。

 別のクラスの少女。

 彼と付き合っている少女。

 

 「あ、いた」

 

 明るい声。

 彼女は、教室の入口から彼を見つけると、少しだけ手を振った。

 何人かのクラスメイトが、からかうように彼を見る。

 

 「お迎え来たぞ」

 

 「模試の報告?」

 

 彼は少し照れたように笑った。

 

 「うるさいな」

 

 その声には、嫌がる響きはなかった。

 詩織は、鞄の持ち手を握ったまま、その様子を見ていた。

 彼女は教室の中へ入りすぎない。

 でも、遠慮しすぎてもいない。

 入口のあたりで彼を待つ。

 その立ち位置が、もう何度も繰り返された日常なのだとわかった。

 彼が鞄から模試の成績表を取り出した。

 

 「あのさ」

 

 彼女はすぐに気づいたように目を輝かせた。

 

 「返ってきた?」

 

 「うん」

 

 「どうだった?」

 

 「……前よりは、ちょっと良かった」

 

 彼女の顔が、ぱっと明るくなった。

 

 「ほんと?」

 

 「ほんと」

 

 「見せて」

 

 彼は少し迷ったように成績表を差し出した。

 彼女はそれを両手で受け取って、真剣に覗き込んだ。

 詩織は、その光景を見ていた。

 自分が少し気になっていた結果。

 声をかけようとして、結局聞けなかった結果。

 それを彼は、彼女には自分から見せた。

 そのことが、胸の奥に静かに落ちた。

 

 「上がってるじゃん」

 

 彼女の声が弾んだ。

 

 「英語、前より全然いいよ」

 

 「まあ、少しだけな」

 

 彼は照れたように言った。

 

 「少しだけじゃないよ。ここ、前回よりかなり上がってる」

 

 「でも判定はまだ微妙」

 

 「それでも、前より近づいてるでしょ」

 

 彼女は成績表を見ながら、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。

 その声を聞いた瞬間、詩織の胸が小さく揺れた。

 

 ああ。

 

 彼の努力と成果を、一番近くで喜んでいるのは彼女なのだ。

 同じ教室にいたのは、詩織だった。

 彼が成績表を受け取った瞬間を見ていたのも、詩織だった。

 でも、彼がその紙を見せたかった相手は、別のクラスから来た彼女だった。

 

 「すごいよ」

 

 彼女が言った。

 

 「ほんとに。夏、ちゃんと頑張ってたもん」

 

 「……そうかな」

 

 「そうだよ。私、見てたし」

 

 その言葉が、詩織の胸に静かに刺さった。

 

 私、見てたし。

 

 彼女は、彼の努力を見ていた。

 夏の間、どれだけ勉強したのか。

 どこでつまずいていたのか。

 どれだけ不安だったのか。

 眠そうにしながらも、もう一問だけやると言っていたのか。

 そういう日々を、彼女は知っている。

 詩織も、彼が努力していることは知っていた。

 同じクラスだから、授業中の真剣な顔も見た。

 休み時間に参考書を開いている姿も見た。

 黒板の模試日程を見て、小さく息を吐くところも見た。

 けれど、それは断片だった。

 詩織が見ていたのは、教室の中の彼。

 彼女が見ていたのは、たぶん、それ以外の彼も含めた全部。

 不安も、迷いも、焦りも。

 その違いが、詩織にははっきりわかった。

 

 「でもさ」

 

 彼が小さく言った。

 

 「これで喜んでる場合じゃないんだよな。志望校、まだ遠いし」

 

 「うん。でも、喜んでいいところは喜んでいいと思う」

 

 彼女はまっすぐ言った。

 

 「頑張った結果なんだから」

 

 彼は黙った。

 少しの沈黙。

 それから、困ったように笑った。

 

 「お前、そういうこと普通に言うよな」

 

 「普通に言うよ。だって本当だもん」

 

 「……ありがと」

 

 その声は、少し照れていて、少し嬉しそうだった。

 詩織は、その声を知っているような気がした。

 昔、自分が彼を褒めた時。

 

 「すごいね」と言った時。

 

 彼は、あんなふうに少し照れて、少し嬉しそうにしていた。

 けれど今、その声は彼女に向けられている。

 詩織ではない。

 彼女に。

 教室の中にいるのに、詩織は少しだけ遠くにいるような気がした。

 彼と同じ空間にいる。

 同じ黒板を見て、同じ授業を受け、同じ模試の結果を返された。

 それなのに、彼の喜びの一番近くにいるのは、別のクラスからやってきた彼女だった。

 それが不思議で。

 それが当然で。

 それが、少しだけ苦しかった。

 

 「次、どこ伸ばす?」

 

 彼女が聞く。

 

 「英語はこのまま。数学がまだ安定しない」

 

 「じゃあ、また図書室でやる?」

 

 「うん。付き合わせて悪いけど」

 

 「別にいいよ。私も勉強するし」

 

 「お前の志望校なら、そこまでやらなくても大丈夫じゃないのか」

 

 「それ、ちょっと失礼」

 

 「あ、ごめん」

 

 彼女は笑った。

 本気で怒ってはいない。

 けれど、彼は少し慌てていた。

 詩織は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥に別の痛みを覚えた。

 学力だけなら、彼女より詩織の方が彼に近い。

 目指している大学の水準も、詩織と彼の方が近い。

 詩織は一流大学を目指している。

 彼も、別の一流大学を目指している。

 彼女は、二流大学を志望していると聞いている。

 受験という戦いの上では、詩織の方が彼の隣に立てるはずだった。

 少なくとも、条件だけを見れば。

 けれど現実には、彼の隣で模試の結果を見ているのは彼女だった。

 彼の点数を、自分のことのように喜んでいるのは彼女だった。

 彼の不安を、すぐそばで聞いているのも彼女だった。

 成績では測れない距離。

 偏差値では決まらない場所。

 それを、詩織は見せつけられているような気がした。

 見せつけられているわけではない。

 彼女にそんなつもりはない。

 彼にもない。

 二人はただ、模試の結果を見て話しているだけ。

 それだけのこと。

 けれど詩織にとっては、それだけでは済まなかった。

 自分の方が優秀なのに。

 そんな言葉が、胸の奥に浮かびかけて、詩織はすぐにそれを消した。

 そんなことを考える自分が嫌だった。

 彼女を見下したいわけではない。

 成績で勝っているから自分の方がふさわしいなどと、本気で思いたいわけではない。

 でも、どこかで思っていなかっただろうか。

 自分と彼の方が、釣り合うと。

 自分の方が、彼の目指す場所を理解できると。

 彼がもっと成長すれば、隣に立つのは自分でもいいはずだと。

 そういう曖昧な自負が、自分の中にまったくなかったと言い切れるだろうか。

 詩織は、答えを出さなかった。

 出せなかった。

 ただ、胸が痛んだ。

 

 「ねえ」

 

 彼女が成績表を返しながら言った。

 

 「今日、ちょっとだけお祝いしない?」

 

 「お祝い?」

 

 「判定上がったんだから」

 

 「いや、まだ上がったっていうほどじゃ」

 

 「前より良くなったらお祝いでいいの」

 

 「何するんだよ」

 

 「帰りにアイス」

 

 「この時期に?」

 

 「まだ暑いし」

 

 彼は呆れたように笑った。

 けれど、その表情は嬉しそうだった。

 

 「じゃあ、少しだけ」

 

 「決まり」

 

 彼女は満足そうに頷いた。

 詩織は、その会話を聞きながら、また昔を思い出した。

 彼がテストで点を上げた時。

 詩織が「頑張ったね」と言った時。

 彼は嬉しそうにしていた。

 でも、そこに「お祝い」はなかった。

 詩織は褒めた。

 認めた。

 上からのつもりはなかった。

 けれど、どこかに評価する側の距離があったのかもしれない。

 彼女は違う。

 彼の努力を、彼と同じ目線で喜んでいる。

 判定がまだ十分ではなくても、前より良くなったことを祝おうとしている。

 それは、成績表の数値以上に彼を見ているということだった。

 彼女が成績表を彼に返す。

 その瞬間、詩織と彼の目が合った。

 偶然だった。

 彼は少しだけ驚いたようにして、それからいつものように笑った。

 

 「詩織も返ってきた?」

 

 「うん」

 

 詩織は微笑んだ。

 

 「どうだった?」

 

 「悪くはなかったかな」

 

 「さすがだな」

 

 彼は自然に言った。

 その言葉は、昔から何度も聞いてきたものだった。

 やっぱり詩織はすごい。

 詩織なら大丈夫。

 そういう言葉。

 悪意はない。

 むしろ、純粋な感心だった。

 けれど今の詩織には、その言葉が少しだけ遠く感じられた。

 彼は詩織をすごいと思っている。

 今でも、それは変わらない。

 けれど、彼が弱さを見せる相手。

 まだ十分ではない結果を見せる相手。

 前より少し伸びたことを、自分のことのように喜んでほしい相手。

 それは、詩織ではない。

 

 「あなたも、上がったんだね」

 

 詩織は言った。

 穏やかに。

 正しく。

 幼馴染として、同じクラスメイトとして、不自然ではない言葉。

 彼は少し照れたように笑った。

 

 「まあ、ちょっとだけ」

 

 「よかったね」

 

 「うん。ありがと」

 

 その声は、柔らかかった。

 けれど、先ほど彼女へ向けた「ありがと」とは少し違った。

 詩織には、それがわかってしまった。

 距離がある。

 薄い膜のような距離。

 決して冷たくはない。

 むしろ穏やかで、優しい。

 けれど、その優しさはもう、彼女へ向けるものとは違っていた。

 

 「じゃあ、私たち帰るね」

 

 彼女が言った。

 

 「うん。また明日」

 

 詩織は微笑んだ。

 彼も鞄を肩に掛ける。

 

 「また明日、詩織」

 

 「うん。また明日」

 

 二人は教室を出ていった。

 詩織は、その背中を見送った。

 彼女が彼に何かを言う。

 彼が笑う。

 手を繋いでいるわけではない。

 寄り添いすぎているわけでもない。

 ただ、同じ方向へ歩いている。

 それだけ。

 それだけで、二人の間に積み重なった時間が見えた。

 教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。

 机を動かす音。

 鞄のファスナーを閉める音。

 模試の結果にため息をつく声。

 日常の音が戻ってくる。

 詩織は、自分の席に座ったまま、ほんの少しだけ動けなかった。

 模試の結果を聞けなかった。

 正確には、最後に少しだけ聞いた。

 前より良かったのだと。

 でも、詩織が聞きたかったのは、点数や判定だけではなかったのかもしれない。

 夏の間、どう頑張ったのか。

 どこで苦しんだのか。

 何が不安だったのか。

 今回上がって、どれほど嬉しかったのか。

 そういうものを、本当は知りたかったのかもしれない。

 けれど、それを知る場所はもう彼女の隣にあった。

 

 詩織は、そこへ入ることができなかった。

 

 教室の窓から、夏の終わりの光が差している。

 

 夕方の光は少し赤く、机の端を淡く照らしていた。

 

 詩織は、自分の鞄を持ち直した。

 

 成績なら、自分の方が上だ。

 

 志望校の難易度なら、自分と彼の方が近い。

 

 努力の仕方だって、自分ならもっと効率よく示せる。

 

 そんなことを考えかけて、詩織は目を伏せた。

 

 違う。

 

 たぶん、そういうことではない。

 

 そう思った。

 

 けれど、では何なのかは、まだわからなかった。

 彼女は彼の努力を見ていた。

 彼の成果を喜んでいた。

 彼の不安を聞いていた。

 

 それだけ。

 ただ、それだけのこと。

 

 でも、その「それだけ」を積み重ねた人が、彼の隣にいる。

 詩織は、その事実だけを胸の奥にしまった。

 名前はつけなかった。

 後悔とも。

 嫉妬とも。

 敗北とも。

 

 まだ呼べなかった。

 ただ、少しだけ痛かった。

 

 その日の夜。

 

 詩織は自分の机に向かい、模試の復習をしていた。

 間違えた問題は少ない。

 それでも、確認すべき箇所はある。

 詩織は丁寧に解き直した。

 ノートに要点をまとめ、次回までの課題を書き出す。

 いつも通りの勉強。

 いつも通りの集中。

 いつも通りの藤崎詩織。

 けれど、ふとした瞬間に、放課後の教室で聞いた彼女の声が蘇った。

 

 すごいよ。

 

 夏、ちゃんと頑張ってたもん。

 

 詩織の手が止まる。

 その言葉を、自分は彼に言えただろうか。

 もし彼が模試の結果を見せてくれたら、自分も「すごいね」と言っただろう。

 でも、それは本当に彼女と同じ言葉だっただろうか。

 点数が上がったことを褒める言葉。

 努力を認める言葉。

 彼の不安ごと受け止める言葉。

 その違いを、詩織はまだうまく説明できなかった。

 ただ、彼女の「すごいよ」は、彼の夏を見ていた人の言葉だった。

 詩織の「よかったね」は、結果を聞いた人の言葉だった。

 

 その差だけは、わかってしまった。

 

 詩織は、ペンを置いた。

 窓の外では、夏の終わりの夜が静かに広がっている。

 もう蝉の声はほとんど聞こえない。

 代わりに、どこか遠くで虫の声がしていた。

 季節が変わっていく。

 

 少しずつ。

 

 気づかないうちに。

 

 彼との距離も、きっとそうだった。

 一日で変わったわけではない。

 一度の出来事で離れたわけでもない。

 

 雨の日。

 

 縁日。

 

 冬の教室。

 

 放課後の教室。

 

 図書室。

 

 そして、今日の模試の結果。

 

 小さな場面が積み重なって、いつの間にか、詩織の知らない距離になっていた。

 詩織は、机の上の模試結果を見た。

 良い判定。

 整った数字。

 努力の成果。

 それは確かに、詩織が積み重ねてきたものだった。

 けれど、その紙を誰かに見せたいとは思わなかった。

 見せなくても、評価されることはわかっている。

 褒められることも、たぶんわかっている。

 藤崎詩織なら当然だと、周囲は言うだろう。

 でも彼は違った。

 彼は、自分の少し伸びた結果を彼女に見せた。

 まだ十分ではない結果を、それでも彼女に見せた。

 そして彼女は、それを喜んだ。

 その関係が、詩織には少しだけ眩しかった。

 詩織は、模試結果を静かにファイルへしまった。

 

 明日も学校がある。

 

 授業がある。

 

 受験勉強がある。

 

 何も変わらない。

 

 彼と彼女も、きっといつものように並んで歩く。

 

 詩織はそれを、いつものように穏やかな顔で見る。

 

 それだけ。

 それだけの毎日が続く。

 けれどその日の夜、詩織の胸の奥には、小さな痛みが残っていた。

 彼の努力と成果を、一番近くで喜ぶのは自分ではなかった。

 その事実は、まだ言葉にならないまま。

 夏の終わりの夜に、静かに沈んでいった。

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