高校三年の冬。
きらめき高校の廊下は、以前より少し静かになっていた。
春や夏には、放課後になると校舎のあちこちから笑い声が響いていた。
部活動へ走る足音。
教室に残って話し込む声。
誰かを呼ぶ声。
階段を駆け下りる音。
そういうものが、今は少し遠い。
受験が近づいているからだろう。
三年生の教室には、どこか張りつめた空気があった。
誰もが、もうすぐ終わる高校生活と、その先にある未来を意識している。
模試の結果。
願書の締切。
過去問。
面接練習。
合格判定。
卒業式。
そんな言葉が、日常の中に当たり前のように混じっていた。
藤崎詩織は、廊下を歩いていた。
手には、進路指導室へ提出する書類がある。
薄い紙の束。
けれど、その重さは実際より少しだけ大きく感じられた。
一流大学。
詩織が目指している場所。
周囲の誰もが、きっと詩織なら大丈夫だと思っている。
教師も、友人も、家族も。
そして詩織自身も、その期待に応えるために努力してきた。
不安がないわけではない。
けれど、やるべきことはわかっている。
今までと同じように、積み重ねればいい。
そう思っていた。
廊下の窓からは、冬の光が差し込んでいた。
白くて、少し冷たい光。
校庭の木々は葉を落とし、遠くの空は澄んでいる。
吐く息が白くなる季節。
もうすぐ、この廊下を歩くこともなくなる。
そう考えると、胸の奥に少しだけ寂しさが滲んだ。
その時だった。
階段の方から、聞き慣れた声がした。
彼の声だった。
詩織の幼馴染の少年。
高校三年になって同じクラスになった彼は、冬になってからますます落ち着いた顔をするようになっていた。
受験を前にして、不安がないはずはない。
それでも彼は、昔のようにただ頼りなく笑うだけの少年ではなくなっていた。
自分の進路を見ている。
やるべきことに向き合っている。
そして、その隣には、彼女がいる。
彼と付き合っている少女。
別のクラスの少女。
詩織は、足を止めかけた。
けれど、止めなかった。
ただ歩幅が、ほんの少しだけ遅くなった。
「だから、まだ受かってないって」
彼の苦笑まじりの声が聞こえた。
「わかってるよ。でも、終わった後の楽しみがあった方が頑張れるでしょ」
彼女の声は明るかった。
けれど、いつもの浮かれた明るさではなかった。
少しだけ気遣いを含んだ、やわらかい声だった。
「それはそうだけど」
「じゃあ、受験終わったら行こうよ」
「どこに?」
「前に話してたところ。駅前の新しいお店でもいいし、少し遠いけど海の方でもいいし」
「海って、まだ寒いだろ」
「春になれば大丈夫だよ」
春。
その言葉が、廊下の冷たい空気の中で、妙にはっきり響いた。
詩織は、書類を持つ指に少しだけ力を入れた。
春。
卒業の後。
受験の後。
高校生活が終わった後。
彼女は、そこに彼との予定を置いている。
「春か」
彼が小さく呟いた。
「うん。卒業して、受験も終わって、ちょっと落ち着いたら」
「……まだ合格してるかわからないのに、気が早いな」
「だから、合格するために頑張るの」
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃないから、約束するんでしょ」
彼女は笑った。
その笑い方は、ふざけているようで、どこか真剣だった。
彼は少し黙った。
それから、やわらかく息を吐いたような声で言った。
「……終わったら行こう」
詩織は、その瞬間、息を止めた。
大きな言葉ではなかった。
告白でもない。
永遠の約束でもない。
ただ、受験が終わったら出かけようという、ありふれた約束。
けれど詩織には、その言葉がひどく遠くまで届くものに聞こえた。
終わったら行こう。
そこには、彼女がいた。
彼の春に。
彼の受験の後に。
彼の高校生活の先に。
彼の未来の少し先に、彼女がいた。
詩織は、自分が何を感じたのか、すぐにはわからなかった。
ただ、胸の奥が急に冷たくなった。
冬の廊下よりも、ずっと冷たいものが、体の内側に落ちたようだった。
階段の踊り場の手前に、二人がいた。
彼女は手すりの近くに立ち、彼はその隣で鞄を肩に掛けている。
二人とも、詩織に気づいていなかった。
詩織は、そのまま通り過ぎればいいと思った。
聞こえなかったふりをして。
いつも通りに。
けれど、彼女が先にこちらに気づいた。
「あ、藤崎さん」
詩織は、顔を上げた。
いつものように微笑んだ。
「こんにちは」
声は乱れなかった。
自分でも少し驚くくらい、普段通りだった。
彼もこちらを見る。
「詩織、進路指導室?」
「うん。書類を出しに」
「そっか」
彼は穏やかに笑った。
その笑顔に、特別な意味はなかった。
幼馴染に向ける自然な笑顔。
同じクラスメイトに向ける普通の笑顔。
そこに冷たさはない。
でも、詩織の胸は少しだけ苦しくなった。
「二人も、帰り?」
詩織は尋ねた。
本当は、聞かなくてもよかった。
でも、何か言わなければ不自然になる気がした。
「うん。少し図書室に寄ってから」
彼女が答えた。
「受験勉強?」
「そんな感じ。私は横で邪魔しないようにしてるだけだけど」
「邪魔ではないだろ」
彼が少しだけ笑った。
彼女も笑う。
そのやり取りは短く、何気なかった。
でも、二人の間には言葉にならない親しさがあった。
今まで何度も見てきたもの。
雨の日にも。
縁日にも。
冬の教室にも。
模試の結果を見ていた時にも。
図書室でも。
文化祭の後片付けでも。
何度も見てきた距離。
それなのに、今日のそれは、いつもより少し深く胸に入ってきた。
「そう。頑張ってね」
詩織は微笑んだ。
「藤崎さんも」
彼女が言った。
「うん。ありがとう」
詩織は軽く会釈して、二人の前を通り過ぎた。
何も壊さない。
何も言わない。
立ち止まらない。
振り返らない。
藤崎詩織として、正しくそこを通り過ぎる。
廊下の先へ進む。
進路指導室へ行き、書類を提出する。
先生に「体調に気をつけて」と言われる。
「ありがとうございます」と答える。
それだけ。
いつも通り。
何も変わらない。
けれど、進路指導室を出た後、詩織はすぐに教室へ戻れなかった。
廊下の途中で足が止まった。
人通りの少ない、階段の踊り場。
午後の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
誰もいなかった。
詩織は、そこでようやく息を吸った。
浅い息だった。
自分がさっきから、うまく呼吸できていなかったことに気づいた。
胸が苦しい。
心臓が速い。
指先が冷たい。
手に持っていた鞄の紐が、少し食い込んでいた。
詩織は手すりにそっと触れた。
金属は冷たかった。
冬の廊下の冷たさが、指先から体の中へ入ってくる。
「……どうして」
声が漏れた。
誰に向けた言葉でもなかった。
彼に向けたものでもない。
彼女に向けたものでもない。
自分自身に向けたものだった。
どうして、こんなに苦しいの。
詩織は唇を結んだ。
彼と彼女は、何も悪いことをしていない。
受験が終わったら出かけようと話していただけ。
恋人同士なら、当たり前のこと。
むしろ、自然で、健全で、微笑ましい会話だった。
彼女は彼を励ましている。
彼も、その言葉を受け取っている。
それだけ。
それだけのはずだった。
なのに、胸の奥が耐えきれないほど痛い。
卒業したら、終わると思っていたのだろうか。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
詩織は自分で驚いた。
終わる。
何が。
二人の関係が。
そんなことを、自分は思っていたのだろうか。
別々の大学へ進むかもしれない。
新しい生活が始まる。
環境が変わる。
毎日会うこともなくなる。
そうしたら、二人は少しずつ離れていくかもしれない。
そんなことを、どこかで期待していたのだろうか。
詩織は、手すりを握る指に力を入れた。
違う。
そんなことは思っていない。
思ってはいけない。
二人がうまくいかなくなることを望むなんて、そんなのは嫌だ。
彼女は悪くない。
彼も悪くない。
二人は、ただ互いを大切にしているだけ。
それを壊したいわけではない。
壊したいわけではないのに。
二人が卒業後の話をしているのを聞いた瞬間、胸の奥で何かが大きく軋んだ。
高校生活だけのものではない。
放課後だけのものでもない。
縁日や文化祭や、受験前の短い時間だけのものでもない。
二人は、その先の話をしている。
春の話をしている。
受験が終わった後の話をしている。
彼の未来の中に、彼女がいる。
彼女の未来の中に、彼がいる。
そのことが、詩織にはなぜかひどく苦しかった。
「……おかしいよ」
小さな声だった。
本当にそう思った。
おかしい。
自分は彼の恋人ではない。
彼に何かを約束されたわけでもない。
彼を待っていたわけでもない。
彼に何かを言ったわけでもない。
それなのに、どうして。
どうして、彼の未来に自分がいないことが、こんなに苦しいのだろう。
好き。
その言葉は、まだ出てこなかった。
出てきそうになっても、詩織はそれをつかめなかった。
それはあまりに大きく、あまりに怖い言葉だった。
自分の中にそんなものがあると認めてしまえば、これまで見てきたものすべての意味が変わってしまう。
雨の日の傘も。
金魚すくいの水面も。
冬の教室で聞いたクリスマスの話も。
放課後の教室で見た彼女の迎えも。
模試の結果を彼女に見せた彼の顔も。
図書室で弱さを見せていた彼も。
文化祭で彼女のために動いた彼も。
全部が、違う意味を持ってしまう。
だから、まだその言葉は出せなかった。
言えなかった。
ただ、苦しい。
ただ、息ができない。
ただ、胸の奥で何かが膨らみきって、逃げ場を失っている。
詩織は階段の踊り場で、しばらく動けなかった。
涙は出ていなかった。
少なくとも、その時は。
ただ、視界が少しだけ狭くなっていた。
廊下の音が遠い。
誰かの笑い声も、足音も、チャイムの予鈴も、遠くの世界のものみたいに聞こえる。
藤崎詩織は、誰からも憧れられる少女だった。
成績優秀で、品行方正で、いつも穏やかで。
だから、こんな場所で立ち尽くしている自分は、ひどく場違いに思えた。
早く戻らなければ。
そう思った。
教室へ。
いつもの自分へ。
いつもの藤崎詩織へ。
詩織は、ゆっくりと息を吸った。
今度は少しだけ深く。
そして、鞄を持ち直した。
踊り場の窓に、自分の顔が薄く映っている。
いつもの顔だった。
少しだけ青ざめている気もしたが、表情は崩れていない。
大丈夫。
そう思った。
大丈夫な顔はできる。
詩織は、廊下へ戻った。
教室に入ると、何人かのクラスメイトがまだ残っていた。
「藤崎さん、書類出せた?」
「うん。大丈夫」
自然に答える。
「先生、何か言ってた?」
「体調に気をつけてって」
「それ、全員に言ってそう」
「そうかもね」
詩織は笑った。
普通に笑えた。
机に戻り、鞄から参考書を出す。
椅子に座る。
ページを開く。
シャープペンシルを持つ。
いつも通りだった。
何も壊れていない。
誰にも気づかれていない。
彼女が彼と未来の約束をしていたことも。
それを聞いた詩織が階段の踊り場で息を止めたことも。
誰も知らない。
詩織は、参考書の文字を目で追った。
けれど、何度読んでも頭に入らなかった。
終わったら行こう。
彼の声が、耳の奥に残っていた。
春になれば大丈夫だよ。
彼女の声が、胸の奥に残っていた。
詩織はページの端を押さえた。
紙が少しだけ歪む。
それでも、表情は崩さなかった。
その日は、いつも通りに帰った。
友人と少し話して、校門を出て、家へ向かった。
冬の夕方は早い。
空は薄い紫色になり、街灯が一つずつ灯り始めていた。
吐く息が白い。
詩織はマフラーを少しだけ直した。
歩きながら、何度も考えないようにした。
受験のことを考えればいい。
明日の授業のこと。
過去問の復習。
英単語。
数学の苦手な問題。
やるべきことはいくらでもある。
そうやって、いつも通りに頭を働かせようとした。
けれど、気がつくとまた同じ言葉が戻ってくる。
終わったら行こう。
それは、たった一言だった。
でも、その一言の中には、詩織が入れない春があった。
家に帰ると、家族にいつも通り挨拶をした。
夕食を食べた。
会話もした。
受験の体調管理について軽く聞かれて、「大丈夫」と答えた。
本当に大丈夫そうに見えたと思う。
その後、自室に入り、机に向かった。
教科書を開く。
ノートを開く。
今日進める予定だった問題集を出す。
いつも通りの夜だった。
詩織は、シャープペンシルを持った。
一問目の英文を読もうとした。
けれど、文字が滲んだ。
最初は、目が疲れているのだと思った。
何度か瞬きをする。
それでも、文字は滲んだままだった。
頬に、何かが落ちた。
ぽつり、とノートの上に小さな跡ができる。
詩織は、その跡を見つめた。
自分が泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
声は出なかった。
泣こうと思ったわけではない。
泣きたいと意識したわけでもない。
ただ、勝手に涙が落ちていた。
一滴。
もう一滴。
ノートの文字の上に落ちて、少しだけ紙を濡らす。
詩織は慌ててティッシュを取った。
ノートを拭く。
頬も拭く。
家族に気づかれないように、音を立てない。
声を出さない。
息を整える。
何をしているのだろう。
そう思った。
どうして泣いているのだろう。
わからなかった。
わからないから、余計に怖かった。
彼に何かを言われたわけではない。
彼女に傷つけられたわけでもない。
二人は、ただ未来の約束をしていただけ。
それだけ。
それだけなのに。
どうしてこんなに苦しいの。
詩織は、両手で口元を押さえた。
声が漏れないように。
肩が小さく震えた。
それでも泣き声は出さなかった。
出せなかった。
藤崎詩織は、いつも正しくなければならない。
穏やかで、落ち着いていて、誰からも憧れられる自分でいなければならない。
そう思っていた。
けれど、その夜だけは、心の中の何かが静かに壊れていた。
派手な音はしなかった。
誰にも聞こえなかった。
誰にも見えなかった。
けれど確かに、胸の奥で何かが破裂した。
ずっと押し込めてきたもの。
名前をつけなかったもの。
見ないふりをしてきたもの。
それが、もうこれ以上は入らないと告げるように、内側から溢れた。
詩織は、しばらく机に向かったまま泣いていた。
声を出さずに。
誰にも気づかれないように。
泣いている理由もわからないまま。
やがて涙が少し落ち着くと、詩織はノートを閉じた。
今日はもう、勉強にならない。
そう思った。
けれど、机の上をそのままにはしなかった。
濡れたページを乾かすように少し開き直し、問題集を揃え、ペンを筆箱に戻す。
いつものように片付ける。
そうしなければ、自分が本当に壊れてしまうような気がした。
鏡を見ると、目元が少し赤かった。
詩織は冷たい水で顔を洗った。
タオルでそっと拭く。
もう一度鏡を見る。
まだ少し赤い。
でも、明日の朝にはきっと戻る。
戻さなければならない。
翌朝。
詩織は、いつも通りに起きた。
いつも通りに支度をした。
いつも通りに朝食を食べた。
いつも通りに学校へ向かった。
校門をくぐる時、冬の空気が頬を刺した。
昨日と同じ廊下。
昨日と同じ教室。
昨日と同じ受験前の日々。
何も変わっていない。
変わっていないように見えた。
「おはよう、藤崎さん」
クラスメイトが声をかける。
「おはよう」
詩織は微笑んだ。
きちんと笑えた。
教室に入る。
席につく。
教科書を出す。
窓の外に、冬の空が見える。
詩織は、静かに息を吸った。
昨日の夜、何が自分の中で起きたのか。
まだわからなかった。
好きだとは言えない。
失恋だとも言えない。
負けたとも思いたくない。
ただ、ひとつだけわかった。
自分の中にあった感情は、もう無視できるほど小さくはなかった。
それでも詩織は、顔を上げた。
いつもの藤崎詩織として。
穏やかに、正しく、乱れなく。
誰にも見えない場所で、何かが破裂したことなどなかったかのように。
チャイムが鳴る。
冬の教室に、授業の始まりを告げる音が響いた。
詩織はノートを開いた。
白いページの上に、昨日の涙の跡はない。
けれど胸の奥には、まだ少しだけ痛みが残っていた。
その痛みの名前を、彼女はまだ知らなかった。