この世界が現実になってから、唯一、起きた戦争がある。
それを傍観していた者も、実際に参加していた者も、後に口を揃えてこう言った。
――もっとも、優しい戦争だった。
死者がいなかったわけではない。
刃が向けられなかったわけでも、誰も傷つかなかったわけでもない。拠点は封鎖され、物資は止まり、ギルド同士の衝突は各地で起きた。名のある攻略組が前線から引き剥がされ、この世界で誰もが目指していた攻略が止まった。
それでも、その戦争は優しいと呼ばれた。
なぜなら、それは奪うための戦争ではなかったからだ。
支配するためでも、報復のためでも、誰かを処刑台へ引きずり出すためでもない。少なくとも、最初に旗を掲げた者たちは、そう信じていた。誰かの罪を、都合よく一人に押しつけないため。
沈黙していた者たちの言葉を、なかったことにしないため。
最初の火種は、連盟領の中で燃え上がった。
「どうも。面倒なものを用意させてしまいましたねぇ」
「アンタには借りがあるからな
連盟領にある、NPCが経営する喫茶店の一角で、その受け渡しは行われていた。
表向きはただの喫茶店だった。昼下がりの店内には、攻略帰りのPLが数人、NPCの常連客が数人、窓際で本を読む生産職らしい女が一人。香ばしい豆の匂いと、焼き菓子の甘い匂いが漂っている。
密談をするには向いていない。
だからこそ、向いていた。
誰もが話している場所では、一つの会話だけを拾うのは難しい。静かすぎる個室より、雑音の多い表の席の方が、隠すべきものを隠せることもある。
月詠は薄く笑った。
誰もが話している場所では、一つの会話だけを拾うのは難しい。静かすぎる個室より、雑音の多い表の席の方が、隠すべきものを隠せることもある。
月詠は薄く笑った。
「ええ、もちろんです。私も、同じ手が二度通じるとは思っていませんので」
「そういう問題じゃない。これが知られれば、俺は連盟にいられなくなる」
「では、知られないようにしましょう」
「軽く言うな」
男は苦々しく吐き捨てた。
彼は連盟内部の調査担当だった。主流派ではない。上層部に意見できるほど強い立場でもなければ、鉄鳴に睨まれて平然としていられるほど図太くもない。
けれど、完全に目を瞑れるほど鈍くもなかった。
だから月詠は、彼に声をかけた。
「それで、用意していただいたものは?」
男は手元の革鞄を少しだけ引き寄せた。
「鉄鳴から提出された報告書の写しと、連盟内部で怪しい動きをしているギルドの一覧だ。それから、ログの改竄が疑われる記録、押収品の横領に関する目録、査問記録の一部。全部じゃない。持ち出せたのはこれだけだ」
「十分です」
「十分なものか。これだけでは何も確定できない」
「確定するために見るのではありません」
月詠は、運ばれてきた紅茶へ一度だけ視線を落とした。
「矛盾を探すために見るんです」
男は黙った。
月詠は革鞄の中身を受け取り、膝の上で静かに開いた。
鉄鳴の報告書。押収品目録。査問記録。そして、連盟内部で怪しい動きをしているギルドの一覧。
資料そのものは断片的だった。
だが、月詠にはそれで十分だった。
報告書に書かれた蒼星の動き。
目録から消えた押収品。
査問記録から抜け落ちた証言。
それらを重ねれば、鉄鳴の報告がどこで歪んでいるのかが見えてくる。
月詠は紙を一枚めくる。
「綺麗で整えられているものは、お好きですか?」
男は眉をひそめた。
「何の話だ」
「我々は、複雑怪奇なものの方が好みです。人の悪意も、欲も、保身も、本来はもっと雑で、もっと汚く、もっと矛盾しているものですから」
月詠は報告書へ視線を落とした。
「ですが、これはあまりにも綺麗すぎる」
指先が、報告書の一行をなぞる。
「おとめさんが現れ、鉄鳴の幹部を殺し、押収品を奪い、鉄鳴にとって都合の悪い者たちまでまとめて始末し、そして逃げた。読んでいる側が疑問を持たないように、実に分かりやすく整えられています」
月詠は薄く笑った。
「まるで、誰かがそう読んでほしかったみたいに」
男は黙った。
月詠は続ける。
「現実世界にも、似たようなものはありました。犯人らしい人物を先に決め、そこへ証言を寄せ、鑑定を重ね、自白を置き、矛盾は見なかったことにする。そうして出来上がった物語は、とても読みやすい」
「冤罪の話か」
「ええ」
月詠は頷いた。
「一度、犯人の形が作られると、人はその形に合うものだけを見るようになります。合わない証拠は例外として扱われ、都合の悪い証言は記憶違いとされ、疑問を持つ者は場を乱す者になる」
月詠は、報告書の束を軽く叩いた。
「これも同じです。おとめさんは赤い。死神と呼ばれている。人を殺してきた過去もある。だから、多くの者はこう考えるでしょう。ああ、彼女ならやるかもしれない、と」
男の顔がわずかに険しくなる。
「実際、蒼星はレッドPLだ」
「そうですね」
月詠は否定しなかった。
「ですが、赤いことと、この報告書が正しいことは別問題です。人を殺したことがある者なら、別の殺しもすべて背負わせていい、という話にはなりません」
紅茶の湯気が、二人の間で細く揺れる。
「冤罪とは、無実の者が罪を着せられることだけを指すのではありません。疑うべき矛盾があるのに、都合のよい物語を選ぶこと。その物語に合わないものを切り捨てること。そして、誰か一人に罪を積めば周囲が楽になると知りながら、それを止めないこと」
月詠は資料を閉じた。
「鉄鳴は、おとめさんを犯人にしたいのではありません。もっと都合がいい。おとめさんなら、すでに多くの者が犯人として納得してくれる。だから、その赤い名前の下に死体を積んでいる」
男は低く言った。
「……証明できるのか」
「今はまだ、決定的ではありません」
月詠は穏やかに答えた。
「ですが、矛盾はあります。死亡時刻。押収品の欠落。証言の揃い方。改竄の痕跡。そして、連盟内部で鉄鳴に近すぎる動きをしているギルドの名前」
月詠は薄く笑う。
「十分ですよ。裁くには足りませんが、沈む船から人を降ろすには」
男は唇を噛んだ。
「アンタは、連盟を割る気か」
「いいえ」
月詠は資料を丁寧に束ねた。
「沈む船から、まだ泳げる方々を降ろして差し上げるだけです」
「……それを、俺にも言っているのか」
男の声が低くなる。
月詠はすぐには答えなかった。紅茶の湯気が、二人の間で細く揺れる。喫茶店の中では、NPCの店員が穏やかな声で注文を取り、隣の席では攻略帰りのPLが次の遠征について笑っていた。
その日常の音に紛れるように、月詠は静かに言った。
「ええ。あなたにも言っています」
男は顔をしかめる。
「俺は連盟の人間だ」
「知っています」
「抜けろと?」
「できるなら」
月詠は薄く笑った。
「少なくとも、今のまま中に残ることはお勧めしません」
「簡単に言うな」
「簡単ではありませんよ。連盟を抜ければ、立場を失う。信用も失う。今まで積み上げたものも、多少は手放すことになるでしょう」
「分かっているなら」
「ですが、沈む船に残れば、それ以上を失います」
男は黙った。
月詠は資料の束に指を置く。
「この資料を用意した時点で、あなたはもう何も知らなかった側には戻れません。鉄鳴の報告に疑いがあると知った。押収品の目録がおかしいと知った。査問記録が都合よく欠けていると知った。そのうえで残るなら、あなたは沈黙を選んだことになる」
「……脅しか」
「忠告です」
月詠は穏やかに答えた。
「借りがあると言っていただけるなら、その借りを今ここで返しておきます。連盟から距離を取りなさい。すぐに大きく動かなくてもいい。中立でも、休職でも、表向きの離脱でも構いません。少なくとも、鉄鳴の報告を追認する席には座らない方がいい」
男は苦々しく目を伏せた。
「俺ひとりが抜けたところで、何が変わる」
「ひとりなら、何も変わらないかもしれません」
月詠は薄く笑う。
「ですが、ひとり目が降りれば、二人目は少し楽になります。二人目が降りれば、三人目は逃げ遅れたふりをしなくて済む。船とは、そういうものです」
「……嫌な言い方をする」
「よく言われます」
「褒めてない」
「知っています」
月詠は資料を革鞄にしまい、席を立った。
「次にお会いする時、あなたがまだ連盟の内側にいるのか、それとも外から眺めているのか。我々は、後者であることを願っています」
「願っているようには聞こえないな」
「では、期待していると言い換えましょう」
月詠は会計票を手に取り、いつものように薄く笑った。
「泳げるうちに、降りてください」
男は何も返さなかった。
ただ、月詠が店を出た後も、冷めかけた紅茶を前にして、長い間そこから動かなかった。
月詠は喫茶店を出ると、連盟領の通りをゆっくりと歩いた。
背後を振り返ることはしない。追われているかどうかを確認するような仕草は、追われる理由があると自分で示すようなものだからだ。店先の硝子に映る人影、通りの端に立つ警備役の視線、行き交うPLの足音。それらを拾いながらも、月詠は何も気づいていないような顔で歩く。
手に入れた報告書は、決定的ではない。
鉄鳴の報告書。改竄の痕跡がある。押収品目録。査問記録の一部。連盟内部で鉄鳴と不自然に接触しているギルドの一覧。
これだけで誰かを裁くには足りない。
けれど、疑うには十分だった。
そして、疑いは広がれば毒になる。信じていたものの足元に染み込み、立っている場所が本当に安全なのかを考えさせる。連盟という大きな船に乗っている者たちへ、自分たちの足元に水が染み込んでいると気づかせるには、これで十分だった。
月詠は路地へ入る。
人通りが少し薄れたところで、インベントリを開いた。
取り出したのは、小さな鳥籠の形をしたアイテムだった。細い銀の枠で作られた籠の中には、白い羽を持つ小さな鳩が一羽、目を閉じて眠るように収まっている。
指定した相手へ短い文を届ける、古い形式の連絡用アイテムだった。
月詠は細く折った紙片を取り出し、そこへ短く文字を記す。
――疑いの種は蒔かれました。腐りきった大樹を切り落とすには、新たなる風が要ります。
少し考えてから、最後に一文を足した。
――革命の灯をともすなら、今です。
「ごんにきへ」
そう告げると、白い鳩が目を開いた。
籠の扉がひとりでに開き、白い影が月詠の指先から飛び立つ。夕暮れの空へ、連盟領の屋根を越え、商工会の方角へ向かって消えていく。
月詠はそれを見送ると、薄く笑った。
疑いの種は蒔かれた。
あとは、それを誰が火に変えるかだけだった。
短い話が続きます