商工会本部の二階は、夕方になっても明るかった。
窓の外では荷車が行き交い、倉庫番のPLが淡々と木箱を数え、通りの商人たちが店仕舞いの声を上げている。帳簿、契約書、在庫表、納品予定、価格交渉の記録。戦場とは無縁に見える紙束が、部屋のあちこちに積まれていた。
けれど、この世界で最も静かに戦争を始められる場所があるとすれば、それはきっとここだった。
剣を抜かず、魔法も撃たず、ただ物資の流れを少し変えるだけで、人の生死に手が届く場所。その応接室で、松林はいつものように軽い顔をしていた。
「ジミーさん、そんな顔しないでよ。怖いなぁ」
「自分は怒っています」
向かいの席で、シジミーは静かに言った。
声は丁寧だった。荒げてはいない。机を叩くことも、松林を睨みつけることもない。ただ、背筋を伸ばし、膝の上に手を置き、いつも通りの礼儀正しさで座っている。
だからこそ、怒っているのが分かった。松林は困ったように笑う。
「いやぁ、ジミーさんが怒るのは珍しいねぇ。昔、乙女さんに夜の火山地帯へ連れて行かれて、帰り道に溶岩トカゲの群れに追い回された時でも、そこまで怒ってなかった気がするけど」
「その時は、蒼星さんも一緒に追い回されていましたので」
「そこが基準なんだ」
「あれはあれで、怒りましたよ」
シジミーは淡々と答えた。
「今回は違います。ゴンニキは、蒼星さんが死んだかもしれないことを知っていて、自分に黙っていました」
「……確定情報じゃなかったからねぇ」
「それを判断するのは、自分では駄目だったのですか」
丁寧な言葉だった。けれど、刺すような静けさがあった。松林は椅子の背に身体を預け、天井を見上げる。
「旧知の仲の人間が死んだかもしれない。そう言ったら、ジミーさんは表面上は平気でも、後から来るものがあるでしょう」
「だから、黙っていたのですか」
「うん」
松林は軽く答えた。軽く答えたが、その声はいつもより少しだけ低かった。
「ジミーさんが仕事を放り出すとは思ってないよ。怒鳴るとも思ってない。泣き崩れるとも思ってない。でも、そういう人ほど後で効くんだよねぇ。静かに抱え込んで、沈んでいく」
シジミーは返事をしなかった。否定できなかったのだろう。
松林は続ける。
「悲しいことがあったら、それを仕事とか使命とかで埋めて、全部終わった後に虚無感で沈んでいく。ジミーさんはそういう無茶をすると思ったから、伝えなかった」
「……それは、気遣いのつもりですか」
「半分はね」
「もう半分は?」
「僕の都合」
松林はあっさり言った。
「ジミーさんに沈まれると困る。商工会も困るし、僕も困る。だから確定するまでは伏せた。乙女さんが死んだと決まったわけじゃない。むしろ、まだ生きてると思ってる。どこにいるかは分からないけどね」
シジミーの指が、膝の上でわずかに動いた。
「根拠は」
「乙女さんだから」
「それは根拠ではありません」
「でも、ジミーさんも少し納得したでしょ」
シジミーは黙った。
松林は小さく笑う。
「乙女さんは、死ぬ時でも効率を考える人だよ。死ぬより生きた方が次に繋がるなら、あの人はたぶん死なない。どれだけ無茶でも、どれだけ形が悪くても、生き残る方を選ぶ」
「……蒼星さんなら、そうでしょうね」
「でしょ」
松林は軽く肩をすくめた。
「だから、僕はまだ乙女さんを死亡扱いしてない。鉄鳴がどう報告しようと、連盟がどう処理しようと、こっちは行方不明として扱う」
「なら、なおさら自分に言うべきでした」
シジミーの声は静かだった。怒りは消えていない。
けれど、その奥にあった硬さが、ほんの少しだけ別の形に変わっていた。
「自分も、蒼星さんが死んだとは思いません」
「うん」
「ですが、死んでいないなら探すべきです。死んだことにされるなら、止めるべきです。罪を被せられるなら、剥がすべきです」
「頼もしいねぇ」
「茶化さないでください」
「ごめん」
松林は素直に謝った。
シジミーは深く息を吐く。
「ゴンニキ」
「はいはい」
「次からは、言ってください」
「確定してなくても?」
「確定していないからこそです」
シジミーはまっすぐ松林を見た。
「自分は、知らないまま守られる方が嫌です」
松林はしばらく黙っていた。それから、困ったように笑う。
「ジミーさん、ほんと闇鍋だねぇ」
「ゴンニキもです」
「今の僕はただのしがない商人だよ」
「自分も今はそうです」
そう言って、二人は小さく笑った。
笑えたのは、ほんの一瞬だけだった。
松林は机の上に置かれた帳簿を閉じる。軽い音だった。けれど、その音で部屋の空気が切り替わった。
「さて、ジミーさん。ここからは政治の話だ」
「はい」
シジミーの表情も変わる。怒りは消えていない。だが、それを仕事の邪魔にするつもりはない顔だった。
松林は椅子の背にもたれたまま、窓の外へ視線を向けた。
「僕は今後の攻略のためにも、連盟を解体して、
シジミーは、すぐには答えなかった。
軽く言える言葉ではない。
この世界で攻略を進めるために作られた最大の枠組み。前線、補給、治安、裁定、ギルド間調整。綺麗ではなくても、それなりに機能していた大きな器。それを壊すということは、ただ一つの組織を潰すという話ではない。
この世界の流れそのものを、組み替えるということだった。
「連盟を、完全に潰すのですか」
「完全に潰れるかどうかは、盟主次第だね。僕は連盟が持っている有能な人材、生産職ギルド、そして販路の全部をかっさらう」
松林は、軽く言った。軽く言ったが、その内容は少しも軽くなかった。
シジミーは、しばらく黙って松林を見ていた。冗談ではない。松林が本気でそう言っていることは分かっていた。彼はいつもそうだった。軽い口調で、冗談のように大きな話をして、その実、誰よりも細かい数字と人の流れを見ている。
「それは、商工会による連盟機能の吸収です」
「うん。言葉にすると物騒だねぇ」
「物騒なことを言っているからです」
「否定はしないよ」
松林は机の上に置かれた在庫表を指先で叩いた。
「連盟が握っているように見えるものの多くは、実際には商工会と生産職が動かしている。薬、修理素材、各種結晶、保存食、情報、輸送路。攻略組が前へ出るために必要なものは、だいたい誰かの帳簿と契約書の上にある」
「その流れを、商工会側へ寄せる」
「そういうこと」
松林は笑った。
「連盟が信用を失ったなら、次に信用を預ける場所が必要になる。なら、うちがその受け皿になる。潰すんじゃない。空いた席に座るだけだよ」
「随分と穏やかな言い方ですね」
「穏やかに言わないと、みんな怖がるからねぇ」
「穏やかに言っても十分怖いです」
「ジミーさんは正直だなぁ」
シジミーは表情を変えなかった。
「それで、自分は何をすればいいですか」
「まず、受け皿のための枠組みを作る。そして、何もかもを吸収した後の政治的な仕組み。連盟内で腐らず頑張っていた人たちの就職先の確保。大なり小なり後方へも影響が出るから、その影響をできるだけ小さくする。他は何かある?」
松林は軽い調子で言った。
軽い調子で言う内容ではなかった。
シジミーは一度だけ目を伏せ、頭の中で必要なものを並べていく。受け皿。役職。権限。責任の所在。連盟から離脱する者の扱い。生産職ギルドの保護。商流の維持。補給路の再編。前線攻略組へ与える影響。町や安全圏にいる非戦闘職への説明。
やることは多い。多すぎる。
「あります」
シジミーは静かに言った。
「蒼星さんの汚名返上」
松林は、すぐには笑わなかった。
軽く流すこともできた。商人らしく、合理的に切り捨てれる部分けれど、シジミーの声はそれを許さなかった。
「汚名返上、ねぇ」
「はい」
シジミーは頷く。
「あの人はここが現実になってからは、悪質なレッドPLのみに絞ってキルしていました。攻略組では届かない悪意を見つけては狩り、時に恨まれながら、忌み嫌われながら」
シジミーの声は静かだった。
「それが正しかったとは言いません。正義だったとも言いません。蒼星さんが殺した相手にも、事情があったかもしれません。恨まれる理由も、恐れられる理由もあります」
松林は何も言わなかった。シジミーは続ける。
「ですが、蒼星さんが背負っている罪は、蒼星さんが選んで背負ったものです。あの人は、自分が殺した相手のことを忘れません。恨みを向けられることも、忌避の目で見られることも、全部分かったうえで動いていました」
そこで一度、言葉を切る。
「だからこそ、他人の罪まで積まれるのは違います」
松林は帳簿へ落としていた視線を上げた。
シジミーの表情は変わらない。丁寧で、静かで、怒鳴りもしない。けれど、その目の奥には、はっきりとした怒りがあった。
「赤いから、死神だから、蒼星さんならやりそうだから、という理由で背負わせるのは違います」
「……ジミーさん」
「はい」
「それ、商工会の会議でそのまま言う?」
「言いません」
シジミーは即答した。
「人間って、美談が好きでしょう?」
そう言って、シジミーは少しだけ口角を上げた。
ニヤリと笑った、ように見えた。けれど、その目も、顔も、少しも笑っていなかった。
それは、何の連絡もよこさない友人への意趣返しなのか。あるいは、蒼星に汚名を着せようとした者たちへの静かな報復なのか。
松林は、少しだけ眉を上げる。
「ジミーさん、もしかして悪いこと考えてる?」
「いいえ」
シジミーは丁寧に答えた。
「商工会として、もっとも効果的な説明を考えているだけです」
「それを普通は悪いことって言うんだよねぇ」
「でしたら、ゴンニキほどではありません」
「ひどいなぁ」
「事実です」
シジミーは淡々と続けた。
「蒼星さんは、悪質なレッドPLを狩っていました。表に出しづらい話です。ですが、そこに救われた人がいたのも事実です。攻略組が動けない場所で、連盟が見ないふりをした場所で、蒼星さんが潰した悪意はあります」
松林は黙って聞いていた。
「その全部を英雄譚にするつもりはありません。蒼星さんは英雄ではありませんし、本人も嫌がるでしょう。ですが、鉄鳴が“赤い死神ならやっただろう”という物語を作るなら、こちらは別の物語を提示します」
シジミーの声は静かだった。
「赤い死神は、誰でも殺していたわけではない。狩る相手を選んでいた。嫌われても、恐れられても、攻略組の手が届かない悪意を潰していた。そういう話です」
松林は、ようやく少し笑った。
「それ、美談だねぇ」
「人間は美談が好きですので」
「乙女さん、聞いたら嫌な顔するだろうなぁ」
「するでしょうね」
シジミーは頷いた。
「だから意趣返しです」
その言葉だけ、少しだけ温度があった。
松林は肩を揺らして笑う。
「ジミーさん、ほんと怒ってるねぇ」
「怒っています」
「何回目?」
「必要なら何度でも言います」
シジミーは、変わらず丁寧な声でそう言った。
松林は肩をすくめる。
「分かったよ。ジミーさんが怒ってることは、十分に分かった」
「まだ足りません」
「厳しいねぇ」
「自分は怒っていますので」
その時だった。窓の外で、白い影がひらりと揺れた。夕暮れの光を背に、一羽の白い鳩が商工会本部の窓枠へ降り立つ。羽は不自然なほど白く、足には小さく丸められた紙片が結ばれていた。
松林の表情が、わずかに変わる。
「来たね」
シジミーも視線を向けた。
「まっきーさんですか」
「たぶんね」
松林は立ち上がり、窓を開けた。
白い鳩は逃げなかった。むしろ、当然のように松林の指先へ乗り、細い足を差し出す。松林は紙片を外し、鳩の頭を軽く撫でてから、ゆっくりとそれを広げた。
整った文字が並んでいる。
――疑いの種は蒔かれました。腐りきった大樹を切り落とすには、新たなる風が要ります。
少し間を置いて、最後の一文。
――革命の灯をともすなら、今です。
松林は、しばらく紙片を見つめていた。それから、いつものように軽く笑う。
「マキナさん、相変わらず言い回しが重いねぇ」
「内容は」
シジミーが問う。
松林は紙片を机の上に置いた。
「思ったより悪い」
「そうですか」
「そして、思ったより早い」
シジミーは紙片へ視線を落とした。まっきーさんらしい、と言えばらしい。芝居がかった言葉の奥に、必要な情報だけが詰め込まれている。
疑いの種は蒔かれた。
つまり、連盟内部に揺らぎを入れるだけの材料は得たということ。腐りきった大樹は、内側から音を立て始めている。つまり、鉄鳴だけでなく、連盟内部にも切り崩せるだけの腐食があるということ。
革命の灯をともすなら、今。
つまり、商工会が動くなら、この瞬間を逃すなということ。
シジミーは静かに息を吐いた。
「では、始めますか」
「うん」
松林は頷いた。
いつもの軽い笑みを浮かべている。けれど、その目は少しも笑っていなかった。
「僕たちの戦争を始めようか。商人らしく行こう、ジミーさん」
「承知しました」
シジミーは静かに頭を下げた。
机の上には帳簿がある。契約書がある。在庫表がある。剣も、杖も、矢もない。血の匂いもしない。あるのは数字と署名と、誰が何をどこへ流したのかを示す記録だけだった。
ペンは剣よりも強し。
誰かがそう言った。
この世界では、それは比喩ではなかった。契約書の一文が、ひとつのギルドの補給を止める。在庫表の優先順位が、前線へ届く回復薬の数を変える。署名を拒むだけで、連盟の看板にひびが入る。
剣は目の前の敵を斬る。
けれど、ペンは戦場そのものを変える。
「まずは、信用の話からだねぇ」
「はい」
シジミーは帳簿を開く。
「連盟が何を失ったのか、理解していただきましょう」
商工会は戦場ではない。
剣を抜く者はいない。魔法を撃つ者もいない。
けれどその日、誰よりも静かに、戦争が始まった。