Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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また主人公不在の話です


背負うもの

連盟本部の朝は、静かではなかった。

 

扉の向こうでは足音が絶えず、廊下を行き交う者たちの声が重なり、報告を抱えた使いが次々と会議室へ運び込まれてくる。誰も大声で叫んでいるわけではない。剣が抜かれたわけでも、魔法が放たれたわけでもない。

 

それでも、篝火には分かった。

 

もう、戦争の音がしている。

 

机の上には、夜明け前から積み上げられた報告書があった。

 

その中でも、篝火の目に長く留まったのは、連盟領外で急速に広がっているという塩宮の声明だった。

 

――もし、調査より先に犯人を決め、証拠より先に処分を決め、異議を唱える者を組織ごと解体できる前例が通るなら、次に同じ目に遭うのは我々の誰かです。

 

――鉄鳴やそれに連なる者たちによる不当な圧力、過剰徴収、押収品の未返還、査問名目の恫喝について、これまで沈黙してきた記録がある者は提出を願います。

 

――敵は、連盟です。

 

そこで、篝火は一度だけ目を閉じた。

 

その一文は強い。あまりにも強い。

 

鉄鳴ではなく、連盟。鉄鳴に連なる者たちではなく、連盟そのもの。塩宮はそこを曖昧にしなかった。曖昧にすれば、まだ引き返せる者が多かっただろう。抗議、再調査要求、共同声明。その程度なら、連盟もやり直しの余地を残せた。

 

けれど、塩宮は敵を連盟と書いた。

 

それは宣戦布告に近い言葉だった。

 

だが、篝火は続きを知っている。

 

――我々が切り落とすのは、連盟の腐敗です。

 

――鉄鳴を庇い、報告書の改竄を見逃し、上辺だけの綺麗ごとで真実を隠し、異議を唱える者を処分で黙らせようとする、その腐った部分です。

 

――腐った大樹を、切り落とします。

 

篝火は、報告書を机の上へ置いた。

 

塩宮の言葉は扇動だった。

 

けれど同時に、ただの虚言ではなかった。連盟が《闇鍋の宴》へ送った通達は、確かに調査より先に処分をちらつかせていた。蒼星の所在も生死も不明なまま、身柄の引き渡しを求め、応じなければギルドの解体を会議にかけると脅した。

 

その事実がある限り、塩宮の声明をただの反乱文書として切り捨てることはできない。

 

そして、そこが一番厄介だった。

 

正しい怒りは、人を集める。

 

正しい言葉は、もっと人を動かす。

 

連盟領外では、塩宮の声明が広がっている。中小ギルドは古い陳情書を引き出し、鉄鳴から圧力を受けていた者たちは沈黙を破り始め、商工会はそれを後押しするように物資の流れを変えている。

 

一方、連盟領内では別の言葉が広がっていた。

 

塩宮は、攻略の進捗を遅らせた大罪人《蒼星》を庇っている。

 

《闇鍋の宴》は、レッドPLを匿い、連盟の裁定を拒絶している。

 

連合は、攻略組に対する背信行為を行っている。

 

どちらの言葉も、すでに人を動かし始めていた。

 

篝火は次の報告書を手に取った。

 

『連盟領内の物価上昇』

 

回復薬の価格が上がっている。修理素材の納品が遅れ、装備補修用の鉱石や金属、特殊繊維の在庫が不安定になっている。

 

そして、致命的だったのは後方物資の高騰だった。

 

食品、燃料、布、薬草、素材。前線で刃を交える者たちではなく、後方で支える者たちが日々使うものまで値上がりし始めている。

 

戦闘職は、多少薬が高くなってもまだ耐えられる。稼ぎがある。危険な狩場へ出れば、短期的には補える。

 

だが、後方は違う。

 

生産職、運搬職、採取職、低レベルの支援ギルド。彼らは小さな利益を積み重ねて動いている。布一枚、燃料一束、薬草一袋の値上がりが、そのまま仕事の足を止める。

 

篝火は報告書を握る手に、わずかに力を込めた。

 

これは兵站への攻撃だ。

 

だが、剣を抜いた攻撃ではない。契約を破ったわけでも、中立を破ったわけでもない。

 

商工会は、ただ少しだけ流通の順番を変えただけだった。

 

前線維持に必要なものは止めない。

低レベル帯の生活に必要な物資も、完全には止めない。

けれど、連盟全体にはぎりぎり行き渡る程度に、流通量を絞っている。

 

飢えさせるわけではない。前線を崩すわけでもない。

 

ただ、余裕を奪う。

 

予備の回復薬が減る。

修理素材の到着が半日遅れる。

食品の価格が少し上がる。

倉庫に積まれるはずだった余剰在庫が、連盟領の外の街に回される。

 

それだけで、連盟領内は少しずつ息苦しくなる。

 

物資はある。

だから、飢えではない。けれど、足りない。だから、不安になる。

 

「松林……」

 

篝火は小さく呟いた。

剣を抜かず、旗も掲げず、宣戦布告もせず、ただ帳簿の上で戦場を作る。

 

商人の戦争とは、こういうものなのだろう。

 

篝火は報告書を脇へ置き、次の紙を開いた。

 

連盟所属ギルドの脱退申請。

 

一つではない。

 

三つ、五つ、八つ。

 

中には、脱退ではなく中立を宣言するものもあった。

 

連盟と連合の争いには不干渉を貫く。鉄鳴関連の命令については、再調査が終わるまで受諾を保留する。鉄鳴に関係する不正の疑い、流出した押収品の行き先、査問の正当性について、明確な調査結果が出るまで一切の協力を控える。

 

文面はどれも丁寧だった。

 

だが、内容は明確な拒絶だった。

 

連盟の決定に従えない。

連盟の決定を信用できない。

連盟の名のもとに出される命令が、本当に攻略全体のためのものなのか判断できない。

 

篝火は、ひとつひとつの署名を見た。

 

派手なギルドではない。連盟の会議で大きな発言権を持つ者たちでもない。前線の中心に立つ攻略組でもなければ、名前だけで人を動かせるような大手でもない。

 

だが、彼らは確かに連盟を支えていた。

 

素材を運び、傷ついた装備を修理し、低層の治安を保ち、前線と後方の隙間を埋めていた者たちだ。目立たない。称賛されることも少ない。けれど、いなければ連盟の仕組みは回らない。

 

その者たちが、静かに席を立ち始めている。

 

篝火は目を伏せた。

 

月詠。

 

声に出さず、その名を思う。

 

報告書の端には、いくつもの目撃情報が添えられていた。

 

連盟領の喫茶店で、調査担当の一人と話していた男。記録棟の近くで、査問補佐とすれ違った来訪者。生産職ギルドの会館で、押収品目録の写しを確認していた人物。連盟を抜けるか迷っていた中堅ギルドの代表が、夜更けに会ったという丁寧な口調の男。

 

名前は残っていない。

署名もない。

顔立ちの印象さえ、証言ごとに少しずつ違っていた。

 

だが、篝火には分かった。

 

どの証言にも、同じ特徴がある。

 

穏やかな物腰。丁寧な言葉。相手を責めるのではなく、逃げ道を示す話し方。脅しではなく、選択肢として差し出される退路。そして、聞いた者が後になってから、自分がもう中立ではいられないことに気づくような言葉。

 

それは月詠のやり方だった。

 

彼は、連盟領の中を歩いている。堂々とではない。隠れてもいない。ただ、必要な場所に現れ、必要な相手にだけ言葉を置き、誰かが振り返る頃にはもう別の場所にいる。

 

ある者には、報告書の矛盾を見せた。

ある者には、押収品の流れを問いかけた。

ある者には、連盟に残る意味を尋ねた。

そしてある者には、何も言わず、ただ一枚の写しを置いていった。

 

篝火は報告書を閉じる。

 

姿は何度も確認されている。だが、捕まえられない。

 

違法なことはしていない。声を荒げてもいない。誰かを脅した記録もない。ただ、報告書を見せ、選択肢を置き、相手が自分で席を立つのを待っている。

 

月詠は、正面から旗を掲げる者ではない。大声で糾弾する者でもない。もっと静かに、もっと丁寧に、逃げ道を置く。沈む船から降りるなら、今だと。

 

連盟に残るということは、鉄鳴の報告を追認するという意味になると。

疑いながら沈黙するなら、その沈黙もまた加担だと。

 

そう告げて回ったのだろう。

 

篝火には、それが見えた。

 

それは救いだった。

 

腐らずに残っていた者たちを、巻き込まれる前に逃がすための手だ。連盟の中で疑いを抱きながら、それでも看板の下で口を閉ざしていた者たちに、離れる理由を与えるための手だ。

 

だが同時に、それは解体でもあった。まともな者から離れていく。

 

迷いながらも秩序を守ろうとしていた者。鉄鳴の報告に違和感を覚えていた者。押収品の流れに疑問を持ちながらも、上層部の決定を待っていた者。

 

そういう者たちから順に、船を降りていく。

 

残るのは、鉄鳴を庇う者。連盟の威信という言葉にしがみつく者。既得権益を守るために、異議を唱える者を処分したがる者。蒼星という赤い名前に罪を積めば、それで済むと考える者たち。

 

つまり、連盟の腐った部分だけが濃くなっていく。

 

「……上手いな」

 

篝火は小さく呟いた。褒めているわけではない。ただ、認めざるを得なかった。

月詠は、連盟を外から壊しているのではない。内側にあった亀裂を、誰の目にも見える場所まで広げている。

 

そして、その亀裂から先に逃げ出すのは、腐っていない者たちだった。

 

その時、扉が叩かれた。短く、急いた音だった。

 

「入れ」

 

篝火が言うと、部下の一人が入ってきた。顔色が悪い。手にした報告書の端が、わずかに震えている。

 

「連盟領外で、所属ギルドの一部が独断で行動を起こしました」

 

篝火は眉を寄せた。

 

「内容は」

「塩宮側に協力したと見られる中小ギルドの倉庫へ、査問を名目に立ち入りを要求。拒否されたため、強行突破を敢行。商工会の仲裁が入り、本格的な衝突は避けられましたが……」

「名義は」

「連盟秩序維持のため、と」

 

篝火は、短く息を吐いた。

 

秩序。便利な言葉だった。

 

守るためにも使える。脅すためにも使える。正しさを示すためにも、正しくないものを覆い隠すためにも使える。

 

「停止命令を出せ」

「連盟本部の許可なく、査問名目での立ち入り、封鎖、資産確認を行うことを禁じる。従わない場合は処分対象とする」

「はい」

 

部下は頷いた。

 

だが、まだ下がらない。

 

篝火はそれを見て、目を細める。

 

「他にもあるな」

 

部下は一瞬、言い淀んだ。

 

「連盟領内で、蒼星の名を使った襲撃が起きています」

 

室内の空気が冷えた。

 

「蒼星本人か」

「確認できていません。ただ、襲撃者は《赤い死神の報復》を名乗り、鉄鳴擁護派の商店や小規模ギルドを狙っています。複数名が、蒼星の協力者を名乗っているとの報告もあります」

 

篝火は、机の上に置いていた指をゆっくりと握った。

 

蒼星の名を使って混乱を広げる。それが本人によるものか、誰かの偽装かはまだ分からない。だが、効果だけは明白だった。連盟領内の者たちは思うだろう。

 

やはり蒼星は危険だ。

 

《闇鍋の宴》は蒼星を匿っている。

 

塩宮の連合は、その混乱に乗じて連盟を攻撃しようとしている。

 

証拠は後からでいい。恐怖は先に広がる。鉄鳴の報告書と同じだった。

 

「蒼星を名乗る者、蒼星の協力者を名乗る者をすべて拘束対象にする」

 

篝火は言った。

 

「ただし、殺すな。必ず生け捕りにしろ」

 

部下が顔を上げる。

 

「連盟領内で殺害行為を行った者でも、ですか」

「だからこそだ」

 

篝火は部下を見た。

 

「死体は喋らない。蒼星の名を使っている以上、本人なのか、騙りなのか、誰に得をさせるために動いたのかを確かめる必要がある」

「了解しました」

 

部下は深く頭を下げた。

 

「すぐに通達します」

「頼む」

 

部下は踵を返し、足早に部屋を出ていった。

 

扉が閉まる。途端に、部屋の中は静かになった。

 

いや、静かに戻っただけだった。廊下の向こうではまだ人の足音が行き交い、誰かが報告を上げ、誰かが命令を受け、誰かが怒鳴らないように声を抑えている。そのすべてが、分厚い扉越しに鈍く響いていた。

 

篝火は机の上に積まれた報告書を見下ろす。

連盟領外では、塩宮の声明が広がっている。

連盟領内では、蒼星を大罪人とする言葉が広がっている。

 

商工会は物流を絞り、月詠は内側の人材を逃がし、腐敗したギルドは連盟の名を使って勝手に暴れ、何者かが蒼星の名を騙って混乱を広げている。誰も全体を制御できていない。自分も含めて。

 

「……止められないな」

 

小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。

 

止めようとはしている。

 

命令も出した。調査も進めている。蒼星の名を騙る者は生け捕りにしろと指示した。独断で動く連盟所属ギルドにも停止命令を出した。それでも、もう遅い。

 

連盟という器は大きすぎる。

 

その中で腐った者たちは、連盟の名を使って勝手に動く。秩序を掲げ、査問を掲げ、危険PLの排除を掲げる。そして、篝火が止める前に、どこかで誰かを傷つける。

 

止めきれない。

 

その事実が、静かに胸へ沈んでいった。

 

篝火は連盟の旗を見た。

 

机の端に置かれた小さな旗。会議用に使われる、連盟の印が刺繍されたものだった。

 

かつては、それを見るだけで前を向けた。

 

攻略を進めるため。

前線を維持するため。

弱いギルドが大手に踏み潰されないようにするため。

ギルド同士の争いを仲裁し、必要な物資を通し、誰か一人に罪が積まれないようにするため。

 

そのための連盟だったはずだ。

 

だが今、その旗の下で、誰かを黙らせようとしている。

誰かに罪を積もうとしている。

異議を唱える者を、反乱者として処理しようとしている。

 

篝火はゆっくりと息を吐いた。

 

連盟を守るとは、連盟の看板を守ることではない。連盟が連盟であるための理由を守ることだ。けれど、その理由がもう腐っているのなら。篝火は、何を守ればいい。

 

答えは出なかった。

 

だが、責任だけは残っている。

 

篝火は顔を上げた。

 

「塩宮へ連絡を取れ」

 

廊下に控えていた別の部下が、扉越しに返事をする。

 

「塩宮、ですか」

「中立区域で会う。護衛は最低限。表向きは交渉だ」

 

わずかな沈黙。

 

「ですが、連合側との接触は上層部が反対を」

「私が行く」

 

篝火は立ち上がった。椅子が、床を擦って小さく鳴る。

 

「盟主として、最後まで責任を取る」

 

そう言った声は、自分でも驚くほど静かだった。

 

もう止められないのなら。

 

せめて、この戦争をどう始め、どう終わらせるかを決めなければならない。

 

まだ、すべてを殺し合いに変えないことはできる。

 

戦争の形を定めることはできる。

 

誰を戦わせ、誰を巻き込まないのか。

 

何を勝利とし、何を敗北とするのか。

 

そして、どれほど憎しみが膨らんでも、越えてはならない一線だけは決めておかなければならない。

 

篝火は、再び、連盟の掲げた旗を見た。

 

守るべきものが、そこにまだ残っているのかは分からない。

 

だが、背負うべきものは確かにあった。

 

連盟の名も。

連盟の罪も。

止められなかった腐敗も。

これから始まる戦争も。

 

「塩宮にはこう伝えろ。連盟盟主、篝火は逃げも隠れもしない。商工会を仲介役に、会合を望む」

 

扉の向こうで、部下が息を呑む気配がした。

 

「商工会を、ですか」

「そうだ」

 

篝火は短く答えた。

 

「今この状況で、連盟と連合のどちらにも話を通せるのは商工会だけだ。松林なら断らない。断れない、と言った方が正しいかもしれないが」

 

商工会はすでに動いている。

 

物流を絞り、信用を問い、連盟の足元から余裕を抜いている。完全な中立ではない。だが、だからこそ、この会合を成立させる力がある。

 

塩宮も、篝火も、松林の前では下手な嘘をつけない。

 

商人は、言葉の裏の損得も読む。

 

「会合の目的は、開戦前の取り決めだ」

 

篝火は続けた。

 

「それと、幹部たちには勝手に動くなと厳命しろ」

 

声が、わずかに低くなる。

 

「連盟の名を使った独断行動を許可しない。査問、封鎖、押収、拘束、いずれも本部の承認なしに行うことを禁じる。破った者は、連盟所属であろうと処分対象にする」

 

「……上層部が反発するかと」

「反発するだろうな」

 

篝火は淡々と言った。

 

「だが、これ以上勝手に動かれれば、塩宮に正当な口実を与える。商工会にも、月詠にも、連盟を切り崩す材料を渡すことになる」

 

篝火は机の上の報告書を見下ろした。

 

「連盟を守ると言いながら、連盟を壊しているのは誰なのか。そろそろ理解させる必要がある」

 

扉の向こうで、部下が深く頭を下げる気配がした。

 

「承知しました。ただちに通達します」

 

会合の場に指定されたのは、連盟領と連合側の勢力圏の境にある中立区域だった。

 

古い交易所を改装した建物で、今は商工会が管理している。戦場ではない。だが、戦場に向かうための道がいくつも交わる場所だった。

 

篝火が到着した時、入口に立っていたのはシジミーだった。

 

商工会の補佐役。

 

帳簿と契約書の間にいる方が似合うはずのその人物は、いつもと変わらない丁寧な所作で篝火を迎えた。

 

「お待ちしておりました、篝火さん」

 

「君は……」

 

「シジミーです。本日の会合は、商工会立ち会いのもと行われます。武装した護衛の方は、こちらで待機をお願いします」

 

篝火は背後の護衛へ視線を向けた。

護衛は二人。どちらも精鋭だ。だが、この先へ連れて入れば、交渉ではなく威圧になる。

 

「ここで待て」

「しかし」

「命令だ」

 

護衛たちは短く頭を下げ、その場に留まった。シジミーはそれを確認してから、静かに扉へ手をかける。

 

「松林からも、同じ条件を連合側へ伝えています。塩宮さんも、最低限の護衛のみで来られています」

「松林は?」

「中にいます。仲介役として」

「商工会は、中立のつもりか」

 

篝火が問うと、シジミーは少しだけ目を伏せた。

 

「商工会は、取引の信用を守る立場です」

「答えになっていないな」

「はい」

 

シジミーは丁寧に頷いた。

 

「中立ではありません。ですが、公平であろうとはしています」

 

篝火は、わずかに目を細めた。

 

「公平、か」

「少なくとも、本日の会合で交わされた言葉と条件は、商工会が記録します。どちらが何を約束し、どちらが何を破ったのか。それは、後から誤魔化せない形で残します」

 

静かな声だった。だが、柔らかいだけではない。商人の言葉だった。

 

篝火は短く息を吐く。

 

「松林の補佐らしいな」

「ありがとうございます」

 

シジミーは表情を変えずに答えた。

篝火はそれ以上言わなかった。案内されるまま、奥の部屋へ進む。扉の向こうには、すでに二人がいた。

 

ひとりは松林。

 

いつものように軽い笑みを浮かべ、部屋の端で椅子に腰掛けている。仲介役というより、取引の行方を見届ける商人の顔だった。

 

そして、もうひとり。

 

塩宮。

 

机を挟んだ向こう側に座り、静かに篝火を見ていた。

 

シジミーは扉の横に立ち、深く頭を下げる。

 

「篝火さんをお連れしました」

 

松林が軽く手を上げた。

 

「ご苦労さま、ジミーさん」

「はい」

 

シジミーは一歩下がる。

 

その位置は、会談の中心ではない。だが、部屋の出入口と全員の動きを見られる場所だった。

 

商工会の補佐役として。そして、もしこの場で誰かが約束を破れば、最初にそれを記録する者として。篝火は向かいの席に座った。

 

塩宮が静かに口を開く。

 

「来ましたか」

「来た」

 

短い言葉のあと、部屋に沈黙が落ちた。松林が、場を和らげるように軽く笑う。

 

「いやぁ、両名ともご足労どうも。商工会としては、ここで刃物沙汰にされると机の修繕費が面倒なので、できれば穏やかにお願いしたいねぇ」

「松林」

 

篝火が名を呼ぶ。

 

「何かな」

「ふざける場ではない」

「うん。知ってる」

 

松林の笑みは消えなかった。だが、その目は笑っていなかった。

 

「だから僕がここにいる。お互い、ここで嘘をついても得をしないようにするためにね」

 

シジミーが静かに議事録を取り始める。会合が始まった。

 

先に口を開いたのは、篝火だった。

 

「ここで止まる気はないか塩宮」

 

塩宮は、すぐには答えなかった。

机を挟んだ向こう側で、静かに篝火を見ている。その表情に昂りはない。怒りも、憎しみも、確かにあるはずなのに、それを表に燃やしてはいなかった。

 

「止まれる段階でしたら、ここには来ていません」

「まだ間に合う」

「それでは、何も変わりません」

「変えられる」

「変えられません」

 

塩宮の声は静かだった。

 

「第三者を立てる。それ自体は正しい判断です。もっと早ければ、私もそれを受け入れたでしょう」

 

篝火は眉を寄せる。

 

「なら、今からでも」

「遅いのです」

 

塩宮は遮るようには言わなかった。ただ、逃げ道を塞ぐように言った。

 

「連盟は、調査より先に《闇鍋の宴》へ通達を出しました。蒼星さんの身柄を引き渡せ。応じなければギルドの解体を求める。そう書いたのは鉄鳴ではありません。連盟です」

 

篝火は黙った。

 

「その時点で、問題は鉄鳴と蒼星さんだけではなくなりました」

 

塩宮は続けた。

 

「調査より先に犯人を決め、証拠より先に処分をちらつかせ、異議を唱える者を組織ごと潰そうとした。その前例を作ろうとしたのは、連盟です」

「だから連盟を敵と呼ぶのか」

「はい」

 

篝火の目が細くなる。

 

「連盟の中には、まだ正しくあろうとしている者もいる」

「知っています」

「なら、なぜ一括りにする」

「一括りにしなければ、誰も選べないからです」

 

塩宮は淡々と言った。

 

「鉄鳴だけが悪い。上層部だけが悪い。自分たちは知らなかった。そう言いながら連盟の中に残り続けることができるなら、何も変わりません」

 

その言葉に、篝火は反論できなかった。塩宮は篝火から目を逸らさない。

 

「連盟に残るのか。離れるのか。腐敗を庇うのか、切り落とすのか。選ばなければならない段階まで来ています」

「それは、戦争を煽っているだけだ」

「そうです」

 

塩宮は否定しなかった。

 

「ですが、連盟の中で腐らずにいた者たちに、逃げる理由も与えています」

 

篝火の脳裏に、脱退申請の署名がよぎった。中立を宣言したギルド。鉄鳴に関わる命令だけは、再調査が終わるまで従えないと線を引いた者たち。月詠が置いていった逃げ道。

 

塩宮の声明は、確かに人を集めている。だが同時に、人を逃がしてもいた。

 

「……流石の政治手腕だな」

 

篝火は低く呟いた。褒めているわけではない。それでも、認めざるを得なかった。塩宮は怒りだけで人を集めているのではない。連盟を敵と呼びながら、連盟の中で腐らずにいた者たちへ逃げ道を示している。戦う者には旗を与え、戦えない者には降りる理由を与えている。

 

それは扇動であり、救済でもあった。だからこそ、厄介だった。

 

「政治などと呼べるほど綺麗なものではありません」

 

塩宮は静かに返した。

 

「必要だったから、そうしただけです」

「その必要を選べる時点で、政治だ」

 

篝火は言った。

 

「怒りに任せて燃やすだけなら簡単だ。だが、お前は燃やす場所を選んでいる。逃がす者と、立たせる者を分けている」

 

塩宮は否定しなかった。松林が、机の端で軽く笑う。

 

「いやぁ、二人とも褒め合いが物騒だねぇ」

「褒めていない」

「褒めていません」

 

篝火と塩宮の声が、ほとんど同時に重なった。

松林は肩をすくめた。

 

「はいはい。では、商工会としては、ここから先をどう殺し合いにしないかを議題にしたいところだねぇ」

 

篝火は松林を見た。

 

「そのために来た」

 

そして、塩宮へ視線を戻す。

 

「条件を出す」

 

塩宮は、静かに頷いた。

 

「聞きます」

 

篝火は、言葉を選ばなかった。もう、綺麗に包む必要はない。

 

「非戦闘員を巻き込まない。低レベル帯の町、後方生産拠点、商工会が指定する生活物資倉庫を攻撃対象にしない。降伏した者、戦闘不能になった者への追撃を禁じる。捕縛を優先し、可能な限り殺害を避ける」

 

シジミーの筆が、紙の上を走る。

 

「同意します」

 

塩宮は即答した。

 

「連合側にも同じ条件を徹底します。非戦闘員、低レベル帯、後方拠点には手を出さない。降伏者、戦闘不能者への追撃を禁じる。捕縛を優先し、可能な限り殺害を避ける」

「守らせられるのか」

「守らせます」

「あなたと違って、私は手綱を離しません」

 

塩宮の声は揺れなかった。

 

篝火は、すぐには返せなかった。責められたからではない。その言葉が、事実だったからだ。連盟の手綱は、すでに緩んでいる。幹部は勝手に動き、所属ギルドは連盟の名を使い、秩序維持という言葉で他者を脅している。篝火が止めようとしても、命令が届く前に誰かが動く。

 

塩宮は、それを見抜いている。そして、見抜いたうえで言っている。

 

「……痛いところを突く」

 

篝火は低く言った。

 

「突かれたくない場所だったのでしたら、先に塞ぐべきでした」

 

塩宮は静かに返した。

 

松林が、机の端で小さく息を吐く。

 

「いやぁ、仲介役としては、もう少し柔らかい言葉を推奨したいところだねぇ」

「必要ありません」

 

塩宮は松林を見ずに言った。

 

「ここで柔らかく言えば、後で誰かが都合よく解釈します」

 

シジミーの筆が、紙の上を走る音だけが残った。篝火は、短く目を閉じる。怒りはあった。だが、その怒りを塩宮に向けることはできなかった。

 

「分かった」

 

篝火は言った。

 

「なら、こちらも守らせる」

 

塩宮が静かに篝火を見る。

 

「守らせられますか」

 

今度は、塩宮が問う番だった。篝火は逃げなかった。

 

「守らせる。守らせられなければ、私が責任を取る」

「盟主として?」

「そうだ」

 

篝火は即答した。

 

「連盟の名で起きたことは、連盟盟主である私が背負う。止められなかった腐敗も、これから出る損害も、勝手に動いた者たちの責任も、私が最後まで見る」

 

塩宮はしばらく黙っていた。その沈黙は、篝火を疑っているものではなかった。ただ、その言葉の重さを測っている沈黙だった。やがて、塩宮は小さく頷く。

 

「分かりました。その言葉を、議事録に残してください」

「記録しています」

 

シジミーが静かに答えた。筆の音が、紙の上を細く走る。松林が机の端で手を組んだ。

 

「では、商工会からも条件を追加するよ」

 

篝火と塩宮が、同時に松林を見る。

 

「この会合で決めた条件は、商工会が記録する。破った側は、商工会の信用調査対象にする。物資供給、契約優先度、販路、倉庫利用、護送依頼、全部に影響が出ると思ってほしい」

「脅しか」

 

篝火が言うと、松林はいつものように軽く笑った。

 

「契約条件だねぇ」

 

その声は軽い。けれど、目は笑っていなかった。

 

「戦争中でも信用は要る。いや、戦争中だからこそ信用が要る。誰が約束を守り、誰が破ったのか。それを記録しない戦争は、ただの殺し合いになる」

 

シジミーが顔を上げずに言った。

 

「商工会は、双方の合意を確認しました。非戦闘員、低レベル帯、後方生活拠点、商工会指定の生活物資倉庫への攻撃禁止。戦闘不能者および降伏者への追撃禁止。捕縛優先。可能な限り殺害回避。違反時は商工会による信用調査対象」

「完璧だねぇ、ジミーさん」

「うるさいですよ、ごんにき」

 

淡々とした返答だった。その平静さが、かえってこの場の重さを際立たせていた。

篝火は、塩宮へ視線を戻す。

 

「開戦は、一週間後」

 

部屋の空気が、さらに重くなった。

 

「一週間後、正午。場所は旧砦跡。周辺に民間区画はない。主要な補給路からも外れている。連盟側は、そこ以外を主戦場としないよう通達する」

 

塩宮は少しだけ考えた。

 

「一週間あれば、後方の避難と周知ができますね」

「そうだ」

「旧砦跡なら、後方の町を巻き込みにくい」

「そこを選んだ」

 

塩宮は静かに頷いた。

 

「連合側も、そこを主戦場とします。ただし、連盟所属ギルドが別地点でこちら側の拠点や協力者に攻撃を仕掛けた場合は、防衛行動を取ります」

「当然だ」

 

篝火は短く答えた。

 

「こちらも、連合側が生活拠点へ攻撃を行った場合は、合意違反として扱う」

「承知しました」

 

松林が、机の上に置かれた白紙を引き寄せた。

 

「じゃあ、商工会立ち会いで合意文書を作るよ。双方署名。写しは商工会、連盟、連合に一部ずつ。後で言った言わないになるの、面倒だからねぇ」

「商人らしいな」

「商人だからね」

 

松林は軽く笑った。だが、誰も笑い返さなかった。

 

篝火は塩宮を見る。

 

「不殺など、戦場では簡単に破られる」

「分かっています」

「誰かが死ねば、怒りは膨らむ。報復が起きる。合意など紙切れになる」

「それでも、最初に決めておく必要があります」

 

塩宮の声は揺れなかった。

 

「殺すための戦争ではないと。何を守るために戦うのかを、先に決めておかなければ、怒りは簡単に目的を変えます」

 

篝火は、少しだけ目を伏せた。甘い。甘すぎる。だが、その甘さを自分もここに持ち込んでいる。だから、否定できなかった。

 

「優しい戦争など存在しない」

 

篝火は言った。塩宮は少しだけ沈黙した。

それから、静かに答える。

 

「それでも、優しくあろうとすることはできます」

 

松林の指が、机の上で止まった。シジミーの筆も、一瞬だけ止まる。

 

篝火は、塩宮を見た。

 

その言葉が、後にどんな名前で呼ばれるのか、この時の篝火は知らない。

 

ただ、一つだけ分かった。この戦争は、止まらない。けれど、殺すためだけのものにはしない。そのために、自分たちはここで言葉を交わしている。

 

「分かった」

 

篝火は言った。

 

「合意する」

 

塩宮も頷いた。

 

「合意します」

 

シジミーが、静かに議事録へ最後の一文を書き加えた。商工会立ち会いのもと、連盟盟主篝火と連合代表塩宮は、上記条件に合意する。

 

紙の上では、それだけだった。たったそれだけの文。

 

けれど、その一文は、これから流れる血の量をほんの少しでも減らすための楔になる。

 

会合は終わりに向かった。

 

篝火は席を立つ。

 

塩宮も立ち上がった。

 

互いに握手はしなかった。

 

今の二人に、それは似合わない。

 

ただ、向かい合い、短く頭を下げる。

 

「一週間後、正午。旧砦跡」

 

篝火は確認するように言った。

 

「はい」

 

塩宮は静かに頷いた。

 

「互いに、可能な限り不殺。非戦闘員、低レベル帯、後方拠点への攻撃は禁止。降伏者、戦闘不能者への追撃も禁止」

「連盟側にも徹底する」

「連合側にも徹底します」

 

松林は議事録を一瞥し、軽く息を吐いた。

 

「これで、言った言わないはなしだねぇ」

「破った側は?」

 

篝火が問う。

 

松林はいつものように笑った。

 

「商工会が、記録するよ。誰が何を守り、誰が何を破ったのか。物資も、信用も、契約も、全部それに応じて動く」

「商人は怖いな」

「よく言われる」

 

軽いやり取りだった。けれど、誰も笑わなかった。

 

篝火は扉へ向かう。

 

背後では、シジミーが議事録を丁寧に束ねている音がした。松林が何かを確認し、塩宮が短く返す声が聞こえる。

 

篝火は振り返らなかった。

 

会合は終わった。

戦争は、まだ始まっていない。だが、その形は決まった。それを決めたのは、誰かを殺したかったからではない。少しでも、殺さずに済ませるためだった。

 

篝火は歩き出す。背負うものは、軽くならない。

 

連盟の名も。連盟の罪も。

 

止められなかった腐敗も。これから始まる戦争も。

 

それでも、背負うしかなかった。

 

盟主として。最後まで。

 

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