Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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残星穿つ

「迎えに行く」

 

蒼星は、それだけ言った。

 

シオンが何かを言いかけた。パン屋の店主も、扉の外で息を呑んだ。孤児院の食堂には、さっきまで子供たちのために並べられていた皿が残っている。温かいはずだった夕食の匂いが、今はひどく遠かった。

 

ナギたちは帰ってこない。

 

初心者用のダンジョンへ、簡単な採取クエストに行っただけのはずだった。危ないと思ったらすぐに引き返す。知らない人に声をかけられてもついていかない。何かを手伝えと言われたら、まずシオンに確認する。

 

そう言った。そう教えた。けれど、戻ってこなかった。

 

「待ってください」

 

シオンの声が、蒼星の背中を追った。

 

「今から町の人を集めます。探索できる人間を――」

「遅い」

 

蒼星は振り返らなかった。

 

「ですが、あなた一人では」

「一人の方が速い」

 

それは強がりではなかった。

 

今の蒼星には右腕がない。まともな武器もない。天夜のドレスも、夜走りも、まだ戻っていない。手元にあるのは、鍛冶屋で選んだばかりの短剣と、限られたアイテムだけ。

 

それでも、一人の方が速い。

 

誰かを守りながら進むには、今の身体は足りない。誰かと歩調を合わせれば、その分だけ遅れる。説明して、確認して、合図して、迷っている時間はなかった。

 

子供たちが、どこかで待っている。そう考えた瞬間、他のすべてが邪魔になった。

蒼星は腰の短剣に左手を添えた。刃は軽い。頼りないほど小さい。けれど、確かにそこにあった。

 

「蒼星さん」

 

シオンがもう一度呼ぶ。

 

その声には、止めたいという意思と、止められないという理解が混ざっていた。蒼星は、ようやく少しだけ顔を向けた。

 

「シオンは町をお願い。連れて行かれた子供が他にもいないか確認して。戻ってきた時に、受け入れる準備も」

「戻ってきた時、ですか」

「連れて帰るから」

 

淡々とした声だった。けれど、その一言だけは、決定だった。シオンは唇を結び、深く頷いた。

 

「分かりました」

 

蒼星は孤児院を出た。

 

夕方の町は、いつもより静かだった。騒ぎを聞きつけた人々が、戸口や窓からこちらを見ている。赤いカーソルに向けられる視線。死神を見る目。厄介事を見る目。けれど、その奥に、別の色が混ざっていた。

 

不安。恐怖。そして、期待。

 

蒼星は、それらを無視した。期待されるのは好きではない。信じられるのも、頼られるのも、得意ではない。

 

けれど、ナギが言った声だけは耳に残っていた。

 

――ちゃんと戻ってこれたら?

 

合格。

 

そう答えた。ご褒美をあげるとも言った。なら、戻ってこなければならない。

 

合格にしなければならない。蒼星はインベントリを開いた。

 

取り出したのは、貌のない白い仮面だった。

 

何の表情もない。笑ってもいない。怒ってもいない。泣いてもいない。見る者によって、顔の輪郭すら曖昧に感じる、のっぺりとした仮面。

 

無貌の仮面(フェイスレス)

 

かつて、まだこの世界が遊びだった頃は、PvPや戦争イベントで使われていた仮面だった。

 

相手の視線から外れるための装備。 名前を読ませず、顔を覚えさせず、気配を薄めるための道具。だが、この世界が現実になった時、この仮面の意味は変わった。

 

それは、すべてを隠した。

 

顔も。名前も。姿さえも。

 

仮面を被った者は、誰でもなくなる。

 

そこにいるのに、そこにいないものとして扱われる。存在感は薄れ、視線は外れ、姿の輪郭さえ曖昧になる。

 

かつての蒼星は、それを便利な道具として使っていた。

 

攻略のために。 必要な勝利のために。

そして、邪魔者(PK)を効率的に排除するために。

 

誰にも気づかれずに近づく。

誰にも追わせずに離れる。

必要な相手だけを殺し、必要のない戦闘は避ける。

 

それは、蒼星にとって正しさではなかった。

 

ただ、効率だった。

 

けれど、今は違う。殺すためではない。見つからず、止まらず、子供たちの元へ辿り着くために。

 

蒼星は仮面をつけた。

 

世界が、ひとつ遠くなる。

 

町のざわめきが薄れた。こちらを見る視線が、輪郭を失っていく。誰かが蒼星を見たはずなのに、次の瞬間には視線を外す。そこにいたはずの黒い修道服の少女を、うまく認識できないまま、記憶の端から滑り落としていく。

 

顔が消える。名前が消える。死神という呼び名すら、少しだけ遠ざかる。残ったのは、目的だけだった。ナギたちを見つける。

 

連れて帰る。それ以外はいらない。

 

蒼星は地面を蹴った。

 

走らない。走れば音が出る。跳べば着地で響く。

 

全力を出せば、今の身体は壊れる。

 

だから、歩くより速く、走るより静かに進む。建物の影を踏み、石畳の硬い場所だけを選び、人の視線が集まる前に曲がり角を抜ける。

 

誰にも呼び止められない。誰にも追いつかせない。誰にも、今の自分を止めさせない。

町の外へ出る頃には、町の外へ出る頃には、蒼星の姿を追えている者はいなかった。

 

初心者用ダンジョンの入口は、町からそう遠くない丘の根元にある。昼間であれば採取袋を抱えた子供たちや低レベルのPLが出入りし、薬草や鉱石片を拾っては小遣い程度の報酬を得るような場所だった。出現するエネミーは弱く、道は単純で、罠もほとんどない。少なくとも、ナギたちが危険を覚えた時点で引き返せば、十分に戻ってこられる程度の場所だった。

 

だからこそ、戻ってこないという事実が重かった。

 

蒼星は入口の手前で足を止め、膝を折るようにして地面へ視線を落とした。乾いた土の上には、何種類もの足跡が残っている。小さな靴跡。軽い足取りで踏まれた跡。採取袋を抱えていたのか、時々少し深く沈んだ跡。ナギたちのものだ。その周囲に、大人の足跡が混ざっていた。数は四つか五つ。歩幅が大きく、迷いがない。子供たちを案内したというより、囲むように歩かせていた跡だった。

 

「……連れていかれた」

 

仮面の内側で、声は小さく消えた。

 

怒りはある。焦りもある。けれど、そのどちらも今は邪魔だった。怒りで足跡が濃くなるわけではない。焦りで通路が短くなるわけでもない。必要なのは、痕跡を読むこと。最短で奥へ進むこと。子供たちがまだ生きていると仮定して、そこへ辿り着くまでの時間を削ることだった。

 

蒼星は腰の短剣に触れたが、抜かなかった。刃を出せば、意識が戦闘へ寄る。今はまだ戦う時ではない。戦わずに済むものはすべて避け、避けられないものだけを処理する。そう決めて、蒼星は隠密スキルをさらに深く沈めた。

 

ダンジョンの中へ入る。

 

入口付近の空気は、知っているものだった。湿った石の匂い、古い草の匂い、弱いエネミーのぬるい気配、踏み固められた道の感触。初心者用の名にふさわしく、通路は広く、分岐も少ない。壁には採取ポイントを示す小さな目印がいくつか残っており、昼間なら子供たちがそれを見つけて少し得意げに採取していたのだろうと思えた。

 

けれど、蒼星はそこに長く目を留めなかった。

 

足跡を追う。大人の足跡は、途中まで安全な道を選んでいる。採取ポイントを無視し、エネミーの巡回範囲を避け、無駄なく奥へ進んでいる。初心者用ダンジョンに慣れている者の歩き方ではない。地図を持っていたか、先に下見をしていたか、あるいは誰かから情報を得ていた歩き方だった。

 

浅い階層にいたエネミーが、通路の端でぬるりと動いた。小型の獣型。こちらを見たようにも思えたが、無貌の仮面に触れた視線は、次の瞬間には壁の苔へ滑り落ちた。蒼星は速度を落とさず、その視界の端を通り過ぎる。足音は出さない。呼吸は浅く、衣擦れも抑える。裾の長い修道服は走るには邪魔だが、影に紛れるには悪くない。布の揺れを殺し、石の硬い部分だけを踏み、曲がり角に入る前に気配だけを先に流す。

 

戦わない。止まらない。迷わない。

 

奥へ進むにつれ、痕跡は不自然になっていった。子供の足跡が乱れている。最初は大人に従って歩いていたものが、途中から小さく踏み直した跡が増え、何度か引き返そうとした跡もある。ナギのものらしい小さな靴跡が、少しだけ横へ逸れていた。けれど、すぐに大人の足跡がそれを塞ぐように重なっている。

 

蒼星はその場でほんの一瞬だけ目を細めた。

 

ナギは気づいたのだろう。

 

危ないと思ったら引き返す。君たちだけで決めない。そう教えた言葉を、たぶん思い出した。けれど、大人たちはそれを許さなかった。強そうな装備をしていて、正しそうなことを言って、連盟や鉄鳴の名を使ったのかもしれない。子供たちがその場で逆らえないように、言葉と立場で押したのかもしれない。

 

蒼星は、また進んだ。やがて、空気が変わった。

 

それは境界だった。初心者用ダンジョンの古い岩肌が、途中から黒く冷たい質感へ変わっている。壁の模様が違う。床の凹凸が違う。空気の流れも違う。地図に映るはずの通路は、そこから先だけぽっかりと空白になっていた。通常の追加部屋ではない。イベント用の隠し通路とも違う。ダンジョンの中に、別の仕様を無理に縫い込んだような違和感がある。

 

未確認エリア。

 

鉄鳴が見つけ、子供たちを連れて入った場所。

 

蒼星は足を止めずに踏み込んだ。

 

その瞬間、音が消えた。

 

入口側の弱いエネミーの気配が遠のき、代わりに、もっと重いものが空間の奥に沈んでいるのが分かった。

 

それは、敵が一体いるという感覚ではなかった。

 

この一帯そのものが、何かの腹の中にあるような重さだった。壁は黒く、冷たく、足音はやけに遠くまで反響する。初心者用ダンジョンの浅い階層にあった湿った土の匂いは薄れ、代わりに、古い血と鉄と、長く閉じ込められていた空気の匂いが混ざっている。

 

まるで、人を喰う迷宮(ラビュリントス)にでも迷い込んだような錯覚を覚える場所だった。

 

「まるで、最前線のダンジョン」

 

仮面の内側で、蒼星は小さく呟いた。

 

初心者用ではない。

 

少なくとも、子供たちが採取袋を抱えて入っていい場所ではない。

 

蒼星は足元へ視線を落とした。

 

鉄鳴の足跡は、ここで乱れている。浅い階層では迷いなく進んでいた大人の足跡が、この先では何度も立ち止まり、引き返し、同じ場所を行き来していた。地図を持っていたとしても役に立たなかったのだろう。あるいは、地図そのものがこの場所を記録できなかったのか。

 

その足跡の間に、子供たちの小さな靴跡が混ざっている。

 

最初は固まって歩いていた。けれど、途中から間隔が崩れていた。誰かが転んだ跡がある。誰かが無理に引っ張られた跡がある。壁際には、採取用の布鞄の紐が千切れて落ちていた。

 

 

ナギのものと同じ色だった。

 

蒼星はそれを拾わなかった。拾えば、手が塞がる。ただ場所だけを覚える。

 

さらに奥へ進むと、壁に浅い傷があった。爪ではない。小さな刃物か、尖った石で引いたような線。まっすぐではなく、震えた手で刻まれている。

 

目印。

 

子供の誰かが残したものだ。蒼星は指先でその傷をなぞり、視線を奥へ向けた。

 

鉄鳴の連中は、ここを調査するために子供たちを連れてきたのだろう。罠を踏ませるためか。道を先に歩かせるためか。エネミーの反応を見るためか。あるいは、この場所にいる何かの注意を逸らすためか。

 

まだ断定はできない。けれど、痕跡はそう語っていた。この場所で、鉄鳴は子供たちを守っていない。使っている。

 

「カナリア……」

 

危険な場所へ先に入れられ、異常を知らせるためだけに置かれるもの。罠があれば先に踏み、エネミーがいれば先に狙われ、何かが潜んでいれば先に反応を見るための命。守るべき対象ではなく、失っても本体が逃げられればいい目印として扱われたもの。

 

子供たちの足跡は、そういう使われ方をしていた。

 

鉄鳴の足跡は、必ず子供たちの後ろにある。前に出ている跡は少ない。分岐では子供の足跡が先に伸び、その後に大人の足跡が続いている。崩れた床の手前では、小さな靴跡だけが一度深く沈み、大人の足跡はその横を避けていた。壁際の擦れた跡は、誰かが転んだ子供を助け起こしたものではない。進め、と無理に引っ張った跡だった。

 

蒼星は、指先を壁の傷から離した。

 

怒りは、静かだった。

 

燃え上がるものではない。胸の奥で冷たく固まり、余計なものを削ぎ落としていく種類の怒りだった。叫ぶ必要はない。歯を食いしばる必要もない。ただ、鉄鳴という名前の横に、処理すべき対象として印をつけるだけでよかった。

 

今は殺さない。

 

殺すために来たのではない。

 

ナギたちを見つけ、連れて帰るために来た。

 

蒼星は足跡を追った。鉄鳴の足取りは奥へ行くほど荒れている。最初は子供たちを前に出しながら慎重に進んでいたものが、途中から乱れ、何度も振り返り、いくつかの場所では明らかに走っていた。何かに追われたのか、何かを見たのか、あるいは子供たちを置いて逃げたのか。

 

床に、薄い血の跡があった。

 

量は少ない。飛び散ってはいない。引きずった跡でもない。足を切ったか、転んで膝を裂いた程度のものだろう。血の点は小さく続き、その横に、震えたような小さな足跡が重なっている。

 

蒼星はその跡を見下ろし、呼吸を一つだけ浅くした。

 

生きている。

 

少なくとも、この時点では生きていた。

 

それで十分だった。

 

奥から、低い音が響いた。

 

岩が軋むような音。重い何かが通路のどこかを擦ったような音。通常のエネミーの足音ではない。一定の巡回音でもない。距離は遠いが、空間全体がその音に反応している。壁の埃がわずかに落ち、床の小石が小さく震えた。

 

蒼星は動きを止め、音の方向を読む。

 

右奥。

 

いや、反響している。正確な位置は分からない。

 

このエリアは音を歪ませる。通路の形が複雑なのか、あるいは壁そのものが音を返すように作られているのか。最前線のダンジョンにも似た構造があった。マップを信じると迷う場所。音を追うと逆に誘導される場所。視界よりも、足元の痕跡と空気の流れを信じなければならない場所。

 

初心者用ダンジョンの奥に、そんなものがある。

 

子供たちが入っていい場所ではない。

 

蒼星は、ナギの布鞄の紐と、壁に刻まれた小さな傷と、血の跡を頭の中で繋げる。

 

子供たちは奥へ進まされた。

 

途中で何かが起きた。

 

鉄鳴は乱れた。

 

それでも、子供たち全員がその場で死んだわけではない。血の量が少なすぎる。争った跡も、大量に引きずられた跡もない。なら、逃げたか、逃がされたか、あるいは置き去りにされた。

 

蒼星は左手を壁に添え、身体を低くして進んだ。

 

無貌の仮面はまだ効いている。だが、この場所に沈んでいる重い気配には、どこまで通じるか分からない。知能の低いエネミーなら視線を逸らせる。索敵の甘い相手なら輪郭を曖昧にできる。けれど、エリアそのものに反応するような相手には、仮面だけでは足りない可能性がある。

 

だから、気配を消す。

 

音を消す。

 

存在を消す。

 

蒼星という名前だけでなく、呼吸の重さまで、足音の癖まで、空気の揺れまで削っていく。

 

かつては、殺すためにそうした。今は、助けるためにそうする。その違いを考える余裕はなかった。ただ、進む。

 

通路の先で、鉄鳴の足跡が二手に分かれていた。

 

一方は奥へ向かっている。もう一方は、乱れながら戻っている。戻った足跡の方が深い。走っている。逃げている。子供たちの足跡は、奥へ向かった方にだけ残っていた。

 

蒼星は迷わなかった。

 

奥へ向かう。

 

その先で、何かが子供たちを待っているのだとしても。

あるいは、子供たちが何かから逃げているのだとしても。

 

蒼星が選ぶ道は一つしかなかった。

 

一人ではない。二人。いや、三人。

 

足並みは揃っていない。誰かが先に走り、誰かが遅れ、誰かが何度も後ろを振り返っている。金具の鳴る音が大きい。隠れる気がない。恐怖で雑になった足音だった。

 

蒼星は壁際の影へ身を沈めた。

 

無貌の仮面が、存在の輪郭を薄くする。黒い修道服の裾を抑え、呼吸を浅くし、左手だけを短剣の柄へ添える。刃はまだ抜かない。相手の数、装備、状態、そして持っている情報。それを確認する前に動く理由はなかった。

 

最初に角を曲がってきた男は、肩で息をしていた。

 

鉄鳴の紋章が入った装備。前衛職用の胸当て。腰には片手斧。だが、斧は鞘に収まっておらず、握った手が震えている。続いて現れた二人も同じだった。ひとりは腕を負傷している。もうひとりは顔色が悪く、何度も後ろを見ていた。

 

「くそ、なんだよあれ……」

「だから言っただろ、ガキどもを置いて正解だったって。あいつがそっちに行ってる間に抜けるしかねぇんだよ」

「でも出口が――」

「探せ。戻るしかねぇだろ。こんな場所、調査どころじゃねぇ」

 

ガキども。その言葉で、蒼星の中の何かが一段階だけ冷えた。

 

怒りは燃えなかった。

 

燃えるより先に、無駄なものが落ちた。

 

足音が近づく。男たちは蒼星のすぐ横を通り過ぎようとしていた。無貌の仮面に視線を滑らされ、そこに人がいることを認識できていない。目の前の恐怖に追われ、周囲を見る余裕もない。

 

蒼星は一番後ろの男の背後へ出た。

 

短剣を抜く音は、ほとんどしなかった。

 

刃が首筋に触れた瞬間、男の身体が固まる。声を上げようとした口を、蒼星は左手だけで顎ごと押さえた。右腕はない。それでも、体重のかけ方と刃の位置だけで十分だった。

 

「止まれ。無駄な抵抗をすれば、一人ずつその命が散ると思え」

 

声は平坦だった。

 

怒鳴ってはいない。脅しのために声を張ってもいない。けれど、だからこそ鉄鳴の男たちは動きを止めた。

 

そこに感情はなかった。

 

怒りも、憎しみも、殺意さえも、声の表面には浮かんでいない。ただ、条件を提示しているだけの声だった。抵抗すれば殺す。従えば、今は殺さない。その程度の、ひどく単純な宣告。

 

一番後ろにいた男の首筋には、すでに短剣が触れていた。

 

薄皮一枚を裂けば血が出る位置。声を出そうと喉が震えれば、その震えだけで刃が沈む距離。

 

前にいた二人は、振り返った姿勢のまま固まっている。

 

無貌の仮面のせいで、そこに立つ者の顔は分からない。名前も分からない。けれど、仮面の奥から覗く金色の瞳だけは、暗がりの中で静かに光っていた。

 

「子供たちは」

 

蒼星は問うた。誰だ、とは聞かない。何のつもりだ、とも聞かない。言い訳を聞くために来たのではない。

 

「こ、子供……?」

 

刃が少しだけ沈んだ。男の喉が引きつる。

 

「どこ」

「お、奥だ!奥の方だ!小部屋みたいな場所に逃げ込んだ。俺たちは知らねぇ、置いてきたんじゃなくて、あいつらが勝手に――」

「嘘はいらない」

 

蒼星は淡々と言った。男の言葉が止まる。

 

「何がいた」

「わ、分からねぇよ。でかい。普通のエネミーじゃない。ボス部屋もなかった。扉もない。なのに、通路の中を歩いてた。音に反応して、壁を削りながら近づいてきて……」

「それで子供たちを置いて逃げた」

 

三人の視線が、わずかに揺れた。それが答えだった。

 

蒼星は、短剣を握る指に力を込めない。込めれば、そのまま首を裂いてしまう。今はまだ殺す時ではない。殺せば音が出る。血の匂いも広がる。ここにいる何かが音や匂いに反応するなら、子供たちへ危険が向く。

 

だから、殺さない。

 

今は。

 

「道」

「は?」

「子供たちを置いた場所までの道を言いなさい」

「し、知らねぇ。通路が変わるんだ。本当に分からねぇんだよ。途中に壁の傷がある。ガキの一人がつけてた。そっちを辿れば――」

 

蒼星は、その言葉だけを拾った。

 

壁の傷。やはり、ナギたちは生きている。少なくとも、そこまでは自分たちで考えていた。

 

「もういい」

 

蒼星は短剣の柄で男の顎を打ち抜いた。

 

首筋を裂かない角度で、意識だけを落とす。男の身体が崩れる前に襟を掴み、音が響かないよう壁際へ転がした。

 

残りの二人が動く。

 

片方は武器に手を伸ばし、もう片方は逃げようとした。

 

蒼星は先に逃げる方を潰した。足を払う。膝が折れる。転びかけた頭を壁にぶつけないよう襟を引き、首の後ろへ正確に一撃を入れる。殺さない。声を出させない。時間をかけない。

 

武器に手を伸ばした男の動きは遅かった。

 

恐怖で指が震えている。

 

蒼星は半歩だけ踏み込み、男の手首を短剣の峰で叩いた。武器が落ちる。続けて腹へ膝を入れ、息が詰まったところで顎を打つ。

 

三人目も沈んだ。

 

蒼星は倒れた鉄鳴の男たちを見下ろした。

 

殺す理由はある。十分すぎるほどある。だが、今は殺さない。

 

子供たちが先だ。

 

蒼星は仮面の奥で息を浅くし、壁に残された小さな傷を探す。暗がりの中、震えた手で刻まれたような線が、奥へ続いていた。

 

「待ってて」

 

誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 

ナギか。子供たちか。それとも、殺意に足を止められそうになった自分自身か。

 

蒼星は短剣を握り直し、闇の奥へ進んだ。

 

蒼星は、壁に刻まれた小さな傷を追って進んだ。

 

傷はまっすぐではなかった。高さも一定ではなく、時折途切れ、時折深く、時折ほとんど見落としそうなほど浅い。刻んだ者の手が震えていたのだろう。あるいは、急いでいたのかもしれない。それでも、その印は確かに奥へ続いていた。何も分からない迷宮の中で、子供が残せる精一杯の道しるべだった。

 

蒼星はその一つ一つを見逃さなかった。

 

足跡は途中で乱れている。小さな靴跡が固まって止まり、そこから一人分だけ少し横へ逸れ、また戻っている。怪我をした誰かを支えたのか、あるいは怖がって動けなくなった子を引っ張ったのか。血の跡は細く続いているが、量は増えていない。致命傷ではない。少なくとも、歩けなくなるほどではない。

 

生きている。

 

そう判断するたび、蒼星は速度を少しだけ上げた。

 

通路の先で、空気がさらに冷えた。壁の黒い石材が内側から湿っているように光り、足元には砕けた骨に似た白い鉱石片が散っている。最前線のダンジョンにある、嫌な場所によく似ていた。敵が強いからではない。仕組みそのものが人を削る場所。視界を惑わせ、音を歪め、判断を遅らせ、焦った者から順に飲み込む場所。

 

その奥に、小さな音があった。

 

すすり泣きではない。泣き声を必死に噛み殺す息遣い。

 

蒼星は足を止め、通路の角から気配だけを流した。正面に崩れた小部屋がある。壁が一部崩落し、人がしゃがんでようやく入れるほどの隙間ができている。その奥に、複数の小さな気配が固まっていた。ひとつ、ふたつ、三つ。さらに奥に二つ。全部で五人。

 

ナギの気配もある。蒼星は短剣を握る力を緩めた。

 

まだ生きている。

 

それを確認した瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ形を変えた。安堵ではない。まだ早い。ここから出すまで、安堵していい段階ではない。それでも、痕跡だけを追っていた時間よりは、確かなものがあった。

 

蒼星は小部屋の入口に立った。

 

中の子供たちが、びくりと肩を震わせる。採取用の布鞄を抱きしめていた子が息を呑み、怪我をした足を押さえていた子が泣きそうな顔で身を縮めた。無貌の仮面のせいで、彼らには蒼星が誰なのか分からない。そこにいるのに、輪郭が曖昧で、顔が読めず、敵か味方かを判断できないものに見えているはずだった。

 

その中で、ナギだけが前に出ていた。

 

震えていた。

 

けれど、他の子供たちを背中に庇うようにして、小さな石を握っていた。勝てるはずがない。投げたところで、目の前の何かを止められるはずもない。それでも、自分が最初に立つつもりだったのだろう。

 

蒼星は仮面を外した。

 

世界が少しだけ近くなる。

 

仮面の内側に押し込めていた音が戻り、子供たちの呼吸がはっきり聞こえた。蒼星という輪郭が戻った瞬間、ナギの目が大きく見開かれる。

 

「……お姉ちゃん?」

 

声は、ひどく小さかった。

 

蒼星は小部屋の中へ入り、片膝をついた。左手でいつものように頭を撫でてやる。

 

「迎えに来た」

 

その一言で、ナギの顔がくしゃりと歪んだ。

 

泣きそうになったのだろう。けれど、泣く前に唇を噛んだ。泣いたら音が出ると分かっている顔だった。蒼星が教えたことを、こんな場所で守っている顔だった。

 

「途中で、変だって思った。だから、戻ろうって言った。でも、駄目だって。先に歩けって。罠があるかもしれないからって、僕たちが軽いからって」

 

ナギの声は、そこで一度詰まった。怖かったのだろう。

 

怒っているのではない。泣きたいのでもない。ただ、自分が何をされたのかを、言葉にするだけでまたその時の怖さが戻ってくるのだ。蒼星は頭を撫でていた左手を止めなかった。

 

「よく戻ろうとした」

「でも、戻れなかった」

「それでも、戻ろうとした」

 

ナギが顔を上げる。

 

仮面を外した蒼星の顔は、いつもと同じように静かだった。けれど、ナギには分かった。蒼星は怒っている。大きな声を出していないだけで、目の奥がひどく冷たくなっている。

 

「印もつけた」

「……うん」

「怪我した子も、止血した」

「ロロが布をくれて、ミナが結んだ。僕、やり方あんまり分からなかったけど、血が出てたから」

「十分」

 

蒼星は短く言った。

 

「全員、合格」

 

その言葉で、ナギの顔がまた歪んだ。

 

今度こそ泣きそうになったが、それでも声は出さなかった。奥で身を寄せ合っていた子供たちも、ようやく蒼星が味方だと理解したのか、張り詰めていた肩を少しだけ落とした。

 

蒼星は怪我をした子の足を見る。

 

布の巻き方は拙い。けれど、出血は抑えられている。骨は折れていない。痛みで歩幅は落ちるだろうが、支えれば動ける。

 

「回復薬、半分だけ飲んで」

 

蒼星はインベントリから小瓶を取り出し、怪我をした子へ渡した。

 

「全部飲まない。痛みが引いたら残りは持ってて」

「は、はい」

 

小さな手が震えながら瓶を受け取る。

 

蒼星は次にナギを見た。

 

「人数」

「五人。僕と、ミナと、ロロと、エルと、トウリ」

「他に連れてこられた子は」

「分からない。でも、声は聞いてない。途中で別の子はいなかったと思う」

「分かった」

 

最低限、この五人を連れて帰る。それだけを決めた瞬間、遠くで音がした。

 

重い音だった。

 

足音というより、石の床そのものが内側から叩かれたような音。壁に積もった埃がぱらぱらと落ち、子供たちが一斉に息を止める。

 

蒼星は顔を上げた。

 

「来る……」

 

ナギが小さく呟く。

 

「見た?」

「ちゃんとは見てない。でも、大きかった。すごく大きくて、壁を削りながら歩いてた。あの人たち、それを見たら僕たちを置いて逃げた」

 

壁を削る。ボス部屋がない。通路を歩く。

 

蒼星は、そこでようやく形を掴んだ。

 

この未確認エリアには、徘徊型のボスがいる。

 

蒼星は左手の短剣を逆手に握り直す。通路の奥から、それが姿を現した。

 

獣の頭蓋に似ていた。

 

だが、牛ではない。鹿にも、山羊にも、何かの古い骨にも見える。左右非対称に伸びた角の片方が壁を削り、もう片方は途中で折れ、その断面から黒い石のような外殻が歪に盛り上がっている。

 

胴体は四足の獣のようでいて、ところどころ人の骨格に似た不自然な関節が混ざっていた。背には古い鎧の破片のような殻が張りつき、ひび割れた隙間から赤黒い光が脈打っている。

 

目はない。

 

少なくとも、蒼星には見えなかった。

 

けれど、顔のない頭蓋がこちらを向いた瞬間、空気そのものが重くなった。

 

無貌の仮面で完全に外せる相手ではない。音か、振動か、熱か、あるいはこのエリアに踏み込んだ存在そのものを拾っているのか。分からない。だが、分からないなら分からないままでいい。今必要なのは、解析ではなく時間だった。

 

頭上に、歪んだ文字が一瞬だけ浮かび上がる。

 

迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)

 

それが、この未確認エリアに徘徊しているものの名だった。

 

徘徊型ボスを倒せるような武器ではなかった。今の身体で正面から受けるなど論外だ。だから、倒すことは考えない。いなす。躱す。遅らせる。

 

子供たちを逃がすための数秒を買う。

 

それだけでいい。

 

「ナギ」

「う、うん」

「みんなを立たせて。トウリは二人で支える。声を出さない。私が合図するまで走らない」

「分かった」

 

ナギは震えながらも頷いた。

 

「僕が、みんなを連れていく」

「そうして」

 

蒼星は短く答えた。

 

怖がっている。震えている。それでも、ナギの目はまだ折れていなかった。蒼星が教えたことを、この場所で必死に繋ぎ止めている目だった。

 

迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)が、一歩踏み出す。

 

床が鳴った。

 

小部屋の入口にいた子供たちが、声を出さないように口を押さえる。怪我をしたトウリを、ミナとロロが両側から支えた。エルは採取鞄を抱えたまま、ナギの服の裾を掴んでいる。

 

蒼星は半歩前へ出た。

 

骸獣の顔のない頭蓋が、わずかに下がる。

 

来る。

 

そう判断した瞬間、蒼星は床に転がっていた小石を蹴り上げた。石は通路の右壁に当たり、甲高い音を立てて跳ねる。骸獣の頭蓋が、音の方へわずかに向いた。

 

その隙に、蒼星は左へ。

 

短剣の刃を外殻の隙間へ差し込むつもりはなかった。狙ったのは、角と壁の間に挟まった黒い殻の縁。そこへ刃を引っかけ、力ではなく角度で軌道をずらす。

 

重い衝撃が腕に返ってきた。

 

受けてはいない。

 

それでも、左肩から背中まで痺れるような痛みが走る。

 

蒼星は歯を食いしばらなかった。痛みに反応すれば、次の動きが遅れる。短剣を離さず、刃を滑らせ、そのまま身体を沈めて骸獣の横を抜ける。

 

骸獣の角が壁を削った。黒い石片が飛び、通路に鈍い音が響く。

 

「今」

 

蒼星は言った。

 

叫ばなかった。けれど、その声はナギに届いた。

 

「行くよ」

 

ナギが小さく言う。

 

子供たちが動いた。走り出したい恐怖を必死に押さえながら、ナギを先頭に、怪我をしたトウリを支え、細い通路へ向かって進む。足音はどうしても出る。呼吸も荒い。けれど、誰も泣かなかった。誰も叫ばなかった。

 

蒼星は骸獣との間に立ったまま、子供たちの足音を背中で数えた。

 

一人。

 

二人。

 

三人。

 

四人。

 

五人。

 

全員、小部屋を出た。

 

骸獣が、子供たちの方へ頭蓋を向ける。蒼星は迷わず、短剣の柄で壁を叩いた。

 

音が響く。

 

骸獣の反応が戻る。

 

「こっち」

 

仮面をつけていない蒼星の声が、暗い通路に落ちた。

 

迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)が、ゆっくりと蒼星へ向き直る。

 

子供たちの足音が遠ざかる。

 

まだ近い。

 

まだ足りない。

 

蒼星はもう一度、壁を叩いた。

 

今度は少し強く。

 

通路全体が震え、骸獣の外殻の隙間から赤黒い光が脈打つ。索敵が蒼星へ向く。圧が増す。空気が重くなる。

 

それでいい。

 

蒼星は短剣を構えた。

 

倒せない。受けられない。長くは持たない。

 

けれど、ナギたちが角を曲がるまでなら。

 

その先の分岐までなら。足音が、さらに遠くなる。

 

「お姉ちゃん……!」

 

ナギの声が、通路の向こうから小さく届いた。

 

蒼星は振り返らなかった。

 

振り返れば、骸獣から目を離すことになる。だから、声だけを返す。

 

「行って」

「でも」

「合格したでしょ」

 

一瞬の沈黙。

 

それから、ナギが息を呑む気配がした。

 

「……うん」

 

足音が再び動き出す。今度は、迷いが少なかった。

 

ナギが先頭に立っているのだろう。蒼星が刻んだ道ではない。ナギが、自分で選んで進んでいる。怖くても、震えていても、他の子供たちを連れて逃げている。

 

それでいい。

 

蒼星は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

骸獣が、低く唸る。

 

石を擦り潰すような音が、喉の奥から漏れた。

 

蒼星は短剣を握り直す。

 

左手一本。

 

小さな刃。戻らない装備。足りない身体。それでも、ここに立つ理由は足りていた。

 

ナギたちの足音が、最後の角を曲がって消える。

 

蒼星はそれを聞き届けた。

 

子供たちは逃げた。なら、ここから先は、蒼星の仕事だった。

 

闇の中で、残った星が一つ、徘徊する怪物の前に立つ。そして、仮面のない顔で静かに告げた。

 

金色の瞳が、暗い通路の中で静かに光った。

 

無貌の仮面の奥で、蒼星はニヤリと嗤った。

 

「久しぶりに告げる」

 

声は平坦だった。怒鳴りもしない。震えもしない。

 

ただ、かつて幾度もそうしてきたように、死を告げるための声だった。

 

「ここでお前を殺す」




この女、武術とか習った経験ないです。

ここに来てナギ以外の子供の名前が判明
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