Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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蒼星、腕が……


戦う理由

ナギは、振り返りそうになる首を必死に前へ向けた。

 

通路の奥から、石が砕ける音が響いている。壁を削る重い音。床を踏み砕くような音。何かがぶつかり、そして時折、鋭い金属音が混ざる。それが蒼星の短剣の音なのか、怪物の外殻を削った音なのか、ナギには分からなかった。

 

けれど、分かることもある。

 

お姉ちゃんは、まだ戦っている。

 

ナギは唇を噛み、トウリを支えるミナとロロの方を見た。トウリの顔は青い。回復薬を半分飲んだおかげで出血は止まっているが、足を引きずるたびに小さく息を詰めている。エルは採取鞄を胸に抱えたまま、泣きそうな顔でナギの後ろについてきていた。

 

「こっち」

 

ナギは壁に残された傷を見つけて、小さく言った。

 

行きに自分がつけた印だ。

 

手が震えて、まっすぐには刻めなかった。途中で何度も途切れたし、深さもばらばらだった。それでも、今はそれだけが道しるべだった。蒼星が見つけてくれた印。自分たちが戻るためにも、必要になる印。

 

ナギは後ろにいる四人をもう一度だけ確認した。

 

ミナとロロはトウリを支えている。エルは採取鞄を抱えたまま、泣きそうな顔で、それでも声を出さずについてきている。五人全員いる。誰も欠けていない。誰も置いていない。それを数えてから、ナギはまた前を向いた。

 

お姉ちゃんが言っていた。

 

怖い時ほど、分かるものを数えろ。

 

全部を分かろうとしなくていい。分からないものに目を奪われるな。道、音、足跡、壁、匂い、自分の足、隣にいる人。分かるものを一つずつ拾って、次にすることを決めろ。

 

だから、ナギは見る。

 

壁の傷。床の足跡。鉄鳴の大人たちが逃げた方向。背後で響く怪物の音。そして、まだ追いついてこない蒼星の気配。

 

「ナギ……」

 

エルが震えた声で呼んだ。

 

「お姉ちゃん、来ないの?」

 

ナギは、すぐに答えられなかった。

 

来る、と言いたかった。

 

お姉ちゃんなら来る。どんなに怖い場所でも、どんなに強い相手でも、お姉ちゃんなら何とかして、少し遅れて、いつもの静かな顔で追いついてくる。そう言えば、みんなが少し安心するのは分かっていた。

 

でも、ナギは嘘をつけなかった。

 

「……来られるように、僕たちがちゃんと逃げる」

 

それが、今言える精一杯だった。

 

蒼星は「行って」と言った。

 

戻るなとは言わなかった。けれど、戻っていいとも言わなかった。

 

ナギには、その違いがまだ分からなかった。分からないまま、足を進めるしかなかった。ここで止まれば、お姉ちゃんが作ってくれた時間が無駄になる。振り返れば、トウリが歩く時間が減る。泣けば、音で怪物に気づかれるかもしれない。

 

だから、進む。

 

進みながら、考える。

 

お姉ちゃんなら、どうするか。

 

その頃、蒼星はまだ、迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)の前に立っていた。

 

短剣の刃は、すでに欠けている。左肩は痺れ、踏み込むたびに脇腹の奥が軋んだ。右腕がないせいで、回避の後に身体を戻すのが遅れる。

 

速度はある。反応もある。今でも、踏み込もうと思えば踏み込める。

 

けれど、全力を出した瞬間、欠けた右側が重心を受け止めきれず、身体がわずかに流れる。切り返しで、右腕で殺していたはずの慣性が残る。跳ぶ、曲がる、止まる。そのすべてに、ほんの少しの歪みが生まれる。

 

そのわずかが、致命的だった。

 

骸獣の角が壁を削る。

 

蒼星は半歩だけ退き、短剣の峰で外殻の縁を叩いて軌道を逸らした。受けたわけではない。それでも衝撃は骨まで響き、左手の指先が一瞬だけ痺れる。

 

重い。

 

硬い。

 

速くはない。

 

だが、通路が狭すぎる。

 

逃げ道も、踏み直す場所も、角度を作る余白も少ない。最前線の広い戦場なら、殺し方はいくつもあった。天夜のドレスがあり、夜走りがあり、右腕があり、今より整った武器があれば、もっと違う戦い方ができた。

 

だが、今あるのは欠けた短剣と、左手一本と、崩れた身体だけ。

 

蒼星は息を浅く吐いた。

 

ナギたちは、逃げられただろうか。

 

そう考えている自分に気づいて、蒼星は仮面の内側で少しだけ笑った。

 

おかしな話だった。

 

この世界が現実になってからの自分なら、まず考えるのは効率よく殺す方法だったはずだ。どう壊すか。どこを穿つか。どれだけ損耗を減らし、どれだけ効率よく勝つか。邪魔なものは排除する。必要なら殺しはためらわない。それが生き残るために正しいと、ずっと思っていた。

 

なのに今は、勝ち筋より先に、子供たちの足音を数えている。

 

ナギはちゃんと前を見ているだろうか。トウリは歩けているだろうか。ミナとロロは、怪我をしたトウリを支えられているだろうか。エルは泣かずに、採取鞄を抱えたままついていけているだろうか。

 

五人全員が角を曲がったか。分岐まで辿り着けたか。誰も転んでいないか。誰も置いていかれていないか。

 

そんなことを、戦いの最中に考えている。

 

「……変わったな」

 

蒼星は小さく呟いた。

 

骸獣が低く唸る。

 

蒼星は欠けた短剣を構え直し、痛みで震えそうになる左手を押さえ込んだ。

 

変わった。効率だけなら、こんな戦い方はしない。

 

子供たちを逃がすために自分が残り、倒せるかも分からない相手を足止めし、追いつける保証もないまま時間を稼ぐ。あまりにも効率が悪い。悪すぎる。

 

それでも。

 

悪くないと思ってしまった。

 

蒼星は、笑った。

 

骸獣が踏み込む。

 

黒い角が、通路を裂くように迫る。

 

蒼星は身体を沈め、紙一重でそれを躱した。左足を軸に回り込む。だが、右側の重さがない。切り返しが遅れる。骸獣の肩にあたる外殻が、蒼星の身体をかすめた。

 

衝撃で壁に叩きつけられる。

 

息が詰まった。

 

視界の端が白く弾ける。

 

それでも蒼星は倒れなかった。

 

倒れたら、起き上がる時間がいる。

 

その時間は、今はない。

 

一方、ナギたちは通路の分岐まで辿り着いていた。

 

行きに見た覚えのある場所だった。壁の黒い模様が歪み、床には鉄鳴の足跡がいくつも交差している。戻る道は右。そう思った瞬間、左奥にわずかな光が見えた。

 

「ナギ、そっち違うよ」

 

ミナが震えながら言った。

 

「うん」

 

ナギも分かっていた。

 

出口は右だ。

 

けれど、左の小部屋には、鉄鳴の足跡がなかった。骸獣が通った跡もない。床の埃が薄く積もったままなのに、部屋の奥だけ、何かが置かれているような不自然な空白がある。

 

宝箱だった。ナギは足を止めた。

 

蒼星はまだ来ない。

 

戻るべきだ。逃げるべきだ。

でも、あの人は今、足りない身体で戦っている。

 

右腕がない。武器だって、あの短い刃だけだった。それでも、自分たちを逃がした。

 

ナギは震える手を握った。

 

「見るものを、見る」

 

小さく呟いて、ナギは光のある小部屋へ足を向けた。

 

「ナギ……?」

 

ミナが不安そうに呼ぶ。

 

「ちょっと待って」

 

ナギは小さく答え、足元に落ちていた小石を拾った。

 

それを宝箱の前へ軽く投げる。

 

小石は床に当たり、乾いた音を立てて転がった。何も起きない。針も出ない。床も抜けない。魔法陣の光も浮かばない。

 

次に、ナギは採取用の細い棒を伸ばし、宝箱の側面を軽く突いた。

 

やはり、何も起きない。

 

「開けるの?」

 

ロロが震えた声で聞いた。

 

「開ける」

「お姉ちゃんに怒られない?」

「分からない。でも……」

 

エルが小さく言った。ナギは少しだけ唇を噛んだ。

 

怒られるかもしれない。

 

いや、たぶん怒られる。

 

勝手に寄り道をした。逃げろと言われたのに、出口ではない方へ進んだ。危ないかもしれない宝箱に手を伸ばしている。

 

それでも、ナギは宝箱から目を離せなかった。

 

この場所は変だ。

 

初心者用ダンジョンではない。鉄鳴の大人たちも知らなかった場所。骸獣が通っていない小部屋。誰も踏み荒らしていない床。そして、奥に置かれた宝箱。

 

意味がある。

 

そう思った。

 

蒼星なら、きっとそう考える。

 

「怒られるかもしれない」

 

ナギは小さく言った。

 

「でも、何も見ないで逃げたら、もっと怒られると思う」

 

ミナもロロも、何も言わなかった。

 

トウリは痛みに耐えるように息を詰めている。エルは採取鞄を抱えたまま、泣きそうな顔で宝箱を見ていた。

 

ナギは震える手を伸ばした。

 

蓋に触れる。

 

冷たい。

 

金属とも石とも違う、変な冷たさだった。

 

ナギは息を止め、ゆっくりと蓋を開けた。

 

軋む音が、小部屋の中に小さく響く。

 

全員が息を呑んだ。

 

何も飛び出してこない。

 

爆発もしない。

 

ただ、宝箱の内側から、淡い光がこぼれた。

 

中に入っていたのは、一冊の本と、腕だった。

 

「……腕?」

 

エルが小さく呟く。

 

それは、人の腕ではなかった。

 

黒と銀の金属で作られた、腕に重ねるための兵装。指は細く、関節は滑らかで、けれど前腕にあたる部分には無骨な弾倉のような機構が並んでいる。手首の内側には、星を刻んだような紋様があった。

 

星天《せいてん》

レアリティ:ユニーク

鍛冶神ヘファイストスが鋳造した、星落としの腕部兵装。

健在なる腕に重ね、装着者の肉体そのものを、星を撃つ砲身へ変えるための神造武装である。

 

ナギには、説明の意味がすべて分かったわけではない。

 

けれど、分かることもあった。

 

腕だ。

 

武器だ。

 

そして、お姉ちゃんに必要なものだ。

 

「これ……」

 

ナギは震える手で、星天に触れた。

 

重い。

 

子供の腕では持つだけで精一杯の重さだった。けれど、不思議と持てないほどではない。まるで、今この場で誰かに届けられることだけは許されているような、ぎりぎりの重さだった。

 

蒼雷《そうらい》

AGIを一時的に超強化するスキル。

単なる速度上昇ではない。神経伝達、反応速度、姿勢制御をまとめて引き上げ、使用者の機動力を強制的に底上げする。

強化状態中、使用者は蒼い雷を身に纏う。また、攻撃には雷属性が付与され、低確率で攻撃対象をスタン状態にする。

 

ナギは息を呑んだ。

 

AGI。速度。姿勢制御。

 

蒼星は速い。

 

でも、今は右腕がないせいで、うまく動けない。

 

ナギには細かい理屈は分からない。それでも、さっき見た蒼星の姿を思い出す。短い刃を左手に持ち、自分たちを背中に庇って、あの怪物の前に立っていた姿。

 

足りない身体で、無理やり戦っていた。

 

「これ、お姉ちゃんに届けなきゃ」

 

ナギが言うと、ミナが顔を青くした。

 

「戻るの?」

「戻ったら、あの怪物がいるよ」

 

ロロも震えながら言った。

 

「お姉ちゃん、行ってって言った」

「うん」

 

ナギは頷いた。

 

「でも、戻るなとは言ってない」

「それ、さっきも言ってたけど……」

「分からない」

 

ナギは正直に言った。

 

「僕も分からない。戻ったら怒られるかもしれない。危ないことをするなって言われるかもしれない。でも、このまま逃げたら、お姉ちゃんはあのまま戦う」

 

通路の奥から、また大きな音が響いた。

 

石が砕ける音。

 

何かが壁に叩きつけられる音。

 

ナギの肩が跳ねる。

 

「僕たちが戦うんじゃない」

 

ナギは星天を抱え直した。

 

重い。腕が震える。それでも、離さなかった。

 

「お姉ちゃんが戦えるようにするだけ」

 

ミナとロロは顔を見合わせた。

 

トウリが苦しそうに息を吐く。

 

「僕は……走れない」

「トウリは出口の方へ」

 

ナギは言った。

 

「ミナとロロは、トウリを連れて右の道へ行って。エルも一緒に」

「ナギは?」

 

エルが泣きそうな顔で聞いた。

 

「僕が届ける」

「一人で?」

「一人の方が速い」

 

そう言ってから、ナギは少しだけ目を見開いた。

 

それは、お姉ちゃんが言っていた言葉に似ていた。

 

『一人の方が速い』

 

お姉ちゃんは、自分たちを助けに来る時もそう言ったのだろうか。

 

なら。今度は、自分が行く番だ。

 

ミナが唇を噛んだ。

 

「駄目だよ。ナギだけじゃ」

「でも、全員で戻ったら遅くなる」

 

ナギは星天とスキルブックを抱えたまま、震える足で立った。

 

「僕が行って、渡して、すぐ戻る。お姉ちゃんが動けるようになったら、きっと追いついてくる」

「本当に?」

 

エルが聞いた。ナギは答えに詰まった。

 

本当かどうかは分からない。

 

でも、信じるしかない。

 

「ご褒美、まだもらってないから」

 

ナギはそう言った。

 

声は震えていた。

 

けれど、不思議とその言葉だけは、少しだけ強く出た。

 

「お姉ちゃんは、約束したから」

 

その頃、蒼星は膝をつきかけていた。

 

迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)の外殻が、通路の壁を削りながら迫る。蒼星は短剣を引っかけて軌道を逸らそうとしたが、欠けた刃が嫌な音を立てて弾かれた。

 

衝撃が左腕を抜ける。

 

指先の感覚が一瞬消えた。

 

まずい。

 

そう判断するより早く、骸獣の肩が蒼星の身体をかすめる。完全には避けた。直撃ではない。それでも軽い身体は壁へ叩きつけられ、肺の中の空気が抜けた。

 

視界が揺れる。

 

立て直す。

 

まだ倒れない。

 

倒れたら、次はない。

 

蒼星は短剣を握り直した。

 

刃はもう、まともに使える状態ではない。削る、逸らす、引っかける。それくらいしかできない。殺すための刃ではなく、時間を稼ぐための欠片になっている。

 

それでも、まだ足止めはできる。

 

ナギたちが出口へ向かう時間くらいは。

 

そう思った瞬間、蒼星はまた笑いそうになった。

 

本当に、効率が悪い。

 

意味がある死。

 

そんなものを、自分が考える日が来るとは思わなかった。

 

死ぬのは非効率だ。

 

生きている方が、次に繋がる。そう思ってきた。

 

なのに今は、ナギたちが逃げられるなら、それでもいいと考えかけている。

 

「……悪くないなぁ」

 

蒼星は、血の味が混じる息で小さく笑った。

 

「闇鍋の宴のみんなは、怒るかな」

 

白金は、笑ってるだろう。

塩宮は、次に繋げてくれるだろう。

凍星は、哀悼してくれるだろうか。

恋葉は、泣きながら怒る。

渚沙はおろおろしながら、困った顔をする。

松林は笑いながら、笑っていない目で怒る。

月詠は、墓に酒をかけて弔ってくれる。

シジミーは、無茶と無理を重ねる。

雨葉は、どこか遠くから悼んでくれるだろう。

椒は、仇討ちとかしそうだな。

 

そして、ナギもシオンも怒る。

 

ご褒美をまだ渡していない。

 

合格だと言った。

迎えに来たと言った。

 

なら、帰らなければならない。

 

「……駄目か」

 

蒼星は、欠けた短剣を握り直した。

 

「まだ、死ねない理由がある」

 

骸獣が、再び踏み込んだ。

 

黒い外殻の隙間で赤黒い光が脈打ち、折れた角が壁を削りながら迫る。蒼星は短剣を構え直し、身体を横へ流した。躱す。いなす。まともに受けない。受ければ終わる。分かっているのに、身体の右側にあるはずの重さがないせいで、回避の終わりに足がほんの少しだけ遅れた。

 

その隙を、骸獣は逃さなかった。肩にあたる黒い外殻が、蒼星の脇腹を掠める。

 

掠めただけだった。それでも、衝撃は重かった。

 

蒼星の身体が壁へ叩きつけられ、背中から肺の空気が抜ける。視界が一瞬だけ白く弾け、膝が落ちかけた。蒼星は左手で床を叩き、無理やり身体を支える。

 

倒れない。

 

倒れれば、起き上がる時間がいる。

 

その時間はない。

 

骸獣が首のない頭蓋をゆっくりとこちらへ向ける。目はない。けれど、確かに蒼星を捉えている。

 

蒼星は欠けた短剣を握り直した。

 

「まだ」

 

声が掠れた。

 

「まだ、足りない」

 

ナギたちはどこまで行った。

 

分岐は越えたか。出口へ向かっているか。

 

トウリは歩けているか。

ミナとロロは支えられているか。

エルは泣かずについていけているか。

ナギは、前を見ているか。

 

その時だった。通路の向こうから、足音が聞こえた。

 

軽い足音。子供の足音。

 

蒼星の金色の瞳が、わずかに揺れる。

 

聞き間違いではない。

 

一人分。

 

速い。

 

だが、戦闘職の足音ではない。恐怖で乱れた足音を、必死に整えようとしている足音だった。

 

「お姉ちゃん!」

 

ナギの声が、暗い通路に響いた。

 

蒼星は振り返らなかった。

 

振り返る余裕がなかった。

 

骸獣から目を離せば、その一瞬で潰される。

 

「戻るなって――」

 

言いかけた蒼星の声を、ナギが遮った。

 

「言われてない!」

 

震えていた。泣きそうだった。それでも、ナギは叫んだ。

 

「お姉ちゃんは、行ってって言っただけ!考えるなとは言ってない!」

 

蒼星は、一瞬だけ言葉を失った。

 

骸獣が動く。

 

蒼星は反射で身体を沈めた。角が頭上を掠め、壁を削る。砕けた黒い石片が頬を打った。痛みはある。けれど、それよりも背後から近づいてくるナギの気配の方がずっと怖かった。

 

「ナギ、下がって」

 

「これ!」

 

ナギは蒼星の言葉を聞かなかった。いや、聞いたうえで、止まらなかった。

 

通路の影から飛び出し、何かを抱えてこちらへ走ってくる。小さな身体には不釣り合いなほど重そうな、黒と銀の腕部の武装。そして、胸に押しつけるように抱えた一冊の本。

 

蒼星の視界に、表示が浮かんだ。

 

《星天》

レアリティ:ユニーク

鍛冶神ヘファイストスが鋳造した、星落としの腕部兵装。

 

その隣に、もう一つ。

 

《蒼雷》

AGIを一時的に超強化するスキル。

 

蒼星は、ほんの一瞬だけ笑った。

 

「……ヘファイストス」

 

こんな場所で。こんなタイミングで。これほど都合よく、自分に必要なものが出てくる。

 

罠かもしれない。

代償があるかもしれない。

そもそも、今の蒼星が扱える保証もない。

 

それでも。今は、使うしかなかった。

 

「投げて」

 

蒼星が言う。

 

ナギは頷き、まずスキルブックを投げた。

 

蒼星は左手で受け取る。開く余裕などない。だが、スキルブックは使用者の意思に反応し、ページが勝手にめくれた。蒼い文字が浮かび上がり、光となって蒼星の左手から身体へ流れ込む。

 

《蒼雷》を習得しました。

 

神経の奥で、何かが弾ける。まだ発動はしていない。

 

けれど、身体がその可能性を認識した。

 

次に、ナギは星天を抱え直した。

 

重いのだろう。

 

腕が震えている。

 

それでも、ナギは手放さなかった。

 

「こっちへ!」

「駄目」

 

蒼星は即座に言った。

 

「近づかないで。そこから滑らせて」

 

ナギは一瞬だけ迷い、それから頷いた。

 

星天を床へ置き、両手で押し出す。

 

黒と銀の腕部の兵装が、石の床を滑った。途中で小さな段差に引っかかり、止まりかける。ナギが息を呑む。蒼星は一歩だけ後ろへ下がり、左足で星天の端を引き寄せた。

 

その動きに反応して、骸獣が頭蓋を下げる。

 

蒼星は短剣の柄で壁を叩いた。

 

音が響く。

 

骸獣の索敵が、ナギではなく蒼星へ戻る。

 

それでいい。

 

蒼星は床に膝をつきかけながら、星天へ左手を伸ばした。

 

触れた瞬間、兵装が開いた。

 

腕に装着するための機構が、本来あるべき腕を探すように動く。だが、そこに腕はない。蒼星の右側には、失われた空白だけがある。

 

星天は一瞬だけ停止した。

 

次の瞬間、機構が形を変えた。

 

欠損を補うために作られたものではない。

 

健在なる腕に重ね、装着者の肉体を星を撃つ砲身へ変えるための神造兵装。

 

それでも、ユニーク装備は装着者を選ぶ。

 

星天は、蒼星の失われた右側へ喰らいつくように接続された。

 

「っ――」

 

痛みが走った。

 

骨のない場所に骨を押し込まれるような痛み。

 

存在しない指先が焼けるような痛み。

 

失ったはずの右腕が、もう一度そこにあると錯覚するほどの重さと熱。

 

蒼星は声を噛み殺した。

 

星天が、右肩から先に固定される。

 

黒と銀の金属が、失われた腕の代わりのように形を取り、指がわずかに開いた。

 

義手ではない。

 

腕ではない。

 

砲身だ。

 

それでも、重さが戻った。

 

右側に、支点が戻った。

 

蒼星はゆっくりと立ち上がる。

 

「お姉ちゃん……」

 

ナギの声が震えていた。

 

蒼星は振り返らないまま言った。

 

「怒るのは、後」

「うん」

「戻ってきたことも、後で怒る」

「うん」

「でも」

 

蒼星は星天の指を開いた。金属の関節が、ぎこちなく鳴る。

 

痛い。

重い。

 

まだ馴染まない。けれど、動く。

 

「ありがとう、助かった」

 

ナギの息が、詰まったように聞こえた。

 

「今度こそ行って。ミナたちのところへ戻って、出口へ向かって」

「お姉ちゃんは?」

「追いつく」

「ほんと?」

 

蒼星は、少しだけ笑った。

 

「ご褒美、まだ渡してないから」

 

ナギは泣きそうな顔で、それでも頷いた。

 

「絶対だよ」

「うん」

「絶対、追いついて」

「うん」

 

ナギは走り出した。今度は迷わなかった。

 

通路の向こうへ、ミナたちの待つ方へ、蒼星が作った時間を無駄にしないために走っていく。

 

その足音が遠ざかるのを聞きながら、蒼星は迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)へ向き直った。

 

骸獣が低く唸る。

 

赤黒い光が、外殻の隙間で脈打つ。

蒼星は左手で欠けた短剣を握り、右腕に宿った星天を前へ向けた。

 

表示が浮かぶ。

 

固有スキル《装填》。

 

星天に属性弾をリロードする。

 

星天に残っていた属性弾を確認する。

 

一発。二発。三発。

 

星天の弾倉に光が灯る。

 

火。雷。氷。

 

まだ少ない。十発には足りない。

 

《蒼天》は撃てない。

 

けれど、今はそれで十分だった。

 

蒼星は息を吸う。

 

足元に、蒼い雷が走った。

 

蒼雷

 

AGIを一時的に超強化するスキル。

単なる速度上昇ではない。神経伝達、反応速度、姿勢制御をまとめて引き上げる、荒ぶる雷。

 

蒼星の身体を、蒼い光が包む。速さは戻る。いや、戻るのではない。

 

今ある身体のまま、さらに上へ引き上げられる。

 

やることは一つ。

 

宣告は下した。

 

万全ではない。身体は痛む。星天はまだ馴染まない。蒼雷の負荷も、すでに神経の奥を焼き始めている。

 

けれど、腕がある。

なら、今まで使えなかったものが使える。

崩れた身体では届かなかった速度に、もう一度だけ手が届く。

 

蒼星は星天の指を開いた。

 

金属の関節が軋む。

 

痛みはある。

 

だが、動く。

 

「まだだ」

 

蒼星は、迷宮骸獣(ラビュリント・カーカス)を見据えた。

 

「私は、まだ戦える」

 




星天
レアリティ:ユニーク

鍛冶神ヘファイストスが鋳造した、星落としの腕部兵装。
健在なる腕に重ね、装着者の肉体そのものを、星を撃つ砲身へ変えるための神造武装である。

装填されるものは弾丸ではない。

火であり、雷であり、氷であり、光であり、闇であり、星を穿つために圧縮された属性そのもの。

装着者は、星天に属性弾を装填することで、その力を打撃、射出、あるいは杭打ちのような一撃へ変換できる。

ただし、神造兵装の反動は軽くない。

扱う者の肉体には強い負荷がかかり、制御を誤れば、星を撃つ前に自らの身体を壊すことになる。

《装填》
星天に属性弾をリロードする。
装填された属性弾は、星天内部で圧縮され、射出、打撃、貫通攻撃へ変換される。

《蒼天》
十発の属性弾を一気に射出する必殺技。
十の属性弾を連続装填し、杭打ち機の要領で一点へ叩き込む。撃ち出されるのは弾丸ではなく、圧縮された属性そのもの。

十の星を束ね、一点へ撃ち込む時、その一撃は名を変える。

《蒼天》

星天は腕ではない。
星を撃ち落とすための砲身である。

スキル:蒼雷 active

蒼雷を纏う者は、瞬きの間に間合いを奪う。
その一撃には雷が宿り、触れた敵の動きを縫い止めることがある。
速さは力であり、雷は刃である。
だが、扱いを誤れば、その雷は己をも裂く。

AGIを一時的に超強化するスキル。
単なる速度上昇ではない。神経伝達、反応速度、姿勢制御をまとめて引き上げ、使用者の機動そのものを雷の域へ押し上げる。

強化状態中、使用者は蒼い雷を身に纏う。

その雷は攻撃にも宿り、斬撃、打撃、接触のすべてに雷属性を付与する。さらに低確率で、攻撃対象をスタン状態にする。
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