リンは、拘束されたまま笑っていた。
両手首には死糸が絡み、膝と足首は
鉄鳴の本陣は沈黙している。
六人のフルパーティーは崩れた。盾役は倒れ、槍使いは意識を落とし、狙撃手は弓を握れず、魔法使いと支援役は獣たちに押さえ込まれている。呪術師も動かない。
町の火は、まだ完全には消えていない。けれど、孤児院を押し潰そうとしていた包囲は、もう壊れていた。蒼星は大剣を石畳に突き立てたまま、リンを見下ろしていた。
背中の傷は深い。黒白の修道装の内側には血が滲み、星天の接続部はまだ熱を持っている。蒼雷の反動で脚も震えていた。
それでも、蒼星は倒れなかった。
「聞くことがある」
蒼星は言った。リンは唇の端を上げる。
「何を?」
「連盟は、次に何をするの」
リンの笑みが深くなった。
「……知りたいの?」
「うん」
「知ってどうするの。あなたたち、ここを守って勝ったつもり?」
椒の眉が動いた。
「何がおかしい」
「おかしいわよ」
リンは喉の奥で笑った。
「本当におかしい。町を守った。子供を助けた。シオンも折れなかった。私たちも倒した。それで、全部間に合ったと思っているの?」
凍星が白杖フィエルティジムを握り直した。
「本題を言え」
リンは凍星を見て、それから蒼星へ視線を戻した。
「戦争よ」
炎の音が、少しだけ遠くなった気がした。
蒼星は目を細める。
「戦争?」
「ええ」
リンは楽しそうに頷いた。
「連盟と連合がぶつかる。三日後、旧砦跡でね」
「連合?」
蒼星は、その言葉を知らなかった。
連盟は分かる。鉄鳴が属している組織だ。査問だの秩序だのを掲げ、前線と物資を握り、レッドPLを狩る名目で町を包囲した側。けれど、連合という名前には聞き覚えがない。リンはそれを見て、少しだけ満足そうに笑った。
「知らないのね。あなたがこの町で子供たちと過ごしている間に、外ではもうそういう話になっているのよ」
蒼星は答えない。
リンは続けた。
「連盟に対抗するために集まった勢力よ。大手だけじゃない。連盟のやり方に反発したギルド、物資を握られていた中小勢力、前線から距離を置いていた連中。そういうものが、まとめて連合を名乗り始めた」
凍星の表情が変わった。
「……旧砦跡で、三日後」
「そう」
リンは笑う。
「もう止まらない。準備は進んでいるし、火種も撒き終わっている。あなたたちがこの町で遊んでいる間にね」
椒の紫炎が低く揺れた。
「遊んでた、だと?」
「事実でしょう?」
リンは椒を見上げた。
「この町を守るために、時間を使った。子供を助けるために、時間を使った。シオンを守るために、時間を使った。その間に、旧砦跡では戦争が始まる準備が整っている」
蒼星は静かに聞いた。
「それだけ?」
リンの目が細くなる。
「ええ。正面からの戦争だけなら、まだ綺麗だったかもしれないわね」
「どういう意味」
「連盟側には、正式な戦力とは別に、第三勢力としてレッドPLの徒党が混じる」
蒼星の視線が冷えた。
リンはその反応を見て、わざとらしく言葉を続ける。
「戦争の混乱に乗じて、連合を横から強襲する。指揮系統を乱し、補給を焼き、後衛を潰す。誰が誰を殺したか分からない混乱の中なら、いくらでもやれる」
椒が一歩、前へ出た。
「それで?」
リンは笑った。
「特に狙われるのは、元闇鍋のメンバー」
凍星の周囲で、獣たちが低く唸った。
リンは笑みを深める。
「全員、殺されるわ」
その言葉に、椒の紫炎が跳ねた。
炎が膨らむ。町を焼く赤ではない。椒の内側で燻っていた怨嗟が、刃の上で一瞬だけ形を変えたような、濃い紫の火だった。
「……誰を殺すって?」
低い声だった。
いつもの軽さがない。挑発でも、笑いでもない。刃を抜く前の、静かな確認。
リンはそれを見上げ、楽しそうに目を細めた。
「元闇鍋のメンバーよ。連合側にいる者も、合流しようとしている者も、まとめてね」
「もう一回言ってみろ」
「全員、殺される」
椒の大太刀が、リンの喉元へ近づいた。
「椒」
蒼星が止めた。声は掠れていたが、届いた。椒は振り返らない。
「蒼星さん、こいつは」
「まだ聞く」
「聞いてどうする。どうせ――」
「聞く」
その一言で、椒は歯を食いしばった。紫炎が揺れる。けれど、大太刀は止まった。蒼星はリンを見下ろした。
「レッドPLの徒党。数は」
「正確には知らないわ。けれど、一パーティーや二パーティーじゃない。戦争に紛れ込ませるために集められた連中よ。混乱が好きで、奪うのが好きで、弱いところを刺すのが好きな連中」
リンの目が、わざとらしく蒼星をなぞる。
「あなたと同じ、赤い名前のね」
蒼星は否定しなかった。ただ、星天の指がゆっくりと握られる。
「蒼星さんは、あいつらとは違う」
椒が低く言った。それは自分に向けた言葉にも聞こえた。
リンは笑う。
「そう思っているのは本人だけかもしれないわよ」
「黙れって言ったよな」
椒の声がさらに沈む。
凍星が白杖フィエルティジムを軽く鳴らした。
「椒、挑発に乗るな。情報の方が先だ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「うるせぇ」
蒼星は二人のやり取りを聞きながらも、視線はリンから逸らさなかった。
「旧砦跡まで、どれくらい」
凍星が答える前に、リンが笑った。
「ここからなら、通常移動で五日以上。馬を潰しても四日。転移門は連盟が押さえる。強行突破? その身体で?」
リンの視線が蒼星へ向く。黒白の修道装は血を吸い、星天はまだ熱を吐いている。背中の傷は深く、立っているだけでも不自然な状態だった。
「無理よ」
リンは言った。
「あなたたちは勝った。ここではね。でも、その勝利に時間を使った。子供を助け、町を守り、シオンを守った。その間に、向こうでは戦争の準備が終わっている」
蒼星は何も言わなかった。
リンはさらに続ける。
「守るものを選べば、選ばなかったものは壊れるのよ。シオンが嫌いだった理由、少しは分かった?」
蒼星の指が、大剣の柄を握る。星天が低く軋んだ。
「あなたはここを選んだ。だから旧砦跡には届かない。元闇鍋の連中も、連合も、向こうにいる誰かも、あなたが間に合わなかったせいで死ぬ」
炎の音がする。
遠くで、町の人々が水桶を運ぶ声が聞こえる。孤児院の方から、誰かが泣く声も聞こえた。
リンは笑ったまま言う。
「全部は守れないわ」
蒼星は、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開く。
「全部守れるとは言ってない」
リンの笑みが、わずかに止まる。
「でも、間に合わないって決まったわけでもない」
「強がりね」
「違う」
蒼星は大剣を杖代わりにして、どうにか姿勢を保った。
血が石畳に落ちる。
「間に合わせる方法を探す」
リンは声を立てて笑った。
「その身体で? その人数で? 三日後の旧砦跡へ? 馬鹿げているわ」
「うん」
蒼星は否定しない。
「普通なら、無理」
凍星が小さく息を吐いた。
「普通ならな」
椒が横目で凍星を見る。
「奏雨、何かあるのか」
「今はない。けど、普通じゃない方法を探すしかない」
「それ、だいたい蒼星さんが無茶する流れじゃねぇか」
「だろうな」
二人の視線が蒼星へ向く。蒼星は少しだけ目を伏せた。
「無茶で済むなら、する」
「済まないかもしれないだろ」
椒の声には怒りが残っていた。蒼星は答えようとして、そこで膝が落ちかけた。
視界が一瞬、白く揺れる。
星天の接続部が軋み、背中の傷が熱を持った。黒白の修道装の自動回復は働いているが、追いついていない。立っているだけで血が流れている。
「蒼星さん!」
凍星が動こうとした。けれど、その前に別の声が割り込んだ。
「そこまでです」
シオンだった。
杖を握り、顔色を悪くしたまま、それでも真っ直ぐに歩いてくる。防衛戦の支援と治療で消耗しているはずなのに、その声だけは揺れていなかった。
「全員、孤児院へ戻ってください」
蒼星はシオンを見る。
「でも」
「でも、ではありません」
シオンの声は静かだった。
「蒼星さん、あなたは今すぐ倒れてもおかしくない状態です。椒さんも火傷が酷い。凍星さんも魔力を使いすぎています。戦争の話をするにしても、移動手段を考えるにしても、まず治療と休息が先です」
リンが拘束されたまま笑った。
「休んだところで間に合わないわ」
シオンはリンを見た。その目は、怒っていた。けれど、声は荒げなかった。
「それを決めるのは、あなたではありません」
リンの笑みが少しだけ消える。シオンは蒼星へ向き直った。
「帰ってきたばかりでしょう」
その言葉に、蒼星は何も言えなくなった。
帰ってきた。ただいま、と言った。
おかえりなさい、と言われた。それなのに、またすぐ壊れようとしている。
シオンは続ける。
「行くなとは言いません。言っても、あなたは行くのでしょうから」
「……うん」
「なら、行ける状態にします。だから今は戻ってください」
椒が小さく笑った。
「先生、強ぇな」
凍星も肩をすくめる。
「正論すぎて、蒼星さんが反論できてない」
蒼星は少しだけ目を伏せた。それから頷く。
「分かった」
「本当に分かっていますか」
「たぶん」
「そこは、はいと言ってください」
「はい」
シオンはようやく小さく息を吐いた。
凍星が獣たちへ短く命じ、リンと鉄鳴の残党を見張らせる。椒はリンの拘束を確認し、大太刀を下ろした。町の火は、住人たちが少しずつ消し止め始めている。
勝った。
少なくとも、この町では。それでも、誰も勝利を口にしなかった。
三日後。
旧砦跡。
連盟と連合の戦争。
その裏で動くレッドPLの徒党。元闇鍋のメンバーを殺すという宣告。蒼星は、煙で濁った空を見上げた。
星は見えない。けれど、そこに道がないわけではない。
「間に合わせる」
小さく呟いた声に、椒が反応した。
「また無茶する気かよ」
「する必要があるなら」
「だと思った」
凍星が呆れたように笑う。
「まずは治療。それから無茶の方法を考えよう」
シオンが頷いた。
「その通りです」
蒼星は、もう一度だけリンを見た。
リンは黙っていた。
笑ってはいたが、その笑みにはさっきほどの余裕がない。三日後、旧砦跡、連盟と連合、レッドPLの徒党。置いていく絶望として投げたはずの言葉を、蒼星がまだ諦めていないからだ。
蒼星は大剣を石畳に突き立て、息を吐いた。
背中が熱い。
星天の接続部が軋む。
黒白の修道装の内側で、自動回復が細く働いているのが分かる。
それでも、まだやることがある。
「リン」
名前を呼ばれ、リンが顔を上げた。
「何。まだ聞きたいことがあるの?」
「ない」
蒼星は静かに答えた。
「必要なことは聞いた」
リンの目が細くなる。
「なら、殺す?」
椒の紫炎がわずかに揺れた。凍星の獣たちも、低く身構える。けれど、蒼星は首を横に振った。
「殺さない」
「……優しいのね」
「違う」
蒼星はリンを見下ろした。
「逃がさないだけ」
その瞬間、蒼星の視界の端に、職業限定スキルの表示が浮かんだ。
罪業値照合。
敵対行動確認。
町への包囲指揮。
放火の容疑。
非戦闘員への殺害。
戦闘不能者、低レベル帯への危害誘導。
レッドPLとの共同行動記録。
確保判定、成立。
蒼星は、リンを縛っている死糸を軽く引いた。
リンの顔から、笑みが消える。
「何を……」
「送る」
蒼星は言った。
「監獄エリアへ」
リンの足元に、冷たい灰色の紋様が開いた。
魔法陣ではない。転移門でもない。もっと無機質で、もっと事務的なもの。システムが対象の行動履歴を読み取り、逃走と再戦の可能性を封じるために開く、咎人の行き先。
リンが初めて、はっきりと声を荒げた。
「ふざけないで。あなたに裁く権利なんて――」
「裁かない」
蒼星は遮った。
「私は、送るだけ」
灰色の鎖がリンの身体を引いた。リンは抵抗しようとしたが、死糸と《戒縛凶鎖》で縛られた身体は動かない。足元の紋様が広がり、リンの膝から下が光の中へ沈み始める。
「蒼星……!」
リンの声には、怒りと屈辱が混ざっていた。
蒼星はその目を見返す。
「シオンは折れなかった」
リンの表情が歪む。
「子供たちも戻った」
灰色の光が腰までリンを呑む。
「町も、まだ残ってる」
リンは何かを言おうとした。けれど、声になる前に、灰色の鎖が喉元まで巻き上がる。
蒼星は最後に言った。
「あなたは、そこで自分の咎を数えて」
リンの姿が、光の中へ沈んだ。一瞬だけ、リンの目が蒼星を睨む。次の瞬間、その姿は完全に消えた。視界の端に、表示が走る。
監獄エリアへの送致が完了しました▼
PKPL確保実績を記録しました。
蒼星は、しばらくその表示を見ていた。
殺さない。
逃がさない。
裁かない。
ただ、罪の記録が残る場所へ送る。
それが、
リンが消えた後、鉄鳴の本陣にはしばらく沈黙が落ちた。
炎の音だけが残っている。
崩れた指揮幕。割れた魔法通信の結晶。地面に落ちた剣と盾。戦闘不能になった鉄鳴の五人。誰も声を上げなかった。リンがいた場所には、灰色の光の残滓だけが薄く残り、やがてそれも石畳に溶けるように消えていく。
蒼星は、倒れている鉄鳴の五人へ視線を向けた。リンと同じではない。
全員が同じだけの罪を背負っているわけではない。命令された者もいる。疑わなかった者もいる。止めなかった者もいる。積極的に加担した者もいる。けれど、ここで放置していい相手ではなかった。
町を包囲した。逃げ道を塞いだ。孤児院へ人々を追い込んだ。その行動の記録は、消えない。
蒼星は小さく息を吐き、糸を引いた。
リンに使った時ほど強い光ではない。けれど、倒れた五人の足元にも、同じ灰色の紋様が順に開いていく。
行動履歴照合。
敵対行動確認。
町への包囲参加。
火計への協力、または黙認。
確保判定、成立。
灰色の鎖が、戦闘不能になった鉄鳴のPLたちを包んだ。
「……殺さないんだな」
椒が言った。
蒼星は、鉄鳴の一人が光に沈むのを見ながら答えた。
「殺す理由がない」
「逃がす理由もない、か」
「うん」
凍星が白杖フィエルティジムを軽く鳴らす。
「便利な職業だな。いや、便利って言うには重すぎるか」
「使えるなら、使う」
「蒼星さんらしいな」
凍星はそう言って、倒れていた最後の鉄鳴メンバーが監獄エリアへ送致されるのを見届けた。
監獄エリアへの送致が完了しました▼
PKPL確保実績を記録しました。
表示が消える。それを確認した瞬間、蒼星の膝が落ちた。
大剣を支えにしていたはずの右腕から力が抜け、星天の指が石畳を掻く。黒白の修道装の内側で血が広がり、背中の傷が熱を持ったまま脈打っている。
「蒼星さん!」
椒と凍星が同時に動いた。
だが、その前に白い光が蒼星の背中へ触れた。
「動かないでください」
シオンの声だった。
静かで、けれど逆らえない声。
蒼星は顔を上げる。
シオンはいつの間にか近くまで来ていた。杖を握る手は白く、顔色も悪い。孤児院の防衛で、回復魔法も支援魔法も使い続けたはずだった。それでも、蒼星の前に立つ姿だけは崩れていなかった。
「シオン」
「はい」
「終わった」
「見れば分かります」
シオンは蒼星の傷口に光を当てながら、少しだけ眉を寄せた。
「それと、あなたがまた死にかけたことも分かります」
蒼星は何も言えなかった。
椒が小さく笑う。
「先生、説教はあとでいいか?こいつ、本当に倒れるぞ」
「あとでします」
凍星が肩をすくめる。
「蒼星さん、抵抗しない方がいい。今の彼女には勝てない」
「うん」
蒼星は素直に頷いた。シオンはそれを見て、少しだけ息を吐く。
怒っている。
呆れている。
泣きそうにも見える。
けれど、その手は優しかった。
「全員、孤児院へ戻ります。あなたも火傷を見せてください。君も魔力切れ寸前でしょう。町の消火は住人の方々に任せます。あなたたちは、もう十分戦いました」
椒が大太刀を肩に担ぎ直す。
「俺はまだ動けるけどな」
「動けることと、動いていいことは違います」
「……はい」
椒が珍しく素直に引いた。
凍星が小さく笑う。
「負けたね~」
「うるせぇ」
蒼星はそのやり取りを聞きながら、もう一度だけ本陣の跡を見た。
リンはいない。鉄鳴のメンバーも送った。
火を撒いていたレッドPLたちも、残っていた者は椒と凍星の獣たちが追い散らしている。
完全な勝利ではない。
町は燃えた。傷ついた人もいる。壊れたものも多い。
それでも、孤児院は残った。
ナギたちは帰ってきた。
シオンは折れなかった。
蒼星は、黒煙の向こうにある孤児院の屋根を見た。
帰る場所が、まだそこにあった。
「戻ろう」
蒼星が言うと、シオンは静かに頷いた。
「はい。帰りましょう」
その言葉に、蒼星は少しだけ目を伏せた。
帰る。
戦いから逃げるのではなく、次へ向かうために。
一度、帰るのだ。
孤児院の食堂には、まだ人の気配が残っていた。
避難していた町の人々は少しずつ外へ戻り始めていたが、子供や怪我人はまだ中にいる。床には水桶が並び、壁際には包帯と布が積まれ、机の上には薄めた回復薬と冷めたスープが置かれていた。
ナギたちは、食堂の隅に固まっていた。
ナギ。
ミナ。
ロロ。
エル。
トウリ。
五人とも煤で汚れている。泣いた跡もある。けれど、生きていた。蒼星が食堂に入った瞬間、ナギの顔がくしゃりと歪んだ。
「お姉ちゃん!」
走り出そうとしたナギを、シオンが手で止めた。
「ナギ、ゆっくりです。蒼星さんは怪我をしています」
ナギはその場でぴたりと止まる。けれど、止まっただけだった。泣きそうな顔で、両手を握りしめて、蒼星を見ている。
蒼星は少しだけ困った。
近づくべきか。座るべきか。何を言えばいいのか。
分からなかった。
だから、いつものように短く言った。
「ただいま」
その一言で、ナギは泣いた。
ミナもロロも、ほっとしたように肩を落とした。エルは採取鞄を抱えたまま鼻をすすり、トウリは顔を隠している。つまみ食いを誤魔化す時とは違う、誤魔化しようのない泣き方だった。
シオンが椅子を引く。
「蒼星さん、座ってください。治療を続けます」
「うん」
蒼星は椅子に座った。
星天を一度外し、黒白の修道装の留め具を緩める。背中の傷を見たシオンの眉が、はっきりと険しくなった。
「……これは」
「刺された」
「見れば分かります」
「ギリギリで残った」
「それも分かります」
シオンの声が低い。
「あとで詳しく聞きます」
「はい……」
蒼星が素直に返事をすると、椒が吹き出しそうになり、凍星が口元を押さえた。
シオンは二人を見た。
「お二人もあとで診ます」
「はいはい~」
「分かった」
食堂の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
戦いは終わった。少なくとも、この場所では。
シオンの回復魔法が背中に触れる。痛みが消えるわけではない。傷が塞がる速度も遅い。それでも、血が止まり、呼吸が少し楽になる。
蒼星は治療を受けながら、ナギたちを見た。
五人とも、まだこちらを見ている。ナギは泣きながら、何かを言いたそうにしていた。
蒼星は少し考えてから、左手を伸ばした。
「ナギ」
「……うん」
ナギが近づく。
今度はシオンも止めなかった。
蒼星は、椅子の横に置いていた小さな包みを取った。
それは、黒骸回路へ向かう前から用意していたものだった。本当なら、もっと早く渡すはずだったもの。けれど、渡す前に子供たちはダンジョンへ入り、蒼星は追いかけ、町は燃えた。
渡せなかった約束。
まだ残っていた約束。
「ご褒美」
ナギの目が丸くなる。
「……ご褒美?」
「ちゃんと戻ってきたら、あげるって言った」
ナギは言葉を詰まらせた。
「でも、僕……」
言いかけて、俯く。
怖かった。
逃げた。
戻ろうとした。
蒼星を置いていった。
そう思っているのだろう。蒼星は包みをナギの手に乗せた。
「合格」
ナギの指が震える。
「僕、合格なの?」
「うん」
「逃げたよ」
「生きて戻った」
「怖かった」
「怖くても、ミナたちを連れて戻った」
「お姉ちゃんを置いていった」
「私がそう言った」
蒼星の声は、静かだった。
「だから、合格」
ナギは泣きそうな顔のまま、包みをほどいた。
中にあったのは、小さな剥ぎ取り用のナイフだった。
子供の手でも扱えるように、柄は細く削られている。滑らないように革が巻かれ、刃は長すぎず、刺すためではなく素材を剥ぐために整えられていた。鞄に留められる革鞘もついている。
そして、柄尻には小さな星の印が刻まれていた。ナギはそれを見たまま、しばらく動かなかった。
「これ……」
「ナギの」
「僕の?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
ナギはナイフを両手で持った。
鞘に入ったままのそれを、宝物みたいに大事に抱える。
「武器じゃない」
蒼星は言った。ナギが顔を上げる。
「道具。素材を剥ぐためのもの。食べるものを取るためのもの。必要なものを持ち帰るためのもの」
「……道具」
「使い方を間違えたら危ない。最初はシオンかアルベリッヒの前で使って」
ナギはこくこくと頷いた。
「お姉ちゃんは?」
蒼星は少しだけ黙った。それから答える。
「帰ってきたら、教える」
ナギの目に、また涙が溜まった。
「また行くの?」
「うん」
「危ないところ?」
「たぶん」
「……行ってほしくない」
ナギの声は小さかった。蒼星は、どう答えればいいのか少し迷った。
行かないとは言えない。危なくないとも言えない。必ず大丈夫とも言えない。
だから、嘘はつかなかった。
「行く」
ナギの顔が歪む。
「でも、帰る」
蒼星は続けた。
「帰ってきて、使い方を教える」
ナギはナイフを胸に抱きしめた。
「約束?」
「約束」
「絶対?」
「絶対」
ナギは泣きながら頷いた。
「じゃあ、僕、待ってる。今度はちゃんと待ってる。知らない人についていかない。危ないと思ったらシオン先生に言う。ミナたちと一緒にいる。勝手に行かない」
「うん」
「だから、帰ってきて」
蒼星はナギの頭に左手を置いた。
軽く。壊れものに触れるみたいに。
「帰る」
ナギは声を上げて泣いた。
ミナとロロがその横に寄り添い、エルがナギの背中を撫で、トウリが鼻をすすりながら「ずるい、僕も触りたい」と小さく言った。
蒼星は少しだけ困った顔をした。
それから、ナギの頭に置いていた手を離さず、空いている指でトウリの額を軽く突いた。
「つまみ食いしないなら」
「してない」
「嘘」
食堂に、小さな笑いが広がった。それは戦いの後に残った、ひどく弱い笑いだった。
けれど、確かにそこにあった。
蒼星は、ナギが握る星の印のナイフを見た。
渡せた。まだ果たせていない約束はある。
三日後の旧砦跡。元闇鍋のメンバー。連盟と連合の戦争。
間に合わないと言われた場所。けれど、今ここで、一つだけは果たせた。
蒼星は小さく息を吐いた。
帰る理由が、また一つ増えた。
ナギたちが眠ったあと、食堂には静かな灯りだけが残っていた。
町の火は、ようやく大きな勢いを失っている。窓の外にはまだ煙が流れていたが、悲鳴はもう聞こえない。代わりに、遠くで水桶を運ぶ音と、壊れた板を片づける音がしていた。
蒼星は食堂の椅子に座っていた。
黒白の修道装は一度外され、背中の傷を見るために上半身には包帯が巻かれている。星天も机の上に置かれ、時折、冷えきらない熱を吐くように小さく軋んでいた。
シオンは、蒼星の背中に手を当てていた。
回復魔法の光が、傷口に薄く滲む。
「痛みますか」
「痛い」
「正直ですね」
「嘘をつく意味がない」
「では、次からは痛くなる前に戻ってきてください」
蒼星は少しだけ黙った。
「それは難しい」
「でしょうね」
シオンの声は静かだった。怒っているようにも、呆れているようにも、泣きそうなようにも聞こえた。包帯を結び直す手つきは丁寧だった。けれど、その指先には少しだけ力が入っている。
「蒼星さん」
「うん」
「行くんですね」
蒼星はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
燃え残った町。
壊れた柵。
焦げた壁。
けれど、孤児院は残っている。
ナギたちは、食堂の奥で眠っていた。ミナとロロが身を寄せ合い、エルは採取鞄を抱えたまま丸くなっている。トウリは寝ながら何かを食べる夢でも見ているのか、口元をもごもご動かしていた。
ナギの手には、星の印が刻まれた剥ぎ取り用のナイフが大事そうに握られている。
蒼星は、それを見てから答えた。
「行く」
シオンの手が、一瞬だけ止まった。
「前に、聞きましたよね」
「何を」
「ここで暮らしませんか、と」
蒼星は、視線だけをシオンへ向けた。
覚えている。
この孤児院で、朝食を食べて、子供たちに囲まれて、町へ行って、シオンに叱られて、アルベリッヒに怒鳴られて。
そういう日々を続けてもいいのではないかと、言われた。
蒼星はその時、考えとく、と答えた。
断らなかった。それは、拒絶できなかったからだ。
「答えは出ましたか」
シオンが静かに聞いた。蒼星は、少しだけ目を伏せる。
「うん」
「聞かせてください」
蒼星は、眠っている子供たちを見た。
「ここにいたいと思った」
シオンの表情が、わずかに揺れた。
蒼星は続ける。
「朝、ナギがうるさい。ミナとロロはよく分からないことで笑う。エルは採取したものを見せに来る。トウリはつまみ食いして、すぐばれる」
食堂の奥で、トウリが寝返りを打った。
蒼星は少しだけ目を細める。
「シオンは怒る。アルベリッヒも怒鳴る。町の人はまだ少し警戒してるけど、それでも追い出さなかった」
「……はい」
「そういうの、悪くなかった」
蒼星は自分の左手を見た。
血と傷の残る手。
人を殺した手。
それでも、ナギの頭を撫でた手。
「だから、ここにいたい」
シオンは何も言わなかった。言えば、何かが崩れてしまうと思ったのかもしれない。けれど、蒼星はその前に言った。
「でも、だから行く」
シオンの目が揺れる。
「それは、どういう意味ですか」
「ここにいるため」
蒼星の声は静かだった。
「赤い名前だから入れないとか、ここにいる資格がないとか、そういう話じゃない」
昔なら、そう言ったかもしれない。
自分はレッドPLだから。
人を殺したから。
誰かの食卓に混ざっていい人間じゃないから。
だから、前線へ戻る。
だから、孤児院にはいられない。
そう言えば、楽だった。
自分で線を引けば、傷つかずに済む。帰る場所など持たなければ、失うものも増えない。
けれど、もう違う。
「シオンが作った場所を見た」
蒼星は言った。
「ナギたちが帰ってくる場所を見た。町が燃やされても、誰かが誰かを助けようとするのを見た」
リンの笑みが、脳裏を過ぎる。
火。煙。逃げ道を塞ぐ炎。
泣きそうなナギの顔。
それでも折れなかったシオンの背中。
「今回みたいな理不尽は、また来る」
シオンは答えなかった。
「暴力で逃げ道を塞ぐ人がいる。子供を使う人がいる。守る人を折るために、守られる人を狙う人がいる」
蒼星は、ゆっくりと手を握った。
「そういう相手に、言葉だけじゃ止まらないことがある」
「蒼星さん」
「だから、私を使う」
シオンの顔が痛むように歪んだ。蒼星は続ける。
「私は壊す方が慣れてる。敵を殺す。追手を撒く。邪魔なものを断つ。逃げ道を作る。そういうことなら、できる」
そこで、蒼星は一度言葉を切った。昔なら、それだけだった。
できるからやる。
やれてしまうからやる。
他に使い道がないから、そこへ行く。
けれど、今は違う。
「でも、もう、それができてしまったからやるんじゃない」
シオンは、蒼星を見た。
蒼星も、シオンを見る。
「守りたいものがあるからやる」
食堂の奥から、小さな寝息が聞こえた。
ナギが、寝言のように「お姉ちゃん」と呟いた気がした。
蒼星はそちらを見た。
「ここに帰るために、前線へ戻る」
シオンは何も言えなかった。その言葉は、逃げるためのものではなかった。赤いネームだから孤児院に入れないという諦めではない。日常に馴染めないから戦場へ戻るという逃避でもない。
ここで平和な日常を過ごしたから。
この町を守ると決めたから。
シオンやナギ、孤児院の子供たちのために。
暴力という理不尽がここまで届かないように、自分自身を抑止力として使う。それは、最終的には帰る場所を守ることに繋がる。蒼星は、その答えを選んだのだ。
「……私は」
シオンはようやく口を開いた。
「あなたに、戦ってほしいと言ったわけではありません」
「うん」
「あなたに、盾になってほしいわけでもありません」
「分かってる」
「なら」
蒼星は静かに言った。
「シオンは、ここを守って」
シオンの手が止まる。
「私には、ここは作れない。毎日同じ場所にいて、ご飯を作って、子供たちを叱って、怪我を見て、帰ってくるのを待つ。そういうのは、シオンの方が強い」
蒼星は少しだけ目を伏せた。
「鉄は、奪うためではなく、守るために鳴る」
シオンの手が止まった。それは、鉄鳴がかつて掲げていた言葉だった。
前線に立つ者の盾となれ。
弱きを守れ。
鉄は、奪うためではなく、守るために鳴る。
リンが口にして、踏みにじった言葉。鉄鳴が掲げて、捨てた理念。
蒼星は静かに続けた。
「たぶん、いい言葉だった」
シオンは何も言わなかった。
「でも、今の鉄鳴はそうじゃない。守るための鉄じゃなくなった。人を囲んで、逃げ道を塞いで、火を放って、子供を使った」
蒼星は自分の左手を見た。血と傷の残る手。
「だから、私は鉄にはなれない」
シオンの視線が、蒼星へ向く。
「盾にもなれない。みんなを受け止めて、支えて、ここで鳴り続ける鉄にはなれない」
蒼星は、机の上に置かれた星天を見た。そして、少しだけ声を低くする。
「私は刃」
戦うために作られたもの。
斬るために振るわれるもの。
触れれば傷つけ、間違えれば守るものまで裂いてしまうもの。
それでも。
「届いた理不尽を断つ。ここへ伸びる手を断つ。逃げ道を塞ぐ鎖を断つ。誰かを踏み躙るものを、そこで止める」
蒼星はシオンを見た。
「私は、断つ者になる」
シオンは息を呑んだ。それは、綺麗な誓いではなかった。
誰も傷つけないという約束でもない。
けれど、蒼星が初めて、自分の力の使い道を自分で選んだ言葉だった。
「鉄は、シオンが鳴らして」
蒼星は静かに言った。
「私は、その外側で刃になる」
シオンはしばらく黙っていた。
それから、蒼星の包帯をもう一度だけ丁寧に結び直す。
「……刃は、鞘がなければ人を傷つけます」
「うん」
「なら、帰ってきてください」
シオンの声は、少しだけ震えていた。
「ここが、あなたの鞘になります」
蒼星はすぐには答えなかった。
食堂の奥で、ナギが寝返りを打つ音がした。小さな手が、星の印が刻まれたナイフを抱きしめている。蒼星は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……うん」
それだけ答えた。
けれど、その一言は、以前の「考えとく」とは違っていた。