凍星は、震える頭で次の剣を並べた。
もう手順は分かっている。
赤男爵の火属性弾で膜を焼く。
凍星の剣で輪郭を縫い止める。
椒の紫炎で傷を広げる。
一度通った道だ。なら、次は早い。
「赤男爵さん、同じ位置!」
「ヤヴォール!」
銃座が吠えた。
だだだだだだだだっ――!
嵐の中を、赤い弾線が走る。風に流され、毒雨に削られ、それでも火属性弾はグラウクスの胸元へ叩き込まれた。
そこへ、凍星の剣が重なる。
一本目。
二本目。
三本目。
半透明の剣が、焼けた膜を縫い止めるように突き刺さる。グラウクスの輪郭が濃くなり、胸の奥で脈打つ心臓へ続く道が、一瞬だけ開いた。
「椒!」
「任せろ!」
椒が跳ぶ。
凍星の置いた剣を踏み、《縮地》で距離を潰す。風が押し流そうとするたび、椒は紫炎を尾のように引いて体勢を戻した。
一歩。
二歩。
三歩。
紫炎を纏った太刀が、再びグラウクスの胸元へ叩き込まれる。完全な直撃ではない。だが、さっきより深い。紫の火が膜を焼き、呪いが傷口へ喰らいつく。グラウクスの身体が大きく跳ね、HPバーの二本目が目に見えて削れた。
「通ってる!」
赤男爵が叫ぶ。
「もっと撃つぞ!」
「撃って!」
凍星は即答した。
頭は痛い。
視界の端は白く霞み、白杖フィエルティジムを握る指先は震えている。蒼星を毒雨から守る面も維持しなければならない。椒の足場も置かなければならない。赤男爵の弾線と自分の剣を合わせ、グラウクスの膜が焼ける瞬間を読まなければならない。
それでも、止めない。
止めれば落ちる。
止めれば届かない。
「もう一回!」
凍星が叫ぶ。赤男爵の銃座が火を噴く。凍星の剣が走る。椒が縮地で空を駆ける。
蒼星は機体の外で糸を引き締め、左舷翼を繋ぎ止め続けていた。嵐に煽られた翼が暴れるたび、糸が指に食い込み、星天の接続部が熱を持つ。
それでも、緩めない。
蒼星が翼を持たせる。
Ju87が輸送機を落とさない。
赤男爵が火を撃ち込む。
凍星が道を作る。
椒が斬る。
その全部が噛み合って、蒼海漂龍《グラウクス》のHPバーが削れていく。
二本目が半分を切った。さらに削れる。総HPの三分の一に、届く。
その瞬間だった。グラウクスが、吠えた。
音ではない。空そのものが震えた。嵐が一瞬、止まったように見えた。
次の瞬間、蒼海漂龍《グラウクス》の身体が内側から濁る。
蒼ではない。
銀でもない。
白でもない。
紫。
緑。
黒。
毒そのものを溶かし込んだような色が、半透明だった身体を染め上げていく。
「……まずい」
凍星が呟いた。
グラウクスの輪郭が完全に定まる。半実体ではない。完全に、そこにいる。
毒雨が止んだ。代わりに、グラウクスの喉奥で、毒々しい光が膨らむ。
赤男爵が目を見開いた。
「形態変化……!」
Ju87が操縦桿を握り直す。
「来る」
グラウクスの口が開いた。
蒼い龍だったものが、毒々しく変色した喉の奥から、濁った光を吐き出す。
風が逃げる。
雷が裂ける。
毒が、束になって押し寄せる。
「ブレス!」
凍星が叫んだ。
椒は剣の足場を蹴って機体側へ戻る。
赤男爵が銃座を旋回させる。
蒼星は糸を引き、左舷翼を無理やり機体へ寄せる。
Ju87は輸送機を、落ちる寸前の角度へねじ込んだ。
毒ブレスが、輸送機のすぐ横を焼き抜ける。
外板が溶けた。
空気が腐った。
嵐の中で、戦いの形が変わった。
攻めていたはずの空が、今度は牙を剥いた。
毒ブレスが通り過ぎた後、輸送機の外板がじゅう、と嫌な音を立てる。腐ったような煙が上がり、金属の表面が黒く爛れた。
「外板腐食!後部配管、二本死んだ!」
赤男爵が叫ぶ。
「まだ飛ぶ」
Ju87は短く返した。だが、その声にも余裕はない。
操縦桿が重い。乱流が機体を掴み、グラウクスの風が輸送機を横へ押し流す。左舷翼は蒼星の糸で繋ぎ止められているだけだ。無理に機体を振れば、そのまま翼ごと千切れる。
蒼星は外で歯を食いしばった。
糸が鳴る。
毒雨は止んだ。けれど、それは楽になったという意味ではない。グラウクスは完全に実体化し、質量を持った身体で輸送機へ迫っている。鰭が空気を裂くたび、風の刃が機体を叩き、触角に走る雷が周囲の魔石管を狙って跳ねた。
「椒!」
凍星が叫ぶ。
「前に出るな!今の毒は受けたらまずい!」
「分かってる!」
椒は剣の足場へ戻りかけた足を止める。
さっきまでなら、実体化は攻撃の合図だった。斬れるなら踏み込めばよかった。けれど今は違う。常時実体化したグラウクスは、斬れる代わりに、近づいた者を毒で殺す形態へ変わっている。
麻痺。
猛毒。
防御力低下。
そのどれか一つでも受ければ、空中での戦闘は崩れる。椒が一瞬でも動きを止めれば、落ちる。凍星が一瞬でも面の維持を失敗すれば、蒼星が削られる。Ju87が一瞬でも操縦を誤れば、輸送機ごと終わる。
「赤男爵さん、牽制を!」
「ヤヴォール!」
銃座が火を噴く。
火属性弾がグラウクスの顔面へ向かう。だが、グラウクスは身を捩り、風を纏った鰭で弾線を逸らした。数発は鱗を焼いたが、傷は浅い。
凍星は息を呑む。
火は効く。
それは間違いない。
だが、削り切るには足りない。
さっきまでの手順では、もう間に合わない。グラウクスの喉奥で、再び毒々しい光が膨らむ。
二発目のブレス。
凍星は白杖フィエルティジムを握り締めた。
虹色の薄い面を重ねる。輸送機の前方に、斜めに、さらに重ねる。真正面から受け止めるのではなく、流す。逸らす。毒を含んだ魔力の束を、少しでも機体の外へ逃がす。
「来る!」
毒ブレスが放たれた。
世界が濁る。
紫と緑と黒を混ぜたような光が、嵐の中を押し潰すように進む。凍星の面に触れた瞬間、虹色の光が何枚も砕けた。
一枚。
二枚。
三枚。
足りない。
凍星は奥歯を噛み、さらに魔力を流し込む。頭が割れるように痛む。視界の端が白く焼ける。それでも、面をずらし、角度を変え、毒の流れを機体の下へ逃がした。
毒ブレスが輸送機の腹を掠める。
床が揺れた。
赤男爵が補助席へ叩きつけられ、椒が壁を蹴って体勢を戻す。Ju87は操縦桿を押さえ込み、機首を無理やり立て直した。
「今ので終わらなかったのは奇跡だな!」
椒が叫ぶ。
「奇跡ではない」
Ju87が言った。
「凍星が逸らした」
凍星は答えなかった。
答える余裕がない。今ので分かった。防げない。
逸らすことはできる。耐えることも、数回ならできる。けれど、それだけだ。次、また同じ威力で撃たれれば、面が砕ける。蒼星の防御も、椒の足場も、攻撃用の剣も、全部同時には維持できない。
このままでは押し潰される。凍星はグラウクスを見た。
毒々しく染まった龍の胸奥で、核が脈打っている。
火が効く。
アレなら届くかもしれない。
だが、ただの魔法ではない。あれを使うには条件がいる。手順がいる。時間がいる。
凍星は短く息を吐いた。
「……奥の手を切る」
椒が振り返る。
「奏雨?」
「このまま削るのは無理だ。形を変える」
赤男爵が銃座を握ったまま叫ぶ。
「何をする気であるか!」
凍星は白杖フィエルティジムを床へ突いた。
「必殺を使う」
その言葉に、椒の顔がわずかに変わった。
「それ、時間かかるやつだろ」
「かかる」
「この状況で?」
「この状況だから」
凍星はグラウクスから目を離さない。
「発動まで、私の手数が落ちる。蒼星さんを守る面も薄くなる。椒、赤男爵さん、注意を引いて。Ju87さん、魔法を当てられる位置へ機体を運んで」
Ju87が即答した。
「位置を言え」
「術式が開いたら分かる。範囲にグラウクスを入れて」
「やる」
椒が大太刀を握り直す。
紫炎が、刃の上で揺れた。
「つまり、時間稼ぎだな」
「うん」
「どれくらい?」
「十分。七箇所の接触条件を踏む。それから詠唱」
椒は一瞬だけ黙った。
それから笑った。
「長いな」
「短くはない」
「なら、その間は俺が前に出る」
赤男爵も笑った。
「ハハハハ!空の龍よ、聞こえるか!これより我輩が貴様の相手をしてやる!」
「弾を無駄にするな」
Ju87が言う。
「分かっておる!」
「分かっていない声だ」
凍星は白杖を床へ押しつけた。
第一条件。
魔法陣を照射する。
白杖フィエルティジムの石突から、細い光が落ちる。それは輸送機の床に触れた瞬間、円を描いた。
揺れる機内。
傾く床。
飛行中の輸送機。
本来なら、地面へ展開されるはずの魔法陣。けれど、ここに地面はない。ならば、最も近い足場を地面と見なす。輸送機の床に、白色の線が走った。
円が広がる。幾何学模様が刻まれる。
その中心に立つ凍星の周囲に、七つの光点が浮かび上がった。
《秘術:
発動条件が、開き始めた。
第二条件。
魔法陣内の指定箇所に触れる。
計七箇所。
MP貸与を伴う接触を経て、詠唱が赦される。
白色の魔法陣の中に、七つの光点が浮かび上がった。
一つ目は凍星の足元。
二つ目は傾いた床の端。
三つ目は銃座の近く。
四つ目は後方格納庫。
五つ目は開いたハッチの縁。
六つ目は機体の外へ伸びる魔法陣の端。
七つ目は、左舷側。
揺れる輸送機の中で、それらすべてに触れなければならない。
「十分って、これをやるのかよ」
椒が大太刀を担ぎ直す。
「無茶だな」
「うん」
凍星は短く答えた。
「だから、時間を稼いで」
椒は笑った。
「了解」
紫炎が太刀へ絡みつく。次の瞬間、椒はハッチから飛び出した。
凍星の置いた剣を踏み、《縮地》でグラウクスの前へ出る。斬るためではない。誘うためだ。毒ブレスの射線を、雷の狙いを、風の流れを、凍星から逸らすために。
「こっちだ、毒クラゲ!」
グラウクスが吠えた。
毒々しく染まった喉奥に、再びブレスの光が膨らむ。
椒は笑い、剣の足場を蹴った。
「奏雨、早くしろよ!」
「分かってる!」
凍星は一つ目の光点へ触れた。
MPが抜ける。魔法陣が脈打つ。
二つ目へ。
床が傾く。
三つ目へ。
輸送機が揺れ、凍星の身体が壁へ叩きつけられそうになる。だが、白杖フィエルティジムを支えにして踏み止まる。
赤男爵の銃座が火を噴く。
Ju87が機体を無理やり傾け、グラウクスのブレスを機体の腹すれすれに流す。
「落ちるぞ!」
赤男爵が叫ぶ。
「落としていない」
Ju87は前だけを見て答えた。
その外で、蒼星は左舷翼を繋ぎ止めていた。糸が軋む。箒星が、後方格納庫の壁に固定されたまま揺れている。蒼星はそれを見た。
左舷翼。
糸。
箒星。
星天。
火属性弾。
自分は今、翼を支えるために動けない。だが、アタッカーの火力が足りない。椒だけでは足りない。赤男爵の銃座だけでも足りない。凍星の神代魔法に、さらに何かを重ねる必要がある。
なら。使えるものは、全部使う。
蒼星は
「……杭になって」
大剣の柄に糸を巻きつける。
さらに刃の溝へ通し、左舷翼の破断面へ張っていた糸を、一本ずつ箒星へ移していく。
翼の重さが、蒼星の腕から大剣へ移る。ぎしり、と箒星が鳴った。
だが、折れない。アルベリッヒが作った大剣は、壊れない。蒼星は星天の指を外装から離した。身体が、自由になる。完全ではない。糸の調整は必要だ。翼もまだ死んでいる。
それでも、蒼星自身は動ける。蒼星は機体の外で、嵐の中心を見た。
凍星が条件を満たしている。
椒が囮になっている。
赤男爵が撃っている。
Ju87が機体を運んでいる。なら、自分が合わせるのは一つ。凍星の魔法が落ちる、その瞬間。
椒は笑った。
十分ね。長い。馬鹿みたいに長い。
嵐の中で、毒を吐く龍を相手に、壊れかけの輸送機を守りながら、奏雨が七箇所の接触条件を踏み、詠唱まで通す。
普通に考えれば無理だ。けれど、普通に考えて間に合うなら、そもそも空なんて飛んでいない。
「なら、その間は俺が前に出る」
口にした瞬間、紫炎が太刀へ絡みついた。
熱い。いつものことだ。
この炎は敵だけを焼く都合のいい炎ではない。柄を握る手を焦がし、袖を焼き、皮膚の下にあるものまで炙る。それでも、椒は手を離さない。
痛みはある。
だが、動ける。
なら問題ない。
椒は開いたハッチの向こうを見た。
嵐の中心で、蒼海漂龍《グラウクス》が毒々しい身体をくねらせている。さっきまでの蒼と銀の美しさは薄れ、今は紫と緑と黒が混じったような、毒そのものの色をしていた。
喉奥に光が溜まる。次のブレスだ。
「こっち見ろよ」
椒は大太刀を担ぎ、奏雨が置いた剣を踏んだ。
足場としては頼りない。
薄い。
軽い。
踏み方を間違えれば砕けるし、嵐に流されれば届かない。それでも、奏雨が置いた足場だ。落ちるわけがない。
「行くぞ」
一歩目。
《縮地》
視界が飛ぶ。
毒雨が頬を掠め、風が身体を横へ持っていく。その先に、二枚目の剣があった。椒は笑いながら踏む。
二歩目。
《縮地》
グラウクスの視線が動いた。
いい。こっちを見ろ。
奏雨を見るな。
蒼星さんを見るな。
輸送機を見るな。
椒は三枚目を踏み抜き、わざと太刀の紫炎を大きく燃え上がらせた。目立てばいい。斬れる場所まで届かなくてもいい。今の役目は、倒すことではない。
囮だ。
「おら、でかい図体してんだろ。こっちだ!」
グラウクスが吠えた。
風が来る。
真正面から受ければ、足場ごと吹き飛ばされる。椒は身体を沈め、奏雨が置いた四枚目の剣を斜めに蹴った。縮地の軌道を無理やり曲げる。
肺が潰れそうな風圧。だが、紫炎の尾が空に線を引く。
まだ動ける。
「奏雨、何個目だ!」
返事はない。返事がないなら、まだ途中だ。椒は舌打ちし、グラウクスの触角に雷が集まるのを見た。
まずい。狙いは奏雨のいる機内だ。
「させるかよ」
椒は大太刀を振った。届かない。分かっている。
だから、刃ではなく炎を飛ばす。
紫炎が裂けるように伸び、グラウクスの視界を横切った。ダメージは浅い。だが、呪いを含んだ火が触角の先を舐めた瞬間、雷の収束がわずかに乱れる。
グラウクスの頭が、椒へ向いた。椒は口元を吊り上げた。
「そうだ。俺を見ろ」
その背後で、輸送機の床に刻まれた白色の魔法陣が脈打っているのが見えた。
奏雨が動いている。
白杖フィエルティジムを支えに、揺れる機内を走るように移動し、光点へ触れていく。ひとつ。ふたつ。みっつ。接触するたびに魔法陣が深くなり、白色の線が濃くなる。
椒には、その術式の意味は分からない。
分からないが、あいつがやると決めたなら、それでいい。
奏雨はそういうやつだ。
分からないものを分からないままにしない。勝つために必要なら、頭が割れそうな顔をしてでも考え続ける。だから、椒の役目は単純だ。考える時間を作る。
「十分は長ぇな、ほんと」
椒は笑い、次の剣を踏んだ。グラウクスの喉奥で、今度こそ毒ブレスが膨らむ。椒はその射線へ、わざと身体を晒した。機内へ向かう角度ではない。蒼星へ向かう角度でもない。
自分を狙わせる。
「来いよ」
紫炎が太刀を包む。呪いが炎へ混じり、刃の輪郭が揺れる。
「焼かれるのは、そっちだけじゃねぇぞ」
グラウクスが毒を吐いた。視界が、紫と緑に染まった。
七つ目の光点に、凍星の指が触れた。瞬間、魔法陣が深く脈打つ。
白色の線が輸送機の床を走り、七つの光点が順に灯った。揺れる機内。傾く床。嵐の中を飛ぶ壊れかけの輸送機。そのすべてを無視するように、術式だけが条件の成立を告げる。
第二条件、完了。
あとは、射程範囲へ収めるだけ。
凍星は白杖フィエルティジムを握り直し、顔を上げた。
「Ju87さん」
「言え」
操縦席の声は短い。
「範囲に入れてください。できれば正面。外したら終わりです」
「誰に言ってる」
その返答に、迷いはなかった。凍星は一瞬だけ息を呑む。次の瞬間、輸送機が落ちた。いや、落ちたように見えた。
Ju87が機首を下げ、嵐の中へ輸送機を突っ込ませたのだ。風が翼を叩き、雷が機体の外板を掠め、毒の残滓が窓を濁らせる。左舷翼はまだ死にかけている。蒼星の糸がなければ、とっくに千切れている。
それでも、Ju87は速度を殺さない。
「おいおいおいおい!」
赤男爵が銃座にしがみつきながら笑う。
「魔王!それは飛行ではなく墜落寸前である!」
「墜ちていない」
Ju87は操縦桿を押さえ込んだまま答えた。
「飛んでいる」
輸送機が嵐の隙間を裂く。グラウクスとの距離が、一気に縮まった。
凍星はその中で、詠唱を始める。
「我は約定執行代行者、赦しを得たと愚見し、ここに眼差しを啓く」
七つの光が凍星の周囲を巡る。
一つ、また一つと、光の軌道が変わる。白色の魔法陣が床の上で広がり、輸送機の影を越え、嵐の底にある見えない地面へ触れようとする。
「選定を刻む。我が求むは焔影の
椒はまだ外にいた。
グラウクスの視線を引きつけるため、紫炎を燃やし、毒ブレスの射線を機体から逸らしている。だが、もう限界が近い。足場は嵐に削られ、紫炎も毒の風に煽られている。
蒼星はそれを見た。
そして、即座に判断する。椒を戻す。
今、凍星の詠唱が始まった。ここから先、椒が外にいれば巻き込まれるか、グラウクスの反撃で落ちる。
「椒」
蒼星は小さく呼んだ。声は届かない。
だから、糸を伸ばす。
蒼星の視界が細くなる。
嵐の音が遠ざかり、毒の匂いも、翼の軋みも、一瞬だけ薄くなる。見えるのは、椒の位置。風の流れ。凍星の魔法陣。グラウクスの核。そして、椒を引き戻すための線。
蒼星は糸を放った。細い糸が嵐を抜け、椒の腰へ絡む。
椒が振り返った。
「蒼星さん!?」
「戻す」
「まだ――」
「戻す」
蒼星はそれ以上聞かなかった。星天の指で機体外装を掴み、糸を引く。
椒の身体が、空中で強引に軌道を変えた。紫炎が尾を引き、グラウクスの爪がその残像を裂く。ほんの一瞬遅れていれば、椒は捕まっていた。
蒼星は歯を食いしばる。左舷翼を支える糸。椒を引き戻す糸。全部が悲鳴を上げる。
それでも、引く。
椒の身体が開いたハッチへ飛び込んだ。凍星が詠唱を続ける横を、椒が床へ転がる。
「乱暴だな!」
「生きてる」
蒼星は短く返した。
「文句は後」
椒は舌打ちしながらも、すぐに大太刀を構え直した。
凍星は止まらない。
「此の罪を柱へ縛れ、相見互えし春を喰え」
グラウクスが、輸送機の真正面に入る。Ju87の狂った操縦が、嵐の中心へ機体をねじ込んだ。
射程範囲。
凍星は白杖を掲げる。七つの光のうち、一つが赤く染まった。
「灰抱く愛撫。咎人を焼べる赤」
白い魔法陣が、輸送機の床を越えて広がった。
線は床をなぞっているはずなのに、そこに刻まれているのは床ではなかった。
円の内側から、夜よりも深い宇宙が覗く。星が瞬き、遠い光が揺れ、嵐の底にあるはずの空が、別の空へと塗り替えられていく。
焔が走った。赤い焔が、宙を焼く。
だが、それは雲を燃やす火ではない。
世界の表面を焼き、剥がし、その奥に隠されていた星空を引きずり出す火だった。
嵐の底が、星空になる。
毒の風も、雷の枝も、雨の残滓も、その白い魔法陣の内側では遠ざかる。
凍星は、赤く染まった光を見据えた。
七つの光のうち、一つだけが赤に染まっている。
罪を焼く色。
咎を暴く色。
火刑の柱へ、選ばれた敵を縛る色。
「
凍星の声が、白い魔法陣の中へ落ちる。
言葉が、世界の裏側へ届く。
そして、選定する。
――「『神代魔法:赤の咎』」
蒼星は、凍星の詠唱を聞いていた。
嵐の音がある。毒雨の残滓が外装を叩く音がある。左舷翼が軋む音がある。Ju87が機体を無理やりねじ込むたび、輸送機の骨が悲鳴を上げる音がある。
それでも、その声だけは通った。
凍星の声。
いつもの冷静な声ではない。
痛みに耐え、処理の限界を超え、それでも術式を手放さない者の声だった
凍星が神代魔法を選定する。
Ju87が射程へ運ぶ。
赤男爵が火線を通す。
椒が囮を終えて戻った。
なら、自分もただ翼を支えているだけでは足りない。
火力が足りないなら、足す。使えるものは、全部使う。
蒼星は左舷翼へ伸びる糸を見た。
もう、自分の腕だけで支えているわけではない。
長くは持たない。だが、この一瞬なら足りる。
蒼星が、凍星の魔法へ合わせるために空へ出る一瞬なら。
蒼星は機内の弾薬箱へ糸を伸ばし、火属性弾を一つ引き寄せた。
指先へ収まった赤い弾丸を、星天の側面へ当てる。
装甲が開く。
細い装填口が露出する。
蒼星は火属性弾を押し込んだ。
かちり、と硬い音。
《装填》
視界の端に表示が走る。
星天の内部で弾倉が回り、一発が薬室へ送られる。撃鉄めいた機構が起き、右腕の奥に赤い熱が灯った。
二度の噴射で焼けた接続部が、まだ脈打つように痛んでいる。火属性弾をもう一度撃てば、肩がどうなるか分からない。シオンにも、アルベリッヒにも、間違いなく怒られる。けれど、後があるならそれでいい。
今ここで落ちれば、怒られる後もない。
その瞬間、凍星の声が響く。
――「『神代魔法:赤の咎』」
白い魔法陣が、嵐の底に開いた。空の下に、地面ではない地面が生まれている。
輸送機の床を起点に、術式が世界へ食い込む。白い円の内側から夜よりも深い宇宙が覗き、星が瞬き、遠い光が揺れた。
焔が走る。赤い焔が、宙を焼く。
燃えているのは空ではない。世界の表面だった。嵐の底が剥がれ落ち、その奥から星空が現れる。
蒼星は、グラウクスの核を見た。毒々しく変色した龍の胸奥。そこに、青白い心臓が脈打っている。
狙う場所は一つ。だが、この位置からでは角度が足りない。
凍星の魔法が落ちる。
その軌道へ、自分の火を重ねるには、もう一歩前へ出る必要がある。
蒼星は、機体を蹴った。
「行く」
視界が細くなる。嵐の音が遠ざかる。
毒の匂いも、雷鳴も、翼の軋みも、全部が薄くなる。
残るのは、線。
落ちれば死ぬ線。
雷に裂かれれば死ぬ線。
風に流されれば届かない線。
そのすべての隙間に、踏める場所が見えた。
蒼星は、空を駆けた。足場はない。
けれど、蒼雷が足元で弾ける。
一歩。
空気を蹴る。
二歩。
星天の指が風を掴むように開き、崩れかけた姿勢を無理やり戻す。
三歩。
毒雨が頬を焼き、雷が視界の端を裂き、嵐が身体を横へ攫おうとする。それでも、蒼星は止まらない。
死ぬ線を踏む。死なない線だけを選ぶ。落ちるより早く、次の一歩を置く。
蒼雷が夜明け前の空に青白い軌跡を刻み、黒白の修道装が風に翻る。機体から離れ、嵐の中を横切り、蒼星はグラウクスの核へ向かって一直線に駆け抜けた。
凍星の焔が落ちる。その軌道に、蒼星が入る。
星天の砲口が、青白く脈打つ心臓へ向いた。
装填された火属性弾が、右腕の奥で赤く灯る。
星天が火を吐いた。赤い閃光が、嵐を貫いた。
白い魔法陣の内側から落ちる焔が、その火を呑み込む。
凍星の神代魔法が裁きを定め、蒼星の星天がその裁きへ砲口を合わせる。
その瞬間、蒼星と凍星の視界に同じ表示が走った。
特殊条件を確認しました▼
神代魔法と神装兵器の同期を確認。
同一対象への照準一致を確認。
火属性特効干渉を確認。
『神代魔法:赤の咎』を《装填》。
凍星が目を見開いた。
神代魔法が、星天へ流れ込んでいる。
本来、術式として落ちるはずだった焔が、蒼星の右腕へ収束し、火属性弾と噛み合う。星天の内部で、弾倉が回るような音がした。
がちり、と。
神代の咎が、薬室へ送られる。
蒼星は砲口を逸らさない。
「穿つ!!」
複数の魔法、スキル、装備効果が、同一対象へ寸分の狂いもなく同時に発動した際、条件が揃うことで発生する特殊魔法。
単なる同時攻撃ではなく、属性、照準、発動タイミングが一致した場合に、システムがそれらを一つの魔法として再構成する。
発動条件は極めて厳しく、狙って起こすことは難しい。だが、条件を満たした場合、本来は別々に発動するはずだった効果が一つに束ねられ、単独では成立しない高位の魔法として発現する。
今回発動した