旧砦跡の外れで、森を押し潰すように突っ込んだ輸送機の残骸が黒い煙を上げていた。
折れた木々が地面へ折り重なり、抉れた土の上には破れた機体外装が散らばっている。継ぎ接ぎだらけの輸送機は、最後の最後で地面へ滑り込み、機体の腹を削りながら強引に停止していた。墜落と呼ぶにはまだ形を保っている。だが、着陸と呼ぶにはあまりにも乱暴で、機体のあちこちからは火花が散り、魔導機関は低く唸りながら黒煙を吐いていた。
旧砦跡の中心では、まだ連盟と連合の本陣戦が続いていた。
遠くで砲声が響き、水の轟音と魔法の爆ぜる音が風に乗って届く。表の戦争が終盤へ向かう一方で、森の奥に墜ちた輸送機の周囲では、別の戦場が静かに形を取り始めていた。
砕けた操縦席のハッチが、内側から軋む。
Ju87が黒煙を払うように片手を振り、ひび割れた計器盤を一瞥してから、淡々と外へ出た。山を越え、砲火を抜け、崩れかけた輸送機を旧砦跡の外れまで運び切った操縦者の顔に、勝ち誇ったような色はない。ただ、任務を終えた者の冷静さだけがあった。
「座標到達。機体は喪失。輸送は完了」
短く、それだけを告げる。
その声に、機体の残骸から這い出してきた椒が顔をしかめた。煤と土埃にまみれ、大太刀を手にしたまま、半ば呆れたように周囲を見回す。
「これで完了って言い切るの、だいぶ無茶だろ」
「目的地には着いた」
Ju87は即答した。
「綺麗に着くとは一言も言ってない」
「いや、ズレすぎだろ」
椒が低く呻く横で、凍星は白杖フィエルティジムを握り直していた。彼は輸送機の損傷ではなく、その外側にある気配を探っている。白杖の先端に淡い光が灯り、周囲へ薄く広がった魔力が、森の奥、折れた木々の影、瓦礫の向こうに潜む複数の反応を拾っていく。
凍星の眉が、わずかに寄った。
「囲まれてる」
その一言で、空気が変わった。
黒白の修道装を土と煤で汚した蒼星が、絡みついた糸を指先で軽く弾きながら周囲を見回す。壊れた輸送機の影。折れた木々の向こう。崩れた岩場と、煙に紛れた視界の端。そこに、無数の影がいた。
連盟か、連合か。遠目には判別がつかない。
だが、蒼星には分かった。目つき。立ち方。そして、獲物を前にした時の、あの濁った気配。
あれは
戦場の混乱に紛れ、誰が勝とうが構わず、血と利益と混乱だけを求めて集まってきたPKたち。そして、その中に混じる、動きの揃った傭兵らしき集団。彼らはただ墜落機に群がっているのではなく、輸送機を中心に包囲を作りながら、その外側でさらに別働隊を動かしていた。
少し離れた場所で、赤男爵がゆっくりと身を起こした。
墜落の衝撃で外套には土埃が絡み、肩口には細かな傷が走っている。それでも、その動きに乱れはなかった。赤男爵は輸送機の残骸越しに迫る影を見据え、無言のまま剣を抜く。鋼が鞘を滑る音が、黒煙の中でひどく冷たく響いた。
「目的は達せられたのである」
赤男爵は、胸を張るように剣を掲げた。
「地上の死神、貴官らは進め。我々はこの地点に防衛線を敷く。貴官らが帰還するまで、一歩たりとも通さん!」
Ju87も、背後の輸送機を一度だけ振り返る。機体はもう飛べない。翼は折れ、外装は裂け、魔導機関は黒煙を吐いて沈黙しかけている。それでも、この場所まで運んだ。必要な者たちを、旧砦跡の裏側へ届けた。
「防衛に移行する」
短く告げ、Ju87は機体残骸の影へ身を寄せた。
その横で、松林は額から流れる血を袖で拭いながら、迫ってくるPKたちを見ていた。いつものように笑っている。だが、その目だけは笑っていない。真正面から圧をかけてくる集団。左右から包囲を狭める影。そのさらに外側で、旧砦跡の中心ではなく、森の奥へ抜けようとしている別働隊らしき動き。松林はそれらをひとつずつ見比べ、小さく息を吐いた。
「……つかんでいた情報通り、動きましたか」
蒼星が、短く問う。
「知ってたの?」
「ええ。月詠さんから商工会へ流れていた情報と、こちらで調べていた情報があります。PKや傭兵たちが、旧砦跡周辺で妙な動きをしている。連盟でも連合でもない連中が、この戦争の裏側で何かを狙っている、とね」
松林は折れた木々の向こうへ視線を走らせる。真正面から迫ってくるPKの群れは、いかにも分かりやすい。ここを抜けて連合の裏を取り、あわよくばそのまま攻め落とそうという動き。そのさらに奥には、連盟の本陣へ回り込む部隊が見え隠れしていた。
「いやぁ、実に分かりやすい動きですねぇ……いや、ほんとに。困りますねぇ、うちのお得意様を潰されるのは。ここを抜けて塩の首を取りに行きます、と言っているようなものですよ」
「雑な計画すぎる……」
シジミーが顔を引きつらせる。
「ごんにき、それ分かってて笑ってるの怖いんですけど」
「笑っていないと、商人はやっていられませんので」
「いや、今は商人とかそういう場面じゃない気がします」
「こういう場面だからこそです、ジミーさん」
松林は軽く肩をすくめる。けれど、その声は普段より低かった。
「連盟と連合は、ここまででかなり消耗しています。このまま裏側から火をつけられれば、勝った側も負けた側もまともに立ち直れない。どちらかが勝つならまだいい。ですが、共倒れになれば、それでこそディストピアの完成です。市場も流通も信用もまとめて吹き飛ぶ。商売どころじゃなくなります」
蒼星は、松林を見る。
松林は笑った。
「商人として、そしてこの世界の経済を多少なりとも握る者として、それは損失が大きすぎる。なので、一つ
「それは、友人に対してものを頼む言い方じゃないっすよ」
シジミーが、少しだけ眉を寄せ松林は、その言葉に苦笑した。
「親しき中にも礼儀あり。それに、僕は今、商人だからね。こういう頼み方しかでしかできない」
松林は一呼吸置き、蒼星、椒、凍星を順に見た。
「おとめさん、さつき、奏雨君。協力を要請します」
その声は、いつもの軽口とは違っていた。
「報酬は、商工会で用意できる限りのものを。依頼内容は、連盟と連合の後背を狙う不届き者の討伐。生死は問わない」
椒の口元が、わずかに歪む。
「ずいぶん物騒な依頼だな」
「ええ。物騒な連中を相手にする依頼だからね」
松林は笑ったまま、迫るPKたちへ視線を向けた。
「ここで止めなければ、表の戦争がどう終わっても、後に残るのは焼け野原です。そんな場所では、商売になりません」
凍星が白杖フィエルティジムを握り直す。
「つまり、こいつらを動かしている親玉を潰せ、ということですか。ごんさん」
「はい」
松林は頷いた。
「そのための道は、私が開きます。おとめさん、さつき、奏雨君は、その間の時間稼ぎをお願いします。一分、いえ、二分ほどもらえれば、行ける」
「分かった」
短く、一言で蒼星は了承した。
それに続いて、椒が大太刀を肩に担ぎ直し、凍星の背後では虹鯨が淡い輪郭を現した。それぞれが、自分の役目を理解していた。
椒は正面の敵を見据え、口元を吊り上げる。
「おう、任せとけ」
凍星は虹鯨の感覚を重ね、森全体に散った敵の気配を拾い上げる。正面から押してくる者、左右から回り込もうとする者、包囲の外側で指示を待っている者。その中から、突破の邪魔になる相手だけを冷静に選別した。
「椒、右側の三人。蒼星さんは正面の五人。自分は左側の二人」
松林は、いつもの軽い笑みを浮かべたまま、輸送機の残骸と折れた木々、そして包囲の薄い一点へ視線を走らせる。
「では、楽しくない労働の時間を始めますか」
椒は、凍星が指し示した右側の三人へ、鋭い視線だけを向けた。
回り込みを狙っていたPKたちは、密生する木々の影と、戦場に横たわる輸送機の残骸を利用しながら、音もなく距離を詰めている。正面から押し込む本隊にこちらの意識を釘付けにさせ、その隙に側面から松林たちの防衛線を崩す算段なのだろう。
椒は、腰元に携えていた「鬼の面」を無造作に掴み、その不気味な相貌で己の顔を覆った。
「チッ……おう、そこだな」
──ガチリ、と面が骨肉に噛み合う。
もともと椒の頭部にあった一本の硬質な角。それが、鬼面の片側から突き出た角の意匠と重なり合い、欠けていた片角を補うように嵌まり込む。足りなかったものが揃ったかのように、そこには異形の両角を戴く、完全なる鬼の姿が顕現していた。
同時に、椒は担いでいた巨大な大太刀を、肩から静かに下ろした。
──シャリィィ、と硬質な金属擦過音。
長大な刃が鞘を離れた、まさにその刹那だった。
椒の身体から、暗い紫の炎が音もなく湧き上がった。
爆発的な激しさではない。内側から溢れ出た影のように、紫炎は椒の肉体をじわじわと包み込み、纏わりついていく。衣服を焦がし、肌へ吸い付くように揺らめく炎は、腕を、肩を、胸元を、関節の隙間を侵食するように這いずり、椒自身の肉を焼いていた。
それでも、椒は顔を歪めない。
面の奥から、フッ、と熱い息が漏れる。
焼かれる痛みさえも、胸の奥で滾る苛立ちへ変えるように、紫炎が大太刀の刃へ絡みついた。
──ドンッ。
地面の泥が爆ぜる。
紫の火花を置き去りにしながら、鬼の体が滑り出した。
距離が、消えた。
木の影に潜んでいた一人目のPKが、網膜に焼き付いた椒の残像を見失う。次の瞬間には、視界のすべてを埋め尽くすように、凶悪な鬼面が目の前に肉薄していた。
戦慄と共に、反射的に短剣が跳ね上がる。だが、圧倒的な速度の前に、その迎撃はあまりにも遅すぎた。
「遅ぇよ」
面の奥から吐き出された冷徹な声と同時に、紫炎を纏った大太刀が、空間ごと斜めに走り抜ける。
ガキィィンッ! と、防御に回された短剣をその強固な質量ごと虚空へ弾き飛ばし、大太刀の分厚い刃が吸い込まれるように相手の胴を深く引き裂いた。
──そして、真の絶望が体を襲う。
凄まじい斬撃そのものよりも早く、大太刀から溢れ出た呪いの紫炎が、裂かれた傷口へと飢えた獣のごとく獰猛に食らいついた。
その炎は、単に肉体の表面を焼くだけの熱ではない。
装備の強固な継ぎ目を融解させ、体内を巡る魔力の循環を狂わせ、ここから生き延びようともがく意思そのものを内側から侵食するように、どす黒く燃え広がっていく。
抗う術さえ与えられず、一人目の身体が光の粒子へと呆気なく崩れ去る。
──だが、椒は一歩も止まらない。
振り抜いた大太刀を返すよりも早く、足元の土が再び激しく爆ぜた。
紫の火花だけがその場に残り、次の刹那、椒の身体は二人目の懐へと滑り込んでいる。
相手の槍使いが、決死の迎撃の突きを放った。
狙いは正確無比だった。椒の胸元を寸分の狂いもなく貫く、必滅の軌道。だが、椒はその鋭利な穂先を避けようとはしなかった。
椒は自らの腕に纏わせた紫炎ごと、突き出された槍の柄を上から容赦なく押さえ込んだ。摩擦と呪炎が肌を灼き、肉の焦げる臭いが面の奥へ入り込む。それでも椒は槍を固定したまま、さらに一歩深く踏み込んだ。
「いいな」
面の奥で、椒が笑う。
「そういうの、嫌いじゃねぇよ」
押さえ込まれた槍の柄から、濁流のような紫炎が這い上がる。
呪いの炎が、柄の木目を伝い、金具を舐め、槍使いの指先へ、腕へ、肩へと絡みついていく。呪詛の熱が神経を焼き、槍使いが恐怖から武器を手放そうとした時には、すべてが手遅れだった。
逃げ場を失った頭上から、大太刀が落ちる。
重い斬撃が槍使いを地面の泥へと強引に叩きつけ、激しい紫炎が爆ぜた。瓦礫と火花が乱暴に跳ね上がり、二人目の身体が光へと変わっていく。その消えゆく残光を背負いながら、椒は不機嫌な視線を三人目へと向けた。
三人目は、すでに逃げに入っていた。
認識をずらすように自らの身体の輪郭を薄め、密生する木々の影へと滑り込んでいる。正面からまともに戦うべき相手ではないと、その本能で察知したのだろう。生死の境で見せた、その退避の判断は悪くない。
だが──椒の速度が、それを遥かに凌駕していた。
「逃げるのか?」
低く、酷く不機嫌な声が、耳元へと直接落ちた。
三人目が、戦慄と共に振り返る。
そこに、鬼がいた。
地面を蹴った爆音も、風を切って木々を抜ける気配すらも、そこには一切なかった。ただ、移動の軌跡をなぞるように、暗い紫炎の残滓だけが煙と木陰の中で不気味に揺れている。
気づいた時には、もう手遅れだった。椒はいつの間にか三人目の背後へ回り込み、その頭上へと大太刀を高く振り上げていた。
「お前、覚悟は出来てるんだろうなぁ?」
逃げ道を塞がれたその瞬間、大太刀が無慈悲に振り下ろされる。
ズドォンッ! と空間を震わせる轟音と共に紫炎が爆ぜ、必死に逃れようとしていたPKの肉体を、呪いごと焼き尽くした。
ただ一方的な暴力の跡に、光の粒子だけが静かに散っていく。
右側の三人が光となって消えたことを確認し、椒は大太刀を肩へと無造作に担ぎ直した。
紫炎はまだ消えない。大太刀の分厚い刃の上でじりじりと揺れ、椒自身の腕の肉を焼きながら、次の獲物を狂おしく求めるように、ただ暗くゆらゆらと燃え続けている。
面の奥にあるその眼眸は、未だ飢えた獣のように冴え渡っていた。
凍星は、椒が紫炎の残滓を残して右側へ消えたのを確認してから、白杖フィエルティジムの先端を静かに天へと掲げた。
その背後で、虹鯨の巨大な輪郭が淡く、美しく揺れる。
鯨の形を成していた極彩色の微粒子がふわりと霧のように散り、薄い膜となって松林の左側全域へと静かに広がっていった。
折れた木々、輸送機の残骸、瓦礫の狭い隙間。そこを縫うように這う、わずかな二つの気配。視界で直接捉えるよりも先に、白杖を媒介にして、敵の正確な位置が凍星の感覚へ流れ込んでくる。
左側の二人。
一人は、へし折れた樹上に身を潜め、矢を番える弓持ち。もう一人は、崩れた瓦礫の影に身を伏せ、短い杖の先端を突き出している魔法職だった。
二人とも、正面から堂々と攻め合う気など毛頭ない。松林たちの構築した防衛線が僅かでも動いたその瞬間に、側面から崩すための待ち伏せの配置。弓で赤男爵の動きを封じ、魔法の弾幕でJu87の射線を潰す。それだけで、松林が開こうとしているなけなしの突破口は、一瞬にして塞がれてしまう。
凍星は、小さく、鬱陶しそうに息を吐いた。
「邪魔だなぁ……」
背後に漂う虹鯨へ、短く告げる。
「響け」
直後、森の左側の空間全体から、キィィン、と耳障りなハウリングが鳴り響いた。
樹上にいた弓持ちが、反射的に肩を震わせる。鼓膜を力任せに塞ぎにくるほどの轟音ではない。だが、あまりにも不気味なほど、その音の発生源が狂っていた。
正面に立っているはずの凍星の気配が、突如として左に、右に、死角となる足元に、果ては頭上の虚空にまで薄く拡散しているように感じられる。
まるで、四方八方から一人の敵に包囲されてしまったかのような、底知れない幻聴の錯覚。
弓持ちの狙いが、一瞬だけ迷った。
音の定位を狂わされ、視界の死角すべてから凍星の気配を感じる恐怖。その僅かな迷いで十分だった。
白杖フィエルティジムの先端から、白い光の線が鋭く伸びる。光は矢のように突き刺さるのではなく、未来を告げる標のように弓持ちの胸元へ滑らかに吸い込まれ、そこへ菱形の文様を深く刻みつけた。
標を刻まれた弓持ちが、屈辱に顔を歪める。
「はぁ……やりたくはないけど」
凍星は、白杖を小さく、無造作に振った。
閃く、灰色の光。
先ほど胸元へ刻まれた標へと吸い寄せられるように、正確な一撃が樹上へ叩き込まれる。衝撃に弓持ちの身体が大きく揺らぎ、引き絞られていた弓の照準が完全に外れた。
危険を察した弓持ちが、太い枝を蹴って別の樹木へと逃走を図る。だが、その退避ルートの先には、すでに極彩色の虹鯨の粒子が先回りして渦巻いていた。
キィィン、と空中に一枚の虹色の円盤が顕現する。
凍星は迷いなく、その空間の足場を踏み抜いた。
短いハウリングが一度。
地上にいたはずの凍星の身体が、重力を置き去りにして、次の瞬間には弓持ちの斜め上の虚空へと滑動していた。
弓持ちが驚愕に目を見開き、咄嗟に弦を引こうとする。だが、遅い。凍星の持つ白杖の先端は、すでに胸元の標を捉えていた。
二発目の灰色の光が、弓持ちの肩と腕を正確に撃ち抜く。
激痛に弓が手元から滑り落ち、続いて周囲に漂っていた虹色の粒子が、一斉に輪の形を結んで弓持ちの身体を太い幹へと押しつけた。
その四肢の自由を奪うための、拘束。
弓持ちは必死に暴れようとしたが、身体を縛る虹色の輪は身をよじる動きに合わせて締まり、落とした武器を拾うどころか、枝から自力で降りることすら不可能となった。
「一人」
凍星は、地面に着地することなく、空中の虹色の円盤を再び蹴った。
空中でその身体を滑らかに反転させ、瓦礫の影に潜む魔法職へ視線を向ける。
魔法職はすでに、凄まじい速度で呪文の詠唱を始めていた。空中を舞う凍星を落とすためではない。松林たちが今まさに抉じ開けようとしている突破口の横腹へ、致命的な魔法の弾幕を差し込む算段だ。
窮地における戦術判断としては、どこまでも早い。
けれど、凍星にとっては、それもまた自分の処理すべき面倒な手間が一つ増えたという、ただそれだけの認識に過ぎなかった。
「鬱陶しい」
虹鯨の粒子が、今度は魔法職の周囲へ静かに散らばった。
「響け」
低く、腹の底を擦るようなハウリングが空間に重なる。
魔法職の足元で今まさに発動せんとしていた、巨大な術式のラインが、不快な音響干渉によってわずかに歪んだ。
乱されたのは、魔法そのものの構造ではない。術者が把握している、周囲の情報だ。
音の反響、大気の気配、そして迫り来る凍星の現在地。その空間認識のすべてが一瞬だけずらされ、魔法職の放った魔法の照準が決定的に甘くなる。
咆哮を上げて放たれた魔法は、輸送機の残骸の端を虚しく掠めて爆ぜただけで、松林たちのいる主戦場へは届かなかった。
凍星は、空中に浮かんだ虹色の円盤をもう一度踏み砕く。
ハウリング。
身体が物理法則を無視して斜めへと滑り、白杖フィエルティジムの先端から伸びた白い光が、魔法職の肩口へ瞬時に新たな標を刻みつけた。続けて、追撃の灰色の光が一直線に走る。標へと吸い込まれるように命中した瞬間、ジャリィン、と肉体を縛る鎖の音に似た硬質な響きが、戦場に一つ鳴り渡った。
魔法職が衝撃に大きく後退する。息を荒く乱しながら短い杖を構え直し、次の詠唱へと入ろうとする。
「それ、使われると困るんですよね」
凍星の声は、どこまでも億劫そうで、淡々としていた。
虹鯨の粒子が、退路を断つように魔法職の真後ろで小さく渦を巻く。気配を察した魔法職が戦慄と共に振り返るが、そこには何もない。ただ、虹色の残響だけが虚空に漂っている。
その空白の一瞬へ意識を奪われた刹那、凍星はすでに真正面へと音もなく滑り込んでいた。
白杖の先端が、魔法職の胸元へ突きつけられる。
灰色の光が、標の導きを通って、寸分の狂いもなくその肉体へと叩き込まれた。
一発。
二発。
ジャリィィンッ! と、肉体を縛る鎖の音が重なる。
魔法職の身体が後ろへと大きく弾き飛ばされ、強く握り締めていた短い杖が手元から滑り落ちて瓦礫を転がった。なおも這うようにして逃げようと脚を動かしたが、その逃走経路の先には、すでに次の虹色の円盤が先回りして配置されている。
凍星がそこを静かに踏み、また一瞬にして位置を変える。逃げ道の先には、常に、この白杖の使い手が立ちはだかっていた。
「ごめん。でも、通せない」
最後の灰色の光が、魔法職の足元へと走り抜けた。
直撃の瞬間、輝きを放った虹鯨の粒子が強固な輪となって広がり、魔法職の両足と腕を絡め取る。魔法職は地面へ倒れ込み、転がった短い杖へ必死に手を伸ばそうとしたが、その指先が届くよりも早く、虹色の輪がその手首を地面へ縫い付けた。
完全な戦闘不能。
魔法職は悔しさで凍星を睨み上げたが、四肢を封じられ、もう魔法の詠唱も移動も許されなかった。
「二人」
凍星は空中に浮かんだ最後の虹色の足場から、重力を取り戻したように静かに地上へと降り立ち、白杖フィエルティジムを握り直した。
「あとは、蒼星さんだけか」
蒼星は、正面の敵陣へと冷たい視線を向けた。
椒が右側を凄絶に焼き斬り、凍星が左側の二人を静かに無力化していく。その気配の顛末を、蒼星はわざわざ確かめようとはしない。あの二人が割り振られた役目を果たすことなど、最初から分かっていた。
だから、蒼星はただ前だけを見た。
輸送機の残骸から森の奥へと抜ける、細く険しい一本の進路。その正面を完全に塞ぐように、五人のPKが立ち塞がっていた。
鉄壁の盾を構えた重装兵が二人。鋭い穂先を並べる槍使いが一人。後方には、いつでも死線を射抜ける弓持ちと、短い杖を握る魔法職。有象無象の即席の包囲陣にしては、あまりにも役割が噛み合いすぎている。
烏合の衆ではない。
ここで蒼星たちの足を完全に止めるために配置された、正面の最も分厚い「蓋」。
ここから先へ、一歩も通さないための隊列だった。
「そこ、邪魔」
短く呟いたその瞬間、蒼星の全身から鮮烈な蒼い雷が迸った。
纏った黒白の修道装の裾が、激しく弾ける雷光に照らし出される。周囲の大気が一瞬にして焦げ付くような金属音を立て、直後、蒼星の視界の中で、世界のすべてが滑らかに速度を失っていった。
身体の奥底で、神経が焼き切れるような苛烈な熱を帯びる。その代償と引き換えに、大気の揺らぎさえ拾えるほど、指先の感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。
蒼星は、その指先から死糸を真後ろへと飛ばした。
糸は硝煙の黒煙を一直線に切り裂き、背後に横たわる輸送機の残骸へと滑り込む。
折れ曲がった外装の下。
瓦礫と泥土に半ば埋もれていた超重量の大剣の柄へ、糸が絡みついた。
蒼星が、腕を引く。
──ギギギィィッ!
鉄が擦れ合う悲鳴が響く。
巨大な輸送機の残骸が大きく震え、裂けた機体外装の奥底から、土と煤に汚れた巨大な刃が強引に引きずり出された。正面を固めていた五人のPKたちの意識が、一瞬だけ、その予期せぬ背後の大質量へと奪われる。
彼らの思考が遅れたその一瞬で、十分すぎた。
蒼星の手元へ戻るよりも早く、大剣は糸に引かれて重力を無視した軌道で宙を疾走する。
蒼星はその糸を握り、全身から激しい蒼い雷を迸らせながら、半身を流れるように深く捻った。
異変を察した盾持ちの二人が、大盾を正面へ固める。槍使いが鋭い穂先を突き出して前へ出る。後方の弓と短杖が、同時に狙いを定める。
だが、引き伸ばされた時間の真ん中で、蒼星は静かに息を吐いた。
次の瞬間、
糸に繋がれた巨大な大剣が、蒼白い雷電の尾を引く星のように黒煙を両断する。
鉄壁の包囲網を正面から穿ち抜くべく、一直線に、五人の中心へと飛ぶ。
圧倒的な速度が空間を裂き、ここから、裏側の戦いが幕を開けようとしていた。