Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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こんなやつだっている


錆鳴

鉄鳴の本部には、いつも鉄の音がしていた。

 

鎧を整える音。槍を壁に掛ける音。盾を床に置く音。誰かが歩くたび、石造りの廊下に重い足音が響き、そのたびにこの場所が武装ギルドの拠点であることを思い出させる。

 

だが、その日の鉄の音は、いつもよりわずかに乱れていた。

 

連盟の定例会議から戻ったクロガネは、報告を待つ部下たちの前を無言で通り過ぎた。黒鉄の鎧に刻まれた《鉄鳴》の紋章は、灯火を受けて鈍く光っている。

 

表情は変わらない。歩幅も乱れない。だが、結果は明確だった。

 

蒼星の罪を確定できなかった。

 

それだけではない。篝火には、罪も確定していない相手に対してやりすぎだと詰められた。情報漏洩の犯人とも断定できない。死亡も確認できていない。その状態で、右腕を奪い、魂喰らい(ソール・イーター)を押収し、あまつさえ元仲間たちの前で見せつけるように提示した。

 

会議の場で、篝火の目は冷たかった。

 

――処理を誤ったな。

 

そう言われたわけではない。だが、クロガネにはそう聞こえた。

 

だからこそ、戻ってすぐに届いた報告は不快だった。

 

「蒼星は依然として見つかりません」

 

廊下の脇に控えていた鉄鳴の兵が、低く頭を下げる。

 

「落下地点から下流域まで捜索を広げていますが、死体、装備、反応のいずれも確認できていません。川沿いの巡回班からも、現時点で有力な報告はありません」

 

クロガネは足を止めない。

 

「続けろ」

 

「はっ」

 

兵はさらに続ける。

 

「ただ、椒と凍星が川沿いで動いています。落下地点周辺にも姿を見せており、鉄鳴の巡回区域にも近づいているとの報告が上がっています」

 

その名に、周囲の鉄鳴兵たちがわずかに反応した。蒼星の元仲間。蒼星が死んだと信じていない者たち。クロガネを支持する者たちは苛立ちを隠さず、一般隊員の中には戸惑いを浮かべる者もいた。

 

「あそこまでやって死なないのは何故だ!!」

 

感情的に叫んだのは、昨夜の包囲に参加していた兵の一人だった。声には怒りが滲んでいる。だが、その奥にあるのは恐怖だった。

 

右腕を奪った。崖から落とした。魂喰らい(ソール・イーター)も奪った。戦う手段も、尊厳も、何もかも奪ったはずだった。

 

それでも、蒼星は死んでいないかもしれない。その事実が、兵たちの神経を逆撫でした。

 

蒼星は追い詰められていた。魂喰らい(ソール・イーター)の蒼白い光も消えた。生存系スキルの余力もなかったはずだ。

 

右腕を失い、崖から急流へ落ちた。

 

普通なら、そこで終わる。

 

終わるはずだった。

 

だが、終わっていない。

 

次の瞬間、鉄が叩きつけられる音が廊下に響いた。

 

壁に、槍の柄が打ちつけられていた。

 

感情を抑えきれなかったクロガネが、歯を剥くように叫ぶ。

 

「蒼星は、見つけ次第殺せ!!闇鍋の連中よりも早く見つけ出せ!!」

 

廊下の空気が凍った。

 

クロガネを支持する者たちでさえ、一瞬、声を失う。その場にいた一般兵たちは、誰もすぐには動けなかった。

 

見つけ次第殺せ。罪人の拘束でもない。ただの抹殺命令だった。

 

クロガネは、荒い息を一度だけ吐いた。そして、自分が何を口にしたのかを理解したように、ゆっくりと槍を下ろす。

 

「……今の命令は撤回する」

 

声は低かった。

 

「蒼星を発見した場合は、俺に報告しろ。勝手に手を出すな」

 

兵たちは一斉に頭を下げた。

 

「はっ」

 

「下がれ」

 

その一言で、廊下にいた一般兵たちは足早に去っていく。鉄の足音が遠ざかり、やがて古い部屋の前には、クロガネと数人の幹部だけが残った。

 

その中に、一人だけ動かない男がいた。

 

前ギルドマスターの時代から鉄鳴にいる古参。かつて前線で盾を構え、仲間を逃がし、何度も死線を越えた男。そして、一番最初にクロガネに盾の扱いを教えた男でもある。

 

副官は、静かに口を開いた。

 

「クロガネ」

 

クロガネは振り返らない。

 

「今のは何だ?」

 

「撤回した」

 

「ギルドマスターが吐いた言葉ってのは、撤回したからって消えねぇんだよ」

 

副官の声は低かった。怒鳴ってはいない。だが、そこには明確な怒りがあった。

 

「今回の件、どうにも不明瞭な点が多すぎる。ただのレッド相手に、いくらなんでも躍起になりすぎだ」

 

副官は、クロガネを真っ直ぐに見た。

 

「拘束じゃねぇ。最初から討伐だった。証拠を集めて裁かせるんじゃなく、殺すつもりで囲んだ」

 

そこで、副官の声がさらに低くなる。

 

「お前の盾は、ずいぶん軽くなっちまったんだな」

 

クロガネの目が、わずかに動いた。副官は続ける。

 

「俺が教えた盾は、そんなもんじゃなかったはずだ。前に出るための飾りでも、相手を押し潰すための壁でもねぇ」

 

副官は吐き捨てるように言った。

 

「守るもんがなくなった盾ってのは、ただの鉄板だ」

 

その言葉に、クロガネの表情がわずかに歪んだ。ほんの一瞬だった。だが、副官は見逃さなかった。

 

かつて、クロガネがまだ盾の持ち方すら知らなかった頃。攻撃を受けるたびに足を崩し、背後の仲間ごと押し倒されていた頃。何度も地面に転がしながら、盾の構え方を叩き込んだのはこの男だった。

 

盾は重い。

 

それは、守るものがあるからだ。

 

そう教えた。

 

だが今、クロガネの盾は軽く見えた。

 

「……古い話だ」

 

クロガネは低く言った。

 

「今は違う」

 

「違わねぇよ」

 

副官は即座に返す。

 

「弱い者を守る。前線で仲間の盾になる。鉄鳴はそのためのギルドだ。前マスターが死んでも、その理念まで死んだわけじゃねぇ」

 

クロガネの目が細くなる。

 

「理念で人は守れない」

 

「理念を捨てた奴が、人を守れるわけねぇだろ」

 

副官の声が、初めて少しだけ荒くなった。

 

「今回の件は、盟主に報告する。蒼星の件だけじゃねぇ。連盟領内における度重なる規定外の徴収、押収品の不透明な流れ、ヤクザまがいの商売。全部だ」

 

クロガネ派の幹部たちが、明らかに浮足立つ。だが、副官は止まらなかった。

 

「もう内部で済ませられる段階じゃねぇ。鉄鳴は、ここで止まらなきゃ終わる」

 

そして、副官はクロガネを真っ直ぐに見た。

 

「もう終わりにしよう、クロガネ。今なら引き返せる」

 

その言葉に、部屋の空気が凍った。クロガネは何も言わない。ただ、副官に視線を向ける。その目は、前マスターと同じだった。今の鉄鳴を、もう許さないと決めた者の目。

 

それでもなお、最後に手を差し伸べようとする者の目。クロガネの奥で、何かが静かに沈んだ。

 

怒りではない。

 

恐怖だった。

 

終わる。

 

今の地位が。今の力が。今の鉄鳴が。この世界でようやく手に入れた、自分の現実が。

 

終わる。

 

クロガネは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そうか」

 

副官は、わずかに眉を寄せる。

 

「クロガネ」

 

クロガネは答えない。ただ、静かに目を伏せた。

 

そして、低く言った。

 

「覚悟は決まった」

 

その瞬間だった。

 

「そうですかい、旦那」

 

副官の背後から、声がした。

 

「……っ!」

 

古参たちが振り返るより早く、影が揺れた。

 

そこにいたはずのない男が、副官の真後ろに立っていた。黒い装備。赤いカーソル。顔の半分を布で隠した、薄笑いを浮かべるPL。

 

《アンサブ》ギルドマスター、タナトフィリア。

 

「ようやく、あんたがこっち側に来てくれて助かるぜ」

 

男の手が、短く動いた。刃が、首元をひと掻きする。

 

「え……」

 

副官の声は、そこで途切れた。

 

何が起きたのか、本人でさえ理解していないようだった。

 

一拍遅れて、古参たちが動く。

 

「副官!!」

「てめぇ!!」

 

盾が上がる。剣が抜かれる。

 

だが、それより早く、部屋の四隅で影が増えた。

 

一人ではない。二人。三人。四人。

 

いつの間に入り込んでいたのか、《アンサブ》のPLたちが、壁際や天井梁の影から姿を現す。そして、古参たちの退路を塞ぐように、クロガネ派の鉄鳴兵が武器を構えた。

 

副官は膝をつく。指先が、自分の首元に触れた。視線だけが、クロガネへ向く。

 

そこには怒りがあった。失望があった。そして、最後まで信じたものを裏切られた者の、深い悲しみがあった。

 

「……クロ、ガネ……」

 

クロガネは、動かなかった。

 

助けようともしない。目を逸らしもしない。ただ、副官を見下ろしていた。

 

かつて自分に盾の持ち方を教えた男。前線で仲間の盾となり、何度も死線を越えた男。今の鉄鳴を、まだ救えると信じていた男。

 

その男が、床に崩れ落ちる。

 

「旦那」

 

タナトフィリアが、血のついた刃を軽く振った。

 

「始めちまった以上、もう戻れませんぜ」

 

クロガネは答えなかった。

 

床に崩れた副官。その首元から、赤いエフェクトが散っていく。HPバーが削れ、警告表示が明滅する。

 

まだ死んではいない。だが、もう助からない。古参たちが一斉に動いた。

 

「クロガネぇ!!」

 

怒号と共に、盾持ちの一人が踏み込む。前線で何度も魔物の突撃を受け止めてきた古参だった。その動きは老いてなお速い。

 

だが、横合いから《アンサブ》の影が滑り込み、足元を斬った。

 

体勢が崩れる。そこへ、クロガネ派の鉄鳴兵が槍を突き出した。

 

「お前ら……!」

 

古参の声が怒りに震える。

 

「同じ鉄鳴だろうが!!」

 

「だからだ」

 

クロガネ派の一人が答えた。

 

「鉄鳴を守るために、あんたらには消えてもらう」

 

「それが鉄鳴かよ!!」

 

叫びは、刃の音に飲まれた。部屋の中で、鉄が鳴る。

 

盾が軋み、剣が弾かれ、槍が床を削る。壁に掛けられた古い旗が、その振動でかすかに揺れていた。

 

弱きを守れ。

前線に立つ者の盾となれ。

鉄は、奪うためではなく、守るために鳴る。

 

その言葉の下で、鉄鳴は仲間を斬っていた。

 

タナトフィリアは楽しげに笑う。

 

「いいねぇ。身内同士の殺し合いってのは、外野が手を出すよりずっとよく燃える」

 

「黙れ」

 

クロガネが低く言った。

 

「おや、怒りました?」

 

「喋るな。やることだけやれ」

 

「へいへい。旦那の仰せのままに」

 

タナトフィリアは肩をすくめ、次の古参へと影のように滑った。

 

副官は、床に倒れたままクロガネを見ていた。

 

声はもう出ない。

 

それでも、その目だけはまだ死んでいなかった。

 

責める目だった。

失望する目だった。

そして、最後の最後まで、クロガネに何かを求める目だった。

 

クロガネは、その目を見下ろした。

 

うるさい。

 

クロガネは、内心で吐き捨てる。

 

盾は重い。

守るものがあるから重い。

 

かつて副官に叩き込まれた言葉が、頭の奥で鳴っていた。

 

うるさい。

 

もう一度、クロガネは心の中で繰り返した。

 

その言葉も。

その目も。

その理想も。

 

もう、全部うるさい。

 

「後始末をしろ」

 

クロガネは低く命じた。

 

「連盟にはこう報告しろ」

 

クロガネ派の兵たちが、一斉に視線を向ける。

 

「蒼星と思われるレッドPLが、PKたちを引き連れて鉄鳴本部を強襲。こちらは鎮圧を試みたが、応戦虚しく、副官殿が戦死」

 

床に残る赤いエフェクトが、まだ薄く揺れていた。クロガネはそれを見下ろしながら、淡々と続ける。

 

「なお、交戦の際、鉄鳴側もやむを得ず数名をPLキルした。そう記録しろ」

 

クロガネ派の女が、わずかに息を呑む。

 

「副官殿を、蒼星に殺されたことにするのですか」

 

「事実はどうでもいい」

 

クロガネは言った。

 

「連盟が欲しがるのは、処理できる形の報告だ」

 

タナトフィリアが、肩を揺らして笑う。

 

「ひでぇな、旦那。死んだ後まで使うのかい」

 

「使えるものは使う」

 

クロガネは、床に転がった古参たちの装備を一瞥した。

 

「副官殿は、鉄鳴のために戦死した。古参どもは、蒼星を庇い鉄鳴に牙を剥いた裏切り者。そうすれば、鉄鳴内部の不穏分子は片付く」

 

クロガネ派の女が、低く続ける。

 

「そして、蒼星を庇う連中にも疑いが向く」

 

「そうだ」

 

クロガネは頷いた。

 

「椒と凍星が動いている。なら、ちょうどいい」

 

その声に、迷いはなかった。

 

「蒼星を探す者は、鉄鳴に敵対する者。そういう流れを作れ」

 

古い旗が、壁で小さく揺れた。

 

弱きを守れ。

前線に立つ者の盾となれ。

鉄は、奪うためではなく、守るために鳴る。

 

クロガネは、その言葉を見ようともしなかった。

 

「死者の名誉も、裏切り者の罪も、記録次第でいくらでも変えられる」

 

タナトフィリアが笑う。

 

「やっぱり、あんたはこっち側だよ」

 

クロガネは答えない。ただ、奥の部屋へ向かって歩き出した。そこには、かつて立派な志とともに散っていったギルドマスターの遺品が置かれていた。

 

「現実に帰還したから何になるってんだよ」

 

クロガネの声が低く歪む。

 

「待ってるのは最悪の現実だ。何の力もない、何者にもなれない、ただ踏まれて笑われるだけの俺に戻るだけだ」

 

彼は歯を食いしばった。

 

「俺の世界はここだ」

 

クロガネは、前ギルドマスターの盾を見下ろした。

 

「俺は、この世界でしか生きられねぇんだよ」

 

静かな部屋に、吐き捨てるような声だけが落ちる。

 

そして、クロガネはふと目を細めた。

 

「なぁ、お前もそうなんだろ、死神」

 

脳裏に、あの時の光景が蘇る。

 

月光に照らされた森。血に濡れた地面。倒れ伏すPKたち。その中心で、黒い外套の少女が踊るように鎌を振るっていた。

 

蒼白い刃が夜を裂くたび、赤い光が散る。悲鳴は短く、命乞いは意味を成さず、逃げようとした者から順に刈り取られていく。

 

それは戦闘というより、処刑に近かった。

 

けれど、彼女の動きには迷いがなかった。

 

躊躇も、後悔も、怯えもない。ただ、その世界に馴染みきった者だけが持つ、美しさがあった。

 

クロガネは、その光景を忘れられなかった。

 

現実では許されない力。

現実では存在できない在り方。

ここでしか意味を持たない名前。

 

死を告げる者(グリム・リーパー)

 

赤い死神。

 

蒼星。

 

「お前だって、こっち側だろうが」

 

クロガネは低く呟く。

 

「現実に戻って、普通の顔して生きられるような人間じゃねぇだろ。人を殺して、恨まれて、恐れられて、それでも前に進む。そんな奴が、現実なんてもんに戻れるわけがねぇ」

 

それなのに。

 

蒼星は攻略を止めようとはしなかった。

 

この世界でしか生きられないはずのくせに。

この世界でしか、その名を刻めないはずのくせに。

 

帰還を望む者たちの側に立った。

 

だから、許せなかった。

 

「お前が俺を否定するなら」

 

クロガネは、前ギルドマスターの盾から視線を外す。

 

「俺は、お前の名前ごと殺す」

 

古い部屋の外では、鉄が鳴っていた。

 

新しい鉄鳴が、古い鉄鳴の死体を片づける音だった。

 

一拍。

 

「ここが、俺の現実なんだ」

 

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