Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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流れ着いた死神

最初に感じたのは、水の冷たさだった。

次に、石の硬さ。

 

頬に触れる泥の感触。耳元で響く、細い水音。遠くで小さなエネミーが鳴いている。最前線エリアとは違う。殺意も、血の匂いも、戦いの気配も薄い。どこか作り物じみた、穏やかな空気。

 

低レベルエリア。

 

初心者用ダンジョンの地下エリア。安全圏にある泉の縁。

そこに、蒼星は流れ着いていた。

 

黒い外套は裂け、身体のあちこちに傷が走っている。HPバーは、ほとんど底がつきかけていた。右肩から先はない。そこにあるはずの重さが、消えていた。

 

魂喰らい(ソール・イーター)も、ない。

 

蒼星は目を開けようとした。

だが、瞼が重い。意識は水底に沈むように薄れ、身体は石の上に投げ出されたまま動かない。

 

その時、遠くから足音が聞こえた。

軽い足音。一人ではない。

 

「ねえ、こっち。何かいる」

 

幼い声だった。

 

「モンスター?」

「分かんない。でも、人っぽい」

「え、やだよ。近づかない方がいいって」

 

小さな靴音が近づいてくる。浅い水を踏む音。誰かが息を呑む気配。

 

「……人だ」

「怪我してる」

「え、でも、これ……」

 

そこで声が途切れた。蒼星の頭上に、いくつかの気配が集まる。

 

低レベルの子供PLたちだった。安全圏の外れにある孤児院の子供たち。前線には出られず、初心者用ダンジョンで薬草や小素材を拾うくらいしかできない子供たち。

 

その一人が、震える声で言った。

 

「赤い」

 

全員が黙った。蒼星の属性を現すカーソルは赤かった。

 

レッドPL。

 

それは、大人たちが何度も口にしていた危険な人の証だった。近づいてはいけない。話しかけてはいけない。見つけたら、すぐに大人か巡回の人に知らせること。

 

そう教えられてきた。それだけで、子供たちの空気が変わる。

 

さっきまであった好奇心が、怯えに変わる。近づきかけていた足が止まる。誰かが小さく息を呑み、誰かが一歩下がった。

 

「だめだよ」

 

一人が小さく言った。

 

「赤い人だよ。危ない人だよ」

「でも……怪我してる」

「怪我してても危ないって、大人が言ってた」

「鉄鳴に知らせた方がいいんじゃ……」

 

その言葉に、蒼星の指がかすかに動いた。聞こえていた。意味までは、すぐには繋がらない。だが、鉄鳴という音だけは、沈みかけていた意識の底に鋭く刺さった。

 

鉄鳴。

 

だが、動かない。その名を聞いた瞬間、身体が反射的に逃げようとした。魂喰らい(ソール・イーター)もない。身体は、水を吸った布のように重い。子供たちは、そのわずかな反応にびくりと肩を震わせた。

 

「動いた……!」

「やっぱり生きてる」

「どうするの」

「先生呼ぼう」

「でも、ここに置いていったら……」

 

一人の子供が、蒼星を見下ろした。怖がっている。けれど、目を逸らせずにいる。

 

「このままだと、死んじゃうよ」

 

その声は、小さかった。けれど、誰も否定しなかった。

 

「先生呼んでくる」

 

一人がそう言って、来た道を駆け戻ろうとした。

 

「待って」

 

別の子が、その袖を掴む。

 

「一人で行ったら危ないよ」

「でも、ここにいたらもっと危ないかも……」

 

子供たちは、倒れている蒼星と通路の奥を交互に見た。助けたい。けれど怖い。近づいてはいけないと教えられてきた相手が、目の前で死にかけている。

 

「鉄鳴に知らせた方がいいんじゃない?」

「でも、あの人たちも怖いよ」

 

その言葉に、蒼星の指がかすかに動いた。ほんのわずかな反応だった。けれど、子供たちはそれに気づいた。

 

「動いた……」

「聞こえてるのかな」

 

蒼星は声を出そうとした。出なかった。

喉が焼けつくように痛い。息を吸うだけで胸の奥が軋む。逃げろ、と言いたかったのか。鉄鳴を呼ぶな、と言いたかったのか。自分でも分からない。ただ、鉄鳴という音だけが、沈みかけた意識の底で鋭く響いていた。

 

「やっぱり先生呼ぼう」

 

最初にそう言った子が、今度ははっきりと言った。

 

「鉄鳴じゃなくて、シオン先生」

 

その名前を聞いて、他の子たちが小さく頷く。

 

「うん。シオン先生なら……」

「でも、この人が起きたら?」

「見張ってる」

「え、誰が?」

 

一瞬、全員が黙った。やがて、一番小柄な子が、おずおずと手を上げた。

 

「ぼく、見てる」

「危ないよ」

「でも、放っておけないよ」

 

その声は震えていた。それでも、逃げなかった。蒼星は、ぼやけた視界の中でその子を見た。

小さな影。頼りない足。震える手。自分が少し指を動かしただけで、逃げ出してもおかしくないほど弱い存在。それなのに、その子はそこにいた。

 

「すぐ戻るから!」

 

一人が駆け出す。続いて、もう一人がその後を追った。残った子供たちは、蒼星から少し距離を取りながらも、その場を離れなかった。誰かが、小さな声で言う。

 

「死なないでね」

 

蒼星には、返事をする力がなかった。ただ、意識の底でその言葉だけが残る。

 

死なないでね。

 

そんな言葉を向けられたのは、いつ以来だろう。

 

いや、そもそもあったのかも分からない。蒼星に向けられる言葉は、たいていもっと鋭かった。怖い。来るな。化け物。殺人鬼。死神。

 

死なないで。

 

それは、あまりにも場違いな言葉だった。

蒼星は、かすかに息を吐いた。笑おうとしたのかもしれない。けれど、喉は音を作らなかった。

 

残った子供たちは、一定の距離を保ったまま蒼星を見ていた。近づきすぎない。けれど、離れもしない。小さな手で採取用の籠を抱え、いつでも逃げられるように足を引きながら、それでも目を逸らさない。

 

その視線が、妙に痛かった。やがて、走る足音が戻ってくる。先ほどより重い足音が一つ。子供の軽い足音が二つ。

 

「こっちです、シオン先生!」

「まだ動いてない!」

「でも、息してる!」

 

通路の奥から現れたのは、白い神官服を着た女性だった。

腰には小さなメイス。手には治療用の鞄。走ってきたのか、肩で少し息をしている。だが、蒼星を見た瞬間、その表情はすぐに引き締まった。

 

シオンは、子供たちを庇うように前へ出る。そして、蒼星の赤いカーソルを見た。一瞬だけ、沈黙が落ちた。

 

「……レッドPL」

 

誰かが小さく言った。シオンは否定しなかった。

 

「そうね……」

 

それでも、彼女は膝をついた。子供たちが息を呑む。

 

「先生」

「下がっていてください。近づきすぎないように」

「助けるの?」

 

シオンは蒼星の状態を確認する。HP。欠損。出血。状態異常。その目が、右肩の先で一度止まった。

 

「助けます」

 

静かな声だった。

 

「このまま置いてはいけません」

「でも、赤いよ」

「危ない人かもしれません」

 

シオンはそう言った。それから、蒼星の顔を見下ろす。

 

「でも、今ここにいるのは、死にかけている人です」

 

その言葉に、子供たちは何も返せなかった。

シオンの手に、回復魔法の白い光が灯る。蒼星の身体が、反射的に強張った。逃げなければ。そう思った。けれど、動かない。左手の指がわずかに石を掻くだけで、身体は言うことを聞かなかった。

 

シオンはその反応に気づき、手を止める。

 

「大丈夫です」

 

声は穏やかだった。

 

「今は、何もしません。あなたを傷つけるつもりもありません」

 

蒼星は、シオンを睨もうとした。だが、視界は霞み、焦点が合わない。喉は焼けつくように痛み、身体は石の上に縫いつけられたように動かなかった。

 

信用できない。そう思った。けれど、抵抗する力もなかった。シオンはすぐには触れず、子供たちへ視線を向けた。

 

「みんな、運ぶのを手伝ってください。それから、外に出る時は周囲を確認。誰にも見られないように」

 

「う、うん」

「この人、孤児院に連れていくの?」

「はい」

 

子供たちは顔を見合わせた。怖い。それでも、誰も反対しなかった。一人が担架を取り出す。もう一人が通路の奥を見張る。さっきまで蒼星を見張っていた小柄な子供が、裂けた黒い外套をそっと直した。

 

その手は震えていた。けれど、引っ込めなかった。

 

シオンは、蒼星の身体に回復魔法を重ねる。

 

傷が完全に塞がるわけではない。失われた右腕が戻るわけでもない。ただ、底から零れ落ちかけていた命を、かろうじて繋ぎ止めるための光だった。

 

「痛むと思います。ですが、少しだけ我慢してください」

 

蒼星は答えられない。白い光が身体を包む。熱ではない。冷たさでもない。薄く、遠い場所から引き戻されるような感覚。それが不快で、苦しくて、それでも。生きている、と分かる感覚だった。

 

子供たちは黙って見ていた。赤いカーソルの危険な人が、白い光に包まれている。その光景は、ひどく奇妙だった。

 

シオンは蒼星を慎重に担架へ乗せる。その時、蒼星の唇がかすかに動いた。声にはならない。けれど、シオンは顔を近づけた。

 

「何か、言いたいことがありますか」

 

蒼星は、かすれた息の中で必死に言葉を作ろうとした。名前を出すな。そう言いたかった。だが、喉は音を返さない。代わりに、左手の指がわずかに動いた。何かを拒むように。何かを隠すように。

 

シオンはその手を見て、少しだけ目を細めた。

 

「分かりました」

 

何を分かったのか、蒼星には分からなかった。

 

「あなたのことは、外には話しません。少なくとも、あなたが話せるようになるまでは」

 

蒼星の瞼が、わずかに震えた。それが返事だった。シオンは子供たちに向き直る。

 

「行きましょう。急いで。でも、慌てないで」

「うん」

「ほんとに、死なない?」

 

小柄な子供が、不安そうに尋ねる。シオンは一度だけ蒼星を見下ろした。それから、静かに答えた。

 

「死なせません」

 

その言葉を最後に、蒼星の意識は暗く落ちた。

 

暖かな光と、柔く優しい匂いを感じる。

 

水の冷たさも、石の硬さも、もうない。代わりに背中には柔らかな布の感触があり、鼻先には薬草と干した布、それから薄いスープの匂いが混じっていた。

 

蒼星は、ゆっくりと目を開けた。

 

知らない天井。

 

木の梁。白い布。窓から差し込む午後の光。どこかで子供の笑い声が聞こえる。遠い。けれど、確かにそこにある。

 

戦場の音ではなかった。剣戟も、悲鳴も、エネミーの唸り声もない。

ただ、誰かが生きている音だった。

 

「……どこ」

 

掠れた声が漏れる。

喉はまだ痛い。身体は鉛のように重い。右肩には厚く包帯が巻かれていて、その先には何もない。蒼星は無意識に右手を動かそうとして、失敗した。

 

一拍遅れて、現実が戻ってくる。

 

右腕がない。

 

そうだ、あの時、自分が逃げる為に死んだことを偽装するために、わざと――

 

「……捨てた」

 

掠れた声が、喉の奥から零れた。

 

右腕を。魂喰らい(ソール・イーター)を。蒼星という存在を形作っていたものを。

 

あの場で全部抱えたまま逃げることはできなかった。鉄鳴は蒼星を殺すつもりで来ていた。逃走経路も、スキルも、戦い方も、あり方も、すべて潰されていた。

 

だから、捨てるしかなかった。

 

急流に落ち、反応を消す。死んだと思わせる。それしか、生き残る道がなかった。

頭では理解している。あれは必要な選択だった。あの場で何かを残さなければ、鉄鳴は追撃を止めなかった。死んだと思わせなければ、今こうして目を開けることもなかった。

 

分かっている。分かっているが……。

 

「きっついなぁ……」

 

声は掠れていた。

 

笑うつもりだった。いつものように、軽く流すつもりだった。けれど、喉から漏れたそれは、笑いにも皮肉にもならなかった。

 

蒼星は、右肩の先を見た。厚く巻かれた包帯。

 

その先に、何もない。

 

右手を動かそうとして、何も動かない。指を握ろうとして、握る指がない。身体だけが、まだ失ったものを覚えている。

 

それが、遅れて現実になった。

 

「……最悪」

 

今度は、少しだけ声になった。

 

戦場で傷を負うことには慣れている。死にかけることにも慣れている。痛みにも、恐怖にも、喪失にも、それなりに慣れているつもりだった。

 

けれど、これは違った。奪われたのではない。

 

自分で捨てた。

 

生き残るために、必要だったから。そうしなければ死んでいたから。だから迷わなかった。迷っている余裕もなかった。

 

そのはずなのに。

 

右肩の先にある空白は、何度見ても、どうしようもなく重かった。

 

重さがないのに、重い。

 

そこに何もないからこそ、身体の奥にずしりと沈む。

 

蒼星は息を吐いた。浅く、細く。肺に空気を入れるだけで胸が軋む。痛みは鈍く残っていた。けれど、それ以上に厄介なのは、身体の感覚がまだ以前のままだということだった。

 

起き上がろうとすれば、右手をつこうとする。

 

布団を掴もうとすれば、右手を伸ばそうとする。

 

何かを確認しようとすれば、まず右側へ意識が向く。

 

そのたびに、何もない。

 

「……笑えない」

 

そう呟いたつもりだった。

 

けれど、声はほとんど音にならなかった。

 

喉が痛い。口の中が乾いている。視界もまだ安定しない。天井の木目が揺れて見えた。知らない部屋。知らない匂い。知らない布団。

 

それでも、敵意はなかった。少なくとも、今すぐ殺される場所ではない。その事実が、逆に落ち着かなかった。

 

蒼星は左手を動かし、布団の端を掴む。少しだけ身体を起こそうとして、すぐに肩から背中へ痛みが走った。

 

「っ……」

 

「動かないでください」

 

穏やかな声がした。反射的に身を硬くする。

 

部屋の入口に、白い神官服の女性が立っていた。意識を失う前、最後に見た女だ。手には、木の器と湯気の立つ小さな椀があった。

 

シオン。

 

子供たちがそう呼んでいた。

 

「まだ起き上がれる状態ではありません」

 

シオンはそう言いながら、ゆっくりと近づいてきた。急がない。踏み込みすぎない。蒼星が警戒する間合いを、分かっているように足を止める。

 

蒼星は睨もうとした。

 

だが、視界が少し揺れただけだった。

 

「ここは……」

 

声が掠れる。

 

シオンは短く答えた。

 

「孤児院です」

 

孤児院。その言葉が、すぐには意味を持たなかった。

 

シオンは椀を枕元の小さな台に置く。

 

「あなたを見つけた子たちが暮らしている場所です。ここは、最前線エリアから遠く離れた安全圏の小さな町です」

 

蒼星は黙った。

 

信用したわけではない。

 

ただ、今の自分には、疑うのにも体力がいる。

 

「聞きたいことがある。私がここに運び込まれてから、何日経った?」

 

シオンは一瞬だけ目を伏せた。

 

答えに迷ったのではない。蒼星がその答えをどう受け取るかを考えたように見えた。

 

「三日です」

 

「……三日」

 

蒼星の目が細くなる。

 

三日。

 

その数字が、やけに重く響いた。

 

三日も、意識がなかった。

三日も、動けなかった。

三日も、誰かに命を預けていた。

 

鉄鳴がどう動いたのか。自分は死亡扱いになったのか。行方不明なのか。それとも、情報漏洩犯として指名手配されたのか。自分の名前が、どんな形で広がっているのか。

 

何も分からない。

 

「最悪」

 

蒼星は小さく吐き捨てた。

 

シオンは静かに続ける。

 

「あなたを見つけた時点で、かなり危険な状態でした。正直、今目を覚ましただけでも奇跡に近いです」

 

「奇跡ね」

 

蒼星は乾いた声で言った。

 

確かに、死んでいてもおかしくない状況だった。あそこで命を繋いだ意味は大きい。今後どう動くにせよ、生きていなければ何もできない。

 

それは分かっている。

 

分かっているが、今の自分はあまりにも足りなかった。右腕がない。武器がない。情報がない。体力もない。あるのは、誰かに拾われて、かろうじて繋がった命だけだった。

 

「……この数日で、何があった」

 

蒼星は小さく言った。

 

シオンは一瞬だけ目を伏せる。何をどこまで話すべきか、考えているようだった。

 

「何が、というのは」

 

「外のこと。大きな騒ぎ、噂、商人の話。何でもいい。私が寝ている間に、この辺りで変わったことを知りたい」

 

シオンは、蒼星の顔を静かに見ていた。

 

「あなたは、まず休むべきです」

 

蒼星は左手を少しだけ動かした。指先に力を入れようとして、思ったより震えたことに気づく。情けないほど力が入らない。その事実を見せたくなくて、布団の端を掴むふりをした。

 

「一つの場所に長くはいられない質なの。名前は見えてなくても、色は見えてるんでしょ」

 

シオンは答えなかった。

 

答えるまでもない、ということだった。

 

蒼星の名前は、今も正確には表示されていないはずだ。ネームプレートは崩れ、対象識別にもノイズが混じる。記録ログにも、まともな名前は残りにくい。

 

だが、カーソルの色までは消せない。

 

赤。

 

それだけで、十分すぎるほど目立つ。

 

「あなたもPLなら、赤いカーソルの意味くらい分かるでしょ。この世界で、赤が何を意味するか」

 

「分かります」

 

シオンは静かに答えた。

 

「でも、あなたは怪我をしていて、死にかけている。私は、そんな人を見捨てられません」

 

その言葉に、蒼星は一瞬だけ黙った。かつて、一緒に冒険した仲間の言葉がよぎる。

 

――蒼星さんが赤だからとか関係ありません。

――あなたは、今でも闇鍋の仲間です。

 

喉の奥が、少しだけ詰まった。こんな時に思い出すな、と蒼星は思った。

自分はもう、あの場所には戻れない。戻るつもりもない。戻れば、迷惑をかける。あの名前と、赤いカーソルと、積み上げてきた恨みを連れて戻ることになる。

 

だから、思い出すべきではなかった。

 

「……そういうの」

 

蒼星は掠れた声で言った。

 

「長生きしないよ」

 

「かもしれません」

 

シオンは否定しなかった。

 

「ですが、見捨てて長生きするよりは、私には合っています」

 

蒼星はシオンを見た。

 

穏やかな顔だった。けれど、その言葉は柔らかいだけではなかった。自分が何を選んでいるのか分かったうえで、それでも曲げる気がない者の声だった。

 

「変な人」

 

「よく言われます」

 

「褒めてない」

 

「そうですか」

 

シオンは少しだけ笑った。

蒼星は、その笑みをしばらく見ていた。

 

信用できるかどうかは、まだ分からない。善意だけで動く人間ほど、時に厄介なものはない。自分の正しさを疑わず、相手の都合を考えず、助けるという言葉で踏み込んでくる者もいる。善意を笠に着た悪意。そういうものを、蒼星は何度も見てきた。

 

けれど、目の前の神官は少し違った。

 

踏み込まない。否定しない。都合のいい言葉で慰めない。ただ、見捨てないと言った。

 

それだけだった。

 

蒼星は、浅く息を吐いた。

 

「……しばらく」

 

声が掠れる。

それでも、シオンは急かさずに待っていた。

 

「しばらく、世話になる」

 

それは、蒼星にとって敗北に近い言葉だった。自分の足で立てない。自分の手で水も飲めない。自分の名前すら外に出せない。そんな状態で、誰かの場所に身を置くと認めることは、ひどく居心地が悪かった。

 

シオンは、驚いたように少しだけ目を瞬かせた。けれど、すぐに静かに頷く。

 

「はい」

 

それだけだった。

 

礼を言えとも、信じろとも、助けてやるとも言わない。その短い返事が、蒼星には少しだけ楽だった。

 

「ただし」

 

蒼星は続ける。

 

「私は蒼星、あなたは?」

 

シオンは一瞬だけ目を瞬かせた。

名乗られるとは思っていなかった、という顔だった。けれど、すぐに姿勢を正し、穏やかに答える。

 

「シオンです」

「シオン」

 

蒼星はその名を繰り返す。

 

子供たちもそう呼んでいた。だから、少なくともこの場所で使っている名ではあるのだろう。嘘かどうかまでは分からない。けれど、今の蒼星にとって重要なのは、目の前の神官が自分をどう扱うつもりなのか、その一点だけだった。

 

そう考えたところで、扉の向こうから小さな気配がいくつも揺れた。

 

ひそひそ声。押し殺したつもりの息遣い。木の床を踏む軽い足音。隠れているつもりなのだろうが、気配を消すにはあまりにも下手だった。

 

蒼星が視線だけを扉へ向けると、扉の隙間がほんの少し開いた。

 

次の瞬間、誰かが押し、誰かが踏ん張り、誰かが耐えきれず、半開きだった扉が勢いよく開く。隠れていた子供たちが、団子のように重なったまま部屋の中へ転がり込んできた。

 

「わっ」

「押さないでって言ったじゃん!」

「押してない!」

「押した!」

「静かにしなさいってシオン先生が言ってた!」

「皆さん、盗み聞きは感心しませんね」

 

シオンの声は穏やかだった。けれど、その穏やかさに子供たちは一斉に肩を跳ねさせる。

 

「ち、違うよ!」

「盗み聞きじゃなくて、心配で……」

「そう!心配!」

「あと、ちょっと気になって……」

「それを盗み聞きと言います」

 

シオンが静かに言うと、子供たちはそろって口を閉じた。

 

蒼星は、転がり込んできた子供たちを見た。正確には、見下ろそうとして失敗した。身体を起こせないせいで、枕に頭を預けたまま、視線だけを向ける形になっている。

 

それがまた、余計に腹立たしかった。

 

「……君たちは」

 

声は弱かった。けれど、その一言で子供たちはびくりと固まる。一番小柄な子が、床に座り込んだまま、おずおずと口を開いた。

 

「起きたって聞こえたから」

「だから?」

「死んでないかなって」

 

蒼星は一瞬、返す言葉に迷った。

 

死んでないかな。

 

そんな確認のされ方には慣れていない。殺したか、殺されたか。生きているなら敵か味方か。蒼星の周りにある生死は、たいていもっと鋭く、もっと冷たく、もっと分かりやすい形をしていた。

 

けれど、目の前の子供たちは違う。

 

怖がっている。距離を取っている。赤いカーソルを見て、危ない人だと分かっている。それでも、死んでいないかを気にして、扉の外で聞き耳を立てて、転がり込んできた。

 

「……見れば分かるでしょ」

 

ようやく出た言葉は、それだった。

一番小柄な子は、ぱちぱちと瞬きをして、それから少しだけほっとしたように頷いた。

 

「そう」

「よかった」

 

また、それだった。

死なないでね。よかった。

 

蒼星には、どうにも扱いづらい言葉だった。

 

「よくない」

 

蒼星は目を逸らした。

 

「私は赤い。危ない人」

 

その言葉に、子供たちは顔を見合わせた。誰もすぐには答えなかった。赤いカーソルの意味は知っている。危ない人。近づいてはいけない人。大人に知らせなければいけない人。そう教えられてきたはずだった。

 

それでも、小柄な子は床に座り込んだまま、少し考えてから言った。

 

「でも、あの時、赤い人は困ってた。助けがいる人の目だった」

 

蒼星は黙った。

 

助けがいる人の目。

 

そんなものをしていたつもりはなかった。助けてほしいなどと、誰かに向けた覚えもない。あの時、自分はただ生き残ろうとしていただけだ。鉄鳴から逃げ、急流に落ち、何もかも削られ、最後に残った意識でまだ死んでいないと噛み締めていただけだった。

 

それなのに、この子供にはそう見えたらしい。危険なレッドPLではなく、死にかけた誰かとして。蒼星は、返す言葉を探して、結局見つけられなかった。

 

「……変な子」

 

ようやく出たのは、それだった。

小柄な子は、少しだけ首を傾げる。

 

「変?」

「普通、逃げる」

「逃げたかったよ」

 

子供は正直に言った。

 

「でも、置いていったら、後悔すると思ったから」

 

蒼星は目を細めた。

 

それは、強さではない。勇気というほど綺麗なものでもない。ただ、見てしまったものをなかったことにできなかっただけの、危うい優しさだった。

 

そういうものは、長く生きるには邪魔になる。

 

蒼星はそう思った。けれど、その邪魔なものに、自分は拾われた。

 

「……名前」

 

蒼星が言うと、子供は自分のことを聞かれたのだと気づくまでに少し時間がかかった。

 

「え?」

「君の名前」

 

小柄な子は、ぱっと顔を上げた。

 

「ナギ」

「ナギね」

 

蒼星は小さく頷いた。

 

「覚えた」

 

それだけ言うと、ナギは目を丸くした。他の子供たちも、小さくざわつく。名前を覚えられたことが、そんなに意外だったらしい。蒼星には、その反応の方が分からなかった。

 

シオンが困ったように笑う。

 

「皆さん、蒼星さんはまだ休まなければいけません。挨拶はそこまでです」

「蒼星さん?」

 

別の子が小さく呟いた。

 

「この人の名前?」

「赤い人じゃないの?」

「名前で呼びなさい」

 

シオンは穏やかに言った。

 

「赤い人、危ない人、そういう呼び方はしません」

 

蒼星はシオンを見る。

 

「別に赤い人で構わない」

「駄目です。素敵なお名前があるんですから」

「呼ばなくていい」

「困ります」

「困らない」

 

「困ります。ご飯の時も、用事がある時も、人前で呼ぶ時も、名前がないと困ります」

 

子供の一人が、遠慮がちに手を上げた。

 

「じゃあ、お姉ちゃん?」

 

蒼星の顔が固まった。

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