Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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蒼星に日常???


流れ星 前編

朝は、騒がしい。

蒼星が目を覚ました時、最初に耳へ入ってきたのは戦闘音でも、エネミーの唸り声でも、誰かの悲鳴でもなかった。廊下を走る小さな足音と、それを叱るシオンの声と、どこかの部屋で誰かが椅子を倒したらしい乾いた音だった。

 

「走らないでください」

「走ってない!」

「走っていました」

「急いで歩いてただけ!」

「それを走ると言います」

 

蒼星は、天井を見上げたまましばらく黙っていた。木の梁。白い布。窓から差し込む朝の光。昨日と同じ部屋。同じ布団。同じ右肩の空白。

 

扉が勢いよく開いた。

 

「起きてる? お姉ちゃん!!」

「……うるさい」

 

蒼星が掠れた声でそう言うと、扉を開け放ったナギは、勢いのまま部屋へ踏み込もうとして、途中でぴたりと止まった。

 

「走らない」

 

背後からシオンの声が飛ぶ。

ナギは片足を浮かせたまま振り返った。

 

「走ってない!」

「扉を勢いよく開けるのも、怪我人の部屋では控えてください」

 

「ごめんなさい」

 

ナギは素直に頭を下げた。けれど、その視線はすぐに蒼星へ戻る。昨日より少しだけ距離が近い。怖がっていないわけではない。赤いカーソルを見れば、まだ一瞬だけ目が揺れる。それでも、逃げるより先に心配する顔になっていた。

 

蒼星はそれがどうにも落ち着かなかった。

 

「お姉ちゃんはやめて」

「だめ?」

「だめ」

「じゃあ蒼星さん」

「それも別に許可した覚えはない」

「でも、シオン先生が名前で呼びなさいって」

「シオンの言うことなら何でも聞くの」

「うん」

 

即答だった。

 

「じゃあ、やっぱりお姉ちゃん!」

「話聞いてた?」

 

蒼星は目を細めた。声に力はない。けれど、睨む形だけは作ったつもりだった。ナギは一瞬だけ肩を跳ねさせたが、すぐに首を傾げる。

 

「聞いてたよ」

「聞いててそれ?」

「だって、蒼星さんって呼ぶのも許可してないって言ったから」

「だから呼ばなくていいって言ってる」

「呼ばないと困るよ」

「困らない」

「ご飯持ってきた時とか、水飲む時とか、シオン先生呼ぶ時とか」

 

昨日シオンに言われたことを、そのまま覚えているらしい。ナギは真面目な顔で言い切った。蒼星は返す言葉を探したが、見つからなかった。

 

この孤児院では、どうやら正論がよく飛んでくる。

しかも大人だけではなく、子供からも。

 

「……好きにすれば」

 

蒼星が諦めたように言うと、ナギの顔がぱっと明るくなった。

 

「じゃあ、お姉ちゃん」

「今すぐ撤回していい?」

「だめ」

「なんで」

「好きにすればって言った」

「言質を取るのが早い」

「げんち?」

「覚えなくていい」

 

蒼星が諦めたように言うと、ナギの顔がぱっと明るくなった。

 

「じゃあ、お姉ちゃん」

「今すぐ撤回していい?」

「だめ」

「なんで」

「好きにすればって言った」

「言質を取るのが早い」

「げんち?」

「覚えなくていい」

「困らせる前提なの」

 

シオンが小さく笑った。

 

「朝から賑やかですみません」

「毎朝これ?」

「だいたいは」

「最悪」

「昨日よりは声が出ていますね」

「そこを見る?」

「神官なので」

 

シオンはそう言って、ナギの手元にある盆を見た。

 

「水は?」

「まだ」

「では、まず水を飲んでもらってください。私は少し外にいますから、無理はさせないように」

 

ナギは大きく頷き、枕元の台へ盆を置いた。盆の上には、水の入った木の器だけが載っている。こぼさないように運んできたのだろうが、水面はまだ不安定に揺れていた。

 

「飲む?」

 

ナギが器を差し出す。蒼星は何も言わず、手を伸ばした。

 

右手で。

 

伸ばそうとして、何も動かなかった。一瞬、空白が落ちる。

 

蒼星の視線が、自分の右肩へ向いた。そこには厚く巻かれた包帯があるだけで、その先には何もない。分かっていたはずだった。目が覚めた時から、何度も見たはずだった。それでも身体は、当たり前のように右手を使おうとした。

 

ナギも、それに気づいた。何かを言おうとして、けれど言えずに口を閉じる。蒼星は表情を変えなかった。変えなかったつもりだった。

 

「……左」

 

小さく呟き、蒼星は左手を伸ばす。

 

今度は器に指が届いた。縁を掴む。持ち上げようとする。けれど、身体の重心が思ったよりもずれていた。右側にあるはずの支えがない。左手だけで器を持ち上げた瞬間、上体がわずかに傾いた。

 

水面が大きく揺れる。

 

「お姉ちゃ――」

 

ナギが声を上げるより早く、水が器の縁からこぼれた。

冷たい水が、蒼星の手首と布団を濡らす。部屋の中が、少しだけ静かになった。たったそれだけのことだった。

 

水を飲む。

それだけのことが、できなかった。

 

蒼星は濡れた布団を見下ろした。次に、震える左手を見る。力が入らない。握り方も、角度も、体の支え方も、全部少しずつ噛み合っていない。

 

戦い方だけではない。日常の動きまで、こんなにも難しいとは思わなかった。

 

「……最悪」

 

掠れた声が落ちる。

 

ナギは慌てて布を取った。

 

「触らないで」

 

蒼星はすぐに言った。

けれど、ナギは止まらなかった。布を両手で持ち、こぼれた水を蒼星の手首からそっと拭う。手つきは不器用だったが、力任せではない。怖がっているくせに、妙なところで迷わなかった。

 

「濡れたままだと冷たいよ」

「分かってる」

「分かってるなら拭く」

「勝手に決めないで」

「でも、濡れてる」

 

ナギは真面目な顔でそう言った。まるで、それだけで十分な理由になると本気で思っているようだった。

 

蒼星は言い返そうとして、やめた。怒鳴る体力もない。意地を張り通す余裕もない。何より、ナギの手が震えていることに気づいてしまった。

 

怖いのだ。それでも、拭いている。

 

蒼星は目を逸らした。

 

「……ありがとう」

 

そう言ってから、蒼星は自分で少し驚いた。

 

礼を言うつもりはなかった。少なくとも、こんな簡単に口から出すつもりはなかった。けれど、濡れた手首を拭くナギの手が震えていて、それでも逃げずにそこにいることに気づいてしまったら、黙ったままでいる方が難しかった。

 

ナギは布を持ったまま、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「どういたしまして」

 

それだけ言うと、少し照れたように笑った。

 

蒼星は、その顔を見ないように視線を逸らした。赤いカーソルを見て怯えていたくせに、片腕の自分を前に震えているくせに、礼を言われただけでそんな顔をする。その単純さが、どうにも落ち着かなかった。

 

「……水」

 

蒼星が小さく言うと、ナギはすぐに器を持ち直した。

 

「今度はぼくが持つね」

「自分で飲める」

「でも、こぼれた」

「一回だけ」

「一回こぼれた」

 

ナギは真面目な顔で言った。

あまりにも事実だったので、蒼星は黙った。

 

ナギは器の底を両手で支え、蒼星の口元へ近づける。近づけすぎない。けれど、左手だけで持たなくても飲める距離に置く。子供の手つきだから不安定ではあるが、雑ではない。こぼさないように、怖がらせないように、たぶん本人なりに一生懸命考えている。

 

「ゆっくりでいいよ」

「子供に世話される趣味はない」

「でも、ありがとうって言った」

「それとこれは別」

「別なの?」

「別」

 

ナギは少し考え込むような顔をしたが、結局よく分からなかったらしく、小さく頷いた。

 

「じゃあ、別でいいよ」

 

その返し方があまりにも素直で、蒼星はまた返す言葉を失った。

 

諦めたように少しだけ顔を寄せると、ナギが慎重に器を傾ける。水が唇に触れ、喉を通る。まだ痛む。けれど、さっきよりはこぼれない。一口、もう一口。水を飲むだけの時間が、やけに長く感じた。

 

飲み終えると、ナギはほっとしたように息を吐いた。

 

「飲めた」

「……見れば分かる」

「今度はこぼさなかった」

「君が持ったからでしょ」

「うん」

 

ナギは少しだけ嬉しそうに頷いた。

 

「だから、次も持つね」

「勝手に決めないで」

「でも、こぼれない方がいいよ」

 

蒼星は返す言葉を探して、見つけられなかった。

 

正しい。

腹立たしいほどに正しい。

 

廊下では、また誰かが走って、シオンに叱られていた。朝の光が白い布を照らし、部屋の中には水の匂いと、乾いた木の匂いが薄く混じっている。

 

殺意のない朝。

 

それなのに、蒼星には水を一杯飲むことすら難しくて、その水を飲むために、怖がりながらも逃げない子供の手が必要だった。

 

その事実を飲み込むより早く、部屋の外から、今度は別の匂いが流れ込んできた。

 

焼いたパンの匂い。

 

薄く煮込んだ野菜の匂い。

 

それから、香草を入れたスープの温かい匂い。

 

「朝ごはんだ」

 

ナギがぱっと顔を上げた。その声には、さっきまでの緊張とは違う響きがあった。怖がっていた子供ではなく、ただ朝食を待っている子供の声だった。

 

蒼星は少しだけ眉を寄せる。

 

「私はいらない」

「だめだよ」

 

即答だった。

 

「食べないと元気にならないって、シオン先生が言ってた」

「シオンの言うことなら何でも聞くの、君は」

「うん」

 

やはり迷いがなかった

ナギは水の器を台に戻すと、扉の方を振り返った。

 

「シオン先生! お姉ちゃん、水飲めた!」

 

「お姉ちゃんはやめて」

 

蒼星が低く言うが、声は廊下に届くほど強くない。すぐにシオンの足音が近づいてきて、扉が開いた。白い神官服の裾が揺れ、部屋の中に焼いたパンと薄いスープの匂いがさらに濃く流れ込んでくる。

 

「水を飲めたなら、次は朝食ですね」

「いらない」

「食べられないなら無理はさせません。ただ、食べられるかどうかは試してから決めましょう」

「正論で追い詰めるの、好きなの?」

「必要なことを言っているだけです」

 

シオンは穏やかにそう言って、蒼星の様子を見た。体を起こすだけで息が上がり、右肩はまだ厚い包帯に覆われている。食堂まで歩くなど到底無理だと、蒼星自身にも分かっていた。

 

だからこそ、先に言った。

 

「ここでいい」

 

すると、ナギが首を横に振った。

 

「みんなと食べる」

「は?」

「朝ごはんは、みんなと食べるんだよ」

 

ナギは当然のように言った。

 

蒼星はシオンを見る。

 

「この孤児院、怪我人を食堂に引きずり出す方針なの」

「いつもは違います」

「なら」

「ですが、今日は皆があなたのことを気にしています」

「見世物?」

「違います」

 

シオンは静かに否定した。

 

「みんな、あなたのことを気にしているんです」

蒼星は眉を寄せる。

 

「気にされる覚えはない」

「あります」

 

シオンは穏やかに言った。

 

「あなたは、あの子たちの前で死にかけていました。あの子たちは怖がりながらも、あなたを見捨てなかった。だから、目を覚ましたのか、食べられるのか、まだ痛いのか、気になるんです」

「それを見世物って言うんじゃないの」

「いいえ」

 

シオンは首を横に振った。

 

「一緒に食卓につくだけです。あなたを囲んで眺めるわけではありません。何かを問い詰めるわけでもありません。ただ、同じ朝食を食べるだけです」

 

蒼星は黙った。同じ朝食。

 

その言葉が、妙に遠かった。戦場での携帯食でも、攻略前の補給でも、情報交換を兼ねた会食でもない。ただ朝だから食べる。生きているから食べる。その輪の中に、自分も混ざる。

 

それが、戦うことよりもずっと難しいことのように思えた。

 

「私は赤い」

「知っています」

「子供たちは怖がる」

「怖がっています」

 

シオンは否定しなかった。

 

「ですが、怖いから遠ざけることと、怖くても知ろうとすることは違います」

 

ナギが隣でこくこくと頷く。

 

「みんな待ってるよ」

「待たなくていい」

「でも、待ってる」

「勝手に?」

「うん」

 

あまりにも迷いのない返事だった。

 

蒼星は返す言葉を失った。勝手に待たれて、勝手に気にされて、勝手に食卓へ連れていかれる。普通なら苛立つだけのはずなのに、今はその強引さに押し返す力すらない。

 

いや、力がないだけではない。

 

少しだけ、分からなかった。

 

どうしてそこまでするのか。

 

赤いカーソルを見て、危ない人だと知って、それでもなぜ同じ食卓に座らせようとするのか。シオンは蒼星の表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。

 

「無理に話さなくて構いません。食べられる分だけ食べて、つらくなったら戻ればいい。それだけです」

 

「……それだけ?」

 

「はい」

 

蒼星はしばらく黙っていた。

それだけなら。

 

そう思ってしまったことが、少しだけ腹立たしかった。

 

結局、蒼星はシオンとナギに支えられる形で食堂へ向かうことになった。歩くのではなく、椅子に座ったまま運ばれるような形だった。蒼星は最後まで嫌そうな顔をしていたが、自分で歩けない以上、文句にも限界がある。

 

廊下を進む間、子供たちの声が近づいてくる。

 

食器の触れ合う音。椅子を引く音。誰かが小さく笑う声。パンを取り合っているらしい声。シオンに叱られている声。

 

それらの音が、食堂の扉を開けた瞬間にぴたりと止まった。

 

部屋中の視線が、蒼星へ向く。

 

長い木の卓。揃いではない椅子。湯気の立つ大鍋。人数分に分けられたパンとスープ。そこに座っていた子供たちは、蒼星の赤いカーソルを見て、やはり少しだけ身を硬くした。

 

怖がっている。

当然だ。蒼星はそう思った。

 

けれど、誰も逃げなかった。

 

ナギが得意げに言う。

 

「連れてきた」

「連れてこられたんだけど」

 

蒼星が低く返すと、何人かの子供が小さく笑いかけて、すぐに口を押さえた。笑っていいのか分からない、という顔だった。

 

シオンが蒼星の席を用意する。

 

「ここに座ってください。右側は空けておきます」

「気を使わなくていい」

「必要な配慮です」

「そういうのが気を使うって言うんだけど」

「では、必要な気遣いです」

 

蒼星は黙った。

言い換えられただけだった。

 

食卓の端、壁を背にできる席に座らされる。逃げ道と視界を確保できる位置だった。シオンが意図して選んだのだと分かって、蒼星は少しだけ目を細める。優しいだけではない。こちらが警戒することも、落ち着ける位置も、分かったうえでそうしている。

 

それがまた、少しだけ厄介だった。

 

ナギは蒼星の左隣に座った。右側を空けた意味があるのかないのか分からない距離だった。

 

「近い」

「支えるから」

「頼んでない」

「でも、こぼすかもしれない」

「さっきのこと、根に持ってる?」

「根?」

「覚えなくていい」

 

ナギは不思議そうに頷いた。

 

シオンが蒼星の前に、薄いスープと小さくちぎったパンを置く。子供たちのものと同じ食事だった。特別扱いではない。豪華でもない。けれど、温かい。

 

「いただきます!」

 

蒼星はその声に少しだけ肩を揺らした。

 

一斉に向けられる声。

 

けれど、それは敵意でも警告でもない。

 

ただ、食事の前の挨拶だった。

 

「蒼星さんも」

 

ナギが小声で言う。

 

蒼星はしばらく黙っていた。食卓に並ぶ子供たちの視線が、ちらちらとこちらへ向いている。強制されているわけではない。ただ、待たれている。

 

それが、妙に落ち着かなかった。

 

蒼星は目を伏せる。

そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言った。

 

「……いただきます」

 

ナギの顔がぱっと明るくなる。

 

「言った」

「言ってない」

「言ったよ」

「聞こえてない」

「聞こえた」

「聞こえてない」

 

周囲の子供たちも、聞こえたという顔をしていた。

 

蒼星は諦めたように匙へ視線を落とす。

 

「……食べる前からうるさい」

「ごめん」

 

ナギはそう言いながらも、少し嬉しそうだった。

 

蒼星はその顔を見ないように、目の前の椀へ視線を落とした。薄いスープの湯気が、朝の光の中で白く揺れている。刻まれた野菜と豆が沈んでいて、前線で食べていた効率重視の料理とはまるで違っていた。高い回復量も、戦闘補助のバフも、状態異常耐性の表示もない。ただ温かくて、誰かが朝から鍋を見て、焦がさないように混ぜて、人数分に分けた食事だった。

 

蒼星は匙を取ろうとして、また右手を動かそうとした。

 

何も動かない。

 

一瞬、食卓の音が遠くなる。自分ではもう分かっているつもりだった。右腕はない。包帯の先には何もない。水を飲む時にも同じことをしたばかりだ。それでも身体は、当たり前のように右手を使おうとする。匙を取る。椀を支える。布団を掴む。身体を起こす。そのたびに、ないものを探してしまう。

 

蒼星は表情を変えないまま、左手を伸ばした。

 

今度は、最初から左手で匙を掴む。握ることはできた。けれど、椀を支える右手がないせいで、角度が合わない。左手で匙を持ち、同じ左側で椀との距離を測り、上体を傾けすぎないように支える。その全部が、少しずつ噛み合わなかった。

 

匙をスープに沈める。

 

掬う。

 

持ち上げる。

 

それだけで、手首がわずかに震えた。

 

零れる、と思った瞬間、ナギの小さな手が匙の下に添えられた。

 

「支えるだけ」

 

先に言われた。蒼星は目を細める。

 

「またそれ」

「こぼれない方がいいよ」

「正論ばっかり」

「シオン先生に似た?」

「似なくていい」

 

食卓の向こうで、何人かの子供が小さく笑った。今度は、蒼星も何も言わなかった。笑われたことが不快ではないわけではない。けれど、その笑いには嘲りがなかった。怖がっていた空気が、少しだけほどけただけの笑いだった。

 

ナギに支えられながら、蒼星は一口だけスープを飲む。

 

薄い味だった。

 

野菜と豆を煮ただけの、何のバフ表示も出ない普通のスープ。前線で食べていた料理とは違う。効率で言えば、ほとんど意味がない。回復量も少ない。戦闘に持ち込める効果もない。

 

けれど、温かかった。

 

喉を通り、胃に落ちる。身体が、それを受け入れる。自分の身体がまだ食事を必要としていることが分かってしまう。

 

それが、少しだけ腹立たしかった。

 

「どう?」

 

ナギが聞く。

 

「……まずくはない」

「おいしい?」

「まずくはないって言った」

「おいしいってこと?」

「違う」

 

ナギはよく分かっていない顔で笑った。けれど、その顔は嬉しそうだった。

 

そのやり取りを見て、食堂の空気が少しだけ緩む。子供たちはまた食事を始めた。誰かがパンをスープに浸しすぎて崩し、隣の子に笑われる。誰かが苦手な野菜を端に寄せ、シオンに見つかって戻される。誰かが蒼星をちらちら見て、目が合うと慌ててスープを飲むふりをする。

 

蒼星は、その全部が落ち着かなかった。

 

自分がいるだけで場が止まった。赤いカーソルのせいで、子供たちはまだ距離を測っている。けれど、それでも食事は続いている。蒼星が一口飲んでも、誰も騒がない。蒼星が匙を落としかけても、ナギが支えるだけで、世界は壊れない。

 

それが不思議だった。

 

殺すか、殺されるかではない。

奪うか、奪われるかでもない。

ただ、同じ卓で朝食を食べる。

 

その程度のことが、蒼星にはひどく難しくて、ひどく眩しかった。

朝食を食べ終えるころには、蒼星はひどく疲れていた。

 

食べた量は、子供たちの半分にも満たない。スープを数口と、細かくちぎられたパンを少しだけ。それだけだった。それでも、食堂を出る頃には息が浅くなり、視界の端が少し暗くなっていた。けれど、その日から数日が経つと、蒼星は少しずつ孤児院の生活に慣れていった。

 

慣れた、というより、逃げ場がなかった。

 

朝は騒がしい。昼はもっと騒がしい。夜になれば静かになるかと思えば、誰かが寝る前に喧嘩を始め、誰かが怖い夢を見て泣き、誰かがシオンの部屋へ忍び込んで叱られる。

 

蒼星はそのたびに「うるさい」と言った。

 

子供たちは最初こそびくりとしていたが、三日もすれば、それが本気で追い払うための言葉ではないと覚えたらしい。

 

「うるさいって言われたら、小さくすればいいんだよ」

 

ナギがそう教えたせいで、子供たちは蒼星の部屋の前で声量だけを落として騒ぐようになった。

結果として、ひそひそ声が増えただけだった。

 

「聞こえてる」

 

蒼星が言うと、扉の向こうで何人かが固まる。

 

「小さくしたのに」

「小さくしても騒がしいものは騒がしい」

「難しい」

「難しくない」

 

そんなやり取りにも、蒼星は少しずつ慣れていった。

慣れていった自分に、少し腹が立った。

 

右腕のない生活は、簡単には慣れなかった。水を飲む時も、服を着替える時も、包帯を替える時も、身体はまだ右手を探す。無意識に伸ばそうとして、何も動かないことに気づく。そのたびに、胸の奥が一瞬だけ冷える。

 

けれど、子供たちは遠慮がなかった。

 

「お姉ちゃん、また右手使おうとした」

「見てない」

「見てた」

「忘れて」

「忘れた方がいい?」

「いい」

「でも、忘れたらまた支えられないよ」

 

正論だった。本当に、この孤児院は正論ばかり飛んでくる。

 

蒼星はそのたびに黙り込み、ナギや他の子供たちは、勝手に水を支えたり、布を取ったり、椅子を引いたりした。怖がっていないわけではない。蒼星の赤いカーソルを見るたびに、何人かは今でも少し目を逸らす。それでも、完全に離れようとはしなかった。

 

そして、数日が過ぎたある午後。

 

蒼星は孤児院の裏庭にいた。

 

裏庭といっても、広いものではない。洗濯物を干すための縄と、小さな薬草畑と、子供たちが拾ってきた石や木切れが雑に積まれた一角があるだけの場所だった。日当たりは悪くないが、訓練場と呼ぶにはあまりにも頼りない。

 

そこで、子供たちが木の棒を持って向かい合っていた。

 

「違う」

 

蒼星は椅子に座ったまま言った。

 

声は大きくない。けれど、その一言で木の棒を構えていた子供たちは一斉に動きを止めた。ナギは振り上げかけていた棒を中途半端な位置で止め、隣の子はそれにつられて腰を引き、さらに後ろの子は何が違うのか分からないまま、とりあえず真似をして棒を下ろした。

 

「どこが?」

 

ナギが困ったように聞く。

 

「全部」

「全部……」

 

ナギの肩が落ちる。

 

他の子供たちも、木の棒を握ったまま顔を見合わせた。昨日まで薬草採取と水汲みくらいしかしていなかった子供たちだ。剣術の構えなど知らない。ましてや、相手を倒すためではなく、逃げるための動きなど分かるはずもない。

 

蒼星は小さく息を吐いた。

 

「まず、相手を倒そうとしない」

「護身術って、戦うんじゃないの?」

「違う。逃げるための時間を作るもの」

 

蒼星は左手だけを上げ、ナギの足元を指した。

 

「足が止まってる。相手の正面に立って、棒を振って、力比べをする必要はない。君たちが自分より強い相手と正面からやり合ったら負ける。だから、勝とうとしなくていい。相手の手を見る。足を見る。逃げ道を見る。掴まれない距離を保って、隙ができたら走る」

 

「全部逃げるんだ」

「そう」

 

蒼星は即答した。

 

「逃げて生きてるなら勝ち」

 

その言葉に、子供たちの何人かが意外そうな顔をした。赤いカーソルの高レベルPLが、戦えではなく逃げろと言うことが、どうにも結びつかなかったのだろう。

 

ナギが木の棒を下ろす。

 

「お姉ちゃんも逃げるの?」

 

蒼星は視線を逸らさずに続けた。

 

「正面から勝てないなら、正面からやらない。相手が強いなら、強いまま相手にしない。地形を見る。足音を聞く。武器を見る。癖を見る。逃げて、隠れて、観察して、勝てる条件が揃うまで近づかない」

 

子供たちは黙って聞いていた。

 

それは、英雄の戦い方ではなかった。物語に出てくる騎士のように真正面から敵を受け止めるものでも、強い魔法で悪を焼き払うような分かりやすいものでもない。逃げる。見る。隠れる。また逃げる。弱い者の戦い方で、狡い者の戦い方で、生き残るための戦い方だった。

 

「だから、逃げるのは恥じゃない」

 

蒼星は言った。

 

「死ぬ方が困る。死んだら、次にどうするか考えられない。逃げて生きてるなら、それは負けじゃない」

 

ナギは木の棒を握ったまま、じっと蒼星を見ていた。

 

「でも、逃げたら怒られることもあるよ」

「怒らせておけばいい」

 

蒼星は即答した。

 

「怒られるのと死ぬの、どっちがまし?」

「怒られる方」

「なら逃げる」

「それに、相手がそれで我を忘れてくれば隙になる」

 

蒼星は淡々と言った。

 

「怒る相手は見やすい。足が雑になる。手が大きくなる。目線も分かりやすくなる。そうなったら逃げる方向を変えればいい。追いかけてくる相手は、自分が追っていると思い込んでいるから、曲がり角や段差や狭い場所に弱い」

 

ナギは木の棒を握ったまま、少し難しそうな顔をした。

 

「怒らせてもいいの?」

「怒らせるために煽れとは言ってない」

 

蒼星はすぐに返した。

 

「でも、逃げた結果、相手が怒るなら利用する。大事なのは相手の感情に付き合わないこと。怒鳴られても、怖いことを言われても、戻らない。立ち止まらない。相手が怒れば怒るほど、相手は雑になる」

 

子供たちは黙って聞いていた。彼らにとって、怒った大人は怖いものなのだろう。怒鳴られれば足が止まる。謝らなければいけないと思う。戻らなければもっと怒られると思う。けれど、蒼星はそこを切り捨てるように言った。

 

「ただし、これは相手が君たちにとって敵だと判断した時の話。相手がシオンなら、素直に謝った方がいい」

 

子供たちが一斉にシオンを見る。

 

裏口のそばに立っていたシオンは、少しだけ目を瞬かせた。

 

「……そこで私を例に出しますか」

「分かりやすいでしょ」

 

蒼星は淡々と言った。

 

「先生が怒っている時に逃げたら?」

 

ナギが小さく手を上げる。

 

「あとでもっと怒られる」

「そう」

 

蒼星は頷いた。

 

「だから謝る。敵じゃない相手から逃げるのと、敵から逃げるのは違う。君たちを傷つけるために怒っているのか、君たちを止めるために怒っているのか、それを見分ける必要がある」

 

ナギは難しそうな顔をした。

 

「どうやって?」

「すぐには分からない」

 

蒼星はあっさり言った。

 

「だから、普段から見る。誰が本当に君たちを守ろうとしているのか。誰が君たちを道具にしようとしているのか。誰が怒った後も手を伸ばしてくれるのか。誰が優しい言葉を使って、逃げ道を塞ぐのか」

 

子供たちは黙った。

 

その言葉は、少し難しかったかもしれない。けれど、蒼星はあえて柔らかくしなかった。優しい顔の人間が安全とは限らない。怒る人間が敵とは限らない。この世界では、それを間違えれば簡単に死ぬ。

 

シオンは何も言わなかった。ただ、静かに蒼星を見ていた。

 

「相手が本当に敵なら逃げる。追ってくるなら観察する。怒って雑になったら、その隙を使う。でも、シオンに叱られた時は逃げない。謝る。話を聞く」

 

「お姉ちゃんは?」

 

ナギが聞いた。

 

「お姉ちゃんは、シオン先生に叱られたら謝る?」

 

蒼星は黙った。子供たちの視線が集まる。シオンの視線も、なぜか少しだけ強くなる。

 

蒼星は目を逸らした。

 

「……場合による」

「逃げるんだ」

「逃げない」

「謝る?」

「場合による」

「それ、逃げる人の言い方だよ」

 

シオンが小さく笑う。

 

「良い観察です、ナギ」

「褒めないで。調子に乗る」

 

蒼星が言うと、ナギは少しだけ得意げに胸を張った。

蒼星は小さく息を吐き、左手の木切れで地面を軽く叩く。

 

「話を戻す。敵から逃げる時は、怒鳴られても止まらない。味方に叱られた時は、止まって聞く。その違いを覚えて」

「敵と味方を間違えたら?」

 

別の子が聞いた。

 

蒼星はその子を見る。

 

「間違えることはある」

 

そう言うと、子供たちは少し不安そうな顔をした。

 

「だから、一人で判断できない時は、信じられる大人のところへ逃げる。ここならシオン。町なら、シオンが信じている相手。知らない相手に判断を預けない。優しい言葉だけでついていかない」

 

蒼星は、子供たちを見回した。

 

「逃げる先を、先に決めておく。危なくなってから考えると遅い」

 

ナギが真剣な顔で頷いた。

 

「逃げる先は、シオン先生」

「そう」

「あと、鍛冶屋のおじさん」

「誰」

「怖いけど、子供には優しい」

「そう……」

 

蒼星はふたたび子供たちへ視線を向ける。

 

「今の君たちには、分からないかもしれない」

 

子供たちは黙って蒼星を見ていた。

 

木の棒を握ったままの子。土で膝を汚した子。転んだ痛みを気にしながら、それでも次の動きを覚えようとしている子。怖がりながらも、逃げずに耳を傾けている子。

 

蒼星は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「でも、いつかきっと、君たちのためになると思う。逃げ方も、声の出し方も、相手の見方も、怖いまま動くことも」

 

ナギが、木の棒を握り直す。

 

「お姉ちゃんも、それで生きてるの?」

 

蒼星は少しだけ黙った。

 

右肩の空白が、風に触れるような気がした。もうそこには何もない。あの時捨てたものも、失ったものも、戻ってこない。それでも、自分はここにいる。

 

「そうだね」

 

蒼星は静かに言った。

 

「たぶん、それで生きてる」

 

ナギは真剣な顔で頷いた。

 

「じゃあ、覚える」

 

他の子供たちも、ひとり、またひとりと頷いた。

 

「私も」

「僕も」

「怖いけど、覚える」

「転ぶのは嫌だけど、覚える」

 

蒼星は、その言葉に何も返さなかった。

 

代わりに、左手で木切れを膝の上に置き、少しだけ息を吐く。身体はまだ重い。長く話したせいで喉も痛む。肩の奥には鈍い熱が残っている。それでも、さっきより少しだけ呼吸は楽だった。

 

シオンが裏口のそばで、静かに微笑んでいる。

 

洗濯物が風に揺れる。薬草畑の青い匂いが薄く漂う。子供たちの靴が土を踏む音がして、誰かが転び、誰かが笑い、誰かが「もう一回」と言う。

 

それは、戦場ではなかった。

 

殺意もない。血の匂いもない。勝たなければ死ぬという張り詰めた空気もない。

 

ただ、子供たちが生きるために転び方を覚え、逃げ方を覚え、怖いまま動くことを覚えているだけの、穏やかで緩やかな日常だった。

 

蒼星は、その光景をしばらく見ていた。

 

自分には似合わない場所だと思う。

 

けれど、悪くはないとも思った。

 

その考えが胸に浮かんだ瞬間、蒼星は少しだけ目を伏せる。

 

まだ早い。

 

そう言い聞かせる。

 

それでも、裏庭に響く子供たちの声と、風に揺れる洗濯物と、静かに見守るシオンの気配は、確かなものとしてそこにあった。

 

流れ着いただけの星が、ほんのわずかに足を止める。

 

そんな緩やかな日常。

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