「なら、雑には扱えねぇな」
鍛冶師の男は、静かに答えた。
それまでの乱暴な口調とは少し違っていた。声の低さは変わらない。ぶっきらぼうで、不機嫌そうで、相手を安心させるための柔らかさなど欠片もない。けれど、その言葉だけは、作業台の上に置かれた天夜のドレスと夜走りへ、確かに向けられていた。
蒼星は鍛冶師を見る。
「雑に扱うつもりだったの?」
「見ず知らずの赤い怪我人が持ち込んできた厄介な装備だ。面倒なら断るつもりだった」
「正直だね」
「嘘をついても直りゃしねぇ」
鍛冶師はそう言って、天夜のドレスの裂けた裾を指でなぞった。煤と鉄の匂いが染みついた太い指だったが、その動きは意外なほど丁寧だった。布地の傷を乱暴に広げることもなく、金具の歪みを無理に戻そうともせず、壊れたものがどう壊れたのかを確かめるように、ひとつずつ見ていく。
「こいつを仕立てた奴は、お前さんをよく見てる」
鍛冶師は低く言った。
「ただ速くするだけでも、ただ硬くするだけでもねぇ。避け方、踏み込み、着地、無茶な角度で体を逃がす癖。そういうもんを全部拾って、装備の方をお前さんに合わせてやがる」
蒼星は答えなかった。
「こっちも同じだ。走るための靴じゃねぇ。逃げるための靴だな」
蒼星の目が、わずかに動いた。
鍛冶師はそれを見逃さなかったが、追及はしなかった。
「逃げて、曲がって、踏み直して、追ってくる相手の視界から消える。加速の補助より、切り返しと着地の補助が細かい。お前さんがどう戦ってたか、だいたい見える」
「便利だね、鍛冶師って」
「装備は嘘をつかねぇからな」
鍛冶師は天夜のドレスと夜走りを作業台に置いた。
「少し、時間をくれ」
そう言ってから、鍛冶師は蒼星を見た。
「どうせ、素材なんて腐るほど余ってるんだろ。全部出せ。直すより、改修した方が早い」
「全部?」
「使えそうなもんだけ選ぶ。お前さんが選んでも、今の身体に合うかどうかは分からねぇだろ」
蒼星は少しだけ目を細めた。
言い方は悪い。だが、正しい。今までなら、自分の動きに必要な素材も、装備の方向性も、ある程度は判断できた。速度を上げる。隠密性を高める。切り返しの補助を増やす。耐久を削ってでも、回避と機動に寄せる。それが自分の戦い方だった。
けれど今は違う。
右腕がない。重心が違う。走り出しも、止まり方も、避けた後の姿勢も、以前とは違う。
前と同じ強化をすれば、前より強くなるわけではない。
下手をすれば、速く壊れるだけだ。
蒼星は小さく息を吐き、インベントリを開いた。次の瞬間、作業台の上に素材が次々と並んでいく。魔獣の革。高位エネミーの骨片。夜属性を帯びた糸。軽量化に使える鉱石。衝撃吸収用の軟鋼材。魔力伝導率の高い結晶片。前線で集めたもの、PKから奪ったもの、報酬として得たもの、使う機会を逃してインベントリの奥に沈んでいたもの。
子供たちが目を丸くした。
「すごい」
「宝物みたい」
「これ全部、素材?」
「お姉ちゃん、いっぱい持ってる」
「触るな」
鍛冶師の声が飛ぶ。
子供たちは一斉に手を引っ込めた。
「指が飛ぶぞ」
「素材で!?」
「俺が怒って飛ばす」
「それはだめだよ!」
ナギが真面目に言うと、鍛冶師は鼻を鳴らした。
「だったら触るな」
鍛冶師は、作業台の上に並んだ素材をいくつか選び分けると、天夜のドレスと夜走りをまとめて奥の台へ移した。
「三日後にまた来い」
蒼星は顔を上げる。
「三日?」
「型をある程度作ってやる。天夜のドレスは右肩の処理と留め具を組み直す。夜走りは今のお前さんの重心に合わせて仮調整する。完成品じゃねぇが、試着と試走くらいはできる形にしてやる」
「早いね」
「直すだけならな。だが、こいつは直すんじゃなくて改修だ。完璧に仕上げるには、お前さん本人に何度か動いてもらわなきゃならねぇ」
鍛冶師は夜走りを軽く叩いた。
「今のお前さんが、どこで傾くか。どこで踏み損ねるか。どの動きならまだ生きてて、どの動きなら死ぬか。それを見ないと、こいつは仕上がらねぇ」
「物騒な試着だね」
「物騒な使い方をする奴の装備だろうが」
鍛冶師は鼻を鳴らした。
蒼星は反論しなかった。
実際、その通りだった。
「三日後」
蒼星は確認するように言った。
「そうだ。時間は昼過ぎにしろ。朝は炉が混むし、夕方はガキどもの道具直しが溜まる」
「子供たち優先なんだ」
「当たり前だ。お前さんは面倒な客だが、ガキどもは常連だ」
「扱いの差」
「信用の差だ」
鍛冶師はあっさり言った。
蒼星は何も返さなかった。
腹が立たないわけではない。けれど、否定する理由もなかった。町に来たばかりの赤いカーソルの怪我人と、何度も道具を壊しては持ち込んでいる子供たち。どちらを信用するかなど、考えるまでもない。
「行こう、お姉ちゃん」
ナギが言う。
「行こう、お姉ちゃん」
「お姉ちゃんはやめて」
「だめ」
「なんで」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだから」
「意味が分からない」
「でも、蒼星さんって呼ぶと遠い感じがする」
蒼星は一瞬だけ黙った。
遠い感じ。
そんな理由で呼び方を決められても困る。困るはずだった。けれど、ナギの顔は真面目で、からかっているわけでも、甘えているだけでもなかった。
「……好きにすれば」
「うん。お姉ちゃん」
ナギは少し嬉しそうに言った。
蒼星は左手で修道服の裾を押さえながら、鍛冶屋の出口へ向かう。背後では、鍛冶師が子供たちから預かった採取ナイフや曲がった金具を乱暴に仕分けていた。乱暴に見えるのに、刃先は傷つけず、壊れた場所だけを確かめている。
怖いけど、悪い人じゃない。
ナギの言葉を思い出し、蒼星は小さく息を吐いた。
鍛冶屋の扉を開けると、外の空気は少しだけ冷たかった。炉の熱から離れたせいか、町の通りを流れる風がやけに軽く感じる。子供たちはすぐに次の話題へ移り、誰のナイフが一番怒られたか、帰りにパンを一口だけ食べてもいいか、シオンにどう説明するかで騒ぎ始めた。
蒼星は、その少し後ろを歩いた。
赤いカーソルは消えない。町の視線も、まだ完全には柔らかくならない。けれど、最初に町へ入った時ほど、空気は尖っていなかった。パン屋の店主は店先から軽く手を上げ、布屋の女は「裾、帰りに見せな」と声をかけ、井戸端の女たちは蒼星を見て少しだけ目を細めながらも、ナギたちに水をこぼすなと注意した。
ナギが、当然のように蒼星の左隣へ戻ってくる。
「お姉ちゃん、歩くの速い」
「君たちが遅い」
「でも、裾引っかかるよ」
「引っかからない」
「さっき引っかかった」
「石畳が悪い」
「また石畳のせいにしてる」
ナギが笑う。
蒼星は言い返そうとして、やめた。
その声が、少しだけ耳に馴染んでしまっていることに気づいたからだ。
「お姉ちゃん」と呼ばれるたびに落ち着かない。けれど、もう最初ほど強く否定する気にもなれなかった。
夕食を済ませる頃には、孤児院の中はまた少し騒がしくなっていた。
町で買ってきたパンを誰が多く食べたとか、鍛冶屋の親父に一番怒られたのは誰だとか、蒼星の修道服の裾が本当に石畳のせいで引っかかったのかどうかとか、子供たちはどうでもいいことで言い合い、シオンに何度も注意され、それでも最後には笑いながら食器を片づけていた。
蒼星は食堂の端でそれを眺めていた。
赤いカーソルは消えない。
右腕も戻らない。
町の視線も、完全に柔らかくなったわけではない。
それでも、今日一日で何かが少しだけ変わった気がした。パン屋の店主は子供たちのつまみ食いを叱る蒼星を見て笑った。布屋の女は修道服の裾を直すと言った。井戸端の女たちは警戒しながらも話をした。鍛冶師は天夜のドレスと夜走りを預かり、三日後に来いと言った。
拒絶されなかった。
それは、蒼星にとってひどく扱いにくい事実だった。
夜になり、子供たちが寝室へ追いやられると、孤児院はようやく静かになった。とはいえ完全な静寂ではない。どこかの部屋で誰かが寝返りを打つ音がする。小さなくしゃみが聞こえる。ナギがまだ誰かと小声で話していて、シオンに名前を呼ばれて慌てて黙る気配もあった。
蒼星はそれを聞きながら、屋根の上にいた。
上がるのは簡単ではなかった。右腕がないせいで梯子を掴む動きもぎこちなく、途中で何度か足を止める羽目になった。それでも、建物の外壁に沿う古い梯子と、屋根の端に打ちつけられた補修用の足場を使えば、時間をかければ上がれた。
無理をするなとシオンに言われるだろう。
そう思ったが、下にいるよりはましだった。
屋根の上は風が通っていた。昼間の町とは違う、少し冷たい夜風だった。見上げれば、低レベルエリアの空には星が広がっている。最前線の夜空と同じようで、どこか違う。殺気がない。索敵範囲を気にしなくていい。背後から斬りかかられる可能性を考えなくていい。
それだけで、逆に落ち着かなかった。
蒼星は屋根の傾斜に腰を下ろし、左膝を立てた。黒い修道服の裾が風に揺れる。金の刺繍が、月明かりを受けてわずかに光った。
「そこにいると、子供たちが真似をしますよ」
背後から声がした。
蒼星は振り返らない。
「見つかるの早いね」
「屋根に上がる音がしました」
「音、立てた?」
「いつもよりは」
シオンはそう言って、ゆっくりと屋根へ上がってきた。白い神官服ではなく、夜用の簡素な服を着ている。手には薄い羽織を持っていた。
「冷えます」
「寒くない」
「寒くなくても、冷えます」
「同じでしょ」
「違います」
シオンは蒼星の隣に腰を下ろし、断りもなく羽織を蒼星の肩に掛けた。右肩に触れないよう、慎重に。
蒼星は少しだけ眉を寄せる。
「勝手に」
「落としたら拾います」
「そういう問題じゃない」
「では、そういう問題にしておいてください」
相変わらずだった。
蒼星は小さく息を吐き、羽織を払わなかった。
しばらく、二人は黙って夜空を見ていた。孤児院の屋根の下から、かすかな寝息と木の軋む音が聞こえる。遠くの町では、鍛冶屋の炉が落とされたのか、昼間よりも鉄の匂いは薄かった。
先に口を開いたのは、シオンだった。
「町は、どうでしたか」
「騒がしい」
「孤児院も騒がしいでしょう」
「種類が違う」
「そうですね」
シオンは小さく笑った。
蒼星は空を見たまま言う。
「警戒された」
「でしょうね」
「でも、追い出されはしなかった」
「この町は、子供たちをよく見ていますから」
蒼星は少しだけ視線を動かした。
「私じゃなくて、子供たちを?」
「はい。あの子たちは怖がりです。けれど、危険に鈍いわけではありません。そんな子たちがあなたの隣にいて、あなたをお姉ちゃんと呼んで、普通に言い返している。それを見れば、町の人たちは少し考えます」
「信用の借り物だね」
「そうです」
シオンは否定しなかった。
「ですが、借り物の信用でも、そこから始まるものはあります」
蒼星は答えなかった。
借り物の信用。
それはたぶん、今日一日で自分が町から受け取ったものの正体だった。蒼星自身が信用されたわけではない。シオンの孤児院にいるから。ナギたちが傍にいるから。子供たちが逃げないから。町の人間は、少しだけ判断を保留した。
それでも、拒絶されなかった。
そのことが、蒼星にはまだうまく飲み込めない。
シオンは夜空を見上げたまま、静かに言った。
「蒼星さん。話しておきたいことがあります」
声の響きが変わった。蒼星は横目でシオンを見る。
「何」
「私は、元々《鉄鳴》のメンバーでした」
夜風が、屋根の上を通り抜けた。蒼星の金色の瞳が、細くなる。
「それが、どうしたの?シオンは今はあの子たちの先生でしょ」
シオンは、少しだけ目を見開いた。
責められると思っていたのかもしれない。警戒されると思っていたのかもしれない。あるいは、もっと冷たい言葉を返される覚悟をしていたのかもしれない。
けれど、蒼星は空へ視線を戻すだけだった。
「鉄鳴にいたから何。今のシオンは、しがない孤児院の先生でしょ。私を拾って、手当てして、あの子たちに隠しごとをさせて、それでも普通に叱って、普通にご飯を作ってる」
蒼星は少しだけ間を置いた。
「……優しい人でしょ」
シオンは、すぐには答えなかった。
夜風が屋根の上を通り抜ける。孤児院の下の部屋からは、子供たちの寝息がかすかに聞こえていた。昼間あれだけ騒いでいた声は、今はもうない。ただ、誰かが寝返りを打つ小さな音と、古い木材が軋む音だけが残っている。
「優しい人、ですか」
シオンは静かに繰り返した。
「違うの?」
「自分では、よく分かりません」
「じゃあ、私がそう見えてるって話」
蒼星は淡々と言った。
「鉄鳴だったかどうかなんて、今の私にはそこまで関係ない。今ここにいるシオンが、あの子たちをどう扱ってるかの方が大事」
シオンは目を伏せた。
「あなたは、赤いカーソルだけで判断されることを嫌うのですね」
「好きな人いるの?」
「いないと思います」
「なら、シオンも同じでしょ。元鉄鳴だからって、それだけで全部決めるのは雑すぎる」
蒼星は少しだけ肩をすくめた。
「まあ、今の鉄鳴が嫌いなのは変わらないけど」
「はい」
「でも、シオンを嫌う理由にはならない」
その言葉に、シオンの表情がわずかに揺れた。
泣きそう、というほどではない。けれど、ずっと胸の奥に置いていたものが、少しだけ緩んだような顔だった。
蒼星はそれを見て、すぐに視線を逸らす。
「そういう顔しないで」
「どんな顔ですか」
「面倒な顔」
「すみません」
「謝るならしないで」
シオンは小さく笑った。笑いながらも、その目にはまだ少しだけ痛みが残っていた。
「昔の鉄鳴は、今とは違いました」
シオンは夜空を見上げる。
「弱い者を守り、前線で仲間の盾になる。その理念を、本気で信じている人たちがいました。私も、その一人でした」
蒼星は黙って聞いていた。
「けれど、少しずつ変わっていきました。守るための盾が、人を押さえつけるための壁になっていった。弱い者を守ると言いながら、弱い者から奪うようになっていった。秩序という言葉で、都合の悪いものを踏みつけるようになっていった」
シオンの声は荒くなかった。
怒鳴るでも、泣くでもない。ただ、何度も考えて、何度も諦めて、それでも忘れられなかったものを口にしている声だった。
「私は、それを止められませんでした」
「だから逃げた?」
蒼星が言うと、シオンは小さく頷いた。
「かつての仲間を置いて、私は逃げました。変わっていく仲間から目を逸らし、遠くに」
シオンの声は静かだった。
けれど、その静けさは穏やかさではなかった。ずっと胸の奥に沈めて、何度も言葉にしようとして、結局誰にも言えなかったものを、ようやく少しだけ外へ出しているような声だった。
「最初は、止められると思っていました。前の鉄鳴を知っている人たちがまだ残っていたから。弱い者を守るために盾を持った人たちが、まだいたから。でも、少しずつ変わっていきました。守るための徴収が、都合のいい取り立てになっていく。治安維持のための警告が、脅しになっていく。押収したものの行き先が、曖昧になっていく」
夜風が、シオンの髪を揺らした。
「それでも私は、きっと戻れると思っていました。まだ間に合うと。話せば分かると。昔の鉄鳴を思い出してくれると」
「無理だった?」
蒼星が短く聞く。
シオンは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
その返事は、ひどく小さかった。
「無理でした。いえ、本当は無理だと気づいていたのに、認めたくなかったのかもしれません。変わっていく仲間を止めることもできず、見捨てることもできず、ただ中途半端に残って、最後には逃げました」
蒼星は何も言わなかった。
シオンは続ける。
「逃げた先で、この孤児院を作りました。前線に出られない子供たち、帰る場所のない子たち、戦うには弱すぎる子たちを集めて、せめてここだけは守ろうと思いました。でも、それも結局、私が見捨てたものの代わりを作っただけなのかもしれません」
「代わり?」
「はい。守れなかった仲間の代わり。止められなかった鉄鳴の代わり。逃げた自分を許すための、都合のいい場所」
シオンは自嘲するように笑った。
「優しい人なんかではありません。私は、逃げたんです」
蒼星は、屋根の下を見た。
そこには子供たちが眠っている。ナギも、他の子供たちも。昼間は騒がしく、転び、笑い、パンをつまみ食いしようとして叱られ、怖がりながらも前へ出る子供たち。
「それも優しさだよ。私にはない強さだと思う」
シオンは、息を呑むように蒼星を見た。
「強さ、ですか」
「うん」
蒼星は夜空を見上げたまま答える。
「逃げた先で、誰かを拾う。自分が傷ついても、また誰かに手を伸ばす。私はそういうの、できない」
「あなたは、あの子たちに手を伸ばしてくれました」
「違う」
蒼星は静かに首を振った。
「私は、生き残る方法を教えただけ。逃げ方、転び方、怖いまま動く方法。あれは優しさじゃない。私が知っていることを渡しただけ」
「それを優しさと呼ぶ人もいます」
「呼びたいなら勝手に呼べばいい」
蒼星は少しだけ目を細めた。
「でも、シオンのそれとは違う。シオンは、逃げた先で場所を作った。あの子たちが帰ってこられる場所を作った。怒られても、転んでも、怖くても、戻ってこられる場所を」
シオンは何も言わなかった。
蒼星は続ける。
「それは、戦うより難しいと思う」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
蒼星の声は淡々としていた。けれど、その言葉は軽くなかった。彼女にとって戦うことは、逃げることと同じくらい身近なものだった。殺すことも、傷つくことも、失うことも、ずっと近くにあった。
だからこそ、守る場所を作ることの方が、ずっと遠く見えた。
「私は、壊す方が慣れてる」
蒼星は小さく言った。
「敵を殺す。追手を撒く。邪魔なものを断つ。そういうことなら分かる。でも、誰かが安心して眠れる場所を作るなんて、私には分からない」
シオンの目が、わずかに揺れた。
「だから、シオンは優しいよ」
蒼星は、屋根の下へ視線を落とす。
「少なくとも、あの子たちにとっては」
シオンはしばらく黙っていた。
その沈黙は、痛みを含んでいた。けれど、拒絶ではなかった。自分では許せなかったものを、他人の言葉で少しだけ別の形に置き直されて、どう受け取ればいいのか分からないような沈黙だった。
やがて、シオンは小さく息を吐く。
「……あなたは、本当に不思議な人ですね」
「よく言われる」
「死神と呼ばれていて、怖いことをたくさん知っているのに、時々とても優しいことを言います」
「優しくないよ。私は本当の意味での強さを知らない。私は昔、仲間に――」
そこで、言葉が途切れた。
夜風の中に、別の声が蘇る。
――蒼星さん、あなたのその理由なき強さは危うい。いつかきっと、何も選べなくなりますよ。
ウェアウルフの少年が言っていた。
獣の耳を伏せ、鋭い瞳を細めながら、それでも声だけはひどく静かだった。怒っていたわけではない。責めていたわけでもない。ただ、蒼星の奥にあるものを見抜いて、それを危ういと告げていた。
あの時の蒼星は、笑った気がする。
「理由なんて、後からついてくるでしょ」
そう返したはずだった。
強ければいいと思っていた。速く動けるなら、敵を殺せるなら、誰よりも先に踏み込めるなら、それでいいと思っていた。理由がなくても戦えることを、強さだと思っていた。迷わず刃を振れることを、覚悟だと思っていた。
けれど、あの少年は首を横に振った。
――理由がないから、あなたはどこまでも行けてしまうんです。誰かを守るためでも、何かを選ぶためでもなく、ただ進めてしまう。だから危うい。
蒼星は、その言葉を思い出した。
あの時は、分からなかった。
分からないふりをしたのかもしれない。
シオンは何も言わず、蒼星の横顔を見ていた。続きを急かさない。問い詰めない。ただ、蒼星が言葉を探す時間を待っている。
蒼星は、夜空を見上げたまま小さく息を吐いた。
「昔、仲間に言われた」
「何をですか」
「理由のない強さは危ういって」
シオンは黙って聞いていた。
「私は、理由がなくても戦えた。殺せた。前に出られた。逃げられた。たぶん、それは才能だったんだと思う。怖くても動ける。迷っても刃を振れる。必要なら、誰かに恨まれても止まらない」
蒼星は左手を見下ろした。
今は、その手しかない。
「でも、それは強さじゃなかったのかもしれない。ただ、選ぶ前に動けてしまうだけだった」
蒼星は、左手を見下ろした。
今は、その手しかない。
「守るためじゃない。私の戦いは、何かを削りながら消費する戦いだった。体力も、装備も、時間も、命も、相手も、自分も。使えるものを使って、削れるものを削って、最後に立っていれば勝ち。そういう戦い方しか知らなかった」
夜風が、黒い修道服の裾を揺らす。
「それを強さだと思ってた。迷わないこと。止まらないこと。必要なら、自分の痛みも、誰かの恨みも、全部踏み越えられること。それができるなら、私は強いんだって」
蒼星は小さく息を吐いた。
「でも、たぶん違った」
屋根の下には、子供たちが眠っている。ナギも、他の子供たちも。昼間は騒がしく、転び、笑い、パンをつまみ食いしようとして叱られ、怖がりながらも前へ出る子供たち。
「シオンは、逃げた先で場所を作った。あの子たちが帰ってこられる場所を作った。叱って、ご飯を作って、怪我を見て、毎日同じことを続けてる」
蒼星は、屋根の下へ視線を落とす。
「そういうの、私にはできない」
シオンは何も言わなかった。
「私は壊す方が慣れてる。敵を殺す。追手を撒く。邪魔なものを断つ。何かを守るためだって言えば聞こえはいいけど、結局は削って、削って、最後に残ったものを勝ちって呼んでただけ」
蒼星は少しだけ目を細めた。
「だから、シオンのそれは優しさだよ。私にはない強さだと思う」
シオンは、ようやく小さく息を吸った。
「……強さ、ですか」
「うん」
蒼星は夜空を見上げたまま答える。
「逃げても、まだ誰かを拾えること。自分を許せなくても、誰かの帰る場所を作れること。毎日同じ場所にいて、誰かが戻ってくるのを待てること」
少し間を置いて、蒼星は続けた。
「それは、戦うよりずっと難しいと思う」
蒼星がそう言うと、シオンはしばらく何も返さなかった。
屋根の上を、夜風が通り抜ける。黒い修道服の裾が揺れ、シオンの髪が頬にかかった。屋根の下では、子供たちが眠っている。昼間の騒がしさが嘘のように、孤児院は静かだった。
やがて、シオンは小さく息を吐いた。
「蒼星さん」
「何」
「では、あなたもここで暮らしませんか」
蒼星は、すぐには反応しなかった。
言葉の意味が分からなかったわけではない。むしろ、分かってしまったからこそ、反応が遅れた。
「……何を言ってるの」
「この孤児院で、一緒に暮らしませんか」
シオンは、もう一度同じことを言った。
「前線に戻らなくてもいい。鉄鳴から逃げるためだけでもいい。傷が癒えるまででもいい。理由は、後から考えても構いません。ここにいて、朝食を食べて、子供たちに逃げ方を教えて、町へ行って、鍛冶屋に文句を言って、そういう日々を続けてもいいんです」
蒼星は、シオンを見た。
冗談を言っている顔ではなかった。
「私が赤いの、忘れた?」
「忘れていません」
「右腕もない」
「知っています」
「鉄鳴に追われてるかもしれない」
「その可能性も考えています」
「なら、なおさら置く理由がない」
「あります」
シオンは静かに言った。
「あなたは、あの子たちを傷つけませんでした。あの子たちに、生き残るための術を教えてくれました。ナギがあなたをお姉ちゃんと呼ぶようになりました。町の人たちも、まだ警戒はしていますが、あなたを見ようとし始めています」
「それは、子供たちの信用を借りてるだけ」
「はい」
シオンは否定しなかった。
「でも、借り物の信用でも、積み重ねればあなた自身のものになります」
蒼星は黙った。
そんなことを考えたこともなかった。
信用は、奪うものでも、脅して得るものでも、戦果で証明するものでもない。毎日同じ場所にいて、同じ食卓につき、同じ名前で呼ばれて、少しずつ増えていくもの。
それは、蒼星にはひどく遠いものだった。
「私は、ここにいていい人間じゃない」
蒼星は低く言った。
「そう決めるのは、誰ですか」
「私」
「なら、変えることもできます」
シオンの声は穏やかだった。
「あなたが自分をどう見ているのかは分かりません。赤いカーソルも、過去も、殺してきたものも、失ったものも、消えないのでしょう。ですが、それだけであなたの全部が決まるわけではありません」
蒼星は、何も言わなかった。
屋根の下で、ナギが寝言のように何かを呟いた。
聞き取れないほど小さな声だった。けれど、どこか安心しきった響きだった。
シオンはその声を聞いて、少しだけ微笑む。
「私は、あなたにあの子たちの盾になれと言っているわけではありません。戦ってほしいわけでもありません。ただ、あなたがここにいてもいいと、私は思っています」
蒼星は夜空を見上げた。
星が、ひとつ流れた。
願いごとをするには短すぎる光だった。そもそも、蒼星は願いなど信じていない。願って生き残れるなら、今まで死んだ者たちは皆生きているはずだ。願って失ったものが戻るなら、右肩の先にはまだ腕があったはずだ。
それでも、その光は確かに空を横切った。
ほんの一瞬だけ、暗い夜に線を引いた。
「……考えとく」
ようやく、蒼星はそう言った。
断らなかった。
自分でも、それが少し意外だった。
シオンは急かさなかった。ただ静かに頷いた。
「はい」
「期待しないで」
「少しだけにしておきます」
「するんだ」
「します」
シオンは穏やかに言った。
蒼星は小さく息を吐く。
「変な人」
「よく言われます」
「褒めてない」
「知っています」
二人の間に、少しだけ静かな時間が落ちる。
屋根の下には、子供たちの寝息がある。遠くには町の灯りがある。鍛冶屋に預けた天夜のドレスと夜走りは、三日後には今の蒼星の身体に合わせて形を変え始める。
元には戻らない。
けれど、終わりでもない。
蒼星は、流れ星の消えた空を見上げたまま、もう一度だけ小さく息を吐いた。
次戦います多分