Nocturne Reaper   作:Spica@お星

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その手に取るものは

鍛冶屋に天夜のドレスと夜走りを預けてから、二日が過ぎた。

 

孤児院の朝は、相変わらず騒がしい。廊下を走る足音。食堂から漂ってくる焼いたパンの匂い。誰かが椅子を引きずる音。ナギが何かを落として、シオンに名前を呼ばれる声。それらを聞きながら、蒼星は寝台の上で目を開けた。

 

以前なら、まず右手を動かそうとしていた。

 

水を取る時も、布団を払う時も、身体を起こす時も、無意識にそこにあるはずの手を探していた。けれど今朝、蒼星は少しだけ間を置いてから、左手を伸ばした。

 

枕元の台に置かれた木の杯を掴む。

 

指先はまだぎこちない。力の入れ方も、以前ほど自然ではない。それでも、杯は倒れなかった。水面が少し揺れただけで、こぼれはしなかった。

 

一口。

 

喉を通る水は、冷たかった。

 

ただ水を飲むだけ。

 

それだけのことに、少し前まで誰かの手が必要だった。ナギが器を支え、こぼれた水を拭き、飲めたと言って笑っていた。その時のことを思い出して、蒼星はわずかに眉を寄せる。

 

「……できるじゃん」

 

誰に聞かせるでもなく呟いた声は、思ったより小さかった。

 

その瞬間、扉の向こうで何かが動く気配がした。

 

蒼星は杯を置き、扉へ視線を向ける。

 

「いるんでしょ、入ってもいいよ」

 

少しの沈黙。

それから、扉がほんの少しだけ開いた。隙間から、ナギの顔が覗く。

 

「起きてた?」

「今、起きた」

「水、こぼしてない?」

「もう流石にね」

「そっか……」

「なに?さみしいの?」

 

蒼星がそう言うと、ナギは扉の隙間から顔だけを出したまま、少しだけ頬を膨らませた。

 

「さみしくないよ」

「じゃあ、何」

「ちょっとだけ、残念」

「ほぼ同じでしょ」

「違うよ」

 

ナギは真面目な顔で言った。

 

「こぼしたら、手伝えるから」

 

蒼星は返す言葉を失った。

普通なら、失敗しない方がいい。できないことができるようになった方がいい。水をこぼさずに飲めるようになったのなら、それは喜ぶべきことのはずだった。けれどナギは、どこか置いていかれたような顔をしている。

 

「もしかして、世話焼きが変な方向に育った?」

「ち、違うよ!!」

 

ナギは慌てて首を振った。顔まで赤くしている。

 

「そういうのじゃなくて、ただ、手伝えたら嬉しいっていうか、役に立てたら嬉しいっていうか」

「私が不便な方が?」

「違う!」

 

ナギは布鞄をぎゅっと抱え直し、少しだけ視線を落とす。

 

「お姉ちゃん、最初はすごく痛そうだったし、水も飲めなかったし、ずっと怖い顔してたから。だから、ぼくがちょっとでも手伝えたら、まだここにいてくれる気がした」

 

蒼星は黙った。

ナギは、自分で言ってから恥ずかしくなったのか、慌てて付け足す。

 

「でも、できるようになるのはいいことだよ。ほんとだよ。お姉ちゃんがこぼさないの、すごいと思うし」

「水をこぼさないだけで褒められるの、だいぶ複雑なんだけど」

「でも、前はこぼした」

「覚えてなくていいことまで覚えてるね」

「大事なことだから」

「どこが」

「お姉ちゃんが、できるようになったところ」

 

ナギは真面目な顔でそう言った。蒼星は目を逸らした。

 

そういう言葉は、どうにも扱いづらい。皮肉で返すにはまっすぐすぎて、突き放すには少しだけ温かすぎる。

 

「……君、ほんと危ういね」

「またそれ」

「何回でも言うよ」

 

蒼星は寝台の端に腰を移し、左手で身体を支えながらゆっくり立ち上がる。右側の重さがないせいで、まだ少しだけ身体が傾く。それでも、以前ほど大きくは崩れなかった。

 

ナギがすぐに手を伸ばしかける。

 

「今日は自分で立つ」

「うん」

 

ナギは素直に手を引っ込めた。けれど、すぐ近くに立ったままだった。

 

「近い」

「倒れたら支えるから」

「倒れない」

「倒れたら?」

 

蒼星は少しだけ黙った。

 

「その時は支えて」

 

ナギの顔が、ぱっと明るくなる。

 

「うん」

 

蒼星は小さく息を吐いた。

 

以前なら、この距離の近さは鬱陶しいだけだった。今も鬱陶しくないわけではない。けれど、少しだけ慣れてしまっている自分がいる。

 

それを、自然に受け入れている自分がいる。

 

ナギが近くにいること。倒れた時に支えると言われること。水をこぼさなかっただけで嬉しそうにされること。そういうものを、いつの間にか拒絶しなくなっている。

 

蒼星はその事実に気づいて、少しだけ目を伏せた。

 

「……厄介」

「何が?」

「君」

「ぼく?」

「そう」

 

蒼星は短く答えた。

 

ナギは不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑った。

 

「じゃあ、厄介でもいいよ」

「よくない」

「でも、倒れたら支える」

「……好きにすれば」

「うん」

 

ナギは嬉しそうに頷いた。

 

蒼星は、それ以上何も言わなかった。言えばまた、何かを認めてしまいそうだった。

 

昼食を終えると、子供たちはいつものように騒がしく準備を始めた。

 

今日の目的は、初心者用ダンジョンで受けられる簡単なクエストだった。低レベルエリアに生える薬草の採取と、浅い階層に出る小型エネミーのドロップ品をいくつか集めるだけのもの。危険度は低い。シオンも普段から許可している範囲で、子供たちにとっては小遣い稼ぎと日々の練習を兼ねた、ほとんど日課のようなものらしかった。

 

ナギは採取用の布鞄を肩に掛け、少し得意げに言う。

 

「今日はクエストの日」

「そうなんだ」

「お姉ちゃんも一緒に来る?」

「私が行ったら、ナギ達のためにならない」

 

ナギはきょとんとした顔をした。

 

「なんで?」

「私がいると、君たちは私を見る。危ないと思ったら、逃げ道じゃなくて私の方を見る。自分で考える前に私を探す」

「それじゃ意味がない。私が教えたのは、私やシオンがいない時に生き残るための動き」

 

ナギは少しだけ唇を結んだ。

 

「でも、お姉ちゃんがいた方が安心だよ」

「安心は、時々邪魔になる」

「邪魔?」

「大丈夫だと思った瞬間に、足が止まる。誰かが助けてくれると思った瞬間に、見るべきものを見なくなる。君たちはまだ弱い。それに、今日行くのはそこまで脅威のない場所」

 

蒼星は、ナギの布鞄を見た。

 

採取用の袋。小さな水筒。簡易ナイフ。浅い階層のクエストに必要なものだけが入った軽い荷物だった。危険な深層へ潜る装備ではない。子供たちにとっては、何度も通った初心者用ダンジョンの範囲で済む用事のはずだった。

 

「だからこそ、ちょうどいい」

「ちょうどいい?」

「本当に危ない場所で初めて試すより、慣れた場所で確認した方がいい。どこを見るか。どこで止まるか。誰かに声をかけられた時、どう距離を取るか。変だと思った時、ちゃんと戻れるか」

 

蒼星は淡々と言った。

 

「今日やるのは、そういう練習」

 

ナギは少しだけ考えるように視線を落とした。

 

「じゃあ、ちゃんと戻ってこれたら?」

「合格」

「合格したら?」

「ご褒美をあげる」

 

ナギの顔が、ぱっと上がった。

 

「ご褒美?」

「そう」

「なに?」

「戻ってきてから決める」

「今決めて」

「合格してから」

「ええ……」

 

ナギは不満そうに頬を膨らませたが、その目はもう少しだけ輝いていた。怖いまま動くこと。危ないと思ったら逃げること。知らない場所には入らないこと。蒼星が言った言葉は、どれも子供にとって楽しいものではないはずだった。けれど、そこにご褒美という言葉がひとつ乗るだけで、ナギの中では少し違う形になったらしい。

 

「パン?」

「食べ物限定なの」

「じゃあ、訓練?」

「それ、ご褒美なの?」

「お姉ちゃんが教えてくれるなら、ご褒美」

 

蒼星は一瞬だけ黙った。真顔で言われると、反応に困る。

 

「……変な子」

「よく言われる」

「誰に」

「お姉ちゃんに」

「私だけでしょ」

 

ナギは少しだけ笑った。

 

蒼星は小さく息を吐く。左手を伸ばし、ナギの布鞄の紐を軽く整えた。自分でも、そんなことをした後で気づいた。以前ならしなかった動きだった。必要かどうかで言えば、別に必要ではない。ただ、紐が少し捻れていて、歩く時に肩へ食い込みそうだったから直しただけだ。

ナギはその手元を見て、それから蒼星を見上げた。

 

「ありがとう」

「別に」

「お姉ちゃんも、だんだんシオン先生みたいになってきたね」

「その評価は取り消して」

「なんで?」

「不本意」

「ふほんい?」

「覚えなくていい」

 

ナギは分かったような顔で頷いた。やはり、分かっていない顔だった。蒼星はナギの額を軽く指で押した。

 

「ちゃんと戻ってきたら、ご褒美。戻ってこなかったらなし」

「戻ってくるよ」

 

ナギはすぐに答えた。

 

「危ないって思ったら直ぐに引き返して、ちゃんと戻ってくる」

 

その言葉に、蒼星は少しだけ目を細めた。

 

「そうして」

「うん」

 

ナギは大きく頷いた。

その顔には、まだ少しだけ不安が残っていた。けれど、昨日までのようにただ怖がっているだけではない。怖いならどうするか。危ないと思ったら何を見るか。何を優先するか。そういうものを、ナギなりに胸の中で確かめている顔だった。

 

蒼星は、それを見て少しだけ息を吐いた。

 

「それと」

「うん」

「知らない人に声をかけられても、ついていかない」

ナギは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「道を聞かれた時も?」

「相手と距離を取ったまま答える。近づかない。案内してほしいと言われても、ついていかない」

「ギルドの人でも?」

「ギルドの人でも」

 

蒼星ははっきりと言った。

 

「大人でも、強そうな人でも、正しそうなことを言っていても、その場で判断しない。何かを手伝えと言われたら、まずシオンに確認する。シオンがいなければ町の知り合いの人に聞く。君たちだけで決めない」

 

ナギは真面目な顔で頷く。

 

「分かった。お姉ちゃん、行ってきます」

 

蒼星は、その言葉に少しだけ反応が遅れた。

 

行ってきます。

 

そう言われること自体に、まだ慣れていない。誰かが出かける時に、自分へ向けて言葉を置いていく。その言葉に返すべきものがあることも、頭では分かっているのに、すぐには口が動かなかった。

 

ナギは玄関の外で待っている子供たちに呼ばれながらも、蒼星の返事を待っていた。

 

蒼星は小さく息を吐く。

 

「……行ってらっしゃい」

 

ナギの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「うん!」

 

その返事だけで、まるで何か大きなものを貰ったように笑う。蒼星には、その反応がやっぱり少し分からなかった。けれど、分からないからといって、不快ではなかった。

 

「ナギ、走らないでください」

 

シオンの声が飛ぶ。

 

「走ってない!」

「走っています」

「急いで歩いてるだけ!」

「それを走ると言います」

 

いつものやり取りだった。

 

ナギは慌てて歩幅を小さくしながら、他の子供たちの後を追う。採取用の布鞄が肩で跳ね、小さな水筒がかちゃかちゃと音を立てる。途中で一度つまずきかけ、隣の子に笑われ、ナギは「転んでない」と言い返していた。

 

蒼星は玄関の柱に左手を添えたまま、その背中を見送った。

朝の光の中へ、小さな背中が遠ざかっていく。

 

いつもの日常。

 

そう思えるくらいには、蒼星もこの光景に慣れていた。

やがて子供たちの声が道の先へ消えていくと、孤児院の前には少しだけ静かな空気が戻った。さっきまであれほど騒がしかったのに、いなくなればいなくなったで妙に物足りない。

 

蒼星はその感覚に気づいて、わずかに眉を寄せた。

 

「心配ですか」

 

隣に立ったシオンが、穏やかに尋ねる。

 

「子供だけでダンジョンに行くのを、心配しない方が難しい」

「いつものことです」

「いつものことが、ずっと安全とは限らない」

 

シオンは否定しなかった。

 

「そうですね」

 

蒼星はしばらく子供たちが消えた道を見ていたが、やがて視線を外した。

 

「私は鍛冶屋に行く」

「武器を見に?」

「それだけじゃない、ご褒美用意しないと」

 

今の蒼星には、まともな武器がない。

 

天夜のドレスも夜走りも鍛冶師に預けている。魂喰らい(ソール・イーター)は奪われた。右腕もない。以前のように大鎌を振るうことはできない以上、今の身体で扱える得物を用意する必要があった。

 

戦うためではない。

少なくとも、そう思いたかった。

 

だが、この世界で武器を持たずにいることがどれほど危ういかを、蒼星はよく知っている。守るつもりがあろうとなかろうと、奪う者は来る。理由があろうとなかろうと、刃は向けられる。ならば、最低限、自分の身体に合う刃は必要だった。

 

短剣か。片手剣か。細身の刺突剣か。

 

重い武器は駄目だ。鎖付きの刃物も、右腕がなければ扱いづらい。速度だけを求める武器も今は危うい。左手一本で制御でき、逃げる時の邪魔にならず、必要な時だけ相手を止められるもの。

以前なら、迷わず火力と機動を選んでいた。

 

今は違う

 

速く動ければいいわけではない。強く斬れればいいわけでもない。自分の身体がついてこない性能は、結局どこかで足を取る。右腕を失った今の蒼星に必要なのは、以前の自分を再現するための武器ではなく、今の自分が倒れずに扱える武器だった。

 

その事実を認めるのは、少しだけ不快だった。

 

けれど、認めなければ死ぬ。

 

蒼星は黒い修道服の裾を整えながら、町へ続く道を歩く。まだ少し長い裾が足元で揺れ、金の刺繍が日の光を拾った。

 

鍛冶屋の前まで来ると、いつものように鉄と煤の匂いが鼻を掠める。中では炉が燃えているらしく、扉の隙間から熱が漏れていた。蒼星は一度だけ足元を確認し、裾を踏まないように左足を置く位置をずらしてから、鍛冶屋の扉を開けた。

 

できるだけ自然に入ったつもりだった。

 

少なくとも、今回は足音を殺したつもりはない。

 

だが、炉の奥から即座に声が飛んだ。

 

「お前は普通に歩けんのか、お前は」

 

蒼星は足を止めた。

 

「今のは普通」

「普通の奴は床板の鳴らねぇ場所だけ選んで歩かねぇんだよ」

 

鍛冶師は振り返りもせずに言った。槌を置く音が、重く響く。

 

「前よりは音がした。だが、それでも癖が抜けてねぇ。扉を開ける時も、先に中の配置を見ただろ。目線が炉、作業台、奥の棚、逃げ道の順に動いた」

「よく見てるね」

「鍛冶師だからな」

「便利な言葉」

「お前も大概便利に使ってるだろ。死神だの赤いのだの」

 

鍛冶師はようやくこちらを向いた。煤のついた顔。太い腕。乱暴な目つき。だが、その視線は相変わらずただ荒いだけではない。蒼星の歩き方、左手の位置、修道服の裾、右肩の空白、その全部を一度に見ている。

 

「で、今日は何だ。三日後って言ったはずだが」

「装備の催促じゃない」

「なら何しに来た」

「ナギ達のご褒美と武器を見に来た」

 

鍛冶師の眉が、わずかに上がった。

 

鍛冶師の眉が、わずかに上がった。

 

「ご褒美と武器を、同じ店で見繕うな」

「ここ以外に心当たりがない」

「心当たりがねぇからって、鍛冶屋に菓子でも求めに来たのか」

「食べ物だとすぐ消える。玩具だと邪魔になる。実用品の方がいい」

 

蒼星は淡々と言った。

 

「解体用のナイフが欲しい。子供たちでも使える小さいやつ」

 

鍛冶師は、露骨に顔をしかめた。

 

「ご褒美に刃物か」

「道具でしょ」

「使い方を間違えりゃ刃物だ」

「使い方を教える」

 

蒼星は迷わず答えた。

 

「薬草採取でも、小型エネミーの素材取りでも、今のナイフだと刃が欠けやすい。力を入れすぎると手元が滑る。ナギたちの手には柄が太い。だから、子供の手でも握れて、滑り止めがあって、刃渡りが短くて、解体に使える程度のものが欲しい」

 

鍛冶師は少しだけ黙った。

 

「……見てたのか」

「見た」

「どこを」

 

「ナギは力を入れすぎる。刃を立てる角度が浅い。もう一人、髪を結んでた子は刃先ばかり使うから欠ける。背の高い子は逆に慎重すぎて、素材を傷つける前に自分の手首を固める。全員、道具の扱いが雑というより、道具が合ってない」

 

鍛冶師の眉が、わずかに動いた。

 

「お前さん、案外ちゃんと見てるじゃねぇか」

「鍛冶師ほどじゃない」

「気持ち悪い謙遜をするな」

 

鍛冶師は鼻を鳴らし、作業台の下から小さな木箱を引き出した。中には、刃渡りの短い解体用ナイフが何本か並んでいる。大人用ではない。採取職の見習いや、低レベルPLが素材を傷つけずに扱うための小型のものだった。

 

「これなら使える。刃は短い。先も丸めてある。刺すためじゃなく、剥ぐための形だ。柄は細めだが、ナギにはまだ少し太いかもしれん」

「調整できる?」

「誰に言ってやがる」

 

鍛冶師は一本を取り上げ、柄の太さを確かめるように指で叩いた。

 

「ナギ用なら少し削る。滑り止めに革を巻く。刃は落としすぎると使い物にならんから、切れるが刺しにくい形にする。あいつは転ぶからな」

「よく分かってる」

「分かりたくなくても分かる。店の前で毎回つまずく奴を見てりゃな」

 

蒼星は少しだけ目を伏せた。

ナギ達がそれを受け取った時の顔が、容易に想像できてしまった。きっと大げさに喜ぶ。何度も礼を言う。すぐに使いたがり、シオンに怒られる。

 

そして、怒られた後で、それでも嬉しそうに蒼星のところへ見せに来る。そこまで簡単に想像できてしまって、蒼星の口角が少しだけ上がった。

 

自分が、そんな顔を想像している。

そのことに気づいて、蒼星はすぐに表情を消した。

 

「……何笑ってやがる」

 

鍛冶師が怪訝そうに言う。

 

「笑ってない」

「笑ってただろ」

「気のせい」

「赤いの、お前さんは嘘が下手だな」

「初めて言われた」

「だろうな。たぶん、今までは誰も見る余裕がなかっただけだ」

「人数分の用意をお願い。支払いは、これで足りる?」

 

蒼星はインベントリを操作し、作業台の端に金袋を置いた。

重い音がした。鍛冶師の手が止まる。小さな解体用ナイフを並べていた太い指が、金袋と蒼星の顔を交互に見た。

 

「……おい」

「足りない?」

「足りる足りねぇの話じゃねぇ」

 

鍛冶師は金袋を指先で押した。中で金貨が鈍く鳴る。

 

「子供用の解体ナイフを人数分だぞ。最前線PLの剣でも作らせる気か」

「余ったら素材代に回して」

「雑に金を置くな」

「必要経費」

「そういう顔で言う額じゃねぇんだよ」

 

鍛冶師は呆れたように息を吐き、金袋を蒼星の方へ押し返した。

 

「半分でいい」

「受け取らないの?」

「いらねぇ分まで取るほど落ちぶれちゃいねぇ」

「商売下手だね」

「黙れ、赤いの。俺の店で金の使い方まで雑にするな」

 

蒼星は少しだけ目を細めた。

 

「雑じゃない。ちゃんと戻ってきたら渡すって決めたから、ちゃんとしたものを渡したいだけ」

 

鍛冶師は黙った。炉の火が、奥で低く鳴る。

 

蒼星の声はいつも通り淡々としていた。けれど、その言葉には妙な重さがあった。気まぐれで買う玩具ではない。余った金で買う菓子でもない。あの子たちが戻ってきた時、きちんと手渡すためのもの。

 

鍛冶師は鼻を鳴らした。

 

「……なら、なおさら半分でいい。足りねぇ分は、あいつらが次に道具を曲げた時の説教代に乗せる」

「説教代取るんだ」

「取らなきゃ割に合わん」

「ナギ、破産しそう」

「だから道具を丁寧に使えって話だ」

 

鍛冶師は金袋から必要分だけを取り、残りを蒼星へ戻した。それから小さな解体用ナイフを一本手に取る。

 

「刃は短くする。先は少し丸める。切れるが刺しにくい形にする。柄は子供の手に合わせて削る。滑り止めに革を巻く。鞄の内側に留められる革鞘もつける」

「うん」

「これは武器じゃねぇ。道具だ。渡す時にそう言え」

 

鍛冶師は蒼星を睨むように見た。

 

「ガキどもが振り回したら取り上げろ」

「分かってる」

「本当にか?」

「ナギが振り回しそうなのは、私も想像できてる」

「ならいい」

 

蒼星は作業台に並んだ小さな刃を見た。人を殺すための刃ではない。

 

ご褒美。

 

そう呼ぶには少し実用的すぎる気もした。けれど、蒼星にはこれくらいしか思いつかなかった。鍛冶師はそれを見透かしたように、低く言う。

 

「下手くそだな」

「何が」

「甘やかし方だ」

 

蒼星は少しだけ黙った。

 

「知らないから」

「だろうな」

 

その事実が、静かに胸の奥へ沈んでいった。

 

鍛冶師はナイフを一本ずつ選び分け、柄に印をつけていく。蒼星はその手元を見ていた。その手に取るものが、誰かを殺すための刃だけではなくなっている。

 

その事実が、静かに胸の奥へ沈んでいった。

 

「で、お前さんの分だ」

 

鍛冶師はそう言って、作業台の脇に置いていた短剣を一本、蒼星の前へ滑らせた。

 

刃渡りは長すぎず、短すぎない。片手で扱うには十分な長さで、刃はまっすぐではなく、わずかに腹を持っている。突き刺すためだけの短剣ではない。受け流し、引っかけ、浅く斬り、相手の動きを削ぐための刃だった。

 

蒼星は、それを左手で取る。

軽く振り、使用感と今の状態を確認する。

 

刃は素直についてきた。重さは手の中に残るが、遅れは少ない。短剣を返すたび、柄の重心が掌に沈み、刃先の位置が分かる。軽すぎる短剣のように手首で探しにいく必要はなく、重すぎる剣のように肩を持っていかれることもない。

 

蒼星は一度、斜めに刃を流した。

 

右腕がない分、身体の戻りはやはり遅い。以前なら刃を振った反動を右側で殺し、次の動作へ繋げていた。だが今は、その逃げ場がない。左肩から腰へ負荷が落ち、足元がわずかに遅れる。

 

それでも、崩れない。

 

蒼星はもう一度、今度は小さく刃を返した。大きく振らない。深く踏み込まない。相手を裂くのではなく、手首を払う。足を止める。距離を切る。そのための動きなら、今の身体でも扱える。

 

「……悪くない」

 

蒼星が呟くと、鍛冶師は鼻を鳴らした。

 

「悪くない、じゃねぇ。そいつでギリギリだ」

「ギリギリ?」

「ああ。お前さんの技量についていける刃が、それくらいしかねぇ。軽すぎりゃ手の中で置いていかれる。重すぎりゃ次の動きに遅れる。刃筋が素直すぎても、お前さんの癖に負ける。普通の武器じゃ、お前さんが先に動いて、武器の方が遅れる」

 

鍛冶師は作業台に並んだ短剣を顎で示した。

 

「それでも、まだギリギリだ。無茶な使い方するんじゃねぇぞ」

 

蒼星は短剣を見下ろした。

 

自分の技量についてこられる武器。

 

そう言われれば聞こえはいい。けれど、それは同時に、下手な刃では自分の動きを殺すという意味でもあった。速く振れるだけでは駄目。軽いだけでも駄目。切れ味だけでも駄目。手の中に重さが残り、刃の位置が分かり、次の動きへ繋げられるもの。

 

「分かってる。そもそも、全力で動けない」

 

自嘲気味に呟く。鍛冶師は、そこで少しだけ目を細めた。

 

「それを分かってるなら、まだましだ」

「褒めてる?」

「褒めちゃいねぇ。無茶をする奴が、自分は無茶をしてると分かってるだけ、多少は止めようがあるって話だ」

「止められると思ってるんだ」

「思ってねぇよ」

 

鍛冶師は即答した。

 

「だから釘を刺してる。全力で動けねぇなら、全力で動こうとするな。今のお前さんが全力を出そうとすれば、刃より先に身体の方がついてこねぇ。武器の問題じゃない。使い手の問題だ」

 

蒼星は何も言わなかった。

 

実際、その通りだった。短剣は悪くない。左手に収まる重さも、刃の返りも、悪くない。けれど、それを握る自分の身体が、以前のようには動かない。頭の中にある動きと、実際に動く身体の間に、わずかな遅れがある。

 

その遅れは、戦場では致命的になる。

 

「……面倒」

 

蒼星が小さく言うと、鍛冶師は鼻を鳴らした。

 

「生き残るってのは、大体面倒なもんだ」

「実感こもってるね」

「年寄りだからな」

「年寄りってほどには見えない」

「口だけは達者だな、赤いの」

 

鍛冶師は作業台の上から鞘を取り、蒼星へ差し出した。

 

「腰に留める角度も見ておけ。右がねぇ分、抜く時に身体を捻りすぎるな。左手だけで抜けるようにしてあるが、慣れるまでは遅い」

 

蒼星は鞘を受け取った。

 

黒い革の簡素な鞘だった。飾りはない。だが、修道服の腰に留めても邪魔にならないよう、留め具の角度が調整されている。蒼星は左手だけでそれを固定する。少し手間取ったが、できないほどではなかった。

 

腰に、刃の重さが戻る。

 

「十分」

 

蒼星は静かに言った。

鍛冶師は一瞬だけ黙り、それから不機嫌そうに工具を取り上げた。

 

「なら、壊すなよ」

「武器を?」

「お前さんもだ」

 

蒼星は返事をしなかった。ただ、腰の短剣に左手を添えた。 刃の重さは、小さい。けれど確かにそこにあった。

 

蒼星は返事をしなかった。ただ、腰の短剣に左手を添えた。刃の重さは、小さい。けれど確かにそこにあった。

 

鍛冶屋を出る頃には、もう夕方になりかけていた。

 

昼の明るさは少しずつ薄れ、町の屋根や石畳の端に、柔らかな影が伸びている。パン屋は夕方の分を並べ直し、井戸端の人影は少し減り、布屋の軒先では取り込まれかけた布が風に揺れていた。

 

そろそろ孤児院へ戻ればいい時間だろう。

 

蒼星は左腕に抱えた包みを見下ろした。

 

中には、子供たちに渡すための解体用ナイフが入っている。人数分。刃先を丸め、柄を細く削り、滑り止めの革を巻き、鞄の内側に留められる小さな革鞘までつけたもの。鍛冶師は文句を言いながらも、ひとつひとつの柄尻に小さな星を刻んでいた。

 

インベントリに入れればいい。

 

その方が安全で、軽くて、効率もいい。片腕の今なら、なおさら荷物は少ない方がいい。包みを抱えて歩けば、足元も見づらくなるし、腰の短剣にも手を伸ばしにくくなる。

 

それでも、蒼星はそれをインベントリにしまわなかった。

 

理由は、自分でもよく分からない。

 

ただ、ナギたちに渡すものを、手に持って帰りたかった。

 

「非効率」

 

小さく呟く。

 

けれど、手放さなかった。

 

包みはそれほど重くない。だが、片腕で抱えるには少し不便だった。黒い修道服の袖と包みの布が擦れ、まだ長い裾が足元で揺れる。腰には短剣がある。左腕には子供たちへのご褒美がある。

 

武器と、道具。

 

殺すための刃と、生きるための刃。

同じ日に、同じ鍛冶屋で手に取ったもの。

蒼星は、歩きながら少しだけ目を伏せた。

 

ナギは喜ぶだろうか。

 

たぶん喜ぶ。間違いなく喜ぶ。きっと大げさに目を輝かせて、「これ、ぼくの?」と聞いてくる。渡した瞬間に抜こうとして、蒼星に止められ、シオンに叱られる。ほかの子供たちも、自分の柄に刻まれた星を見比べて、誰の星が一番綺麗だとか、どれが一番握りやすいとか、きっと騒ぐ。

 

その光景が、あまりにも容易に浮かんだ。

 

蒼星の口元が、ほんの少しだけ緩む。

 

すぐに戻した。

 

「……何してるんだか」

 

自分に向けて吐き捨てる。

 

けれど、その声に棘はほとんどなかった。

 

孤児院へ向かう道を歩く。

 

いつもなら、この時間には子供たちの声が聞こえてもいい頃だった。遠くから走るなと叱るシオンの声がして、ナギが「走ってない」と言い返して、それでも足音は明らかに走っている。そんな騒がしい音が、夕方の道に混じっていてもおかしくない。

 

だが、今日は静かだった。

 

蒼星は足を止めた。

 

風が吹く。

 

包みの布が、左腕の中でかすかに鳴った。

 

「……遅い」

 

小さく呟いた声は、夕方の空気に沈んだ。

 

まだ決めつけるには早い。クエストに時間がかかったのかもしれない。採取に手間取ったのかもしれない。帰りにパン屋へ寄っているのかもしれない。ナギたちは寄り道をする。きっとする。そういう子たちだ。

 

そう考えながらも、蒼星の左手は包みを抱え直していた。

 

腰の短剣ではなく、ナギたちへのご褒美を落とさないように。

 

そのことに気づいて、蒼星は少しだけ眉を寄せる。

 

「……本当に、厄介」

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

孤児院の門が見えてくる。

 

けれど、玄関先に子供たちの姿はなかった。食堂から漏れる声も少ない。いつものような騒がしさがない。その静けさが、胸の奥に冷たく触れた。蒼星は包みを抱えたまま、孤児院の扉へ向かった。

 

「シオン、ナギたちは?」

 

扉を開けるなり、蒼星はそう聞いた。

 

食堂にいたシオンが顔を上げる。手には夕食の下準備に使っていた布巾がある。鍋には火が入り、机の上には人数分の椀が並び始めていた。

 

だが、その椀の前に座るはずの子供たちがいない。

 

いつもの足音もない。誰かが廊下を走ってシオンに叱られる声もない。ナギが言い訳をする声もない。

 

静かだった。

 

その静けさが、答えの前にすべてを告げていた。

 

「……まだ、戻っていません」

 

シオンの声は落ち着いていた。落ち着かせようとしている声だった。蒼星は左腕に抱えていた包みを、無意識に強く抱え直す。

 

「いつもなら?」

「この時間には戻っています。遅くても、夕方の鐘が鳴る前には」

「鐘は?」

「もう、鳴りました」

 

短い沈黙が落ちた。

短い沈黙が落ちた。

 

その時、孤児院の扉が激しく叩かれた。

 

一度ではない。何度も、急かすように、木の扉が軋むほど強く叩かれる。食堂にいた小さな子供たちがびくりと肩を震わせ、シオンが顔を上げた。

 

「シオン先生!いるかい!」

 

外から聞こえたのは、パン屋の店主の声だった。

 

いつもの軽さはない。夕方の売れ残りを笑って包む時の声でも、ナギたちのつまみ食いを叱る時の声でもなかった。息が切れていて、焦りが滲んでいる。

 

シオンがすぐに扉へ向かう。

 

蒼星も、包みを机に置いたまま立ち上がった。

 

扉が開くと、パン屋の店主がそこにいた。肩で息をしている。額には汗が浮かび、手には店の前掛けをつけたままだった。走ってきたのだろう。普段なら店を閉める頃の時間だというのに、そんなことを気にしている様子はない。

 

「どうしました」

 

シオンが問う。

 

パン屋の店主は、まずシオンを見た。それから、蒼星を見た。

 

赤いカーソルを見て、いつものように一瞬だけ言葉を選ぶ気配があった。だが、すぐにそんな余裕は消えた。

 

「ナギたちが、戻ってないんだろ」

 

蒼星の目が細くなる。

 

「何を知ってるの」

 

声は低かった。店主は息を整える間も惜しむように言った。

 

「さっき、ダンジョン帰りの若いのが店の前まで来た。怪我してて、顔色も悪かった。話を聞いたら、初心者用ダンジョンの奥で未確認エリアが見つかったらしい」

 

シオンの顔色が変わる。

 

「未確認エリア……?」

 

「鉄鳴の連中が調査隊を出してる。低レベルエリアの安全確認だとか、正式な調査だとか言ってたらしい」

 

鉄鳴。

 

その名が出た瞬間、蒼星の中で何かが冷えた。

 

怒りではない。

まだ怒りではなかった。

もっと静かで、もっと硬いものだった。

 

「ナギたちは」

 

蒼星が聞く。店主は唇を噛んだ。

 

「連れていかれた」

 

食堂の空気が止まった。

 

シオンが一歩、前に出る。

 

「どういうことですか」

 

「調査に人手がいるって。子供たちは地形に慣れているから、少し手伝わせるだけだって。そう言って、ナギたちを連れていったらしい」

 

「そんな……」

 

シオンの声が震えた。

 

店主は拳を握りしめる。

 

「若いのは止めようとしたらしい。でも、鉄鳴は正式な調査だって押し切った。未確認エリアは通路が狭くて、大人の装備じゃ通れない場所がある。罠も多い。エネミーの反応も読めない。だから、小さい子を先に通して確認するって……」

 

蒼星の左手が、ゆっくりと腰の短剣へ落ちた。音はしなかった。ただ、食堂の温度が一段下がったように感じた。

 

「囮」

 

蒼星が言う。店主は答えなかった。答えられないことが、答えだった。シオンが扉の縁を掴む。白い指が震えている。

 

「場所は」

 

蒼星は店主を見た。

 

「初心者用ダンジョンの奥。泉の地下道から外れた先に、普段はなかった通路が開いてるらしい。鉄鳴の連中はそこへ入った」

「人数は」

「詳しくは分からない。ただ、鉄鳴の兵が数人。ナギたち孤児院の子供が……全員ではないが、今日出ていた子たちはほとんど」

 

シオンが息を呑む。蒼星は何も言わなかった。ただ、机の上に置いた包みへ視線を向ける。ナギたちに渡すはずだった解体用ナイフ。柄尻に小さな星を刻んだ、子供たちの手に合わせた道具。

 

ちゃんと戻ってきたら渡すはずだった。

 

合格のご褒美として。

 

――危ないって思ったら直ぐに引き返して、ちゃんと戻ってくる。

 

ナギの声が、頭の奥で蘇る。蒼星は短剣の柄を握った。

 

「シオン」

「蒼星さん」

「ここにいて」

 

シオンが顔を上げる。

 

「私も行きます」

「駄目」

 

即答だった。

 

「ナギたちが戻ってきた時、ここにシオンがいない方が困る。町の人たちも混乱する。ここを空にしないで」

「ですが、あなた一人では」

「一人の方が速い」

「今のあなたは――」

「分かってる」

 

蒼星は遮った。

右腕はない。

天夜のドレスもない。

 

夜走りもない。天上のドレスもない。

腰にあるのは、さっき手に入れたばかりの短剣だけだ。

 

それでも、行く理由はあった。蒼星は机の上の包みを一度だけ見た。

 

「ご褒美、まだ渡してない」

 

シオンが言葉を失う。

 

蒼星は、静かに扉の外へ向かった。

 

「迎えに行く」

 

誰も止められなかった。

 

右腕はない。

天夜のドレスも、夜走りもない。

魂喰らい(ソール・イーター)もない。

 

腰にあるのは、今日手に取ったばかりの短剣だけ。

机の上には、まだ渡せていない小さな星の刻まれたナイフが残っている。

 

ちゃんと戻ってきたら、渡すはずだった。

合格だと言って、渡すはずだった。

 

なら、終わりにするわけにはいかない。

 

蒼星は夕暮れの中へ踏み出した。

 

迎えに行くしかない。

 

 

 

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