「とりあえず入ろうか」
悠に促され、俺はASC警備保障が入っている雑居ビルへ足を踏み入れた。
入口はかなり普通だった。
手動のガラス扉に、擦り減った床、壁際には観葉植物らしきものが置かれているが若干元気が無い。
だが、ちゃんと掃除はされている。
年季は入っているが、荒れているわけじゃない。
入口近くの壁には色々な張り紙が貼られていた。
『地域安全週間』
『防犯セミナー開催』
『警備員募集中』
その辺りも妙にリアルだった。
大手ヒーロー企業というより、地域密着型の警備会社って感じだ。
原作でもASCはそういう立ち位置だった。
「事務所、四階なんだ」
悠はそう言いながら階段の方へ向かう。
雑居ビル自体はそこそこ古い。
というか、そもそもエレベーターが無いタイプの建物らしい。
「四階全部借りてる感じですか?」
「うん。元々は別の会社も入ってたみたいだけど、今はASCだけだね」
「あー……」
なんか妙にASCっぽい。
原作でも金があるのか無いのかよく分からない会社だった。
赤字寸前みたいな描写をしている時もあれば、妙に高性能な装備を持ち出してくる時もある。
本当に謎だ。
悠は慣れた様子で階段を上がっていく。
その後ろを追いながら、俺は少しだけ周囲を見回した。
建物自体はボロボロで古いが不思議と嫌な感じはしなかった。
壁も床も古びてはいるが、掃除が行き届いていて綺麗だ。
ちゃんと人が手入れしている空気がある。
階段を上がりながら原作でのASCの事を思い出していく。
原作でASCの社長は、結構活発で世話焼きな人だったはずだ。
あと行動力がおかしい。
危険な案件へ自ら首を突っ込んで、ヴィラン相手にも普通に話しかけに行く描写があった。
事務員の人は謎の多い男性だったはずだ。
かなり有能で俺が読んだ最新話時点で素性は明かされていない。
いつも社長に振り回される苦労人というイメージが強かった。
そんな事を思い出しながら2階、3階と階段を上がっていると脇腹が少し痛んだ。
「大丈夫?」
前を歩いていた悠が振り返る。
「だ、大丈夫です」
「ゆっくりでいいよ」
そう言って歩幅を緩める。
この人、すごく自然に気を遣うな。
四階へ辿り着く頃には、少し息が上がっていた。
廃ビル暮らしのくせに階段で疲れるのかよ、と自分で少し情けなくなる。
廊下を少し進む。
突き当たりにある扉の横には、小さなプレートが掛かっていた。
『ASC警備保障事務所』
悠が慣れた手付きでドアを開けた、その瞬間。
「悠っ!? 遅かったじゃない!!」
ものすごい勢いの声が飛んできた。
「連絡見た!? 廃棄区画で爆発って聞いてかなり心配したんだけど!?」
バタバタと足音が響く。
次の瞬間、事務所の奥から一人の少女が飛び出してきた。
長い水色の髪、鋭い目元、制服姿の上へジャケットを羽織った少女は、俺より少し背が高かった。
細身なのに妙に圧がある。
高校生くらいの年齢にしか見えない。
なのに、その場へ現れた瞬間から自然と視線を引き寄せるような空気があった。
彼女は天城玲奈、原作で何度も見たASC警備保障の社長だ。
実際に目の前へ現れると、漫画で見ていたよりずっと勢いが強い。
玲奈は悠の姿を見た瞬間、表情を険しくした。
「うわ、また怪我してる!」
「かすり傷だよ」
「あなた骨折しても同じこと言うじゃない!」
即答だった。
玲奈はそのまま悠の肩や腕を確認し始める。
「ちょっとじゃないでしょこれ! また無茶したわね!?」
「ごめん」
「反省してる顔じゃない!」
なんというか、かなり騒がしい。
でも不思議と嫌な感じじゃなかった。
原作でもこの二人、こういうやりとりが多かった気がする。
そんなことを考えていると、玲奈の視線が俺へ向いた。
「……で?」
空気が変わる。
鋭い視線だった。
「その子は誰?」
「彼女は榊透也さん。廃棄区画で助けてもらったんだ」
「助けてもらった……?」
玲奈の眉がぴくりと動く。
「あなたヒーローなのに、民間人の、しかも私とそう変わらない歳の女の子に助けてもらったの?」
「うん」
悠は苦笑しながら頷いた。
「ヴィランに囲まれて結構危なかったんだけど、透也さんが一瞬で全員倒してくれて」
「……一瞬で?」
「うん、辺り一帯ヴィランごと吹き飛ばしてたよ」
やめてほしい、事実だけど自分の失敗談を凄いことかのように語られると無性に恥ずかしい。
玲奈の視線がゆっくりと俺へ戻る。
何故か圧がすごい。
なんでちょっと目が輝いてるんだこの人。
「それで、彼女も怪我をしてるから診てもらえないかなって」
「怪我?」
玲奈は改めて俺を見る。
その瞬間、表情が少し変わった。
今度はさっきのようなギラついた目ではなく、もっと静かな、何かを確認するような目だった。
「血が滲んでるわね。傷が酷いのかしら……?」
そう言うと玲奈は、事務所の隅へ置かれていた救急箱を持ってきた。
「そこのソファ座って」
「あ、はい」
言われるまま古びたソファへ腰掛ける。
事務所の中はそこまで広くなかった。
デスクが三つ、資料棚、壁際にはコーヒーメーカー。
その程度だ。
でも、ちゃんと人が働いている雰囲気があった。
机の上には開きっぱなしの書類やノートPCが並び、壁際には警備用らしい装備ケースまで置かれている。
玲奈は慣れた手付きで包帯や消毒液を取り出す。
「服ちょっと捲れる?」
「あ、はい」
言われた瞬間、俺は特に深く考えず服の裾を捲った。
その途端。
「っ……」
横から小さく息を呑む音が聞こえた。
視線を向けると、悠がものすごい勢いで視線を逸らした。
「ご、ごめん。別に見ようとしたわけじゃ……」
「……?」
そこでようやく気付く。
あ、そうだった。
今の俺は男じゃないんだった。
前世の感覚が残っているうえに、人との関わりが少ないせいで忘れていた。
というか、怪我の確認くらい普通に平気だろと思ってた。
完全に男の感覚だった。
「えっと、すみません…」
悠に対して申し訳なさが込み上げてくる。
彼は顔を赤らめて視線を逸らしたまま、「いや、透也さんは悪くないから……」と小さく返した。
なんか妙に気まずい。
そんな俺達を見て、玲奈が呆れたようにため息を吐く。
「何してるのよ二人とも」
そう言いながら、玲奈は俺の脇腹へ巻かれていた包帯を見て、露骨に眉を顰めた。
「うわっ、かなり酷いわね…」
「すみません……」
「なんであなたが謝るのよ」
そう言いながら、玲奈は包帯を外していく。
手付きがかなり丁寧だった。
しかもすごく早くて慣れている感じがする。
多分、悠の怪我を何度も治療してきたんだろう。
外された包帯の下から、まだ完全には塞がっていない傷口が露わになる。
フィンとの戦闘で負った傷だ。
何日も無理矢理動き続けたせいで、一度閉じかけていた部分までまた開いている。
玲奈は傷口を見た瞬間、さらに眉を顰めた。
「これいつの怪我?」
「一週間くらい前です」
「一週間?」
呆れた声だった。
「こんな状態でそんなに放置してたの?」
「私、体が丈夫だし別にいいかなって」
「いいわけないでしょ…」
呆れた様子で玲奈が消毒液を傷へつける。
「っ……!」
普通に痛くて思わず肩が跳ねた。
「我慢して」
「はい……」
玲奈は真面目な顔で傷を見ていた。
その視線は鋭いが、嫌な感じではない。
すごく真剣に集中している感じだった。
「すごく腫れてるわ。骨もやってる?」
「多分...」
「一体何をやったらこんなボロボロになるのよ……」
呆れながらも、玲奈の手は止まらない。
新しい包帯を巻きながら、ふと俺を見る。
「……ねぇ透也ちゃん」
「はい?」
「今どこかの企業に所属してたりする?」
「え?」
思わず目を瞬かせる。
「企業とか、ヒーローの育成機関とか、そういうの」
「い、いえ……?特には」
「所属予定は?」
「無いですけど……」
玲奈は「ふーん」と小さく呟いた。
その目が、なんというか妙に真剣だった。
そして次の瞬間。
「蓮司ー!! ちょっと来て!!」
事務所奥へ向かって大声で叫んだ。
数秒後。
「なんですか社長、嫌な予感しかしないんですが」
疲れ切った声と共に、事務所の奥から一人の男性が姿を現した。
黒髪、細身の体格、銀縁のメガネ。
スーツ姿はきっちりしているのに、どこかくたびれた雰囲気がある。
整った顔立ちは普通にかなりイケメンだった。
ただし、その印象を台無しにする勢いで目の下の隈が深い。
疲労と苦労が服を着て歩いているみたいな人だった。
彼は相良蓮司。
ASC警備保障の事務員で読者から『ASCの胃痛担当』とか『ASCの保護者』とか散々言われていた人だ。
原作では無茶ばかりする悠や玲奈の尻拭いに奔走しているシーンが何度もあった。
「今度は何ですか…」
蓮司は慣れた様子でそう言いながら近付いてくる。
玲奈はそんな彼へ、包帯を巻いている途中の俺をびしっと指差した。
「この子、どう?」
……どう、とはどういう意味だろうか。
「本気ですか?社長」
蓮司が玲奈に聞き返す。
玲奈は俺の方を見ながら、勢いよく続ける。
「戦闘力は折り紙付き。所属無し。それに顔も可愛いわ!」
「最後の情報いります?」
蓮司が真顔で返した。
なんの話をしているんだろう。
悠も俺と同じで何の話か理解できていない様で隣のソファで置物みたいになっている。
というか俺、怪我の治療されに来ただけなんだけど。
困惑している間にも、玲奈は蓮司と話を進めていた。
「複数人のヴィランを一瞬で制圧したって話よ」
「戦闘力だけを基準にするのはやめてください」
蓮司が疲れた声で返す。
そして数秒黙った後、静かに口を開いた。
「……社長、恐らくその子は最近話題になってるマスカレイドですよ」
「え?」
玲奈が目を瞬かせる。
悠も少し驚いた顔で俺を見た。
蓮司はメガネを軽く押し上げながら、淡々と続ける。
「身体的特徴が一致しています。それに、ヴィランを圧倒できるほど高い戦闘能力を持つ銀髪の少女なんてそう何人もいません」
心臓が締め付けられるような感覚がして思わず肩へ力が入る。
いつか誰かにバレると思っていたけど想定よりずっと早かった。
ここまで来て逃げるべきか、と一瞬考える。
でも玲奈は俺の怪我を治療してる最中だし、悠は普通に隣にいる。
今ここで逃げたら、流石に感じが悪いか...?
というか、そもそも逃げ切れる気もしない。
「そうなの?」
玲奈が俺を見る。
その視線に、思わず言葉が詰まった。
否定するべきか少し迷ったが、今の状況で誤魔化すのは無理な気がした。
「まあ、そうですね。不本意ながらそう呼ばれています……」
居た堪れなくなって思わず視線を逸らす。
すると玲奈は数秒ぽかんとした後、
「え、ほんとなの...!?」
と呟いた。
驚いてはいる。
いるのだが、次の瞬間には、
「じゃあ余計に欲しいわ!」
即答だった。
「社長、本気ですか?彼女は危険人物ですよ」
「ヴィランを倒してまわってるんでしょ?それに悠を助けてくれたし悪い子じゃないわ!」
「だからって素性の知れない人物をそう簡単に──」
蓮司が小言を言っているが玲奈は全く気にした様子もなかった。
むしろ何かを決めたみたいに頷く。
「よし」
何がよしなんだ。
嫌な予感しかしない。
「透也ちゃん」
「……はい」
玲奈はにやりと笑った。
「うちで働かない?」
玲奈の口からあまりにも自然に飛び出したその言葉に、数秒、本気で思考が止まった。
「……え?」
間抜けな声が漏れる。
玲奈はそんな俺の反応を気にした様子もなく、脇腹へ巻き終えた包帯を軽く叩いて固定具合を確かめていた。
まるで思い付きで雑談でも始めたみたいな空気だ。
いや、待ってほしい、なんでそうなる。
俺は怪我の治療を受けに来ただけで、就職相談をしに来たわけじゃない。
困惑している俺を余所に、玲奈は椅子へ腰掛けながら話を続ける。
「ASC、今かなり人手不足なのよ。悠は現場出っぱなしだし、蓮司は事務と経理と雑務で死にかけてるし」
「気づいているなら私に回す仕事の量を減らしてください」
蓮司から返ってきた返事は、本気で疲れている人間の声だった。
玲奈は「できる限り善処するわ」と軽く返しながら、使い終わった包帯や消毒液を手際よく片付けていく。
その動きを見ながら、俺は内心で少し感心していた。
原作でも天城玲奈は応急処置や機械整備、装備開発みたいな分野に関しては異常に優秀だったが、実際に目の前で見ると想像以上の手際の良さだった。
多分この人、本当に色んな技術を頑張って叩き込んできたんだろう。
「それに透也ちゃん、セキュリティに追われてるんでしょ?私ならどうとでもできるわ」
「えっ…???」
話のテンポが早すぎる。
俺はソファへ座ったまま、なんとか状況を整理しようとする。
ASC警備保障、原作でも何度も登場した小規模ながら妙に存在感のある会社。
経営状態は正直かなり怪しいが、現場対応能力だけは高く、後々主人公をサポートする立ち位置になる組織。
ASCは重要な立ち位置の組織ではあるが、原作ではセキュリティとの関連性などを示す様なシーンはなかった。
何故、彼女がセキュリティの追手の問題を解決できるのだろうか。
原作では彼女にそんな大きな権限はなかった筈だ。
「まぁ、嫌なら無理にとは言わないわよ?」
さっきまでの勢いとは違う、少し落ち着いた声だった。
玲奈は机へ軽く凭れながら、真っ直ぐ俺を見る。
「ただ、透也ちゃん今かなり困ってるでしょ?」
「……!」
その言葉に、思わず肩が揺れた。
玲奈は俺の反応を見て、小さく目を細める。
「病院行けない事情があって、セキュリティの捜査対象、しかもわざわざ廃棄区画みたいな危険な場所で活動してる」
淡々と並べられる言葉。
「まぁ、誰が見ても普通じゃない事情抱えてるのはわかるわ」
玲奈はそう言って椅子へ深く座り直した。
「でもASCなら多少融通利かせられるし、住む場所と仕事くらいならどうにでもできるわよ?」
「えっ」
思わず顔を上げる。
住む場所、その言葉が思った以上に強く胸へ引っ掛かった。
今の俺は廃棄区画の廃ビル暮らしだ。
雨風は凌げるが、危険地帯だし寝ている時でもお構いなしにヴィランに襲われる。
全く気が休まらず家と呼ぶには程遠い。
まともな生活とは言い難いし、怪我をしても碌に休めない。
今日だって、もし悠と出会っていなかったら傷の手当ても適当なままだった。
「あと、その怪我の状態で廃棄区画うろつかれるの普通に心配なのよ」
玲奈は呆れたように言う。
「多分透也ちゃん、自覚無く無茶しちゃうタイプでしょ」
そうだろうか?自分ではわからないが、周りからそう見えているのならきっとそうなのだろう。
というか、この人は何故俺にここまでしてくれるのだろうか。
「とにかく!」
玲奈は改めて俺を見る。
その視線は驚くほど真っ直ぐだった。
「すぐ返事を欲しいとは言わないわ。でも選択肢として考えておいて」
表情から真剣さが伝わってくる。
冗談で言っているのではなく、本気で俺を雇おうとしている。
その事実に、逆に頭が追い付かなくなる。
「……なんで、そこまで」
気付けば口から零れていた。
さっき会ったばかりだ。
しかも俺は、セキュリティから危険視されていて追われる身だ。
普通なら避けて、関わらないようにする。
なのに。
玲奈は少しだけ目を丸くした後、当たり前みたいに言った。
「悠を助けてくれたじゃない」
「……」
「それに、困ってる子を見ないふりして放っておくほど性格悪くないわよ、私」
さらっと言ったその言葉に、妙に息が詰まった。
そういえば原作でも天城玲奈はこういう人間だった。
損得じゃなく義理人情で動き、他者のために面倒事へ自分から首を突っ込む。
だから周囲の人間は苦労する。
でも、その無茶苦茶さに救われる人間も確かにいる。
原作で何度も見た光景が、今は俺の目の前で現実になっていた。
「……社長」
蓮司は小さく息を吐きながら、メガネの位置を指で直した。
その視線が、静かに俺へ向く。
「彼女の助けになりたいのはわかりました」
玲奈に対して落ち着いた声で咎めるように話す。
「彼女は現状だと普通に警戒対象ですよね?社長が拾うのは勝手ですが、対外的な処理は必要になります」
「まぁ、さっきも言ったけどなんとでもできるわ。好ましい方法ではないけれど」
軽い調子で話す玲奈を見て蓮司の眉間に皺が寄る。
「そのなんとでも、で毎回こちらが苦労するんですが」
「くるしゅうないわ」
「しばきますよ」
玲奈は蓮司の反応を見て楽しそうに笑った。
「大丈夫よ。ちょっと話通せば済むと思うし」
「そのちょっとの規模が毎回おかしいんですよ」
蓮司の呆れた声に玲奈は「失礼ね」と頬を膨らませる。
「別に今回はそこまで大事にするつもりないわよ?」
「前回も同じこと言ってましたよね」
「……あれは向こうが勝手に騒いだだけで」
「騒いだ原因は社長です」
バッサリだった。
俺はなんのことだかわからずに、二人のやり取りを見ながら少しだけ首を傾げる。
蓮司の反応を見る限り、玲奈はたまに妙なコネでも使ってるんだろうか。
原作でもこの人は小規模会社の社長なのに、異常なまでに顔が広かった気がする。
「でも実際、透也ちゃんってまだそこまで危険判定されてないでしょ?」
玲奈は椅子へ座ったまま言う。
「少なくとも敵対行動はしてないし、人助けしてるし」
「まぁ、それはそうですが……」
蓮司はそこで一度言葉を止めた。
否定しきれないらしい。
玲奈はその隙を逃さなかった。
「でしょ? なら後はこっちで上手く理由付けすれば余裕よ!」
「はぁ…もう嫌な予感しかしないので、せめて話をつける前に相談してください」
かなり真面目な声だった。
蓮司のそんな様子に玲奈が露骨に視線を逸らす。
「……いつもちゃんと相談してるじゃない」
「大体終わった後に報告されるんですよ、こちらは」
「いちいち細かいこと気にしすぎよ蓮司は」
「ASCはただでさえ厄介ごとをいくつも抱え込んでいるのに、追加で厄介ごとを抱え込もうとしてるんです。細かくもなります」
即答だった。
玲奈は「大袈裟ねぇ」と笑っているが、蓮司は全く笑っていない。
多分、実際かなり振り回されてるんだろう。
何の話か全くわからないが俺を引き入れる準備が進んでいることだけはわかる。
俺みたいな正体不明の危険人物を、わざわざ会社へ入れようとするのは普通じゃない。
だから、蓮司のちゃんと現実を見ている発言に少しだけ安心した。
この会社は最低限のブレーキ役は存在してるらしい。
蓮司は再び俺を見る。
その視線は鋭いが、敵意は感じられない。
「榊さん」
「……はい」
「私はまだ全面的に貴方を信用したわけではありません」
かなり真っ直ぐな言葉だった。
微塵も誤魔化さない、だからこそ逆に誠実さが感じられる。
でもそもそも俺はここで働くなんて一言も言っていない。
「ですが、悠さんを助けたのは事実ですし、社長がここまで言うのだから貴方をASCに迎える事には反対はしません」
真剣な様子で蓮司が話すが、俺は何故ここで働く流れになっているのか理解ができずにフリーズしていた。
「ただし」
そんな俺の様子に気づかずに蓮司は静かに続ける。
「貴方の存在がASCの害をになるなら、その時は私は貴方を容赦なく追い出すので、悪しからず」
部屋の空気が少しだけ冷えた感じがした。
事務職っぽい見た目なのに、その瞬間だけヒーローやヴィランに勝るとも劣らない妙な圧があった。
普通に怖い、というか俺は返事をしていないのに、何故雇われる方向で話が固まっているのだろうか……
俺がそんなことを考えていると、玲奈が「もう、怖がらせないの」と呆れた声を出した。
「怖がらせていません。これはただの確認です」
「普通に話してても顔が怖いのよ蓮司は」
「失礼な…」
そのやり取りに、悠が小さく笑う。
本当に騒がしくて、落ち着きのない場所だ。
でも、その雰囲気は不思議と嫌じゃなかった。
「じゃ、今日は泊まっていきなさい」
玲奈のその言葉に、俺は反射的に顔を上げた。
「え?」
「え?じゃないわ。その怪我で廃棄区画に帰すわけにいかないでしょ?」
玲奈は当たり前みたいに続ける。
その口調に迷いは無かったが、俺の方はそうもいかない。
治療までしてもらった上に、泊めてもらうなんて流石に世話になりすぎだ。
今日会ったばかりなのに恩を受けすぎている。
「いや、慣れてるので本当に大丈夫です」
反射的にそう返すと玲奈は露骨に嫌そうな顔をした。
「見た感じ私とそう変わらない年齢なのにあんな過酷な場所に慣れるほど過ごしてるなんて、余計帰したくなくなったわね」
「いや、あの、でも今までちゃんと生活できてるので本当に大丈夫ですよ…?」
「知ってた?大怪我してるのに無理して動いたり、ヴィランの多い危険地帯で寝泊まりする事を大丈夫なんて言わないのよ?」
何も言い返せない。
確かにさっきから少し動くだけで脇腹が痛む。
廃棄区画で寝泊まりするのも正直苦痛で仕方がない。
断り続ける俺を呆れたように見ながら玲奈が深いため息を吐いた。
なんというか、駄々をこねる子供に言い聞かせるような雰囲気だ。
「慣れてるとかそういう問題じゃないの」
「でもちゃんと寝る場所はありますし…」
「どうせ廃ビルとかでしょ?」
「うぐっ...」
この人勘が鋭い、なんでわかるんだ。
玲奈は呆れた様子のまま話を続ける。
「とりあえずその怪我で廃棄区画戻るとか絶対に駄目だから」
「いやでも、本当に気にしないでください。治療してもらっただけでも十分なので」
これは本音だ。
これ以上世話になるのは本当に申し訳ない。
ただ偶然、悠を助けて流れでここへ来ただけだ。
俺はこの会社の人間じゃないどころかこの世界の人間でもないのに、返せるかどうかもわからない恩を受けるのは本当に申し訳ない。
だが断固として拒否する俺に対して玲奈は全く引かなかった。
「いいから、泊まっていきなさい」
「大丈夫です…!」
「大丈夫じゃないわ。寝込みをヴィランに襲われる可能性だってあるのよ?」
この人押しが強いというか、一度決めたら絶対曲げないタイプだ。
原作でもそうだった気がする。
俺がなんとか断る理由を探している間にも、悠と蓮司は「毛布どこだっけ」とか「ソファの上の書類を片付けておきましょう」とか完全に泊める前提で動き始めている。
話が進むの早い。
「本当に大丈夫ですから。寝込みをヴィランに襲われるのなんて慣れてるのでもう余裕で対処できます」
俺はなんとか食い下がろうとそう言った、その瞬間。
玲奈の動きがぴたりと止まった。
そして、じっとこちらを見る。
「透也ちゃん」
「……はい」
「寝込みを襲われたの...?」
少しだけ真面目な声だった。
思わず言葉が詰まる。
「……悠!」
「えっ、僕?」
悠は玲奈に呼ばれて驚いた様子だ。
それから静かに俺の方を見る。
「えっと、透也さん」
「は、はい」
その瞬間、妙に背筋が伸びた。
駄目だ、推しに名前呼ばれると緊張する。
悠は柔らかい声で続ける。
「僕も今日はここにいた方がいいと思うな」
「で、でも……」
「頼むよ、透也さんが心配なんだ」
真っ直ぐな声だった。
表情や声音からも本気で心配しているのが伝わってくる。
「廃棄区画って日中より夜の方がヴィランも活発で危ないし、ちゃんと休める場所があるならその方がいいと思うな」
「うぅ……」
まだ反射的に断ろうとしてしまう。
だが悠は困ったように笑った後、少しだけ眉を下げた。
「お願い、駄目かな」
その瞬間、思考が止まった。
推しに懇願する様な表情で頼まれて断れる人間がいるだろうか。
いや、いない。
前世でどれだけ彼に救われたと思ってるんだ。
死ぬ前に両親と話せたのも彼のおかげだぞ。
そんな彼が今、目の前で俺にお願いをしている。
推しからのお願いを断れるオタクなんて存在する?
「……っ」
言葉に詰まる。
玲奈が悠の後ろで小さくガッツポーズをしているのが見える。
その様子を蓮司が冷めた目で見ている。
「……わ、分かりました」
絞り出すみたいに答える。
「今日だけ、なら……」
すると玲奈がぱっと表情を明るくした。
「よし!」
玲奈は何か大勝負にでも勝ったかのように達成感を滲ませていて、その後ろで蓮司は「まぁこうなると思ってました」という顔をしている。
そんな2人に気付かずに悠はほっとしたみたいに小さく笑った。
この様子じゃ俺は悠に頼まれたらなんでも言う事を聞いてしまいそうだな、なんて考えて自分のチョロさに少し落ち込む。
玲奈はそんな俺の様子を見ながら、どこか面白そうに笑っていた。
その後、玲奈は「今日は安静!」と言い残して、また資料の山へ突撃していった。
どうやら仕事が山積みらしい。
数分後には「これどこやったっけ!?」とか「蓮司パスワード忘れた!」とか騒ぎ始めている。
「社長、それ今朝も聞きました」
「でも毎回違うのよ!」
「毎回同じです」
蓮司は呆れた様子でキーボードを叩き続けていた。
メガネ越しの目はかなり疲れているのに、処理速度だけは異様に速い。
机の上には書類の山。
モニターには複数のウィンドウ。
時折電話まで鳴っている。
よくこれ一人で回してるな、この人。
悠は悠で、破れたスーツの補修始めている。
戦闘後なのに休む気配が無い。
「……皆働きすぎでは?」
思わず呟く。
すると悠が苦笑した。
「まぁ、人手少ないから」
「だから透也ちゃん欲しいのよ!」
玲奈が即座に反応する。
耳良いなこの人。
「まだ返事してませんからね」
「でも選択肢無くないかしら?まあ、廃棄区画で一生を終えたいとかなら話は別だけど」
「いや、それはちょっと...」
そんなやり取りをしながら、事務所の時間はゆっくり流れていった。
窓の外は、いつの間にか暗くなっている。
夜だ。
廃棄区画にいた頃は、夜なんて休息時間じゃなかった。
むしろ危険が増える時間帯だった。
人通りが減り、ヴィランも半グレも動きやすくなる。
だから常に気を張っていたが、今はその必要もない。
今、この場所には妙な静けさがあった。
カタカタと鳴るキーボード。
紙を捲る音、コーヒーメーカーの小さな駆動音。
誰かがいる気配。
それだけなのに、不思議と落ち着く。
ソファへ深く腰を沈めながら、ぼんやり事務所の天井を見る。
こんな感覚、いつぶりだろう。
前世でも、こっちの世界でも。
こんなにゆっくりと人のいる空間へ居た記憶なんて、ほとんど無かった気がする。
「……」
居心地の良さに思わず落ち着いてしまう。
ここは俺の居場所じゃない。
俺はヘリオスの実験体で、マスカレイドとか変な名前で呼ばれてセキュリティやヴィランに追われてて、これから先、多分だけどもっと厄介事へ巻き込まれる。
原作知識が正しいなら、色々と面倒な存在から確実に目を付けられる。
そんな奴が、こんな普通の場所へ居ちゃいけない。
そう思うのに。
「そうだ、透也ちゃん痛み止め飲む?」
玲奈が自然な調子で聞いてくる。
「……いただきます」
「悠、そこの棚から痛み止め取って」
「わかった」
当たり前みたいなやり取り。
その空気に、胸の奥が少しだけざわついた。
しばらくして、時計が日付を跨ぎそうになった頃、玲奈が大きく伸びをした。
「んーっ……今日はここまで!」
「終わったんですか?」
「終わってない!」
終わってないのかよ。
「でも、これ以上働いたら死んじゃうわ」
玲奈はそう言いながら、近くのロッカーから毛布を引っ張り出した。
「はい、透也ちゃん」
「私、本当に泊まるんですね」
「何時間もここでくつろいでたのに今さら?」
「今さらですね……」
玲奈は満足そうに頷くと、今度は悠へ視線を向ける。
「悠も今日はもう帰りなさいな。怪我人は絶対安静よ」
「玲奈さんも休んでくださいね」
「ええ」
「私も割り振られる仕事を減らしてもらえればもう休めるんですけどね」
真顔で話す蓮司から玲奈が気まずそうに目を逸らす。
そんなやり取りを眺めながら、俺は受け取った毛布を見下ろした。
柔らかい。
たったそれだけのことなのに、妙に安心する。
「じゃ、私はシャワー浴びてくるわ」
玲奈はそう言って事務所奥へ消えていく。
蓮司も「私は戸締まり確認してきます」と席を立った。
気付けば、事務所には俺と悠だけになる。
とても静かだ。
悠は書類を片付けながら、ふとこちらを見る。
「少しは落ち着けた?」
「……まぁ、それなりには」
正直に答えると、悠は小さく笑った。
「なら良かった」
それだけ言って、また自然に視線を戻す。
押し付けるでもなく、踏み込みすぎるでもなく。
心地の良い距離感だった。
悠は片付けが終わったのか事務所の出口の方へ向かって、事務所のドアの前でふと振り返る。
「また明日、透也さん」
その言葉に、一瞬だけ反応が遅れた。
また明日。
そんな何気ない挨拶。
なのに、妙に胸へ引っ掛かる。
ここ最近、誰かとそんなありふれた言葉を交わす機会なんて無かった。
「……また、明日」
少し遅れて返すと、悠は柔らかく笑って事務所を後にした。
静かになったASCの事務所で、俺は一人ソファへ身体を沈める。
毛布の感触、僅かに香るコーヒーの香り。
遠くで聞こえる玲奈の鼻歌と蓮司のため息。
そんな静かな空気に包まれながら、俺はゆっくり目を閉じた。
俺はこの世界の異物だ。
俺がいる事で未来が変わるかもしれない。
原作に深く関わる場所で、居心地の良さを感じているなんて論外だ
そう思いながらも、その夜は驚くほど簡単に眠りへ落ちていった。