句点を使う度に改行しなければいけないと思い込んでいましたが、先日そんなルールは無いと教えてもらいました。
もし、今までの話が読みづらかったのなら読んでくれた皆様に申し訳ないです。次回から気をつけます……
朝、目を覚ました瞬間、一番最初に感じたのは柔らかさだった。
ぼんやりした意識のまま視線を動かす。
薄い天井、古びた蛍光灯、窓から差し込む朝日、そこでようやく自分が毛布に包まっていることへ気付いた。
「……?」
数秒遅れて昨夜の記憶が戻ってくる。
ASC警備保障、ブレイバー、勧誘、そして流されるまま泊まることになった自分。
「久々によく眠れたかも……」
小さく呟きながら身体を起こす。
その瞬間、脇腹へ鈍い痛みが走った。
「っ……」
まだ普通に痛い。
だが昨日よりはかなりマシだ、玲奈の手当てが上手かったんだろう。
ゆっくり身体を起こしながら周囲を見回す。
昨夜は騒がしく感じた事務所も朝になると空気が違って見えた。
積み上がった資料、ホワイトボードに書かれた予定表、机の隅に放置された栄養ドリンク。
色々な物で溢れかえっているのに不思議と散らかっているようには見えない。
そんな事を考えながら事務所を見回しているとカタカタ、と小さなタイピング音が響いていることに気づいた。
視線を向けると事務所のデスクで蓮司が既に仕事をしていた。
黒縁メガネの奥の視線はモニターへ固定されたまま、指だけが迷いなくキーボードを叩いている。
寝不足だろうか、目の下の隈がかなり濃い。
「……早いですね」
思わず声を掛けると、蓮司は手を止めてこちらへ軽く視線を向けた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます……」
なんか普通に挨拶された。
その普通さに少し戸惑う。
今までは朝に誰かと穏やかに挨拶を交わすことなんてほとんど無かった。
朝を安全に迎えられるかどうかの方が重要だったからだ。
蓮司はモニターへ視線を戻しながら言う。
「起こさないようにはしていたんですが」
「いえ、私が勝手に起きただけなので」
「そうですか」
短いやり取りだったが、不思議と気まずさは無い。
俺は人と接するのが得意ではないから、彼の近すぎない距離感がありがたい。
ふと視線を動かした時、机へ突っ伏している人影が目に入った。水色の髪が机いっぱいに広がっていた。
「社長です」
蓮司が慣れた調子で説明する。
玲奈は完全に机へ沈んでいた。
片手にスマホを握った状態で書類の上へそのまま倒れ込んだようだ。
「何かあったんですか?」
「まあ、色々と」
「色々……?」
「気にしないでください。よくある事です」
蓮司は椅子から立ち上がると、ロッカーからブランケットを取り出し慣れた動作で玲奈へ掛けた。
その手付きには迷いが無い。
多分、これも日常なんだろう。
玲奈は「んん……」と小さく唸ったが、起きる気配は無かった。
不思議な空間だ。
大企業みたいに整ってはいない。
むしろかなり雑だ、ここは職場のはずなのに妙に空気が緩いというかなんというか。
職場というより、まるで誰かの家みたいだ。
そんなことを考えていると、事務所の扉が開いた。
「おはようございます」
落ち着いた声と共に、悠が事務所に入ってきた。
視線の先で悠が大きなコンビニの袋を片手に事務所へ入ってくる。
黒いパーカーに細身のパンツというラフな私服姿だったが、不思議としっかりして見える。
「おはようございます……」
少し遅れて返すと、悠は柔らかく笑った。
「ちゃんと眠れた?」
「はい、しっかりと眠れました」
正直に答えると、悠は少し安心したように目を細めた。
「なら良かった」
悠はコンビニ袋を机へ置きながら、「朝ご飯買ってきたよ」と言って袋からパンやおにぎり、飲み物を取り出している。
蓮司が「頼んでいたものは?」と聞き、悠が「えっと、ちゃんと買ってきましたよ」と苦笑した。
「榊さん、恐らく起きないので社長の分も食べてしまって構いません」
「今起きたわ!」
突然、玲奈が勢いよく起き上がった。
驚いてしまって思わずびくっと肩が跳ねた。
「蓮司、ちょっと酷くない?とっておいてくれてもいいじゃない!」
「おはようございます、社長」
「無視! ?」
寝癖が凄い、水色の髪が好き勝手な方向へ跳ねているのに、本人はまるで気にしていない。
玲奈はそのまま伸びをしながら、ようやく俺へ気付いた。
「あ、透也ちゃんおはよ!」
「お、おはようございます」
「傷の調子はどう?昨日の今日でそんな変わらないとは思うけど、どのくらい痛むかしら?」
「少し痛みますけど昨日よりも調子が良い気がします」
そう返すと、玲奈は嬉しそうに笑った。
「治療の甲斐があったわね」
悠はコンビニの袋から取り出したパンを机の上に並べて、蓮司はコーヒーを淹れている。
気付けば俺も自然にその輪の中へ混ざっていた。
不思議な感覚だ。
昨日まで廃ビルで過ごしてた俺が、こうして自分が誰かと朝食なんて。
最近は廃棄区画の片隅で適当に手に入れた物を食べるだけの日々だったし、そもそもこうして同じ空間で誰かと朝を過ごすこと自体がかなり久しぶりな気がする。
「透也さん、はい」
悠が紙パックの野菜ジュースを渡してくる。
俺はそれを慌てて受け取った。
「コンビニのだけど一番栄養がありそうなものを選んだよ」
「あ、ありがとうございます……」
悠の気遣いが妙に身に沁みた。
不思議と活力が湧いてくるようだ。
「悠?この袋の中にある沢山のエナドリは一体何かしら……?」
「蓮司さんに頼まれたんだ。玲奈さんに沢山働いてもらうためだって」
「透也ちゃんの栄養を気遣う気配りはできるのに、どうして私にはこんな仕打ちを……?」
玲奈が悲しそうに視線を落とした。
本当に仲良いな、この人達。
騒がしくて距離感が近くて、上司と部下というよりは仲のいい友達みたいだ。
その空気感に少し落ち着いてしまっている自分に気付き、内心で小さく焦る。
駄目だ、ここは俺の居場所じゃない。
そんなことを考えていると、不意に蓮司が口を開いた。
「そういえば、昨日の話の続きなんですが」
その瞬間、空気が少しだけ変わる。
悠も玲奈もパンを齧る手を止めた、多分、俺の勧誘の件だ。
なんだか嫌な予感しかしない。
そんな俺の不安を他所に蓮司はパソコン画面を見ながら続ける。
「マスカレイド関連、少し状況を整理しました。現状、セキュリティ側は警戒対象として監視していますが敵対認定まではされていません」
淡々とした説明だった。
「一部の企業も榊さんの動向を追っています。それと、何者かが特異なイデアを持った銀髪の少女に高額の賞金を懸けているようです。恐らく榊さんを探している人物がいるのでしょう。ヴィラン側でもかなり話題になっていますね」
思ったより大事になってる。
いや、昨日の戦闘を考えれば当然かもしれないが、改めて言葉にされると現実感が違った。
玲奈は「へぇー」と軽い反応を返していて温度差が酷い。
俺は小さく視線を落とした。
賞金の件、フィンと話していた時はそこまで実感が無かった。
でも、一般人でも調べれば簡単に知れる程までに賞金の件が広まっていると思うと不安だ。
思案する俺を他所に蓮司は淡々と話を続ける。
「正確には“生きたままの身柄確保への報酬”ですね。血眼になって探しているヴィランもいるようです。ただ髪が銀色だったというだけで無関係の一般人がヴィランに襲われるという事案が何件か発生しているとか」
「うう、襲われた人達に申し訳ない……」
俺がそう言った事で、玲奈が少し目を瞬かせた。
「透也ちゃんは悪くないわ!」
「でも原因は私にあるわけですし……」
フィンの顔が脳裏を過る。
これからまた賞金のせいでフィンのような強力な力を持ったヴィランと戦うことになったりするのだろうか。
蓮司はモニターを見ながら話を続ける。
「それとマスカレイドから逃げおおせたと自慢して回っているヴィランがいるようで、そのヴィランが榊さんの噂話を流しているようですね。かなり尾ひれも付いています」
「尾ひれ?」
「ヴィランを建物に突き刺して遊んでたとか、ヴィランごと辺り一帯を更地にしたとか」
「そんな事してませんよ!?」
「所詮、噂なんてそんなものです」
嫌すぎる。
俺から逃げおおせたヴィランって誰だ、昨日銃を撃ってきたあいつだろうか。
もうなんか色々と考えるの面倒になってきた。
疲れて思考を放棄した俺はおにぎりを齧りながら、ぼんやりと事務所の中を見回した。
窓から差し込む朝日、机の上へ積み上がった書類、コーヒーの匂い、タブレットを操作する蓮司とその隣でエナドリを飲んでいる玲奈、そしてパンを頬張っている悠。
原作でも、こんな空気のヒーロー企業はASCくらいだった。
原作で見ていた時も思っていたが、ASCはかなり変な会社だ。
大手みたいな派手さは無い、設備も古いし、人員も少ない。
収入もかなり少ないと原作で描写されていた。
なのに今座っているソファや電子機器など、どれも高価そうなものが多く金銭面で困っているような様子はない。
とても不思議だ。
「ねぇ透也ちゃん」
声をかけられて顔を上げる。
すると、玲奈がじーっとこちらを見ていた。
しかも妙に目が輝いている。
「やっぱりうちで働かない?」
来た、思わず小さく視線を逸らす。
「昨日も断りましたよね?」
「断られたわね」
「じゃあこの話はもう終わりじゃないですか?」
「私が諦めない限り永遠に終わることはないわ」
玲奈は当然みたいに言った。
パンの空袋を畳んで、そのままひとつづつ指を折っていく。
「まず戦力ね。うちはヒーローが悠だけだし、透也ちゃんみたいな強い子はなんとしてでも確保したいわ」
「そうですか...」
「次は住居ね。透也ちゃんは安心して過ごせる場所ができて嬉しい、私は従業員が増えて嬉しい、Win-Winね!」
「うっ」
住居は普通に刺さる。
玲奈はそのまま続けた。
「怪我してもまともに休めない、セキュリティとヴィランにも追われてる、仕事も無いからお金もない」
一つ一つ並べられる度に、言い返しづらくなる。
というか、冷静に言葉にされると今の状況かなり終わってるな、俺。
玲奈はそんな俺を見ながら、胸を張った。
「でもASCならその辺全部解決出来るわよ!」
「どうやってですか……?」
「まあ色々と、こう、なんやかんやで解決できるわ」
「なんやかんやの内容が知りたいんですけど」
「なんやかんやはなんやかんやよ!」
玲奈は誤魔化すように言葉を濁している。
その横で、蓮司が静かにコーヒーを飲んでいた。
彼が否定しない辺り、本当にある程度はどうにか出来るんだろう。
「透也ちゃんって今、一人で全部抱えてる状態じゃない?」
その言葉に少しだけ喉が詰まった。
否定出来ない。
確かにそうだ、怪我も生活も追跡も、全部一人で何とかするしかなかった。
頼れる相手なんていなかったから。
玲奈はエナジードリンクをストローで飲みながら続ける。
「そんな状態が続いたら、絶対にいつか限界がくるわ。辛いことは誰かと一緒に背負った方が楽よ?」
軽い口調だけど、その目だけは妙に真剣だった。
「いや、でも」
「私達の負担を気にする必要はないわ。悠を助けてもらった恩もあるし」
「それ昨日も言ってましたね」
「ええ、とても重要なことよ?」
玲奈は胸を張る。
横で悠が少し苦笑していた。
蓮司は「また始まった……」みたいな顔をしている。
だが玲奈は止まらない。
なんなんだろうこの人は、ふざけているようでいて、言っている内容自体はかなり魅力的だ。
あと先考えていないように見えるのに、俺が欲しているものを妙に的確に提示してくる。
住居、仕事、セキュリティの追手。
今の俺が抱えている問題を玲奈は全部理解した上で、それでも手を伸ばしてきている。
だからこそ、簡単には頷けなかった。
「……やめておきます」
俺が小さく断ると玲奈がぴたりと動きを止めた。
「どうして?」
その聞き方は妙に真っ直ぐだった。
先ほどのような冗談っぽさが無くて、少しだけ答えに詰まる。
「……私といると危険なんです」
「危険?」
玲奈はきょとんとした顔をする。
まるで本気で意味が分からないみたいだった。
「セキュリティとか賞金の話?」
「それもありますけど」
ヴィラン側で賞金が掛かっている。
その時点で既に普通じゃないが、本当に厄介なのはそこじゃなかった。
パンを持ったまま少し黙り込む。
ヘリオスの事をどう説明するべきか迷う。
原作を大きく変えてしまう危険がある以上ヘリオスの名前は出せない。
でも、このまま曖昧にしても玲奈は絶対引かない。
そんなことを考えていると、不意に悠が静かな声を出した。
「透也さん」
「……はい」
「そんなに断る理由って何かな、聞いてもいい?」
答える事を強制するような声じゃなかった。
純粋に確認するみたいな聞き方。
玲奈も、蓮司も、自然とこちらを見ていた。
事務所の中が少し静かになる。
俺は紙パックのジュースを握ったまま、小さく息を吐いた。
「……私、多分かなり大きい組織に追われてて」
その言葉を口にした瞬間、事務所の空気が更に少しだけ静かになった。
「セキュリティよりも大きな組織です。賞金を懸けてるのも多分その組織です。だから私と関わると多分ASCも巻き込まれます」
ヘリオスの名前は出さずに話す。
流石にそこまでは言えない、だが、かなり危険な相手に追われていることだけは伝えたかった。
これなら流石に諦めるだろうと思った。
小規模会社が抱えるにはリスクが大きすぎる。
普通なら距離を置く。
そう考えていたのに。
「ふーん」
玲奈の反応は、思ったより普通だった。
拍子抜けするくらい軽い。
「……それだけ?」
「結構意を決して話したんですけど……」
「でもその組織?のことをかなり濁して話してるせいで内容の重さが全く伝わってこないわ」
「うっ……」
「それに、少なくとも今すぐASCを襲ってきたりするようなことはないでしょう?現状こうして平和にご飯食べれてるわけだし」
俺は否定が出来ずに言葉につまる。
玲奈はエナジードリンクを飲みながら、あっさり続けた。
「だったら別に何とかなるわよ」
「いや、ならないと思うんですけど」
「大丈夫大丈夫」
根拠が無さすぎる。
だが玲奈は本当に気にしていないみたいだった。
むしろ何かを考えるように顎へ指を当てる。
「まぁ最悪、その組織でも手出し出来ないくらい大きい所に透也ちゃんを守ってもらえばいいし」
「大きい所?」
思わず聞き返すと玲奈は「あっ」と小さく声を漏らした。
その瞬間だけ、妙に分かりやすく表情が固まる。
「どういう事ですか?」
俺が聞くと、玲奈は露骨に視線を逸らした。
玲奈は気まずそうな表情をして言葉を濁している。
「いや、その……」
「社長」
横から蓮司が静かな声を出す。
その声には微妙に“余計なことを言うな”感が滲んでいた。
玲奈は数秒だけ「あー……」と唸った後、わざとらしく咳払いした。
「色々とね、まあ、あるのよ。うん……」
「色々ってなんですか?」
「まぁまぁ!とにかくこれで透也ちゃんの問題は全部解決ね!」
完全に誤魔化した。
しかも蓮司もそれ以上突っ込まない。
悠だけが少し困ったように苦笑している。
事情がよくわからない。
というか、大きい所に守ってもらうって何だ。
原作の俺が読めていない部分で何かASCの新たな事実が明らかになったりしてるのだろうか。
なんだか玲奈の話がどういう事なのか気になるが彼女が話を濁している以上、踏み込むのは良くないだろう。
玲奈はもう完全に話を切り替える気らしく、ぱんっと手を叩いた。
「とにかく!」
嫌な予感しかしない。
「透也ちゃんの問題は、わりとどうにか出来るから安心していいってこと!」
「説明が雑すぎませんか?」
「細かいことは気にしない!」
全然細かくないし、めちゃくちゃ気になる。
だが、玲奈はもう止まらなかった。
「住む場所ある! 仕事ある! 面倒事も何とかする! 完璧!」
「玲奈さん、また勢いで押し切ろうとしてる…」
悠が呆れた声で言うが玲奈は全く気にしていない。
そのままぐいっとこちらへ身を乗り出してきた。
「透也ちゃん、これでもう断る理由は無いでしょ?」
真っ直ぐな声だった。
ふざけているようでいて、本気で言っているのが分かる。
「……昨日も聞きましたけど、どうしてそこまでしてくれるんですか?」
気付けば、小さく呟いていた。
玲奈が「ん?」と首を傾げる。
「普通、赤の他人の厄介ごとにそこまで首を突っ込んだりしませんよ」
俺はジュースのパックを握ったまま続ける。
「素性もよく分からない相手ですよ。しかも私、戸籍とか無かったり色々問題抱えてて、ヴィラン側にも目付けられてて、変な組織にも追われてる。そこにいるだけで周りの人に迷惑かけるような存在なんですよ」
冷静に並べるほど、俺は厄介な人物だった。
少なくとも普通の人間なら避ける、関わらないようにする。
だが玲奈は数秒だけ考えるように視線を上げた後、当たり前みたいに言った。
「理由なんて必要かしら」
その言葉に少しだけ息が詰まる。
玲奈は続けた。
「透也ちゃんが悠を助けた時は、自分の得になるって考えたから助けたの?」
「それは……」
あの時は、ただ目の前で誰かが死にそうになっていたから動いただけだ。
色々考えてたら先に体が動いてただけ、別にヒーローのように高潔な考えなんて無かった。
そんな俺を見ながら、悠が静かに口を開く。
「昨日、透也さんが助けてくれて本当に助かったんだ」
その声は穏やかだった。
「君が来てくれなかったら、僕は今よりずっと酷い怪我を負って、こうしてここでみんなと笑い合うことなんてできなかったと思う。だから透也さんには本当に感謝してるんだ」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
悠は困ったように笑った。
「恩を返したいっていうのもあるけど、僕はヒーローだから、透也さんが困ってるなら側で力になりたい」
押し付ける言い方じゃない。
ただ、自分の気持ちをそのまま伝えているだけ。
だから余計に響く。
「もちろん無理にとは言わないけど、透也さんが居てくれると僕は嬉しいな」
悠はそう言ってから、少しだけ言葉を止めた。
その視線が真っ直ぐこちらへ向く。
駄目だ。
そんな言い方されたら、断れるわけがない。
視線を落とす。
頭の中では、原作が変わるかもしれないという不安がずっと残っている。
でも、それでも。
この場所へ居たいと思ってしまった。
騒がしくて色々と雑だけど、でも、不思議と嫌じゃない。
むしろここにいると少しだけ肩の力が抜けて安心してしまう
そんな場所を、俺はもうずっと忘れていた。
長い沈黙の後、俺は小さく息を吐く。
そして。
「……えっとその、それじゃあ、お世話になります」
絞り出すみたいに、そう言った。
数秒、事務所が静まり返る。
まるで全員、一瞬だけ本当に固まったみたいだった。
そして次の瞬間。
「やったわ!!!!!!!!」
玲奈が勢いよく立ち上がった。
とても騒がしい、机が揺れるレベルの勢いだった。
「歓迎するわ透也ちゃん!! ASCへようこそ!!」
「社長、今は朝ですよ。声のトーンを落としてください」
蓮司が疲れた顔でこめかみを押さえる。
だが玲奈は止まらなかった。
「やった!! これでできることも増えるし、私の仕事も減るわ!!」
「そこ本音出てますよ」
「いいじゃない別に!」
玲奈は開き直るように言った後、すぐこちらへ向き直った。
「よし、じゃあまず生活環境を整えるわよ!」
「え」
話が早い。
「仮眠室の隣、空いてたわよね?」
「あぁ、倉庫にしてた部屋ですか」
蓮司が思い出したように頷く。
「片付ければ使えると思います」
「じゃあ決まり!」
玲奈がぱんっと手を叩く。
「とりあえず住居が決まるまではそこが透也ちゃんの部屋ね!」
「色々と話が進むのが早くないですか?」
「大事なことだから当然よ」
玲奈は当然みたいに言った。
「あとずっとボロボロの格好で居させる訳にもいかないし服も必要ね。私と背もあまり変わらないし、とりあえずは私の服でいいかしら」
「携帯も必要ですね」
蓮司が自然に話へ加わる。
「連絡手段無しだと色々不便です」
完全に加入前提で話が進んでいた。
いや、実際加入したんだけど。
決まった瞬間からの切り替えが早すぎる。
玲奈は顎へ手を当てながら考え込む。
「戸籍無いって言ってたしその辺りの問題もどうにかしたいわねぇ」
「その辺は私がやっておくので大丈夫です」
蓮司が即座に返事をした。
と言うか戸籍とかは俺がやるんじゃないのか。
本人がいなくてもどうにかできるものなのだろうか。
「社長が動くとかえって時間がかかりそうですから」
「むー」
玲奈が露骨に不満そうな顔をする。
だが蓮司は慣れた様子だった。
「まずは生活基盤の確保からです。仕事関連はその後」
「はいはい、ほんと細かいわね」
「社長が突っ走るからでしょう」
玲奈が視線を逸らす。
その様子を見て、悠が小さく笑った。
「玲奈さん、透也さん来てからずっと楽しそうですよね」
「楽しいわ!だって新メンバーよ!」
「部活じゃないんですから」
蓮司が即座に突っ込む。
なんというか、本当に展開が早いなこの人達。
慌ただしい空気のはずなのに、不思議と息苦しくない。
むしろ、その空気に少し安心している自分がいる。
そんなことを考えていると、玲奈がぱっとこちらを見た。
「歓迎会しましょう!」
「溜まった仕事を処理してからにしてください」
蓮司が真顔で返す。
玲奈は「うっ」と言葉に詰まった。
どうやら本当に仕事は溜まっているらしい。
悠が苦笑しながら立ち上がる。
「とりあえず話もまとまったみたいだし、僕は倉庫の荷物移動させてきますね」
「あ、私も手伝います…」
返事をした後、少しだけ止まる。
何故か悠との会話は慣れない。
推しだからだろうか、よくわからない。
悠はそんな俺を見て少しだけ笑った。
「透也さん、今日はゆっくりしてて」
「え、でも…」
「酷い怪我なのに手伝わせる訳にはいかないよ」
そう言うと、悠は部屋を出て行った。
確かに脇腹はまだ普通に痛いし、身体もかなり重い。
最近気を張りっぱなしだったせいもあるんだろう。
玲奈はそんな俺を見て、少しだけ笑う。
「透也ちゃん、片付けはさせられないけど、自分の部屋になるんだから悠と一緒に行ってちょっと見てきたら?」
「……そうですね、ちょっと行ってきます」
軽く頭を下げると、ソファからゆっくり立ち上がった。
前世では、物語の中にしか存在しなかった人達。
その世界へ自分は今、確かに足を踏み入れている。
この出会いが、この場所が、これから先、自分の人生を大きく変えていく。
そんな予感が、静かに胸の奥へ広がっていた。
♢
事務所の照明が、静かな駆動音を立てていた。
時刻は既に深夜を回っている。
玲奈はデスクへ突っ伏したまま、「あと三件……あと三件……」と呪文みたいに呟いていた。
その横で、蓮司は淡々とキーボードを叩いている。
いつものASCの夜だった。
やがて。
「社長」
不意に、蓮司が静かな声を出した。
玲奈は机へ顔を埋めたまま「なぁに……」と気の抜けた返事をする。
「榊さんの件です」
その言葉で、玲奈が少しだけ顔を上げた。
蓮司はモニターから視線を外さないまま続ける。
「本当に良かったのですか?」
「何が?」
「彼女を招き入れたことです」
玲奈は数秒だけ黙る。
事務所の中へ、キーボードの打鍵音だけが残った。
蓮司は静かに言葉を続ける。
「本人も言っていた通り、彼女は素性が知れません。賞金も掛けられている。しかも、大きな組織に追われていると言っていました」
淡々とした声だった。
感情的に否定しているわけではない。
ただ、確認しているようだった。
「危険性だけで言えば、今まで関わった案件の中でもかなり高い部類かもしれません」
玲奈は少しだけ目を細めた。
だが、慌てた様子は無い。
「まぁ、そうね」
「……にも関わらず、社長は殆ど即決でした」
蓮司がそこでようやく手を止める。
そして静かに玲奈を見る。
「どうしてですか?」
その問いに、玲奈はしばらく黙っていた。
普段なら勢いで返しそうな場面なのに、珍しくすぐ答えない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……あの子ね」
玲奈は椅子へ深く座り直した。
「自分はいつ気を失ってもおかしくないくらい傷だらけだったのに、それでも悠を助けたのよ」
静かな声だった。
「しかも助けた後、自分の怪我よりも悠の傷の心配してたらしいわ」
玲奈は苦笑する。
「普通、自分が死にかけてたら他人を気にする余裕なんて無いわよ」
蓮司は何も言わない。
玲奈は視線を天井へ向けたまま続ける。
「それに、あの子ずっと自分が関わると周りに迷惑が掛かるって気にしてたでしょう?」
「……えぇ」
「賞金を掛けられてることも、大きい組織に追われてることも、“自分が危ない”じゃなくて、“周りを巻き込みたくない”って考えてた」
その言葉に、蓮司の目が少し細まる。
玲奈は小さく笑った。
「優しいのよ、透也ちゃん」
その声はどこか柔らかかった。
「多分あの子は自分が傷付くことにはあんまり頓着してない。でも、他人が傷付くのは嫌がるタイプ」
そして、ゆっくり蓮司を見る。
「そんな優しい子が困ってるのに、助けないなんて」
玲奈はそこで少しだけ笑った。
「ヒーロー企業として失格でしょ」
静かな言葉だった。
けれど、その声には迷いが無かった。
事務所へ小さな沈黙が落ちる。
やがて、蓮司は小さく息を吐いた。
「……社長らしい理由ですね」
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
玲奈が「何それ」と笑う。
その声を聞きながら、蓮司は再びキーボードへ手を戻した。
その横顔には、呆れを含みながらもどこか穏やかな空気が滲んでいた。