「……どうしてこうなったんだっけ」
冷たい壁へ背中を預けながら、俺は小さく呟いた。
薄暗い部屋だ、窓は無い。金属製の机と椅子、それとベッドに天井隅の監視カメラ。
どう見ても独房だし、何故か地味に設備が良い。
ベッドがすごくふかふか……いや和んでどうする。
問題はそこじゃない。
俺は深く息を吐きながら、無機質な天井を見上げた。
ここに来たのは二日前、あの日のことを思い出す。
確か、事の始まりは朝だった。
♢
ASCへ来てから数日。傷はまだ完全には治っていなかったため、玲奈からは「まだ仕事は禁止」と言い渡されていた。
住む場所を用意してもらい、食事まで世話になって、その上何もしないというのは落ち着かないし申し訳ない。
だから俺は自然と事務所の雑用を引き受けるようになっていた。
掃除、備品整理や書類運び。
ヒーロー企業というより、普通に雑務係みたいなことをしている気もしたが、何もしないよりはマシだ。
それに誰かの役に立てるのは嬉しいし嫌ではなかった。
ASCの事務所は、いつも騒がしい。
玲奈が大声を出し、蓮司が呆れ、悠が苦笑する。そんな空気が、少しずつ俺の日常になり始めていた。
その日も、俺はいつものように事務所の掃除をしていた。
朝のASCは他の時間帯よりも比較的静かだ。
玲奈は珍しく机へ向かったまま静かに真面目にパソコンと睨み合っていたし、蓮司はその隣で黙々と働いている。悠は現場へ出ていて今はいない。
窓から差し込む朝日が、古びた事務所の床を照らしている。
俺はモップを片手に朝日が反射するほど綺麗になった床を見て満足そうに頷いた。
「よし、完璧……!」
気付けば、そんな言葉が漏れていた。
最初は落ち着かなかった。
誰かと同じ場所で生活することも、人の気配がある環境も、全部久しぶりすぎたからだ。
だが最近は少しずつだけど慣れてきた。
朝起きると事務所からコーヒーの匂いがする。
玲奈は自室へ戻る前に力尽きてソファで寝落ちしていて、蓮司は朝から死んだ目で仕事をしている。
悠はそんな光景を見ながら苦笑いを浮かべていたり。
そういう光景が、少しずつ当たり前になり始めていた。
そんなことを考えていると。
「透也ちゃん」
不意に玲奈がこちらを見た。
「どうかしましたか?」
玲奈は何故か妙に満足そうな顔をしている。
最近学んだのだが、彼女がこういう表情をしている時は大抵面倒なことが起きるのだ。
俺は少し嫌な予感がして思わず身構えてしまう。
「セキュリティ関連の問題、色々手回しが済んだからもう解決できるわ」
「……え?」
思わずモップを取り落としそうになる。
セキュリティ、つまり俺の指名手配みたいな扱いの件だ。
「解決って、どうやってですか?」
そう聞いた瞬間、玲奈はとんでもないことを口にした。
「透也ちゃん、一回セキュリティに捕まってくれる?」
「…………はい?」
数秒、本気で意味が分からなかった。
そんな困惑する俺を気にした様子もなく玲奈は普通に話を続ける。
「安心していいわ。多分酷い事にはならないから」
「捕まってる時点で既にだいぶ酷いんですが……」
なんでセキュリティに捕まってとかそんな話になるんだろう。
困惑する俺を余所に、玲奈は「あ、ちなみに」と軽い調子で続けた。
「もうセキュリティにはマスカレイドがうちにいるって連絡済みだから」
「えっ?」
「多分そろそろ来ると思う」
「えっ????」
脳が理解を拒否した。
少し待ってほしい、事前に相談とか無かったよね?
俺の意思確認とか一切無かったよね?
というか。
「何してるんですか!?」
思わず叫ぶが、玲奈は「まぁまぁ」と俺を宥めるように手を振った。
「ちゃんと考えがあるから大丈夫よ」
「じゃあ説明してくれますか?今、直ぐに……!」
「圧が強いわ透也ちゃん。うーん、なんて言えばいいのかしら?」
雑すぎる。
蓮司はそんなやり取りを見ながら、小さく眼鏡の位置を直した。
「ちなみに私は榊さんに事前にしっかりと説明するように言いましたよ」
「事前に言われてたのに玲奈さんは説明しなかったんですか…!?」
「えぇ、まあこれからもこういう目には何度も会う事になると思うので今のうちに慣れてください」
玲奈がふふんと胸を張る。
全然威張るところじゃない。
「いや、普通に捕まるのは嫌なんですが……」
「大丈夫よ」
玲奈は妙に自信満々だった。
「ちゃんと透也ちゃんを守る方向で動いてるから。信用してくれていいわ」
「その信用が今すごく揺らいでるんですけど」
そう言った瞬間だった。
ビル下から、複数の車両音が響いた。
嫌な予感しかしない。
玲奈が「あ、来た」と呟く。
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
慌てて窓へ駆け寄ると、そこには黒い装甲車両が数台停まっていた。セキュリティ部隊だ、しかも普通に武装してる。
「これほんとに大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だって!」
玲奈は軽い調子で笑っている。
だが俺は全然大丈夫じゃない。
なんなら今すぐ逃げたい。
しかし。
「榊さん」
不意に、蓮司が静かな声を出した。
振り返ると蓮司は真面目な顔をしていた。
「社長は勢いだけで動いているように見えますが、一応準備はしています」
「一応って付けるのやめてくれるかしら」
「現状、榊さんは、いつセキュリティに拘束されてもおかしくない状態です」
淡々とした説明だった。
「ですが今回、こちら側から先に身柄を渡すことで、“敵対意思が無い”と示せます」
「なるほど……」
「その上で、こちらが榊さんの保護と管理を引き受ける方向へ持っていくつもりです。榊さんはイデアを違法使用していましたが、用途は正当防衛とヴィラン鎮圧のみです。加えて未成年でもあるため、重い罪には問われません」
「な、なるほど……?」
保護とか管理とかはよくわからないけど、少しだけ理解できた気がする。
つまり、一旦拘束された上で危険人物じゃないと証明する流れなんだろう。多分。
蓮司の説明を聞いた玲奈は腕を組みながら頷いた。
蓮司は、こいつ本当に理解してるのか?とでも言いたげな視線をこちらに向けている。
「セキュリティは透也ちゃんを『危なそうだから捕まえるぞ!』って意気込んでる訳。だから透也ちゃんは安全だって事を示すの」
「とりあえず敵対の意思が無いってことを示すわけですね」
「ええ、その認識で問題ないわ。最初にも言ったように色々と手は回してあるんだけど、もうセキュリティ来てるし時間もないからしっかりと説明はできないわね。ごめんね!」
軽い調子で玲奈が謝罪をしている。
やろうとしていることは分かった。分かったが。
「事前に説明してからやってください……」
「私ね、サプライズ感ってとても大事だと思うの」
「最悪です!」
そんなやり取りをしている間にも、階段を上がってくる足音が聞こえてくる。
重い足音、人数も多い。
完全に包囲の流れだった。
「社長」
蓮司が静かに声を掛けると玲奈は小さく頷いた。
その瞬間、事務所のドアが勢いよく開いた。
黒い装備に身を包んだセキュリティ隊員達が、一斉に室内へ入ってくる。
空気が一気に張り詰めた。
隊員達の視線が、真っ直ぐこちらへ向く。
その中心にいた男が低い声で告げた。
「対象を確認。マスカレイド、同行を要請する」
いや、要請って空気じゃないんですけど。完全に連行だろ。
思わず玲奈を見ると何故か笑顔で親指を立てていた。
なんか少し腹が立ってきたな。
「大丈夫だから!」
「うう、玲奈さんのことを信用できない……」
「えっ」
抵抗したい気持ちもあったが結局、数分後には俺はセキュリティの車両へ乗せられていた。
そして現在、独房である。
「……どうしてこうなったんだっけ」
もう一度、小さく呟く。
いや原因は分かってる。
玲奈だ、あの人が全部悪い。
「本当に大丈夫かな……」
ぽつりと漏れた声は、静かな独房へ吸い込まれていった。
現在、独房生活は二日目に突入している。
「……」
独房はとても静かだ。いや、静かすぎる。
ここには必要最低限のものしかない。
窓も時計も無いし時間感覚が狂いそうになる空間だった。
でも妙に待遇は良い。
食事は普通に温かいものが出てくる。
フィンから受けた怪我の治療も受けている。不思議なカプセルのようなものに入れられて治療を受けたりもした。
セキュリティの人間が酷い態度をとってくる事もない。
だが、それが逆に落ち着かなかった。
俺は簡易ベッドへ腰掛けながら、小さく息を吐く。
「いつ出れるんだろう……」
ぽつりと呟く。
玲奈は大丈夫と言っていたし、蓮司も一応は納得している様子だった。
でも、実際こうして独房へ放り込まれると、普通に不安になる。
そもそも今の俺って、世間的には危険人物だ。
能力の詳細不明、身元不明、賞金付き。
しかも廃棄区画でヴィランを吹き飛ばして回っていた。
冷静に考えると、立派な危険人物である。
「……騙されたとか、無いよな」
いや、流石にそれは無いはずだ。
原作では彼女は根っからの善人だった。
でも玲奈だからな。あの人、常に勢いで動いてて何考えてるかよくわからないからな……
サプライズ感大事とか言ってたし。
思い出しただけで胃が痛い。
胃痛を和らげるためにお腹を摩っていると、ガコンと小さな音が響いた。
独房の扉が開く。
反射的に顔を上げると、黒い制服姿のセキュリティ隊員が立っていた。
「治療の時間だ」
低い声だった。
俺は小さく頷き、立ち上がる。
連れて行かれた先は、簡易医療室みたいな場所だった。
白い照明、薬品の匂い、無機質なベッド。
そこで待っていた医療班らしき女性が、淡々と慣れた様子で俺の脇腹の包帯を外して、目を見開いた。
「もう殆ど傷が塞がっていますね……」
「あっ、ほんとだ」
「メディカルポッドでの治療があったとはいえ、あれほどの傷なら普通はまだ安静にしなければいけませんが、貴方はもう問題なさそうですね」
メディカルポッドって先日入ったカプセルの名前だろうか。
俺がそんな事を考えている間に、彼女は新しい包帯を巻いていく。
手際はかなり良かった。痛みも無い。
俺はぼんやり天井を見上げながら、小さく息を吐いた。
「なんでこんな普通なんだろう……」
思わず本音が漏れる。
すると医療班の女性が少しだけ目を瞬かせた。
「普通?」
「いや、もっとこう、危険人物扱いされるのかと思ってました」
女性は少し考えるように視線を逸らした。
「上からは極力刺激するなって指示が出てますね」
「刺激するな?」
「えぇ」
淡々とした返事だった。
「貴方、何故かイデア抑制剤が効かないし能力規模が不明ですから」
「……」
「暴れられると処理が面倒だから貴方を刺激しないようにしてるのでは?」
なんか処理とか普通に怖いこと言われた。
いや、合理的ではあるんだけど。
その後、治療を終え再び独房へ戻される。
また静かな部屋で一人きり、時間だけがゆっくり流れていく。
その中で、考えることは自然と同じ方向へ向かった。
ASC、玲奈、悠、蓮司。
「……今頃どうしてるんだろ」
気付けば、そんなことを考えていた。
たった数日、それなのに不思議とあの事務所の空気が懐かしく感じる。
玲奈の騒がしい声や、蓮司の呆れたため息。悠の穏やかな笑み。
あの雑居ビルへ来る前なら、こんな風に誰かのことを考えるなんて無かった気がする。
「……」
小さく息を吐く。
その時だった。
足音が聞こえてきて再び独房の扉が開く。
今度はさっきとは違い、3人ほどセキュリティの隊員がいる。
セキュリティ隊員の一人が、無機質な声で告げた。
「出ろ」
「……え?」
思わず顔を上げると、隊員は淡々と話を続けた。
「移動だ」
移動、その言葉に、一瞬だけ嫌な想像が浮かぶ。
まさか監獄行きとかじゃないだろうな。
だが隊員達は特に敵意を見せる様子もなく、ただ機械的にこちらを促していた。
俺は警戒しながら独房を出る。
前後をセキュリティ隊員に囲まれたまま、長い通路を歩かされた。
無機質な白い廊下、響く足音、重苦しい空気。
居心地の悪さに身じろぎしていると、やがて建物の出口へ辿り着いた。
そこで、思わず足が止まった。
出口には黒塗りの高級車が停まっていた。
しかも一台じゃない。明らかに高そうな車両が並んでいる。
そして、その中央に一人の男が立っていた。
歳は四十代くらいだろうか。黒髪は短く整えられ、皺ひとつないスーツを隙なく着こなしている。
背筋は真っ直ぐで、歩くだけで周囲の空気が張り詰めるような雰囲気があった。
別に睨まれているわけでもないのに威圧感がすごい。
まるで、空気そのものが重くなったみたいだ。
男は静かにこちらを見る。その視線だけで、自然と背筋が伸びそうになる。
「君が、榊透也君だね」
低く落ち着いた声だった。
「そうですけど、あなたは……?」
男は小さく頷く。
「私については気にしなくていい。乗りたまえ」
それだけだった。
有無を言わせない空気に俺は困惑しながらも、促されるまま車へ乗り込んだ。
♢
車の中はとても静かだった。
シートは座り心地が良いし、車内も広い。
運転席には専属運転手らしき人物までいる。
これはどういう状況なんだろうか。
セキュリティの独房から急に世界変わったんだけど。
しばらく沈黙が続いた後、不意に男が口を開いた。
「君の処遇について、ヒーロー企業とセキュリティの間で協議が行われた」
「……協議?」
「ああ、セキュリティは君を危険視していた」
淡々とした説明だった。
「戸籍データは無く、能力規模は不明、ヴィランとの接触も多数。セキュリティ側は君を収監すべきだという意見を出していた」
やっぱりそうだったらしい。
思わず小さく息を呑む。
そんな俺へ視線を向けたまま男は続ける。
「しかし一方で、君の能力へ価値を見出す企業も多かった」
「価値、ですか?」
「ああ、君は既に複数のヴィランを単独で制圧している。戦闘能力だけなら企業所属のヒーローと比較しても遜色ない」
なんか急に評価され始めた。
重苦しい空気のせいで全然嬉しくない。
男は窓の外を眺めながら続ける。
「その結果、管理責任を負うことを条件に、保護観察対象としていずれかの企業に君を引き渡す方向で話が纏まった」
「保護観察対象?」
「ああ、数々の企業が君を確保しようと名乗りを上げた」
そこで、男は一瞬だけこちらを見る。
「ヴァルハラも君を手に入れようと必死だったようだ」
その名前に、反射的に肩が強張る。
ヴァルハラ、フィンが所属していた企業。
主にヒーローの装備を開発している大企業だった筈だ。
原作でも何度か名前が出ていたし、所属ヒーローも多い。
「最終的に、君の身元引受先は天城ホールディングスに決定した」
「……天城?」
その名前には聞き覚えがあった。
いや、聞き覚えどころじゃない。玲奈の名字だ。
そこで、ようやく頭の中で何かが繋がり始める。
だが次の瞬間、別の不安が浮かんだ。
天城ホールディングス、つまり大企業側。
じゃあ、ASCは?玲奈達は?
「……私は、ASCから離れることになるんですか」
気付けば、そんな言葉が口から出ていた。
言った直後、自分でも少し驚く。
少し前まで、あの場所はただの原作で見たことのある場所。その程度の認識だった。
なのに今は、離れるかもしれないと聞いただけで妙に落ち着かなかった。
男はそんな俺を静かに見た後、小さく口を開く。
「いいや」
低い声だった。
「君の身元引受先は天城ホールディングスになる。だが、君に関する実質的な管理権限は全てASC警備保障側へ委譲される」
「……え?」
思わず目を瞬かせる俺を気にした様子もなく、男は淡々と続けた。
「つまり形式上は天城ホールディングス管理下。しかし実際の活動、生活、監督はASC側が担当する」
「それって……」
「君は今まで通りASCに所属すると言う事だ」
数秒、思考が止まる。
その後、じわじわと理解が追い付いてきた。
つまり、玲奈は最初から今のこの状況を作るために動いていたのか。
セキュリティへ一度身柄を渡し、追跡されている状況を解決した後に、正式に企業へ組み込む。
しかも、ちゃんとASCから離れなくてもいいように手を回していた。
「玲奈さん、ちゃんと考えてたんだ……」
思わず小さく呟く。
すると男が僅かに目を細めた。
「玲奈は昔から、勢いだけで物事を進めることが多かった」
その言葉に少し違和感を覚える。
今、この人、玲奈のことを名前で呼んだ。
しかもかなり自然に、そこでようやく一つの可能性が頭を過る。
「……あの」
「何だ」
「もしかして、玲奈さんと知り合いなんですか」
その瞬間、男が僅かに沈黙した。
車内へ静かな空気が落ちる。
「知り合い、か」
男は小さく呟く。
その声音は妙に淡々としていた。
「まぁ、そうだな」
なんか濁された。
だが、それ以上聞けるような空気でもない。
車内は再び静かになる。
窓の外では都市の景色が流れていた。
なんとなく気まずさを感じた俺は、そんな景色をぼんやりと眺めていた。
♢
いつのまにか窓の外には見覚えのある景色が広がっていて、車がゆっくり速度を落としていく。
古びた雑居ビル、小さな看板。ASC警備保障の事務所だ。
ビルの前まで来ると車が静かに停止する。
その瞬間、ビル入口の扉が勢いよく開いた。
「透也ちゃん!!」
聞き慣れた声だった。
玲奈だ、いつものような勢いのある声だが、その表情は少し違う。
玲奈はそのまま車へ駆け寄ってくる。
俺が車から降りると、まず最初に全身を確認するみたいに視線を走らせた。
「酷いことされたりしてない?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「ほんと?」
「ほんとです。むしろ治療までしてもらって傷も殆ど塞がりました」
そこでようやく、玲奈が少しだけ息を吐く。
俺をセキュリティに突き出したのは彼女なのに本当に心配してたのか。
そんな玲奈の様子を見て笑っていると、後ろから低い声が響いた。
「玲奈」
空気が変わった。
さっきまでの玲奈の明るい雰囲気が、一瞬で消える。
男の方へ振り返った彼女の表情を見て、思わず少し息を呑んだ。
今まで見たことが無いくらい、冷めた表情をしていた。
男は静かな声で続ける。
「少し話が──」
「私には無いわ」
玲奈は即答した。
取り付く島もない声だった。
「玲奈」
「聞こえなかった?私は貴方と話すことなんて無いと言ったのよ」
その声は、嫌に鋭かった。
男に対する態度が普段の玲奈からは想像出来ないくらい冷たくて思わず背筋が伸びる。
男は数秒だけ玲奈を見る。だが結局、それ以上は何も言わなかった。
玲奈はそんな男から視線を外すと、そのまま俺の手を引っ張る。
「行くわよ」
「え、あ、はい」
勢いに押されるまま歩き出す。
雑居ビルへ入る直前、思わず一度だけ振り返る。
黒塗りの高級車、無表情の運転手。
そして、心なしか悲しそうな表情で静かに玲奈を見ているスーツの男。
だが、玲奈はその男の方を一度も振り返らなかった。
そのまま玲奈に手を引かれて、俺はASCの入っている雑居ビルへ戻った。
勢いが凄い、本当に引き摺るみたいな速度で進んでいく。
「れ、玲奈さん」
「何?」
「ちょっと痛いです」
「あっ、ごめん!」
玲奈が慌てて歩く速度を緩めたが手は繋いだままだ。
そのまま階段を上がっていく。
二階、三階、そして四階。
玲奈はそのまま事務所の扉を開いた。
「ただいま!」
勢いよく響いた声。
すると奥から、ぱっと悠が顔を上げた。
「透也さん!」
その瞬間、悠の表情が目に見えて緩む。
「良かったぁ……」
本気で安心したみたいな声だった。
蓮司もパソコンから顔を上げる。
その表情はいつも通り落ち着いていたが、僅かに肩の力が抜けたように見えた。
「榊さん、お疲れさまでした。おかえりなさい」
「……た、ただいま」
そう返した瞬間、不思議な感覚がした。
ただいま、自然にそんな言葉が出た。
昨日までなら、絶対言わなかった気がする。
玲奈はそんな俺を見て、小さく満足そうに笑う。
「ほらね。ちゃんと戻って来れたでしょ?」
「……説明無しでセキュリティに突き出した人の台詞じゃないんですよ」
「結果オーライ!」
「過程が怖すぎです」
最初は本当に怖かったし、独房生活は普通に心臓に悪かった。
そんな俺を見て悠が少し困ったように笑う。
「でも、本当に良かったよ。玲奈さんかなり心配してたから」
「セキュリティに突き出したのは玲奈さんなのに……?」
思わず玲奈を見る。
玲奈は露骨に視線を逸らして、気まずそうに「あはは……」と笑った。
よく見てみると、笑う玲奈の目の下には隈が出来ていた。
髪も少し乱れていて、疲労が滲み出ている。
「社長、企業との交渉やセキュリティ側との調整、その他諸々でずっと働いていたんです」
蓮司が淡々と説明する。
「榊さんをASC管理下へ置くため、いつものように強引に話を通していましたね」
「強引なのはいつもなんですね」
「ええ」
即答だった。
玲奈が「言い方ぁ!」と抗議するが蓮司は構う様子はない。
「そもそも今回、榊さんの扱いを巡ってかなり他企業と揉めていましたから」
「……」
「榊さんを危険視する企業も多かったですし、逆に能力目当てで囲い込みたがる企業もありました」
その言葉に、車の中で聞いた話を思い出す。
ヴァルハラ、あの名前が出た瞬間の嫌な感覚が、まだ少し残っていた。
悠も少し真面目な顔になる。
「ヴァルハラまで動いてたのは、正直僕も驚いたよ。ブリッツの件で透也さんと関わるのは嫌がると思ってたから」
「まぁ、透也ちゃん強いし可愛いからね」
玲奈は腕を組みながら言う。
「絶対狙う企業出ると思ってたからちょっと裏技みたいな方法を使ったの」
「……裏技って、天城ホールディングスですか?」
そう呟いた瞬間、空気が少し止まった。
玲奈の表情が、僅かに固まる。
蓮司も小さく視線を逸らした。
悠だけが「あー……」と困ったような顔をしている。
なんだこの反応。
「もしかして、何か地雷でしたか……?」
恐る恐る聞くと、玲奈は数秒黙った後小さく息を吐いた。
「まぁ、ちょっとね」
歯切れが悪い。
いつもの玲奈らしくない。
そこで、不意に車の中でのことを思い出す。
黒いスーツの威圧感のある男。
そして。
『玲奈』
あの自然な呼び方。
「……もしかして」
気付けば口が動いていた。
「さっきの人、玲奈さんのご家族とかですか?」
そう言った瞬間、玲奈が固まる。
悠が視線を泳がせる。
蓮司が小さく眼鏡を押し上げた。
数秒後、玲奈は盛大に顔を顰めた。
「そうね。認めたくはないけど……」
玲奈の様子がいつもと違ってかなり冷たい事から、あのスーツの男のことを本気で嫌っていることが伝わってくる。
玲奈は「はぁ……」と深いため息を吐き、そのまま近くのソファへ倒れ込む。
「透也ちゃんには絶対会わせたくなかったけど、今回は頼らざるを得なかったから……」
「あの人のこと、そこまで嫌いなんですか?」
「ええ、嫌いよ」
即答だった。
かなり珍しい、玲奈って普段は大体のことを笑って流すのに、彼のことは本気で嫌そうだった。
そんな様子に悠が苦笑する。
「玲奈さん、お父さんとかなり仲悪いので……」
「ああ、親子だったんですね」
「悠」
「はい、ごめんなさい……」
悠は即座に黙った。
玲奈の雰囲気がいつもと違ってかなり怖い。
彼女はクッションへ顔を埋めながら、くぐもった声を出す。
「とにかく!」
勢いよく顔を上げた。
「もう終わった話! 今は透也ちゃん帰還祝い!」
雰囲気がいつもの玲奈に戻ったが、話題の変え方は少し強引だった。
多分、本当に触れられたくないんだろう、俺もそこには踏み込まないようにしよう。
そう考えて口を閉ざしたら、蓮司が代わりに静かに口を開いた。
「とりあえず、榊さん関連の正式な書類関係は後日届きます」
「あ、はい」
「榊さんは当面、ASCの元で保護観察対象という扱いになります」
蓮司はそのまま話を続ける。
「その代わり、セキュリティ側からの強制拘束権限は大幅に制限されました」
「え?」
「榊さんに関する実質的な権限はASCにあるとはいえ、表向きは天城ホールディングス管理下ですから」
玲奈がぼそっと呟く。
「流石にあそこ相手だと、セキュリティも強引には来れないのよね」
天城ホールディングス、たしか原作では少しだけ登場していた。
警備、医療、軍需、都市インフラを傘下に持つ巨大複合企業と原作で説明されていたが、苗字が同じ玲奈との関係性は俺が読んでいた最新話時点では明らかになっていなかった。
多分、想像している以上に重くて複雑な関係なんだろう。
普段の姿からは、全然そんな風に見えないのに。
玲奈の方へ視線を向けると彼女はソファへ身体を預けたまま、大きく息を吐いていた。
「……疲れたぁ」
完全に電池切れ寸前の声だった。
よく見ると、いつもよりかなり顔色が悪い。
「体調悪そうですね…」
「気にしないで。平気よ?」
「隈もできてるし、ちゃんと寝れてますか?」
「えっと、昨日いつのまにか気を失ってたから、ちゃんと寝れてはいるわ」
「それは気絶と言うんですよ」
蓮司が即座に突っ込む。
玲奈は「うぅ」と唸りながらクッションを抱き締めた。
「だって忙しかったんだもん……」
珍しく弱っている。
というか、多分本当に限界なんだろう。
悠が苦笑しながらペットボトルの水を差し出した。
「玲奈さん、とりあえず水飲んでください」
「悠ぅ……」
玲奈はぐでっとしたまま水を受け取る。
その様子を見ながら、ふと口が開いた。
「私のためにそこまでしてくれてたんですね」
気付けば、自然にそんな言葉が漏れていた。
玲奈はきょとんとした顔をしている。
本来なら、もっと酷い扱いになっていてもおかしくなかった。
それを玲奈は、ここまで状況を変えてくれた。
しかも、ASCへ残れる形で、どれだけ感謝しても足りないくらいだ。
玲奈は数秒だけこちらを見て、その後ふっと笑った。
「当たり前でしょ!」
軽い声だった。
「あなたはもう、うちの社員なんだから!」
その言葉に、少しだけ前世で勤めていたブラック企業を思い出して言葉が詰まる。
社員、そう呼ばれることにまだ少し慣れない。
玲奈はそんな俺を見ながら続けた。
「とりあえず透也ちゃん帰還祝いするわよ!」
「社長、そういうのは溜まった仕事を全て終わらせてからお願いします」
「うう……」
玲奈はびしっと指を差してくる。
「でも透也ちゃんの二日ぶりのASC復帰よ!?」
「二日しか経っていませんよ」
「二日も経ってるのよ!」
高めのテンションで話す玲奈を見て、悠がくすくす笑う。
蓮司は「社長が元気になってきましたね……」と少し疲れた顔をしていた。
だが、そのやり取りを見ていると、不思議と肩の力が抜けていく。
独房とは正反対だ。
人の声が絶えなくて、慌ただしくて、全然静かじゃない。
でも、誰かの声が聞こえる空間って、こんなに安心するものだったんだなと思う。
そんなことを考えていると、不意に悠がこちらを見る。
「透也さん」
「どうかしましたか……?」
「おかえりなさい」
穏やかな声だった。
たった一言。なのに、その言葉が妙に胸へ残った。
俺は少しだけ間を置いてから、小さく息を吐く。
なんだか胸の奥が少し暖かくなったような気がする。
「……ただいま」
気恥ずかしそうに、そう返すと悠は満足そうに笑った。
今まで読みやすさを意識して情報を小出しにしていたのですが、逆に小出しにしすぎて分かりづらい部分が増えてしまっていたようです。
次回からは物語のテンポを崩さない程度に、必要な説明はしっかり入れていけるように気をつけます。
それとたくさんの誤字報告ありがとうございます。本当にすごく助かっています。私の至らなさのせいでお手数をおかけして申し訳ないです……