TS転生失敗作ちゃんが頑張る話   作:cannolo

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次回から投稿頻度が落ちます。詳しくは活動報告をご覧ください。


15.巡回日和

 

湊とナオが帰ってから数日。

 

朝のASC事務所には、キーボードを叩く乾いた音と、掃除機の低い駆動音だけが静かに響いていた。

 

窓の外では朝の通勤ラッシュが続いている。

 

道路を埋める車列。横断歩道を足早に渡るスーツ姿の会社員。イヤホンを付けた学生達。ビル街を吹き抜ける風に混じって、遠くからは救急車のサイレンも微かに聞こえてきた。

 

だが、そんな街の喧騒も、この雑居ビルの四階まで届く頃には随分と薄れている。

 

ASC事務所の中は静かだった。

 

壁際には観葉植物。奥には簡易キッチン。中央へ置かれたローテーブルの周囲にはソファが並び、全体的に仕事場というより少し広めのリビングみたいな空気感がある。

 

「……よし」

 

掃除機の電源を切り、俺は小さく息を吐いた。

 

床には埃一つ落ちていない。ローテーブルも綺麗に拭いた。キッチン周りも片付けたし、シンクへ放置されていたマグカップも洗ってある。

 

ついでに、玲奈がソファへ放り投げていたブランケットも畳み直し、端へ寄せておいた。

 

ここ最近、こうして朝に掃除をするのが半ば日課になっていた。

 

最初は単純に落ち着かなかったのだ。

他人の生活空間へ入り込んでいる感覚が抜けなかったし、何よりここに居るのは、元々漫画の中で見ていたキャラクター達だった。

 

ページ越しに見ていた人間達が、今は同じ空間で普通に生活している。

その現実感の薄さに慣れるまでには、少し時間が掛かった。

 

だが今では、朝起きて掃除をして、玲奈が散らかした物を片付けて、蓮司の死にそうな顔を見る流れにもそれなりに馴染んできている。

 

「透也ちゃんって本当にマメよねぇ」

 

気の抜けた声が飛んできた。

 

振り返ると、玲奈がソファへ寝転がったままスマホを弄っていた。

長い水色の髪がだらりと床まで垂れ、片足はソファの背凭れへ引っ掛かっている。完全に寛ぎ切った姿勢だった。

しかもその周囲には雑誌、お菓子の袋、飲みかけのペットボトルが散乱している。

 

さっき片付けたばかりなのに、もう部屋が汚れ始めていた。

 

「私がマメなんじゃなくて、玲奈さんが散らかし過ぎなんですよ」

 

「透也ちゃん。私はね、自分の美的センスに従って芸術的に物を配置してるのよ」

 

玲奈はそう言いながらクッションを抱き締める。

その横には開きっぱなしの雑誌、空になったお菓子の袋、転がったペットボトル。

どう見ても配置ではなく放置だった。

 

「全く……せめてゴミくらいは自分で捨ててくださいね」

 

「はぁーい」

 

玲奈はけらけら笑いながら、再びソファへ沈み込む。

 

その奥では、蓮司が朝から仕事をしていた。

デスクの上には大量の書類。ノートPCの画面には細かな資料や数字が並んでいる。銀縁眼鏡の奥には薄く隈が浮かんでいて、見ているだけで胃が痛くなりそうな仕事量だった。

 

しかも、あれだけ作業しているのに手が止まらない。

 

キーボードを叩きながら別の書類へ目を通し、片手でコーヒーを飲み、そのまま次のデータを開く。動きに無駄が無さ過ぎて逆に怖い。

 

本当にこの人、いつ休んでるんだろうか。

 

そんなことを考えながら、俺はキッチンへ向かった。

棚からココアの箱を取り出し、マグカップへ粉を入れる。温めた牛乳を注ぎ、スプーンでゆっくり混ぜると、甘い香りがふわりと広がった。

 

その匂いに、少しだけ肩の力が抜ける。

 

その時だった。

 

不意に玲奈が「あ」と何かを思い出したような声を漏らした。

 

「そういえば透也ちゃん」

 

「はい?」

 

マグカップを手にしたまま振り返る。

玲奈はソファへ寝転がった姿勢のまま、こちらへ視線を向けていた。

 

「対異能序列って知ってる?」

 

「……序列、ですか?」

 

随分と唐突な話題だった。

 

そういえば原作にもあったな、とぼんやり思い出す。

 

能力者やヒーローへ順位を付ける制度。

作中でも名前自体は何度も登場していたが、基本的には世界観説明程度で流されることが多く、細かな仕組みまではあまり描写されていなかった。

 

俺が知っている情報もかなり断片的だ。

強いヒーローほど順位が高いこと。スポンサーや世論の影響を受けること。そして、順位自体は明言されていないものの、悠の順位が異様に低いと原作で言われていたことくらいだ。

 

玲奈はそんな俺の反応を気にした様子もなく、クッションへ顎を乗せたまま続ける。

 

「透也ちゃんって、知識が妙に偏ってるのよねぇ」

 

その言葉には思わず苦笑したくなった。

 

実際その通りだ。

原作知識として知っていることは多い。だが逆に、“この世界の常識”として皆が当たり前に知っている部分が抜け落ちていることもある。

 

玲奈はゆっくり身体を起こしながら続けた。

 

「まぁ簡単に言えば、今の序列ってヒーローランキングみたいなものよ」

 

「ランキング」

 

「そう!」

 

玲奈はぱっと指を立てる。

 

「昔は危険なイデア保持者を管理するための制度だったらしいんだけど、ヒーローが表舞台へ出るようになってから少しずつ形が変わったの。今は知名度とか人気、スポンサー評価なんかもかなり影響するわね」

 

「タレントみたいなものですか?」

 

「そんな感じ!」

 

玲奈は満足そうに頷いた。

その拍子に、長い水色の髪が肩からさらりと滑り落ちる。

 

「テレビ出演とか広告契約とか、企業コラボもあるし。上位ヒーローなんて下手な芸能人より有名だったりするわよ」

 

「ヒーローも人気商売ってことですね」

 

「夢が無い言い方するじゃない」

 

玲奈は少しだけ唇を尖らせた。

俺はそこで、小さく眉を寄せる。

 

「……でも、なんで急にそんな話を?」

 

マグカップを持ったままそう尋ねる。

玲奈は一瞬だけ目を丸くした後、ソファの背凭れへ身体を預けた。

 

「んー……」

 

少し考えるように視線を上へ向けてから、ふっと笑う。

 

「透也ちゃんにはね、ゆくゆくはヒーローとして活動して欲しいと思ってるの!」

 

「えっ、嫌ですけど」

 

「嫌なの!?」

 

あまりにも自然に即答したせいで、玲奈の動きがぴたりと止まる。

そのまま、信じられないものを見るみたいな顔でこちらを見つめてきた。

 

「まぁ、なるかならないかは置いといて、透也ちゃん強いし序列もすぐ上がると思うのよねぇ」

 

俺は思わず視線を逸らした。

 

別に、ヒーローという存在そのものが嫌いなわけじゃない。

前世では漫画を読みながら、「もし自分がこんな世界へ転生して、特別な力を手に入れたら」なんて妄想をしたことだって何度もあった。

 

誰かを救う側になって、圧倒的な力で敵を倒して、歓声を浴びる。そんな都合の良い空想へ胸を躍らせていた時期も確かにある。

 

だが、実際に転生し、本当に異能の力を手に入れてみれば、待っていたのは高揚感ばかりではなかった。

むしろ、自分の不甲斐なさを思い知らされる場面の方が圧倒的に多い。

 

命懸けの戦いの中では、自分の判断の甘さや未熟さばかりが目についた。力を持っていても、結局は上手く立ち回れず、誰かに助けられている。

 

正直、自分がヒーローに向いているとも思えなかった。

人助けそのものが嫌なわけではない。困っている人間を見れば放っておけないし、助けられるなら助けたいとも思う。

けれど、多くの人間の期待を背負い、その象徴みたいに立ち続けられる人間かと言われれば、到底そんな気はしなかった。

 

強さに関しても同じだ。

俺はこの世界へ来てから、既に何度か死にかけている。

あと少し運が悪ければ終わっていた場面なんて、一度や二度じゃない。

そんな経験を繰り返してきたせいか、誰かに「強い」と言われても実感が湧かなかった。

むしろ、自分の中には無力感の方が深く残っている。

 

玲奈は、そんな俺の内心など気にも留めない様子で話を続ける。

 

「それに透也ちゃん、どうせこれから色んなことに首突っ込む事になるでしょ?」

 

「突っ込みたくはないんですけど、そういう訳にもいかないですからね」

 

「だったら最初からちゃんとした立場があった方が動きやすいでしょ」

 

そう言いながら、玲奈はソファの上で足を組み直した。

 

「高順位ヒーローって、国から色々な権限が与えられてるのよ」

 

「権限?」

 

「機密情報の閲覧許可とか、特殊事件への調査参加権とか!」

 

その言葉に、自然と表情が固まった。

 

脳裏へ浮かぶのは、ヘリオスの名前だった。

 

玲奈はそんな俺の反応を見ながら、小さく頷く。

 

「ヘリオスみたいな情報の少ない組織って、国家側が危険視してるケースも多いの。下手に一般人や低ランク能力者が首を突っ込まないように、かなり情報規制されてたりするのよね」

 

「規制、ですか」

 

「ええ。一般公開されてない事件記録とか、研究施設関連のデータとか、そういうのも結構あるわ」

 

玲奈の声音から、いつもの軽薄さが少し消えていた。

 

その瞬間だけ、“ヘリオス”という存在が妙に現実味を帯びる。

 

事務所の中へ、一瞬だけ静かな空気が落ちた。

 

窓の外からは車の走行音が微かに聞こえている。だが今は、それすら遠く感じた。

俺はマグカップを持ったまま視線を落とす。

白い湯気がゆっくり揺れていた。

 

ヘリオス。

 

その名前を聞くだけで、今でも胸の奥が僅かにざわつく。

原作知識として知っている存在。

だが今はもう、漫画の中で暗躍していた敵組織なんて遠い立場じゃない。現実として、俺達のすぐ近くに存在している脅威だ。

 

玲奈はそんな俺の様子を見ながら、小さく肩を竦める。

 

「まぁ、今すぐどうこうって話じゃないけどね」

 

さっきまでの空気を流すように、玲奈は再びソファへだらりと背中を預けた。

 

「でも透也ちゃん強いし、資格取って正式登録したらすぐ上行くと思うのよねぇ」

 

「……そんな簡単なものなんですか」

 

「強い人は割とすぐ上がるわよ? まぁ人気とかスポンサーとかも必要だけど」

 

玲奈はそこで「あ」と何かを思い出したように笑う。

 

「でも悠は例外ね。実力はあっても人気とか序列に全然興味ないもの」

 

その瞬間だった。

 

事務所の扉が開く。

 

「おはようございます」

 

聞き慣れた声がして振り返ると、悠がコンビニ袋を片手に立っていた。

 

白いシャツの上から黒いパーカーを羽織ったラフな格好。少し跳ねた茶髪には寝癖が残っていて、世間一般が想像するヒーローらしさとはかなり遠い。

 

だが不思議と、悠が入ってきた瞬間だけ事務所の空気が少し柔らかくなる。

悠自身は特別何かしているわけじゃない。

ただ自然体でそこに居るだけなのに、妙な安心感があった。

 

「おはよう、悠!」

 

玲奈がソファの上からぶんぶん手を振る。

悠は苦笑しながら、そのまま事務所へ上がってきた。

 

「玲奈さん、また透也さんに変なこと吹き込んでるの?」

 

「失礼ね! ちゃんと真面目な話よ!」

 

悠は笑いながら、コンビニ袋をテーブルへ置く。

中から飲み物や軽食を取り出し、冷蔵庫へ入れていく動作には妙な慣れがあった。

完全に生活の一部になっている。

 

「はい、玲奈さん。頼まれてたコーラ」

 

「ありがと〜!」

 

「透也さんの分もあるよ。今飲む?」

 

「あ、後でいただきます」

 

玲奈はソファへ寝転がったまま腕だけ伸ばして缶を受け取る。

本当に酷い受け取り方だった。

だが悠ももう慣れているのか、特に何も言わない。

そのまま「蓮司さんのコーヒーもありますよ」と声を掛けながら冷蔵庫を閉める。

 

「ありがとうございます」

 

蓮司は画面から視線を外さないまま答えた。

この人達、本当に妙な距離感だなと思う。

家族みたいに気安い癖に、ちゃんと組織として成立している。

そんな空気を眺めていると、不意にさっきの話題を思い出した。

 

「そういえば悠さんって、今序列は何位くらいなんですか」

 

その瞬間だった。

玲奈と蓮司の動きがぴたりと止まる。

空気が妙に静かになった。

悠本人だけが「ん?」と不思議そうにこちらを見る。

 

玲奈は視線を逸らしながら、小さく答えた。

 

「……二十四万くらい」

 

「……はい?」

 

思わず聞き返した。

 

頭の中で数字を反芻する。

何人中の二十四万位なのかは分からないが、低過ぎる。

覚醒した湊を相手にして勝利するくらい強い人間の順位じゃない。

 

「随分と低いですね……」

 

気付けば真顔でそう言っていた。

事務所の空気が一瞬止まる。

 

次の瞬間、玲奈が盛大に吹き出した。

 

「でしょ!? 私もずっとそう思ってるのよ!」

 

ソファをばんばん叩きながら笑っている。

コーラを零しそうな勢いだった。

悠はそんな玲奈を見ながら、困ったように頭を掻く。

 

「流石にそこまで笑われると、ちょっと傷付くかな……」

 

「どうしてそんな低い順位になったんですか?」

 

思わずそう聞き返す。

悠の実力は実際に見ている。少なくとも、二十四万位台へ収まるような人間じゃない。

 

俺の質問を聞いた蓮司は、静かに眼鏡を押し上げた。

 

「悠さんはヴィラン討伐実績より、救助活動を優先していますから。メディアへの露出もありません」

 

「あとは営業とかもしないのよねぇ」

 

玲奈が呆れたように続ける。

 

「スポンサーも全然つかないし」

 

「別に必要ないから……」

 

悠は苦笑しながらペットボトルのキャップを開けた。

その様子には、順位への執着がほとんど見えない。

 

「必要あるの!」

 

玲奈が勢いよく立ち上がる。

水色の髪がふわりと揺れ、コーラの缶を片手にそのまま悠へ指を突き付けた。

 

「悠はもっと世間へアピールするべきなの! 絶対今の順位おかしいんだから!」

 

「別に順位上げるためにヒーローやってる訳じゃないし……」

 

「そういうところよ!」

 

玲奈はむっと頬を膨らませる。

悠はそれ以上反論せず、小さく肩を竦めるだけだった。

その様子を見ながら、俺は何となく理解する。

悠は、本当に順位そのものへ興味が無いのだ。

ランキングやスポンサーのためではなく、もっと別の感覚でヒーローをやっている。

 

だからこそ、玲奈は焦っているのかもしれなかった。

 

「まぁでも、ヒーローになるにしてもならないにしても、一回実際に見てみた方が良いと思うわ」

 

玲奈がふと思い出したように言う。

 

「透也ちゃん、今日は悠と一緒に巡回行ってきなさい!」

 

「巡回ですか?」

 

玲奈は満面の笑みで頷く。

 

「そう! ついでにヒーロー活動の空気も覚えてきなさい!」

 

悠は少しだけ困ったようにこちらを見る。

 

「別にそんな面白いものじゃないと思うけど……」

 

「だから良いのよ!」

 

玲奈は楽しそうに笑った。

 

「透也ちゃん、絶対ヒーロー活動ってもっと派手で危険なもの想像してるもの!」

 

ヴィランと戦う仕事なのだから、派手で危険なのは当然ではないだろうか。

俺の中にあるヒーロー活動のイメージなんて、戦闘や事件対応ばかりだ。

正直、巡回なんて地味な仕事をしている姿はあまり想像出来ない。

 

悠は少し考えるように視線を彷徨わせた後、小さく笑った。

 

「まぁ……嫌じゃなければ、一緒に来る?」

 

断る理由も無かった。

 

「……行きます」

 

そう返すと、玲奈が満足そうに頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ASCを出た頃には、昼前の街はすっかり人通りが増えていた。

 

駅前では買い物袋を提げた主婦達が行き交い、通学中らしい学生達が笑いながら横断歩道を渡っていく。

大型モニターには企業広告が流れ、街頭スピーカーからは新作ゲームとヒーローのコラボイベントの宣伝が聞こえていた。

 

平和だ。少なくとも、俺が想像していたヒーロー活動よりはずっと。

 

「とりあえず今日は、このまま巡回かな」

 

隣を歩く悠が端末画面を確認しながら言う。

悠は既にヒーロースーツへ着替えていた。

白を基調にした装甲型スーツ。胸部や腕部には淡い緑色のラインが走っていて、光の加減で薄く発光して見える。

全体的に細身で、重装甲というより機動性を重視した設計らしかった。

前に見た時より傷が少ない気がするし、装甲も少し増えている。新調したのだろうか。

 

マスク越しで表情は見えない。だが、声色だけは普段と変わらず穏やかだった。

 

「……巡回って、具体的に何するんですか」

 

「んー、歩きながらその辺の様子見て回る感じ?」

 

「すごくふわっとしてますね……」

 

マスク越しに、小さく笑った気配がした。

 

「でも実際そんな感じなんだよね。巡回中に困ってる人居たら話聞いたり、ヴィランがいたら無力化したり」

 

そう言いながら、悠は駅前通りをゆっくり歩いていく。

 

スーツ姿なだけあって流石に目立つ。通行人がちらちらこちらを見ていた。

とはいえ、ランキング上位ヒーローみたいに騒がれる訳でもない。

 

「あ、ヒーローだ」

 

その程度の反応だ。

実際、悠へ気付いてもヒーロー名までは出てこない人間の方が多いらしい。

 

俺はふと周囲へ視線を巡らせた。

この世界へ来てから、何度も危険な相手と戦った。

原作の中だけだった危険が、今では現実としてすぐ隣にある。

だから街を歩いていても、無意識に周囲を観察してしまう癖が付いていた。

だが少なくとも今は、そんな緊張が馬鹿らしくなるくらい平和だった。

 

その時だった。

 

「あ……」

 

悠が不意に足を止める。

 

彼の視線の先を見ると、歩道脇で小学生くらいの男の子がしゃがみ込んでいた。

大きなリュックを背負ったまま、植え込みの下を必死に覗き込んでいる。

 

何か探しているらしい。

悠は自然な足取りでそちらへ向かった。

 

「どうしたの?」

 

声を掛けられた男の子が、びくりと肩を揺らす。

振り返った視線が悠のスーツ姿を見て、少しだけ目を丸くした。

 

「あ……ヒーロー」

 

「うん、そうだよ。何か困ってるなら力になるよ」

 

悠は男の子へ目線を合わせるようにしゃがみ込む。

男の子は少し迷った後、小さな声で答えた。

 

「猫……」

 

「猫?」

 

「飼ってる猫が帰ってこなくて……」

 

そこで男の子は、不安そうに制服の裾を握り締めた。

 

「昨日から、ずっと探してるんだけど……」

 

掠れた声だった。

 

眠れていないのか、目元は少し赤い。リュックの肩紐を抱え込むみたいに掴んでいる姿を見る限り、本当に必死で探し回っていたのだろう。

 

悠の声が、僅かに柔らかくなる。

 

「そっか」

 

短い相槌だったが、不思議と相手を安心させる響きがあった。

 

「どんな猫か教えてくれる?」

 

悠は急かさない。

事情聴取というより、怯えた子供を落ち着かせるような話し方だった。

男の子は慌てた様子でリュックを下ろし、前ポケットを漁り始める。中から取り出したのは、少し端の折れた写真だった。

 

そこに写っていたのは、白と茶色の毛並みをした猫だった。

丸い目をこちらへ向けながら、窓際で寝転がっている。

普通に可愛い猫だ。

 

「“破壊将軍デストロイヤーXX二世”っていうの……」

 

「……」

 

思考が止まった。

 

いや、待ってほしい。名前の情報量が多すぎる。

猫へ付ける名前じゃないだろ。名付けの時誰か止めなかったのか。

しかも“二世”ってなんだ。初代が居たのか?

 

脳内で大量のツッコミが渋滞している横で、悠は一切表情を変えなかった。

 

「可愛い猫だね」

 

すごいなこの人。俺だったら絶対最初に名前へ突っ込んでいる。

悠の穏やかな返事が嬉しかったのか、男の子はぱっと顔を明るくした。

 

「うん!デストロイヤー、火も吐けるし!」

 

「……火?」

 

思わず聞き返す。男の子は当然みたいに何度も頷いた。

 

「怒ると火ぃ出るの!」

 

その無邪気な声とは裏腹に、内容が全然可愛くない。

俺の脳裏へ、住宅街を燃やしながら暴走する猫の映像が浮かぶ。

 

悠も流石に少しだけ黙った。

 

バイザー越しだから表情は見えない。

だが空気で分かる。今、悠は頭の中で危険度を計算しているのだろう。

 

「それって、イデア持ちの猫ってこと?」

 

悠は慎重に確認するように尋ねた。

 

「危なくないかな」

 

「ママが可愛いから大丈夫って!」

 

それは大丈夫判定になるのだろうか。いや、ならない気がする。

少なくとも“火を吐く”時点で一般的な猫の枠からは完全に逸脱している。

悠は少し考え込むように顎へ手を当てた後、いつもの落ち着いた声へ戻った。

 

「最後に見た場所って覚えてる?」

 

「えっと、公園!」

 

男の子は勢いよく頷く。

 

「家の近くの!」

 

「分かった。じゃあ、とりあえずそこから探してみるね」

 

その瞬間、男の子の表情が目に見えて明るくなった。

 

「ほんと!?」

 

「うん。でも君一人で探すのは危ないから、お家の人にはちゃんと連絡してね」

 

「……うん!」

 

男の子は力強く頷くと、そのまま駆けていった。

小さな背中が人混みの向こうへ消えていく。

その姿を見送りながら、俺はゆっくり息を吐いた。

 

「……急に危険度上がりましたね」

 

「まぁ、火を吐くなら放置は出来ないかな」

 

悠は写真を見下ろしながら呟く。

その声音は相変わらず穏やかだったが、視線だけは僅かに真剣だった。

 

「猫だからそこまで大規模にはならないと思うけど」

 

「問題はそこじゃない気がするんですが」

 

破壊将軍デストロイヤーXX二世。

名前からして不穏だったが、まさか本当に火を吐くとは思わなかった。

火力次第では本当にデストロイされるのではないだろうか。

 

悠はそんな俺の反応を見て、小さく笑う。

 

「ちょっとヒーローっぽい案件になったね」

 

「私はこのまま平和な巡回で終わってほしかったです……」

 

そう言いながら、俺達は公園の方へ歩き出した。

 

昼前の住宅街は穏やかだった。

 

公園では小さな子供達が遊具で遊び、ベンチでは老人達が談笑している。風に揺れる木々の葉擦れと、遠くを走る車の走行音が静かに混ざり合っていた。

 

だが、そんな平和な景色の中へ“火を吐く猫”という単語だけが妙に浮いている。

 

結局、猫はすぐには見つからなかった。

 

公園の植え込みの下、遊具の裏、砂場の周辺。

それらしい場所を一通り確認しても姿は無い。

悠はそのまま近隣住民への聞き込みまで始めた。

 

「白と茶色の猫見ませんでしたか? 口から火吐くらしいんですけど」

 

「えぇ、何その猫。怖……」

 

当然そんな反応になる。

 

俺達はそのまま住宅街を歩き回った。

細い路地裏。商店街の裏手。駐車場の隙間。ゴミ捨て場の近く。

猫が入り込みそうな場所を片っ端から確認していく。

 

途中、焦げ跡の付いたゴミ袋を見つけたり、ベランダへ干してあったタオルの端が不自然に焼け焦げていたりと、それらしい痕跡はいくつか見つかった。

だが、肝心の猫の姿だけが見当たらない。

 

「うーん……結構移動してそうですね」

 

昼過ぎ。

 

自販機の前でお茶を飲みながら、俺は小さく呟いた。

数時間歩き回ったせいで普通に疲れている。

じわりと汗が滲み、足にも鈍い疲労感が溜まっていた。

 

対して悠は、ヒーロースーツ姿のままなのにそこまで疲れた様子を見せていない。

 

「まぁ猫だしね」

 

悠はベンチへ腰掛けながら答える。

白い装甲へ昼の日差しが反射し、淡い緑色のラインが微かに光って見えた。

 

「……ヒーロー活動って、もっとこう、事件解決とか戦闘メインだと思ってました」

 

「それもあるけど、毎日そんな大事件起きる訳じゃないからね」

 

悠はペットボトルを軽く揺らしながら続ける。

 

「他のヒーローがどうかは知らないけど、僕の場合はこういう細かい相談の方が多いかな。道案内とか落とし物とか」

 

「あとは迷い猫探しですか?」

 

「そうだね。まぁ、火を吐くのは初めてだけど」

 

困ったような笑い声が返ってくる。

俺は自販機へ背中を預けながら空を見上げた。

雲一つ無い青空だった。

こんな穏やかな日なのだから、火を吐く危険な猫探しなんて早く終わってほしい。

 

そんなことを考えていた時だった。

 

「──にゃあぁぁぁぁッ!!」

 

遠くから、甲高い鳴き声が響いた。

 

次の瞬間。

 

ボンッ、と腹へ響くような破裂音が住宅街の向こう側から響いた。

 

反射的に視線を向ける。

建物と建物の隙間。その奥で、オレンジ色の火が一瞬だけ噴き上がった。

昼間の穏やかな景色にはあまりにも不釣り合いな光だった。

 

「……」

 

「……」

 

俺と悠の間へ、短い沈黙が落ちる。

 

風に乗って、焦げた臭いが微かに漂ってきた。

ビニールか何かが焼けたような、鼻に張り付く嫌な匂いだ。

 

「いましたね」

 

「いたね。行こうか」

 

悠がゆっくり立ち上がる。

 

さっきまでベンチへ腰掛けて休憩していた空気が、一瞬で消えていた。

緩んでいた雰囲気が静かに引き締まっていく。

 

次の瞬間には、もう駆け出していた。

アスファルトを蹴る音が乾いた住宅街へ鋭く響く。

白いスーツの背中が視界を横切り、そのまま細い路地の奥へ消えていった。

 

俺も慌てて後を追う。

 

住宅街の道幅は狭い。

電柱。路肩へ停められた軽自動車。積み上げられたゴミ袋。曲がり角の多い生活道路が視界を細かく遮り、走る度に景色が目まぐるしく切り替わっていく。

 

角を曲がった瞬間、熱気が肌を撫でた。焦げ臭さが一気に強くなる。

その先では、近所の主婦らしき女性達が慌てた様子で避難していた。

 

「あっち! あっちに変な猫が!」

 

「急に火ぃ吹いたのよ!」

 

「植木燃えかけてて……!」

 

女性達の声が重なる。

 

視線の先。路地の奥、倒れたゴミ箱の上に一匹の猫が乗っていた。

 

白と茶色の毛並み。写真で見た通りの猫だ。

だが問題は、その周囲だった。

 

焦げた段ボール。熱で縮れたビニール袋。黒く煤けたコンクリート。

既に軽く被害が出ている。

 

「フシャァァァッ!!」

 

猫が背中の毛を逆立てながら威嚇する。同時に、口元から火花が散った。

赤熱した火の粉が宙へ弾け、次の瞬間には小さな炎が吹き出す。

熱で空気が揺らぎ、狭い路地の温度が一気に上がった。

 

「デストロイヤーって名前、案外似合ってるかもしれませんね……」

 

「猫にその名前が似合う状況なのは、ちょっと嫌だけどね……」

 

悠は苦笑しながらも、視線は猫から外さない。

足音を殺すように、ゆっくり距離を詰めていく。

さっきまでの穏やかな雰囲気とは違う。

静かなまま、意識だけが鋭く研ぎ澄まされていた。

猫もそれを感じ取っているのか、細くなった瞳で悠を睨み付けている。

火花みたいな火の粉が周囲へ散り、熱を帯びた空気が微かに揺らめいていた。

 

「透也さん、ここは僕に任せて」

 

悠は猫から視線を外さないまま、静かな声でそう言った。

穏やかな口調だったが、その空気は先程までとは明らかに違っている。

普段の悠はどこか気の抜けた柔らかさがある。だが今は、余計な力みこそ無いものの、全身の意識が目の前の状況へ研ぎ澄まされていた。

 

狭い路地だった。

 

左右を住宅の外壁へ挟まれ、逃げ場も少ない。電線の影が細長く地面へ落ち、倒れたゴミ箱の周囲には黒く煤けた跡が広がっている。

もしここで本格的に炎が広がれば、近くの植木や積まれた段ボールへ燃え移る可能性だって十分あるだろう。

熱を帯びた空気がじっとりと肌へ張り付き、焦げ臭い匂いが鼻の奥へ残る。

 

「悠さんが黒焦げになりそうだったら消火しますね」

 

緊張感を誤魔化すようにそう返すと、悠は小さく苦笑した。

 

「……その時はお願いするよ」

 

こんな状況でも、少し笑える余裕がある辺りがこの人らしい。

 

猫はゴミ箱の上で身体を低くしながら、こちらを威嚇するように唸っていた。

白と茶色の毛並みは逆立ち、細くなった瞳孔がぎらついている。小さな身体の周囲では火花みたいな火の粉がぱちぱちと散り、熱で空気が揺らめいて見えた。

 

猫一匹相手のはずなのに、路地には妙な緊張感が漂っている。

その時、不意に猫がこちらへ顔を向けた。口元が赤く光る。

 

次の瞬間、熱気が一気に膨れ上がった。

 

火を吐く。そう理解した時には、悠が既に踏み込んでいた。

 

乾いた足音が短く響いた直後、突風みたいな風圧が狭い路地を吹き抜ける。

猫の口元から放たれかけた炎が横へ流され、赤い火の粉だけが宙へ散った。

熱で揺れていた空気が、一瞬だけ掻き乱される。

 

速い。そう認識する頃には、悠の姿は既に猫の目前まで迫っていた。

 

「ごめんね。ちょっとだけ大人しくしてて」

 

宥めるみたいな声と同時に、悠の腕が伸びる。

猫は「フシャァァァッ!!」と激しく威嚇しながら再び火を吐こうと口を開いたが、その前にひょいと身体を抱え上げられていた。

 

「ニャアアアアッ!!」

 

腕の中で猫が暴れる。

 

尻尾を激しく振り回し、前脚を空中へ突き出しながら火花を散らす。普通なら引っ掻かれてもおかしくない暴れ方だったが、悠はまるで慣れた手付きで猫の身体を支えていた。

片腕でしっかりと重心を固定しながら、もう片方の手で頭を軽く撫でる。

 

「はいはい、大丈夫だからね」

 

その声には、不思議と相手を落ち着かせる響きがあった。

暴れていた猫も、完全ではないにせよ、さっきよりは幾分動きが弱まっている。

 

「……慣れてますね」

 

思わずそう呟くと、悠は困ったように笑った。

 

「動物保護の依頼って意外と多いんだよね」

 

さらりと返しているが、普通の慣れ方ではない気がする。

火を吐く猫を抱えたまま平然としている辺り、この人の感覚は多分ちょっと麻痺している。

 

それでも、そんな光景を見ていると、どこか拍子抜けするような感覚があった。

もっと派手で、もっと危険で、命を懸けるようなものを想像していたからだ。

もちろん実際には危険なのだろう。少し状況を間違えれば火事になっていてもおかしくなかった。

だが目の前で行われているのは、世界を救う戦いなんかじゃない。

 

迷子になった猫を捕まえて、住民を安心させるための騒動だ。

 

「なんか、思ってたより平和ですね」

 

そう口にすると、悠が小さく笑った気配がした。

マスク越しだから表情は見えない。

けれど声音だけで、少し笑ったのだと分かる。

 

「まぁ、大体いつもこんな感じかな」

 

その時だった。

 

「デストロイヤーーーッ!!」

 

遠くから元気な叫び声が響いた。

振り返ると、さっきの男の子がこちらへ向かって全力で走ってきている。

額には汗が滲み、息も上がっていたが、その表情は期待でいっぱいだった。

悠の腕の中に居る猫を見つけた瞬間、その顔がぱっと明るくなる。

 

「いたぁ!!」

 

「無事見つかったよ」

 

悠はしゃがみ込みながら猫を渡した。

男の子は泣きそうな顔で猫を抱き締める。

本気で心配していたのだろう。その小さな腕へ力が入っているのが遠目にも分かった。

 

「よかったぁ……!」

 

安心し切った声だった。

 

だが、その直後。

 

「ニャッ!」

 

猫の口元から小さな炎が噴き出した。

ぼっ、と短く火が散り、男の子の前髪の先端が少しだけ焦げる。

 

「うわっ!?」

 

「デストロイヤー!?」

 

周囲が一気に騒がしくなる。

 

焦げ臭い匂いがふわりと広がり、悠は慌てて火を消しながら男の子の様子を確認していた。

その光景を見ているうちに、俺は思わず吹き出してしまう。

 

命懸けの戦闘でもない。

 

世界を揺るがす陰謀でもない。

 

ただ、火を吐く猫を追い掛け回していただけだ。

 

なのに妙に騒がしくて、どこか馬鹿馬鹿しくて、少しだけ笑えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫騒動が落ち着いた後も、巡回はそのまま続いた。

 

とはいえ、その後に起きたのは命懸けの戦闘でも大規模ヴィラン事件でもない。

 

駅前で道に迷っていた外国人観光客を案内して、転んで泣き出した子供を宥めて、落とし物センターの場所をおばあさんへ聞かれたくらいだ。

 

拍子抜けするほど平和だった。

 

夕方前。

 

駅前広場のベンチへ腰掛けながら、俺はゆっくり息を吐く。

 

昼間より少し気温が落ち始めたとはいえ、歩き回った疲労はしっかり身体へ溜まっていた。足にはじわじわ重さが残っているし、喉も少し乾いている。

 

だが隣へ座る悠は、ヒーロースーツ姿のままなのにそこまで疲れた様子を見せていなかった。

夕陽が薄く反射して淡いオレンジ色へ染まったスーツは、昼間より少し柔らかい印象に見えた。

 

「……本当にこういうのばっかなんですね」

 

ぽつりと零す。

 

俺の中にあったヒーロー像は、もっと派手だった。

ヴィランとの戦闘。ビル街での大規模戦。ニュースで流れるような異能犯罪への対応。

そういう非日常の塊みたいなものを想像していた。

だが実際に今日一日見てきた悠の仕事は、道案内に迷子対応、それから火を吐く猫探しだ。

 

もちろん危険が無かったわけではない。

だが少なくとも、俺が考えていた“ヒーロー”とはかなり違っていた。

 

「まぁ、今日は特に平和な方かな」

 

悠はそう言いながら、ペットボトルへストローを差し込む。

そのままマスクの口元にある小さな隙間へ器用に差し込み、飲み物を飲み始めた。

改めて見ると凄い構造だなと思う。

 

駅前では、仕事帰りらしい会社員達が足早に横断歩道を渡っていく。

大型モニターには夕方のニュース番組が流れていて、ランキング上位ヒーローの特集映像が映し出されていた。

崩壊した建物。派手な戦闘映像。インタビューを受ける人気ヒーロー。

画面の中に居る彼らは、まさしく世間が想像する“ヒーロー”そのものだった。

 

だが、今日一日俺が見ていた悠は、そのどれとも違う。

困っている人へ声を掛けて、迷子を探して、住民と雑談しながら街を歩いている。

どちらかと言えば、地域の世話役みたいな空気の方が近かった。

 

「退屈だった?」

 

不意に悠がこちらを見る。

 

俺は少しだけ考えてから、首を横へ振った。

 

「いえ……」

 

少なくとも退屈ではなかった。

悠は困っている人を見付けると、ほとんど反射みたいに足を止める。

子供相手でも、老人相手でも態度が変わらない。

特別格好付けるわけでもなく、当たり前みたいに助けている。

それが一番不思議だった。

 

「悠さんって」

 

「ん?」

 

「……なんでヒーローやってるんですか?」

 

気付けば、そんな言葉が口から出ていた。

 

悠は少しだけ黙る。

夕陽に染まった駅前をぼんやり見つめながら、小さく息を吐いた。

 

「なんで、かぁ」

 

その声音には、迷いというより考え込むような響きがあった。

 

「……実は大した理由ないんだよね」

 

「え……?」

 

思わず聞き返す。

もっとこう、“誰かを救いたいから”とか、“正義のため”みたいな答えが返ってくるものだと思っていた。

 

悠は苦笑しながら肩を竦める。

 

「ヒーローになったの、結構成り行きなんだ。別に最初から絶対ヒーローになりたかったって訳でもないし、普通にセキュリティとかでも良かったし」

 

その言葉には妙な実感があった。格好付けている感じがしない。

多分、本当にそうなのだろう。

 

「周りの期待に応えようとしてたら、いつの間にかヒーローになってたって感じかな」

 

派手な人気ヒーローみたいな華やかさは無い。

ランキングも低い。世間的に見れば、きっと無名に近い存在なのだろう。

それでも今日一日、この街を歩いていて、悠へ手を振る人間は少なくなかった。

名前は知らなくても、“あのヒーロー”として覚えている人は確かに居る。

 

「でも」

 

悠はそこで少しだけ言葉を止める。

駅前を歩いていく親子連れへ視線を向けながら、穏やかな声で続けた。

 

「助けた人に“ありがとう”って言われるのは、嫌いじゃないかな」

 

「……」

 

「それだけで、ヒーローやってて良かったって思えるし」

 

その声は静かだった。

大層な理想を語っているわけじゃない。

ただ、本当に当たり前の感覚として言っている。

 

俺は少しだけ視線を落とした。

 

正直、理解出来ないわけじゃなかった。

前世でも、誰かに感謝されるのは嫌いじゃなかった。

自分が誰かの役に立てたと思える瞬間は普通に嬉しい。

 

けれど、それを人生を懸ける理由に出来るかと言われれば、まだよく分からない。

俺はまだ、そこまで割り切れない。

 

その時だった。

 

「あっ、見つけた!ブレイバー!」

 

小さな声が飛んでくる。

 

振り返ると、先程の男の子がこちらへ駆け寄ってきていた。

両手で袋を抱えながら、こちらへ向かって一直線に走ってくる。

 

悠は「あれ」と少し驚いたような声を漏らした。

男の子は悠の前まで来ると、勢いよく紙袋を差し出す。

中には大量のお菓子が詰め込まれていた。

 

「あの、これ!」

 

息を弾ませながら、男の子は袋をぐいっと差し出した。

走ってきたばかりなのだろう。額には汗が滲み、肩も小さく上下している。それでも表情だけは明るかった。

悠は少し戸惑ったように目を瞬かせる。

 

「え?」

 

「助けてくれたから!」

 

紙袋の中には、駄菓子やスナック菓子がぎっしり詰め込まれていた。

家から慌てて持ってきたのか、袋の中身には統一感が無い。チョコ菓子の箱や飴、それから小袋のスナックまで無造作に押し込まれている。

多分、男の子なりに一生懸命選んだのだろう。

 

悠は困ったように固まっていた。

フルフェイスのマスク越しだから表情は見えない。それでも空気だけで分かる。

彼はこういう“真正面からの好意”への反応に慣れていないのだろう。

 

「いや、そんな気にしなくて良いよ」

 

悠は苦笑しながら手を軽く振る。

だが男の子は引かなかった。

 

「これ、お礼だからもらって!」

 

両手で抱えるみたいに袋を押し付ける。

その必死さに、悠は数秒だけ言葉を詰まらせた後、小さく肩を落とした。

 

「……じゃあ、ひとつだけ貰おうかな」

 

その返事を聞いた瞬間、男の子の顔がぱっと明るくなる。

 

「うん!」

 

袋の中を覗き込みながら、悠は少し迷うように手を止めた後、小さな飴をひとつ取り出した。

 

「ありがとう」

 

「うん!」

 

男の子は満足そうに何度も頷く。

そのまま母親らしき女性に呼ばれ、ぶんぶん手を振りながら走っていった。

夕陽の差し込む駅前を、小さな背中が人混みの向こうへ消えていく。

悠は受け取った飴をしばらく見下ろしていた。

オレンジ色の光を反射して、透明な包装紙がきらりと光る。

 

「……食べないんですか」

 

そう聞くと、悠は少し困ったように笑った。

 

「マスクあるからね」

 

「あぁ、なるほど……」

 

確かに無理だ。フルフェイス型なので普通に食べられない。

俺は少しだけ笑いながら、悠が差し出してきた飴を受け取った。

包装紙越しに感じる小さな感触が妙に軽い。

 

「……人気無いって言われてる割には、ちゃんと覚えられてるんですね」

 

そう口にすると、悠は少しだけ肩を竦めた。

 

「この辺、巡回すること多いからかな」

 

その返事はどこか照れ臭そうだった。

ランキングは低い。知名度も高くない。テレビで特集されるような華やかなヒーローでもない。

世間的に見れば、きっと無名に近い存在なのだろう。

 

それでも、助けた相手はちゃんと悠を覚えている。

“ブレイバー”という名前を呼んで、走ってきて、お礼を渡そうとするくらいには。

その事実が、何となく印象に残った。

 

夕方の風が駅前を吹き抜ける。

 

昼間より少し冷たくなった空気が熱の残る身体へ触れ、火照っていた肌をゆっくり冷ましていった。

 

大型モニターでは、相変わらずランキング上位ヒーローの特集が流れている。

派手な戦闘映像。スポンサー広告。歓声を浴びる人気ヒーロー達。

世間が憧れる“ヒーロー”は、多分ああいう姿なのだろう。

 

けれど今日一日、俺が隣で見てきた悠の姿は、それとは少し違っていた。

道案内をして、迷子を助けて、火を吐く猫を捕まえて、住民と当たり前みたいに話している。

派手さなんて無い。ランキングも低い。

 

それでも、ランキングや知名度だけでは測れないものが、確かにそこにはあった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事務所へ戻る頃には、空はすっかり夕焼け色へ染まっていた。

 

西へ傾いた陽が高層ビルの窓ガラスへ反射し、街全体が淡い橙色の光に包まれている。昼間は騒がしかった駅前も、今は仕事帰りの人波へ少しずつ空気を塗り替えられ始めていた。

 

巡回を終えた疲労感は確かにある。

かなり歩き回ったし、火を吐く猫まで追い掛ける羽目になったのだから当然だ。

 

それでも、不思議と嫌な疲れ方ではなかった。

身体は重いのに、気持ちの方は妙に軽い。そんな感じだ。

 

「ただいま」

 

悠が事務所の扉を開ける。

 

すると、中からすぐに玲奈の声が飛んできた。

 

「おかえりー! どうだった!?」

 

ソファへ寝転がったまま聞いてくる辺り、この人は本当にブレない。

テーブルの上には食べかけのお菓子と雑誌が散乱しており、数時間前に掃除した光景が綺麗に元通りになっていた。

悠は苦笑しながら靴を脱ぐ。

 

「今日は迷い猫探しがメインだったかな」

 

「平和ねぇ……」

 

「しかも火を吐く猫だったよ」

 

「物騒ね……」

 

玲奈は興味津々といった顔で身体を起こした。

長い水色の髪が肩から滑り落ち、夕陽を受けて淡く光る。

俺が呆れながら事務所へ入ると、玲奈はそのまま身を乗り出してきた。

 

「透也ちゃん。巡回はどうだった?」

 

「……思ってたより地味でした」

 

そう答えると、玲奈は何故か満足そうに頷いた。

 

「でしょ!?」

 

何故そこで得意げなのか分からない。

 

「実際こんなものなのよねぇ。毎日毎日、大事件ばっか起きる訳じゃないし」

 

悠はその横でマスクを外していた。

汗で少し乱れた茶髪を掻き上げながら、小さく息を吐いている。

流石に多少は疲れていたらしい。

それでも、巡回中に見せていた穏やかな空気はあまり変わっていなかった。

 

その時、奥のデスクから蓮司がこちらへ視線を向ける。

 

「怪我は?」

 

短い確認だった。だがその声には、一応こちらを気にしているらしい響きがある。

 

「大丈夫です」

 

「無いです」

 

俺と悠の返答が重なる。

蓮司はそれを確認すると、小さく頷いて再びモニターへ視線を戻した。

 

相変わらず仕事量が凄い。

ノートPCの画面には細かな資料が並び、デスク脇には未処理らしい書類が山積みになっている。

この人、本当にいつ休んでいるんだろうか。

 

玲奈はそんな蓮司をちらりと見た後、再びこちらへ顔を向けた。

 

「で、透也ちゃん。ちょっとはヒーローに興味出た?」

 

その問いに、俺はすぐには答えられなかった。

正直、自分でもまだよく分からない。想像していたものとはかなり違った。

もっと華やかで、もっと危険で、もっと特別な世界だと思っていたからだ。

だが実際に悠がやっていたことは、道案内をして、迷子を助けて、火を吐く猫を捕まえていただけだった。

 

それでも、悠を覚えている人間は確かに居た。

 

“ブレイバー”と名前を呼んで、嬉しそうに駆け寄ってくる子供が居る。

道端で軽く会釈を返す住民が居る。

派手な歓声なんかはないけど、悠は確かにちゃんとこの街の中で誰かに覚えられていた。

 

道を案内された人。

困っている時に声を掛けられた人。

火を吐く猫を探してもらった子供。

 

そういう小さな積み重ねの先に、“ブレイバー”という名前が残っている。

 

それは、俺が想像していた“ヒーロー”とは少し違った。

もっと派手で、もっと特別で、圧倒的な存在だけがヒーローなのだと思っていたからだ。

けれど悠は、ただ当たり前みたいに人を助けて、その結果として誰かに覚えられている。

 

俺が思っていたより、ヒーローという存在はずっと人の近くに居るものなのかもしれない。

 

「……どうでしょう」

 

曖昧な返事しか出てこない。

玲奈はそんな俺を見ながら、小さく笑った。

 

「まぁ急がなくて良いわよ」

 

そう言いながら、テーブルの上へ置いてあったタブレットを引き寄せる。

画面を操作する指先は軽い。

 

「でも資格関係は早めに進めたいのよねぇ」

 

「資格?」

 

「イデア使用資格。あとヒーロー免許関連!」

 

玲奈は指を折りながら説明を始める。

 

「イデア使用資格はそこまで年齢制限厳しくないし、講習と適性試験通れば取れるの。能力制御とか危険性評価とか、最低限の法規関連もやるわね」

 

「法規……」

 

嫌な単語が聞こえた。

俺の反応を見た悠が小さく笑う。

 

「透也さん、露骨に嫌そう」

 

「実技より筆記の方が嫌なんですよね……」

 

「ちょっと分かるかも」

 

悠は苦笑しながらソファへ腰を下ろした。

玲奈はそんな俺達を見ながら「若いわねぇ」なんて満足そうに頷いている。

そこまで年齢差無いだろ、この人。

 

「ヒーロー免許の方はもうちょっと面倒だけどね。筆記試験もあるし、実働形式の試験もあるし」

 

「絶対面倒なやつじゃないですか……」

 

「でも透也ちゃんの場合、多分推薦通ると思うのよね」

 

「推薦?」

 

その単語へ反応すると、玲奈は待ってましたと言わんばかりに笑った。

 

「現役ヒーローからの推薦制度!」

 

びしっと指を立てる。

 

「一定条件満たしてるヒーローが推薦すると、一部試験が免除されたりするの!」

 

「そんな制度あるんですね」

 

「あるよ」

 

横から悠が頷く。

 

「僕も一応推薦資格持ってるし」

 

「あの順位でですか?」

 

思わず口から出た。一瞬で空気が止まる。

悠が静かに視線を逸らした。

 

「あ、いや……うん。一応あるよ……」

 

声が少しだけ小さい。

玲奈が堪え切れず吹き出した。

 

「透也ちゃん容赦無いわね!」

 

玲奈はソファを叩きながら笑っている。

そんな彼女を見て悠は小さく肩を落としていた。

 

「流石にちょっと傷付くかも……」

 

「すみません、つい……」

 

「いいよいいよ、ランキングなんてそんな気にしてないし……」

 

悠はそう言いながらソファへ凭れ掛かる。

 

その様子が妙に気の抜けた空気で、俺は思わず少し笑ってしまった。

 

事務所の中へ、穏やかな静けさが流れる。

 

窓の外では、夕焼けが少しずつ夜へ沈み始めていた。

 

今日一日で、ヒーローへの印象が劇的に変わった訳じゃない。

 

自分が向いているとも、まだ思えない。

 

それでも。

 

漫画越しに眺めていた頃よりは、ヒーローという存在を少しだけ近く感じていた。

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