朝から空は重たかった。
窓の外には鈍い灰色の雲が広がり、遠くの高層ビル群まで薄く霞ませている。雨が降りそうで降らない曖昧な天気のせいか、街全体がどこか湿った空気に包まれていた。
ASC事務所の中も静かだった。
壁際に置かれた空調が低く唸り、奥のデスクからは蓮司がキーボードを叩く乾いた音だけが一定の間隔で聞こえてくる。玲奈は大量の書類に囲まれながら端末を操作していて、悠はソファへ浅く腰掛けたまま湯気の立つマグカップを両手で持っていた。
その空間の中で、俺だけが分厚い電子資料と睨み合っていた。
タブレット画面へ表示されているのは、『ヒーロー活動免許取得要項』と題された国家イデア管理局の公式資料だった。
無駄に堅苦しい文章が延々と続いている。
回りくどい言い回しばかりで、一文読むだけでも妙に疲れる。
途中から何を説明されているのか分からなくなり、俺は小さく息を吐きながら画面をスクロールした。
悠の巡回へ同行してから数日。
あの日以来、玲奈から「今後必要になるから」と言われ、こうしてヒーロー関連制度の資料を読まされていた。
数週間前まで、ヒーロー免許だの国家資格だのとは無縁の場所で生きていた人間が、急にそんな話をされても頭が追い付く訳がなかった。
それでも、以前よりは少しだけ考え方が変わってきている自覚はある。
巡回へ出る前まで、ヒーローという存在はもっと単純なものだと思っていた。
強い力を持っていて、敵と戦って、人を守る。
前世で知っていた物語の中のヒーロー像もそんな感じだった。
だが、実際に悠と街を回ってみると、現実はかなり違う。
道に迷った老人へ駅までの行き方を教え、転んで泣きそうになっていた子供を宥め、荷物を抱えきれず困っていた女性を手伝う。気付けば火を吹く猫を探して何時間も街中を歩き回る羽目にまでなっていた。
あの時は流石に疲れた。
火を吐く猫と聞いた時点で俺は内心帰りたかったが、途中から半分意地みたいになって探していた気もする。
それでも悠は最後まで嫌な顔一つせず、困っている人へ自然に声を掛け続けていた。
しかも、ヒーローの仕事は現場だけで終わる訳ではないらしい。
数日前、玲奈が「透也ちゃんと湊君が暴れた後の火消し、本当に大変だったんだからね……」と疲れ切った顔でぼやいていたのを思い出す。
損壊報告、管理局やセキュリティへの説明、近隣企業への対応。表へ出ないだけで、戦闘の裏では大量の事務処理と調整が動いているらしかった。
戦うだけではない。
街を歩き、人の話を聞き、小さな困り事へ手を貸して、その後始末まで含めて“ヒーロー活動”なのだろう。
「透也ちゃん、ちゃんと読んでるー?」
玲奈の声で顔を上げる。
机へ頬杖をついた玲奈が、こちらを覗き込むようにしながら笑っていた。
「一応読んでますけど、量が多すぎて半分くらいしか内容覚えてないです」
「半分だけ?先が不安ねぇ……」
「書類の量かなり多いし半分も入ってれば十分じゃないですか?」
「国家試験舐めないの」
玲奈が呆れたように肩を竦める。
そのやり取りを聞きながら、悠が小さく笑った。
今日の彼はヒーロースーツではなく私服姿だった。巡回中の白い装甲姿を見た後だと、こうしてソファへ座っている悠は本当にどこにでも居そうな青年にしか見えない。
白い湯気が、マグカップの縁からゆっくり立ち上っていた。
玲奈はタブレットを操作しながら続ける。
「透也ちゃんが正式にヒーロー活動するには、まず最初に資格が必要なのよ」
「昨日取ったのですよね」
「そう。あれは“限定イデア使用資格”」
そう、実は昨日玲奈に連れられて資格を取りに行ったのだ。
国家イデア管理局の検査室は、病院とも研究施設とも違う妙な緊張感があった。
白い壁と無機質な照明。静かな室内には機械音だけが低く響き、職員達は終始事務的な態度を崩さなかった。
抑制装置の登録確認をされた後、能力の照合や色々な測定が行われたが、その空気は資格試験というより危険物検査に近かった気がする。
特に出力測定の時だ。
測定機器へ触れた瞬間、一度だけ警告ランプが赤く点灯して、周囲の空気が僅かに張り詰めた。
すぐに数値は安定したものの、端末を確認していた職員が小さく眉を顰めていたのを覚えている。
最終的に発行されたのは、“監督者同行時のみイデア使用を許可する限定資格”だった。
正式なヒーロー資格保持者、あるいは国家認可監督資格を持つ人間の管理下でのみ、限定的なイデア使用を認める仮資格。
言い換えれば、“単独行動は危険”と判断された訳だ。
「なんか危険物登録された気分でしたけど」
「あはは。まぁ制御できないイデアなんて実際危険物みたいな物だしねぇ」
「否定してくださいよ」
玲奈が楽しそうに笑う。
俺は小さく溜息を吐きながら、無意識に眼鏡へ触れた。
黒縁のフレーム。
見た目は普通の伊達眼鏡だが、これ自体がイデア抑制装置でもある。
これを外した状態で能力を使えば、自分でも上手く制御出来なくなる。
だから国家側から見れば、確かに“危険物”なのだろう。
「ただ、問題はここからなのよねぇ」
玲奈がそう言いながら、タブレット画面を切り替える。表示されたのは『ヒーロー活動免許取得条件』という見出しだった。
「透也ちゃんってヒーローの養成機関出てないでしょ?」
「まぁ、そうですね」
「だから普通のルートじゃ試験受けられないの」
「そうなんですか?」
思わず聞き返す。
玲奈は気にした様子もなく、画面を指先で軽く叩いた。
「養成機関を卒業した人以外が正式に免許を取得する場合、現役ヒーロー二名以上からの推薦が必要なの。もしくは高位序列保持者一人からの特別推薦ね」
想像していたより遥かに面倒だった。
もっと単純な試験制だと思っていたが、実際はかなり閉鎖的らしい。
ヒーローという存在はもっと自由なものだと思っていた。
だが実際は、国家資格と管理制度の上で厳しく管理されている。
俺みたいにイデアを上手く制御できない人間がいる。そう考えれば当然の事なのかもしれない。
「悠だけじゃ条件満たせないのよねぇ」
玲奈が困ったように頬を掻く。
その時、不意に別の疑問が頭を過ぎった。
「……そういえば」
「ん?」
「悠さんって、どうやってヒーロー免許取ったんですか」
その瞬間、悠の動きが僅かに止まる。
マグカップを持ったまま視線が少し泳いだ。その反応へ違和感を覚えるより先に、玲奈が「ああ」と声を漏らした。
「そういえば透也ちゃん知らなかったっけ。悠の推薦人、蓮司なのよ」
「……はい?」
思わず聞き返す。
玲奈は不思議そうに首を傾げた。
「だから蓮司が推薦したの。悠って養成機関出てないから、当時は蓮司が特別推薦出したのよ」
「いや、そうじゃなくて……」
俺はゆっくり事務所の奥へ視線を向ける。
蓮司は相変わらずノートPCへ向かったまま、静かな手付きでキーボードを叩いていた。こちらの会話を聞いていないようにも見えるが、多分全部聞こえている。
銀縁眼鏡の奥の表情は薄い。
書類仕事が似合い過ぎるせいか、“ヒーロー”という単語が妙に結び付かなかった。
「……蓮司さんって、ヒーローだったんですか?」
数秒、事務所の空気が止まる。
玲奈が「あ」と小さく声を漏らし、悠が少しだけ気まずそうに視線を逸らした。どうやら触れられたくない過去のようだ。
やがて蓮司が手を止める。
静かな動作だった。
「昔の話です」
返ってきたのは、それだけだった。
短い返答なのに妙に引っ掛かる。
前世の記憶を思い返しても、原作にそんな描写は見た覚えが無かった。
蓮司はずっとASCの事務担当のような印象だった。玲奈の暴走を止め、悠の無茶をフォローし、黙々と仕事を片付けている姿しか知らない。
だから、元ヒーローという肩書きが頭の中で上手く噛み合わなかった。
ヒーロースーツ姿も、前線へ立っている姿も、どうしても想像出来ない。
「まぁ、昔って言っても数年程度だけどね」
玲奈が椅子へ深く座り直しながら言う。
「当時はかなり序列高かったのよ?」
「序列って、そんなに重要なんですか?」
玲奈はタブレットを操作しながら軽く肩を竦める。
「ええ、国家管理の総合評価制度みたいなものだから。実力、実績、事件解決件数、社会貢献、信頼性、企業評価。色んな要素込みで順位が決まるの」
画面には数字と分類コードが並んでいた。
細かな評価項目が大量に表示されていて、見ているだけで頭が痛くなる。
「別に単純な強さランキングって訳じゃないわ。戦闘はそこまででも序列高い人も居るし、その逆もある」
「どれだけ国に貢献できてるかで決まるってことですか?」
「そんな感じね。ちなみに序列保持者の総数は今は三十二万人くらいだったはずよ」
「結構多いんですね」
思っていたより遥かに多い。
ヒーローというより、国家資格職に近いのかもしれなかった。
「まあヒーローだけじゃなくて資格登録が必要な規模のイデア持ってる人全員入ってるからね。それと、前も話したと思うけど、ヒーローの場合序列が上がると権限も増えるの」
玲奈がそう言いながら、別の画面を開く。
そこには機密区分や閲覧制限についての項目が並んでいた。
「イデア犯罪関連とか、危険指定案件とか、一般資格じゃ見れない情報かなり多いし」
その言葉に、胸の奥が僅かにざわつく。
ヘリオス。
脳裏へ浮かんだ名前に、無意識に視線が落ちた。
「だから透也ちゃんが、今後ヘリオスに備えて動くなら、どのみち免許と権限はあるに越したことはないわ」
玲奈の声はいつも通り軽い。
けれど、その内容だけは現実的だった。
何も知らないままでは、何者でもないままでは、いざという時に動けない。
未来を知っているからこそ、準備しておかなければならないこともある。
俺は無意識に、眼鏡のフレームへ指先を触れさせた。
冷たい感触が静かに指へ伝わってくる。
ヒーローになりたい訳じゃない。
少なくとも、今の俺にはまだそういう思いは無かった。
ただ、それでも。
ヘリオスへ備えるためには、この社会の中へ踏み込まなければならない。
いつのまにか蓮司は再びキーボードを叩き始めていた。
規則的に響く打鍵音は変わらず静かで、黙々と書類を処理している姿からは、さっき聞かされたヒーローという肩書きがどうにも結び付かない。
机の上へ積まれた書類へ視線を落とし、必要最低限の動きだけで作業を片付けていく様子は、どちらかと言えば企業の事務担当そのものだった。
少なくとも、前線で戦っていたヒーローには見えない。
そんなことを考えていると、不意に蓮司が手を止めた。
「そういえば、推薦については私に当てがあります」
静かな声だった。
玲奈がぱっと顔を上げる。
「え、ほんとに?」
「以前、世話をしていた後輩が居ます。現在も現役ヒーローとして活動しているはずです」
「後輩……」
思わず呟く。
蓮司は短く頷いた。
「私が現役時代に同じ企業へ所属していた人間です」
その言葉に、また少しだけ違和感が増す。
現役時代。同じ企業。
頭の中で蓮司へヒーローという肩書きを当て嵌めようとしても、どうにも像が定まらない。
「でも蓮司、ヒーロー時代の知り合いとは全然連絡取ってないんじゃなかった?」
玲奈が首を傾げる。
「取っていないだけで、別に関係が切れた訳ではありませんので」
蓮司は淡々と答えながら端末を操作する。
その横顔は相変わらず静かで、まるで昔話でもしているみたいだった。
「……まぁ、恐らく大丈夫でしょう」
「恐らくですか……」
「いえ、問題ありません。少々騒がしい人間ですが腕は確かです」
騒がしい。
その単語だけで、なんとなく玲奈のような人物像が浮かぶ。
玲奈は嬉しそうに机へ身を乗り出した。
「いやー助かったぁ……!もう一人どうしようかと思ってたのよね」
「まだ彼が引き受けると決まった訳ではありませんが」
「蓮司の紹介なら多分断らないでしょ」
「どうでしょうか」
妙に含みのある返事だった。
そのまま蓮司は端末へ視線を落とし、短く何かを打ち込んでいく。数秒遅れて、事務所の静かな空気へ送信音が小さく響いた。
「連絡は入れておきました」
「はやっ」
玲奈が驚いたように言う。
蓮司は特に気にした様子もなく続けた。
「もし問題無ければ、社長を通して計画を立てて、数日以内に向こうの企業へ顔を出してもらうことになると思います」
「私一人でですか?」
「ええ」
即答だった。
思わず眉を寄せる。
悠も一緒だと思っていたが、どうやら違うらしい。
「透也ちゃん、社会科見学頑張ってね」
玲奈が面白そうに笑う。
「そんな気軽な感じなんですか」
「大丈夫大丈夫。現役ヒーローのとこだし死んだりはしないでしょ」
「死……」
そのやり取りを聞きながら、悠が小さく笑っていた。
話がまとまった後も、事務所の空気は不思議なくらい穏やかなままだった。
玲奈は再び書類整理へ戻り、蓮司は淡々と端末を操作し続けている。悠は空になったマグカップを片手に立ち上がり、給湯スペースの方へゆっくり歩いていった。
窓の外では灰色の雲が低く垂れ込め、昼だというのに街全体が薄暗い。遠くを走る車のヘッドライトだけが、濡れ始めた道路へ白く滲んでいた。
俺はソファへ深く腰掛けたまま、小さく息を吐く。
数日以内に、別のヒーロー企業へ一人で行くことになるらしい。
つい最近まで、ヒーローという存在そのものが遠い世界の話だったはずなのに、気付けば資格を取得し、現役ヒーローの推薦を受ける為に別企業との接触まで決まり始めている。
展開が早すぎて、頭が追い付かない。
「そんな警戒しなくても大丈夫だと思うよ」
不意に、隣から悠の声がした。
いつの間に戻ってきたのか、悠は新しいマグカップを片手にソファの近くへ立っていた。ふわりと珈琲の香りが漂ってくる。
「顔に出てました?」
「ちょっとだけ」
悠は穏やかに笑いながら、向かいのソファへ腰を下ろした。
湯気の向こうで揺れる表情は相変わらず柔らかい。巡回中も思ったが、この人は人を緊張させない空気を作るのが妙に上手かった。
「蓮司さんの後輩なら、大丈夫だと思うよ」
「でも騒がしい人なんですよね」
「玲奈さんみたいな人だったりして」
俺はふと奥のデスクへ視線を向けた。
蓮司は変わらず端末へ向かったまま作業を続けている。銀縁眼鏡の奥の視線は画面へ固定されたままで、こちらの会話を気にしている様子も無い。
ただ、その姿を眺めていると少しだけ不思議な感覚になる。
元高位序列ヒーロー。国家管理局との接続。特別推薦権限。
どれも以前なら、漫画の中で読むだけだった世界の話だ。
それが今は、自分のすぐ近くで現実として動いている。
「……なんか未だに慣れないですね」
気付けばそんな言葉が口から漏れていた。
悠は「何が?」と小さく首を傾げる。
「全部です。ヒーローとか、こうやって誰かと過ごしてるのとか……」
自分で言いながら、曖昧な答えだと思った。
だが、他に上手い言葉が見付からない。
悠は少し考えるように視線を落とし、それから静かに笑った。
「でも透也さん、最初よりはだいぶ自然体でここ居ると思うよ」
「そうですか?」
「うん。最初はもっと落ち着きなかったし。ずっと掃除してたよ?」
言われてみればそうかもしれない。
最初の頃は、この事務所の空気へどう入り込めばいいのか分からなかった。
玲奈は遠慮無く距離を詰めてくるし、悠は自然な顔で人の隣へ座る。蓮司に至っては静か過ぎて、何を考えているのか今でもよく読めない。
それでも最近は、気付けばこうして同じ空間で時間を過ごしている。
玲奈の騒がしさへ適当に返事を返し、悠の淹れた珈琲の匂いが漂う中でぼんやり時間を潰して、蓮司のキーボードを叩く音を聞きながら資料へ目を通す。
以前は持て余していた沈黙も、今では不思議と居心地が悪くなかった。
いつの間にか窓の外では、小降りになっていた雨が再び静かに降り始めていた。
窓ガラスを細かな雨粒が絶え間なく叩き、曇った景色の向こうで街の灯りがぼんやり滲んでいる。
薄暗い事務所の中では、天井照明の白さだけがやけに静かに浮かび上がって見えた。
悠はマグカップへ口を付けながら、窓の外を眺めている。
玲奈は相変わらず大量の書類へ埋もれたまま何かをぶつぶつ呟いていて、蓮司はそんな二人を気にした様子もなく端末へ向かい続けていた。
一定のリズムで響くキーボードの打鍵音が、雨音と混ざり合いながら静かに室内へ広がっていく。
不思議と落ち着く音だった。
最初にこの事務所へ来た頃は、こういう静けさが少し苦手だった気がする。
誰も無理に話しかけてこない代わりに、各々が勝手に自分の作業をしている。
だからこそ逆に、自分だけがこの空間へ入り込めていないような感覚があった。
けれど最近は、その空気にも少しずつ慣れ始めていた。
誰かが無理に会話を繋げなくても、この事務所ではそれが普通だった。
雨音とキーボードの打鍵音だけが続く静かな時間にも、以前ほど落ち着かなさを覚えなくなっている。
「透也ちゃん」
不意に玲奈が顔を上げた。
「はい?」
「そういえば向こう行く時どうする?」
「何がですか?」
「服装。もしかしたらヴィラン討伐の手伝いとかあるかもだし、普通の格好で行く訳にもいかないでしょ?」
言われて、自分の格好を見下ろす。
黒のパーカーに細身のパンツ。どう見ても一般人だ。玲奈の言う通りにヒーローのサポートで動き回る可能性があるのなら別の服がいいだろうか。
というか、今までその辺を一切考えていなかった。
「新しくヒーロースーツとか準備できるんですか?」
「無理よ」
即答だった。あまりにも迷いの無い返事に、思わず玲奈を見る。
「無理なんですか」
「ASCにそんなお金はないのよ……」
玲奈は真顔で言い切った。
「別に私が立て替えてもいいんだけど、会社の事を私のお金でなんとかしようとすると蓮司が怒るから……」
「蓮司さんに怒られるのは避けたいですね……」
「ええ、だから新しいスーツは透也ちゃんがヒーローになって頑張って稼いでもらって、その利益で作ってもらうしかないわね。ASCは貧乏だから仕方がないの……」
そう言いながら、玲奈は事務所の中を見回す。
決して狭い訳ではない。だが、設備はどれも使い込まれていて、高級企業オフィスみたいな華やかさとは程遠かった。
壁際へ積まれた機材も細かな擦り傷だらけで、ソファだってよく見ると端の方が少しへたっている。
「蓮司がケチじゃなかったらスーツだって作れるし、もっと設備だって豪華にできるのに……」
玲奈の発言を聞いて、蓮司は僅かに眉を寄せた。
「……社長、能力がどれだけ優れていようとも、貴方はまだ子供です。ASCが子供の自己犠牲が無ければ成立しないような会社なら私は辞めます」
奥から蓮司の低い声が返ってくる。
玲奈は「うぐぅ……」と唸っている。何も言い返せないようだ。
「……という訳で、透也ちゃん用の新しいスーツとかは無理です」
「あっ、はい」
「だから悠のお下がり使って」
「えっ、僕の……!?」
今度は悠が固まった。
玲奈は気にした様子もなく続ける。
「悠、最近お金貯めてスーツ新調したって言ってたでしょ?それなら前に使ってたスーツが余ってるはずよ。あれ今は使ってないんでしょ?」
「いや、確かに使ってないけど、でも結構前の型だし、ボロボロだし、汚れてるし、そもそも女の子に僕が長期間使ってたスーツを着せるなんて──」
「うるさいわね。使えるなら十分よ」
「そんな……!?」
悠は困ったようにこちらを見る。
「……ごめんね透也さん、あんまり格好良くないかも」
「悠さんはかっこいいですよ……?」
「あっ、いや、僕じゃなくてスーツの話……」
思わずそう返すと、悠は少しだけ気まずそうな様子で目を逸らした。
どうやら、お古のスーツを俺に使わせる事をかなり気にしてるようだ。正直、そこまで気にしなくてもいいと思う。
雨音が静かに窓を叩き続ける中、玲奈だけが楽しそうに端末を操作していた。
数週間前までなら、こんな場所で他愛もない会話をしている自分なんて想像もしていなかった。
けれど今は、玲奈の雑な冗談へ適当に返事を返しながら、悠の淹れた珈琲の香りが漂うこの空間へ自然と身体を預けている。
自分でも気付かないうちに、自分の中でこの事務所の輪郭が少しずつ“居場所”として形を持ち始めていた。
「とりあえず、スーツから変な匂いとかしたら苦情は悠にお願いね」
「えっ、僕?」
玲奈は軽い調子でそう言いながら端末を閉じた。
悠はまだ少し申し訳なさそうな顔をしていたが、蓮司は特に口を挟まない辺り、ASCでは割といつもの流れなのかもしれなかった。
俺は何となく眼鏡のフレームへ触れた。
少し前までの自分なら、ヒーロースーツなんて完全に別世界のものだった。
漫画の中で見るだけの装備で、自分とは無関係な存在だったはずなのに、今は玲奈からスーツの匂いの心配をされている。
「……なんか変な感じですね」
気付けばそんな言葉が口から漏れていた。
「変?」
悠がマグカップを持ったまま首を傾げる。
俺は少しだけ言葉を探した。
「いや、ここまで急に話が進むと思ってなかったので」
推薦人の話が出て、別事務所へ行くことになって、気付けばヒーロースーツの話まで始まっている。
流されているだけと言えばそうなのだが、それでも状況だけはどんどん先へ進んでいた。
玲奈はそんな俺を見ながら、小さく笑う。
「まぁ透也ちゃんなら大丈夫よ」
「そうでしょうか……」
「ええ、今までも何とかなってるんだから、これからもきっと何とかなるわ」
「相変わらず根拠が薄いですね……」
雨音の向こうで、遠くを走る救急車のサイレンが微かに聞こえる。
街は今もどこかで動き続けていて、ヒーロー達はその中で仕事をしている。
少し前まで完全に無関係だったその世界へ、自分も少しずつ近付いているのだと、そんなことをぼんやり考えていた。