雨は上がっていた。
数日前まで街を覆っていた厚い雲は幾分薄くなり、空には淡い灰色が広がっている。晴れているとも曇っているとも言い切れない空模様だったが、それでも連日降り続いていた雨が止んだだけで、街全体の空気は少し軽くなったように感じられた。
駅前の人混みを抜けながら、俺は端末に表示された地図へ視線を落とした。
目的地はファースト・レスポンス社。通称FR社。
蓮司の後輩が所属しているヒーロー企業である。
地図を頼りに歩いていると、やがて目的の建物が見えてきた。
ガラス張りの高層ビルだった。
ただ、一般企業の本社ビルとはどこか雰囲気が違う。
建物の前には救急車を大型化したような特殊車両が何台も停車していて、搬入口では職員達が絶えず機材や資材を運び込んでいた。
制服姿のスタッフ達は端末を片手に慌ただしく連絡を取り合いながら車両の誘導や積み荷の確認を行っており、その動きには一切の無駄が無い。
企業名を大きく掲げた看板も、有名ヒーローを宣伝するような巨大広告も見当たらない。
それでも自然と視線を引き寄せられるのは、建物全体から漂う緊張感のせいだろうか。
まるで今この瞬間にも何処かで起きている問題へ対応するため、常に準備を整えているような空気がある。
ヒーロー企業というより、災害対策本部や緊急対応機関と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。
これがファースト・レスポンス社か。
そう考えながら建物を見上げた後、俺はゆっくりと自動ドアをくぐった。
エントランスへ足を踏み入れた瞬間、外とは違う空気が肌へ触れる。
高い天井の下には広々とした空間が広がり、壁面へ設置された大型モニターにはニュース映像や災害情報が絶えず映し出されていた。その横には対応中案件らしき一覧まで表示されていて、一般企業の受付とは明らかに雰囲気が違う。
受付前では職員とヒーローらしき人物が真剣な表情で会話を交わし、奥の通路では数人のスタッフが足早に行き来している。
誰もが忙しそうではあるものの、不思議と慌ただしさだけは感じない。
それぞれが自分の役割を理解した上で動いているからだろうか。組織として完成されていることが、見ているだけでも伝わってきた。
自然とASCの事務所が頭に浮かぶ。
玲奈が書類の山へ埋もれながら騒ぎ、悠が珈琲を淹れ、蓮司が静かにキーボードを叩いているあの空間とは何もかも違う。
もちろん規模が違うのだから当然だ。
それでも、自分が今まで居た場所の小ささを改めて実感させられて緊張してしまう。
受付を済ませると、案内担当らしい女性職員がこちらへ会釈した。
「榊透也様ですね。担当者がお待ちしておりますのでご案内いたします」
「お、お願いします……!」
職員の後ろについて通路を歩きながら、俺は周囲へ視線を向ける。
壁には過去の活動記録らしき写真が飾られていた。
崩落したビルや浸水した市街地、倒壊した高架橋。
そこに写っているのはヴィランとの派手な戦闘ではなく、瓦礫の撤去や救助活動、避難誘導といった光景ばかりだった。
この企業が何を重視している企業なのか、その写真だけで十分伝わってくる。
しばらく歩いたところで、職員が一枚のドアの前で足を止めた。
「こちらです」
軽いノックが響く。すると次の瞬間、部屋の向こうから大きな声が聞こえてきた。
「おっ、やっと来たんか!?」
足音が近付いてくるのが聞こえ、反射的に視線を上げる。次の瞬間、ドアノブが勢いよく回された。
そして開かれた扉の向こうから現れたのは、鮮やかな金髪が目を引く男だった。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
背は高く、整った顔立ちをしているが、その表情からは初対面の相手へ向ける警戒心のようなものがほとんど感じられない。
むしろ昔から知り合いだったかのような気安さがあった。
男は迷うことなくこちらへ歩み寄ると、人懐っこい笑みを浮かべる。
「透也ちゃんやんな?いやぁ、やっと会えたわ!相良さんからめっちゃ話聞いとるで!」
相良さんとは蓮司のことだろう。
蓮司から少々騒がしい人だとは聞いていた。実際、目の前の男を見ているとその評価も間違っていなかったのだろうと思う。
もっとも、こうして実際に顔を合わせてみると、蓮司の説明は少し控えめだったのかもしれない。
目の前の男を見上げながら、俺は心の中でそっと考える。
思っていたより、ずっと賑やかな人らしい。
「とりあえず立ち話も何やし、入って入って」
男はそう言いながら気軽な調子で部屋の奥を指差した。
案内してくれた職員が一礼して去っていくのを見送り、俺は室内へ足を踏み入れる。
応接室のような場所を想像していたが、実際は少し違った。
広い室内には複数の机と端末が並び、壁際には資料棚が設置されている。大型モニターには市内地図や案件情報らしきものが映し出されていて、会議室と執務室を合わせたような空間だった。
机の上には資料が積まれているものの雑然とした印象は無い。必要な物が必要な場所へ整理されていて、普段からここで案件の管理や情報共有が行われているのだろうと想像できた。
「適当に座っといてや」
男はそう言いながら冷蔵庫を開き、中を覗き込む。
そして何かを探すように視線を動かした後、こちらを振り返った。
「コーヒー飲める?」
不意の質問だった。
俺は一瞬だけ言葉に詰まる。
今の身体になってからは普通に苦手だ。
わざわざ自分から飲もうと思ったこともほとんどない。
だが、だからといって素直にそう答えるのも何となく気が引けた。
今日ここへ来ているのは遊びではない。
ASCの人間としてヒーローの推薦を受けるために来ているのだ。
蓮司が話を通し、繋いでくれた縁の上に今の自分は立っている。
そんな場でいきなり、善意でコーヒーを出そうとしてくれている彼に「苦手なので大丈夫です」と答えるのは、何となく格好がつかない気がした。
もちろんこの体の凡その年齢を考えれば気にするほどのことではないのかもしれない。
それでも今だけは、子供っぽいと思われたくなかった。
「……飲めます」
そう答えると、瀬川は明るく笑った。
「おっ、ええやん」
冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り出し、そのうち一本をこちらへ差し出してくる。
受け取った缶はよく冷えていた。
「そういやまだ名乗っとらんかったな」
瀬川は自分の分のプルタブを開けながら、こちらへ右手を差し出す。
「俺は瀬川恒一」
差し出された手を握り返すと、想像していたよりも力強い手だった。
軽い挨拶のつもりだったのだろうが、その感触だけで目の前の男が現場に立ち続けてきた人間なのだと分かる。
「FR所属ヒーロー、フォアランナーって呼ばれとる」
どこか誇らしげな響きを含んだ名乗りだった。
肩書きを見せびらかしている訳ではない。
ただ、その名前に恥じないよう生きてきた人間特有の自信があった。
「えっと、榊透也です。今日はよろしくお願いします」
「そんな固くならんでええって」
瀬川は気さくに笑いながら椅子へ腰を下ろす。
俺も向かいの席へ座り、手元の缶コーヒーへ視線を落とした。
ここまで来て開けない訳にもいかない。
意を決してプルタブを引くと、独特の香りがふわりと立ち上る。
覚悟を決めて口元へ運び、一口だけ流し込んだ。
舌の上へ広がった苦味は予想していた通りで、飲み込んだ後もしばらく独特の風味が残り続ける。
分かっていたことではあるが、今はまだ好きにはなれそうになかった。
それでも表情だけは崩さない。
元々、転生してからの俺は感情が顔へ出にくい。
だから多少苦手な物を口にしたところで気付かれることはないだろうし、この場だけなら誤魔化せると思っていた。
でも、その認識は間違っていたらしい。
「透也ちゃん」
瀬川が缶を持ったままこちらを見る。
「はい」
「それ美味い?」
突然の質問に少しだけ戸惑う。
「美味しいです」
「ほんまに?」
「はい」
瀬川は数秒ほど俺の顔を見つめていた。
やがて何かを確信したように吹き出す。
「いや、絶対無理しとるやろ!」
「無理なんてしてません」
「しとるしとる」
楽しそうな笑い声が室内へ響く。
「めっちゃ苦い薬飲まされたみたいな顔しとるで」
「そんな顔してないと思いますけど……」
「めちゃくちゃしとる」
即答だった。
俺は小さく視線を逸らす。確かに苦手ではある。ただ、それでも少しだけ納得がいかなかった。
「……前はブラックでも平気だったんですけど」
思わずそう呟くと、瀬川は数秒ほど黙り込んだ。俺の顔と手元の缶コーヒーを見比べるように視線を動かし、それから盛大に吹き出す。
「絶対嘘やん!」
「う、嘘じゃないです……!」
「いや無理無理。今の透也ちゃん見てその話信じる奴おらんて」
肩を震わせながら笑う瀬川に、俺は反論しようとして口を開きかける。
しかし手元の缶コーヒーへ視線を落としたところで諦めた。
客観的に見れば説得力が無いのは自分でも分かる。
「まぁええわ。飲めへんもんは飲めへんで。別に格好悪いことちゃうで?」
「別に格好付けてた訳じゃないです……」
「ほな何で飲める言うたん」
「……」
「図星やん」
完全に見透かされていた。
瀬川はひとしきり笑った後、自分の缶コーヒーを机へ置く。
その表情には先程までの気安さが残っていたが、こちらを見る視線だけが少し真面目なものへ変わっていた。
「まぁでも安心したわ」
「何がですか」
「もっと面倒くさい奴やと思っとった」
失礼なことをさらりと言われた気がする。
思わず眉を顰めると、瀬川は慌てて手を振った。
「いやいや、悪い意味やないで? 相良さんから話聞いとったからな。廃棄区画を彷徨いてたとか、イデアの制御に難があるとか」
そう言いながら椅子へ深く腰を預ける。
「せやから会う前から興味はあったんや。どんな奴なんやろなって」
「……期待外れでしたか?」
「逆や」
瀬川は間髪入れずにそう返すと、少しだけ笑みを浮かべた。
「思っとったより普通で安心した」
それが褒め言葉なのかは分からない。
だが少なくとも悪く言われている感じはしなかった。
「相良さんが他人のこと頼るんはかなり珍しいんやで。ヒーロー時代の知り合いなら尚更」
瀬川は窓の外へ一瞬だけ視線を向ける。
「昔から何でも一人で抱え込む人やったし、自分から誰かを認めることも滅多に無い。せやから今回の話聞いた時はちょっと驚いたわ」
その言葉には蓮司への敬意が滲んでいた。
蓮司の名前を口にした時だけ僅かに口調が変わったことに気付く。
その変化は小さなものだったが、二人の関係を察するには十分だった。
そして、だからこそ次に続いた言葉には自然と重みがあった。
「ただな」
瀬川は再びこちらを見る。
「相良さんが透也ちゃんのことを認めとるんは分かる」
その言葉を否定する気は無いらしい。
むしろ疑う余地など無いと言わんばかりの口調で、心からそう信じているように見えた。
「せやけど俺は俺で判断する」
声量は決して大きくない。
それでも言葉の一つ一つには確かな重みがあり、気付けば自然と姿勢を正していた。
「透也ちゃんがどんな人間なんか、どんな考え方するんか、ほんでヒーローとして現場に出してええ人間なんか。そこはちゃんと見させてもらう」
窓の外から遠く車の走る音だけが聞こえる。
その音が妙に大きく感じられるほど、室内には一瞬だけ静寂が落ちていた。
「俺が向いてへんと思ったら推薦は絶対に出さん」
その言葉は断定に近かった。
それでも嫌な印象は残らない。
推薦を出すかどうかを慎重に見極めるのは当然のことだし、瀬川の口調からは試すような意地の悪さも感じられなかったからだ。
俺が黙ったままでいると、瀬川は少しだけ困ったように頭を掻いた。
「いや、別に脅したい訳やないんやで」
「大丈夫です。分かっています」
「ほんま?」
「はい」
即答すると、瀬川は安心したように笑う。
「ならええわ。実際な、現場ってかなり危ないんや。イデアが強い弱いの話やない。向いてへん人間を送り出したら、本人も周りも危険になる」
その言葉には説得力があった。
単なる理屈ではない。おそらく瀬川自身が何度もそういう場面を見てきたのだろう。
だからこそ、その言葉は知識ではなく経験から語られているように聞こえた。
しばらく沈黙が続いた後、瀬川はふっと息を吐く。
「まぁ、こんな話ばっかしてもしゃあないな」
そう言って立ち上がると、机の上の端末へ手を伸ばす。
「せっかく来てもろたんやし、まずは今うちが抱えとる案件でも見てもらおか」
端末が起動する。
幾つかのファイルが並ぶ画面を操作した後、瀬川はそのうちの一つを開いた。
表示されたタイトルを見た瞬間、俺は僅かに視線を止める。
『廃棄区画連続襲撃事件』
そう書かれていた。
「最近うちが追っとる案件の一つや」
瀬川が端末を操作すると、画面に一枚の写真が表示された。
映し出された光景を見て、俺はすぐに場所を理解する。
廃棄区画だ。
写真に映る建物はどれも歪な形をしていた。
本来なら隣り合うはずのない建物同士が鉄骨や渡り廊下で無理やり繋がれ、上へ上へと増築を繰り返した結果、街全体が巨大な迷路のような構造になっている。
地上から見ればただの路地に見える場所でも、見上げれば複数の通路が頭上を横切っていて、一度入り込めば方向感覚を失う人間も少なくない。
「相変わらず変な場所ですね」
「せやな」
瀬川は苦笑しながら頷き、別の写真へ切り替えた。
昼間だというのに薄暗い路地や崩れかけた外壁が映し出され、その奥には顔を隠した人影も見える。
「治安も最悪や。ヴィランの潜伏先になっとるし、半グレやら違法業者やらもよう出入りしとる」
そう言いながら瀬川は資料を次へ送った。
表示されたのは被害者達の写真だった。
腕を固定された男、顔中に痣を作った若者、肩口へ包帯を巻いた男。誰もが重傷だったが、命に別状は無いらしい。
「最近こういうのが増えとる」
「全員同じ犯人なんですか?」
「十中八九な」
瀬川は聞き取り調査の記録を開く。
そこには被害者達の証言もまとめられていた。
突然現れた、仲間が一瞬で倒された、何が起きたのか理解する前に意識を失った。
内容は少しずつ違うが、どの証言からも共通して伝わってくるものがある。
相手の正体も能力も分からないまま叩きのめされた人間の、生々しい恐怖だ。
そして、その中には何度も繰り返し登場する名前があった。
「これやな」
瀬川が指差した先へ視線を向ける。
被害者達の証言には共通して一つの名前が記されていた。
アステリオン。
どうやらヴィラン達は、廃棄区画を徘徊しながらヴィラン達を襲う正体不明の存在をそう呼んでいるらしい。
「アステリオン……」
思わず小さく呟く。
忘れるはずがない名前だった。原作タイトルであり、後に湊自身が名乗る事になるヒーロー名でもある。
読者だった頃は何度も目にした名前だ。
「ヴィラン連中が付けた呼び名らしい」
瀬川は写真を拡大する。複雑に入り組んだ通路と積み重なるように増築された違法建築群。その光景はまるで迷宮のようだ。
「迷宮みたいな廃棄区画でヴィランしばき回しとる化け物。せやからアステリオンなんやと」
瀬川は半ば呆れたように笑う。
「まぁネーミングセンスは嫌いやないけどな」
俺は返事をしなかった。
名前を聞いた時点で、犯人が誰なのかは大体予想がつく。
少なくとも俺の知る限り、廃棄区画を徘徊しながらヴィランを叩きのめし、こんな呼ばれ方をされそうな人間は湊しかいない。
自然と原作の記憶が頭の中へ浮かび上がる。
そういえば、原作でこんな話があった。
湊がヘリオスの情報を追って廃棄区画へ出入りし始めた頃のエピソードだ。
ヴィラン達が何者かに襲われているという話が度々登場し、その正体が湊だったことも読者には明かされていた。
もちろん俺も読んでいる。だから事件そのものは知っていた。
ただ、こうして別の立場から話を聞くのは初めてだった。
原作では当たり前のように読んでいた出来事だったが、こうして別の立場から話を聞くと印象がまるで違う。
FRはこんな認識だったのか。ヴィラン達はこんな風に怯えていたのか。
同じ出来事のはずなのに、今の俺には原作の裏側を覗いているように思えた。
「まぁ、正直なところを言うとな」
瀬川は椅子へ深く背中を預けながらそう言った。
先程まで軽口を叩いていた時とは違い、その表情には僅かな疲労が滲んでいる。
「ちょっと気持ち悪いんや」
俺は少しだけ眉を上げた。
「こういう事件って大体は理由があるもんやねん」
瀬川はそう言いながら端末の画面を指先で叩く。
そこには今回の被害者達の情報が並んでいた。
どれも廃棄区画で活動していたヴィランや半グレばかりで、同情できるような人間は一人もいない。
「金が欲しいとか、縄張り争いとか、復讐とか。やっとることがどれだけアホでも、普通は何かしら目的が見えてくる。でもこいつは違う」
瀬川は小さく肩を竦めた。
「一般人には手ぇ出さん。ヴィランばっかり襲う。何か奪う訳でもないし、ヒーローみたいに正義感で動いとる感じも無い。だから余計に分からんのや」
窓の外から微かに車の走行音が聞こえてくる。
静かな室内でその声だけが妙に印象へ残った。
理由なら想像がつく。
湊が探しているのはヘリオスだ。原作でも湊はヘリオスの情報を追い続けていた。
そのためなら危険な場所へ足を踏み入れることも躊躇わなかったし、情報を持っていそうな相手を力尽くで喋らせる事も珍しくなかった。
だが、それは読者だから知っていることだ。
こうして瀬川の立場から話を聞いていると印象はまるで違う。
目的も分からないまま犯罪者達を叩きのめして回る正体不明の人物。
確かにそんな存在が近くにいると聞かされたら、不気味に思うのも当然だった。
「まぁ、それでも最近になって少しだけ見えてきたもんもある」
そう言って瀬川は再び端末へ手を伸ばした。
画面に並ぶ調書をいくつか開きながら、何かを探すようにスクロールしていく。
その様子を眺めているうちに、俺も自然と資料へ視線を向けていた。
記録されている内容は一見すると統一性が無い。
襲われた場所も違えば、その時の状況も違う。
だが読み進めていくうちに、少しずつ共通点が浮かび上がってくる。
違和感があるのは暴行について語られている部分ではなかった。
その前だ。
何人かの証言には、襲われる前に何かを聞かれたと記されている。そしてそれは一人や二人ではない。偶然で片付けるには少し多すぎた。
「最初は何の事やと思っとったんやけどな」
瀬川は苦笑しながら言う。
「どうも何か探しとるっぽいんや」
「探し物ですか」
「ああ、被害者ごとに微妙に言うことは違うんやけど、全員例外なく同じ質問をされとる」
そう言って開かれた調書へ目を向けた瞬間、俺は内心で小さく息を吐いた。
予想していた通りだった。
そこには聞き覚えのある名前が記されている。
ヘリオス。
その単語を見た瞬間、原作の記憶が脳裏を過った。湊はずっとヘリオスを追い続けていた。
その手掛かりを求めて廃棄区画へ通い、時にはヴィランとの戦闘さえ厭わなかったはずだ。
原作ではその辺りの描写はあまり多くなかった。主人公である湊の視点では「調査している」という事実だけが描かれ、その過程までは細かく触れられていなかったからだ。
けれど今は違う。
こうして残された記録を見ていると、その裏でどれだけ手当たり次第に情報を追い続けていたのかが少しだけ見えてくる。
「意味分からんやろ?」
瀬川は困ったように笑った。
「俺もさっぱりや。ヘリオスって何やねんって話やし、被害者連中も知らん言うとる。本当に知らんのか、それとも口割らんだけなんかも分からへん」
そう言いながら端末を閉じる。室内に小さな電子音が響いた。
俺は閉じられた画面を見つめながら静かに息を吐く。
原作で読んでいたのは湊の物語だった。だから湊が何を目指しているのかも、その理由も知っている。
だが、こうして第三者の残した記録を眺めていると、同じ出来事なのにまるで別の話を見ているような気分になる。
主人公の視点から見えていた世界と、その周囲にいた人間達から見えていた世界は違う。
今、自分が見ているのは後者だった。
原作を読んでいた頃は考えもしなかった。
同じ出来事でも、立つ場所が変われば見える景色はここまで違うのかと。
「まぁ、とりあえずこんなとこやな」
瀬川は端末から手を離すと軽く背伸びをした。
先程まで机の上に並んでいた資料も片付けられ、どうやら今日の話は終わりらしい。
俺も小さく息を吐く。アステリオンやヘリオスについて考えたいことはまだ残っていたが、それは後でもいいだろう。
「今日はこれで終わりですか?」
「終わりやで」
「じゃあ今日はもう解散ですか?」
俺がそう言うと、瀬川はそこで何かに気付いたように首を傾げた。
「あれ?」
妙な反応だった。
「透也ちゃん、ASCの社長さんから泊まりの説明受けてへんの?」
意味が分からず眉をひそめる。
「泊まり……?」
「推薦出すか出さんか決まるまでFRの寮暮らし。事前に社長さんに連絡通しとったはずやけど」
当然のように返された言葉に、俺は思わず黙り込んだ。
頭の中で今日までのやり取りを思い返してみるが、やはりそんな話は聞いていない。
もし知っていたなら荷物を持ってきているし、そもそも今日の予定の組み方から変わっていたはずだ。
「初耳ですが……」
その一言で瀬川も状況を理解したらしい。
しばらく俺の顔を見つめていたが、やがて口元を押さえる。
「マジか」
肩が震えていた。どうやら笑いを堪えているらしい。
「透也ちゃん、荷物は?」
「持ってきてないです……」
「やろなぁ」
瀬川はとうとう吹き出した。
「いや、ごめん。ごめんやけど面白いわ」
「全然面白くないんですけど」
「だって透也ちゃん、完全に日帰りのつもりで来とるやん」
その通りだった。
推薦の面談が終われば帰るつもりだったし、それ以外の予定など考えていない。
「部屋の事も聞いとらん?」
「聞いて無いですね……」
「そらそうやろなぁ」
また笑われた。
納得はいかないが、自分でも少しだけ状況の滑稽さは理解できる。
FR側は俺が寮へ入る前提で準備を進めていて、俺だけが何も知らないままここまで来ていたのだ。
「まぁええわ」
ひとしきり笑った後、瀬川は立ち上がった。
「部屋まで案内したる。どうせ着替えとか無いんやろ?」
「無いです」
「それならFRの制服貸せるし、生活用品も備え付けのがあるから何とかなるで。急に泊まりになる奴もおるしな」
そう言われて少しだけ肩の力が抜けた。
流石に着替えも歯ブラシも無い状態でどうするのかと思っていたが、その辺りの対応は慣れているらしい。
「とりあえず寮見てから考えたらええ」
瀬川はそう言うと扉へ向かう。
俺も後を追いながら小さく息を吐いた。
アステリオンやヘリオスの話で頭が一杯だったが、今は別の問題が目の前にある。
推薦を受けに来ただけのはずが、気付けばしばらくFRで生活することになっていた。
執務室を出ると、施設内の空気は先程までいた部屋とは少し違っていた。職員らしい人影が廊下を行き交い、遠くからは訓練設備のものらしい機械音も聞こえてくる。
FRという巨大な組織の内部を歩いているのだと改めて実感しながら後をついていくと、不意に瀬川が振り返った。
「なんか分からんことあったら聞きや」
「はい」
「ここおる間は俺もおるし」
俺は意外そうな顔でもしていたのだろうか。瀬川は苦笑しながらこちらを見返した。
「何やその顔」
「いえ、すごく親切だなって思って……」
「まぁ俺も仕事やからな」
そう言って肩を竦めるが、どこか気安い口調だった。
「推薦貰いに来た人間ほったらかしにもできへんし。特に透也ちゃんみたいなんはな」
「私みたいなの……?」
「荷物も何も準備無しで説明聞いてへんまま来る奴とか初めて見たわ」
結局そこへ戻るらしい。思わず眉をひそめると、瀬川は楽しそうに笑った。
やがて寮棟へ辿り着く。
外観は特別豪華という訳ではないが、かといって古びてもいない。学生寮や社員寮に近い印象を受ける建物だった。
「推薦組とか研修組とか、外から来る人間は大体この辺使うな。普通に社員もおるけど」
そう説明しながら中へ入る。
建物の中も予想していたより整っていた。最低限というより、普通に生活することを前提として作られているらしい。
瀬川は立ち止まって、側にある一室の扉を開ける。
「ここや」
部屋の中を見て、俺は僅かに目を瞬かせた。
思っていたよりずっと充実していた。
ベッドに机、収納棚、冷蔵庫やテレビなど。部屋自体も一人で生活するには十分な広さがある。
「色々揃ってますね」
「どんな部屋やと思っとったん?」
「必要最低限なものだけがあるのかと。布団とか」
「刑務所ちゃうねんから……」
呆れたように笑う瀬川の言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
確かに数日過ごすだけなら何も困らないだろう。
むしろ問題があるとすれば別の方だ。
今日は推薦の話を聞いて帰るだけだと思っていた。
まさかそのまま寮生活が始まるとは思わなかったが、部屋も手続きも既に終わっている以上、今さらどうこう言っても仕方ない。
本当に説明を忘れていたのか、それとも何か別の理由があるのか。どちらにせよ玲奈には後で確認する必要があるだろう。
もっとも、玲奈のことだ。今頃になって「あっ」と声を上げている可能性も十分ある。
その光景が簡単に想像できてしまい、俺は小さく溜息を吐いた。