目が覚めた時、最初に思ったのは湊のことだった。
天井を見上げながら、昨夜の記憶が薄い靄の向こうから戻ってくる。廃棄区画の連続襲撃事件。ヴィラン達が恐怖した正体不明の存在。そしてその呼び名。
アステリオン。
今の時点で既にいくつも原作との差異がある。
アステリオンと呼ばれているから湊だと断言できるほど俺は確かなものを持っていない。
ただ、違うと思う根拠も見当たらなかった。
考えたところで答えは出ない。それでも気になってしまうのは、原作を知っているからだろうか。
ベッドの上で小さく息を吐く。
FRの寮の部屋は、天井の高さも窓の位置もASCの事務所とは全然違う。
すごく静かで思ったより居心地が悪くなかった。
朝の光が薄いカーテンの隙間から細く差し込んでいて、少しずつ目が覚めてくる。
荷物はないから、今は昨日着てきた服のままだ。
当面はFRの制服を借りることになっている。
ここへ来る前に、泊まることを分かっていれば多少は準備できたのだが、玲奈から連絡が来たのは昨夜遅くだった。
『あっ、透也ちゃん、言い忘れてたけど泊まりだから。ごめんね』という短いメッセージと一緒に、小さな謝罪のスタンプが送られてきた。
泊まりなんて重要なことをどうして伝え忘れるんだ、と思ったが追及する気力もなく短い返事だけ送って端末を閉じた。
机の上に置いた眼鏡へ手を伸ばし、ゆっくりと身体を起こす。
窓の外では街がすでに動き始めていた。
FRの施設から見える景色は、ASCのある区画とは少し違う。
高い建物が多く、朝の光が道路へ角度をつけて落ちている。
着替えを済ませて部屋を出ると、廊下の向こうから声がした。
「おっ、起きとるやん」
瀬川だった。
廊下の突き当たりで端末を操作していた瀬川が、こちらへ気付いてひょいと手を上げる。昨日と同じ気安い笑顔だった。
昨夜の初対面から一夜明けて、こちらが若干緊張を引きずっているのに対して、向こうはすでに知り合いと話すような感じでいる。
「もう飯食った?」
「まだです」
「ならちょうどよかった。食堂行こ。案内するわ」
そう言いながら端末をポケットへ仕舞い、さっさと歩き出す。
俺も後を追いながら、昨夜からの疑問が頭の中を回り続けていることに気付いた。湊のこと。廃棄区画のこと。ただ、それを瀬川に相談するわけにもいかない。
今は余計なことを考えず、目の前の状況に集中した方がいいだろうとは思うのだが、上手く切り替えられないのが正直なところだった。
♢
食堂はFRの本棟から渡り廊下で繋がった建物の一階にあった。
広い空間に規則正しく並んだテーブルと椅子。壁際のカウンターには料理が並んでいて、職員や訓練生と思しき人間達が思い思いのペースで食事を取っている。
しっかりとした食堂を見ていると、ASCの食事事情がコンビニ中心だというのがなんだか良くないことのように思えてくる。
「何でも注文していいで。社員じゃなくても食堂は使えるから」
瀬川はそう言いながら迷いなくカウンターへ向かい、魚の定食を注文した。俺もその隣で同じもの注文する。
定食を受け取って俺が席につくと、瀬川はすでに箸を手に取っていた。
「魚?」
「はい」
「若いのに渋いな」
「そうですか?」
「うちの若い連中なんか、大体肉ばっか取っていくで」
そう言いながら視線を向けると、確かに数テーブル先では若い男達が皿に肉料理を山積みにしていた。
その中の一人がおかわりのトレーを持って立ち上がり、カウンターへ向かっていく。カウンターから戻ってくる頃には一度に三人前は載っているかと思う程の量が盛られた皿をトレーに乗せて戻ってきた。
「あの人、毎朝あれくらい食べてるんですか?」
「あいつはまだ少ない方やで」
「あれで少ない……?」
「透也ちゃんも若いんやからもっと食えるやろ」
「いや、あんなに沢山は入らないですね……」
「もったいないな」
瀬川は何でもないように笑いながら箸を動かす。
会話のテンポが凄く自然だった。こちらが何か答えを用意しなくても、向こうが勝手に会話を繋いでくれて、気付けば普通に話している。
初対面の人間と食事をしながら変に緊張するのは俺の方だけで、瀬川にはそういう間が最初からないらしい。
「瀬川さんは魚派なんですね」
「まぁな」
「FRだと若い人は肉をよく食べるんですよね」
思わずそのまま返すと、瀬川は少しだけ目を細めて笑った。
「えっ、遠回しに年寄り扱いしとる?」
「いえ、瀬川さん普通に若いのになんでだろうって思って」
「いや、俺なんてもう三十路寸前のおっさんやで」
楽しそうな声だった。特に怒っている感じはない。
「最近少しずつ油っぽい物がキツくなってきたんよなぁ」なんて言いながら汁物に口をつける。
「まあ、肉も嫌いやないけど、朝から重いもん食うと動きにくいやん」
「ああ、そういう理由なんですね」
「透也ちゃんは?」
「特に大した理由はないです。今日はなんとなく魚の気分でした」
食事の終わりに差し掛かった頃、瀬川が端末を取り出して画面を確認した。
「今日、午前中は一緒に出てもらうわ」
「出る……?」
「巡回や。FRは定期的にやっとる。透也ちゃんがどんな感じか見たいしな」
昨日の言葉を思い出す。
『透也ちゃんがどんな人間なんか、どんな考え方するんか、ほんでヒーローとして現場に出してええ人間なんか。そこはちゃんと見させてもらう』
つまり今日次第で推薦を貰えるかどうかが決まるということだろうか?
「分かりました。精一杯頑張ります」
「気ぃ張らんでええで。ただ街歩くだけやから」
そう言いながら瀬川は立ち上がり、食器をまとめてカウンターへ返しに行く。俺も後を追いながら、胸の中でかすかに残っている昨夜からの引っかかりに気付いた。
湊の件については、まだ答えが出ていない。
でも、今の俺にできることは目の前にいる人間を見ることだけだ。
原作を読んでいても、この世界は俺がいる時点で原作とは違う。
だから俺は自分の目で判断するしかない。
♢
FRの施設を出ると、空は薄く曇っていた。
先週まで続いていた雨の名残なのか、空気はまだ少し湿っている。
それでも雨はしっかりと上がっていて、道路に残る濡れた反射が朝の光を白く返していた。
どこに行くのか俺が訊くより先に、瀬川は自然な足取りで歩き始めた。
「まずは東側から流して、商店街抜けてから戻ってこよか」
「わかりました」
俺は隣に並びながら周囲を見回す。
ASCがある区画よりも、ここは人の流れが多かった。
朝の時間帯だからか、駅の方向へ向かう人波と、そこから流れてくる人波が交差している。飲食店の開店準備をしている店員や、犬の散歩をしながら歩く老人。子供を連れた親が数人、横断歩道を渡っていく。
悠との巡回を思い出した。あの時も同じように街へ出て、気付けばずっと歩き回っていた。
ただ瀬川の巡回は、少し違った。
最初に気付いたのは、路地を曲がったところだった。
花屋の前で箱を運んでいた女性が顔を上げた瞬間に、その表情が変わったのだ。
「瀬川さん、今日も早いですね」
「おはようさん。搬入ですか?」
「ええ、また重たいのが来て……」
「手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。もう終わりますから」
その会話は三十秒もかからなかった。瀬川は特別なことを何もしていない。立ち止まって、挨拶して、一言だけ声をかけた。それだけだ。
ただ、それは一度じゃなかった。
少し先の角では、登校前らしい子供が声をかけてきた。
「瀬川ー!」
呼び捨てだった。子供は走り寄ってくるわけでもなく、向こうの歩道から手を振っているだけだが、その気安さは明らかだった。
「おはよう。今日も学校か?」
「うん。瀬川はサボり?」
「今、絶賛仕事中や」
そう返しながら瀬川は歩みを止めない。すごく自然な流れだった。向こうから声をかけられるのが当然の事のように、その場の空気に溶け込んでいる。
商店街に差し掛かった頃には、それがどういうことなのか分かってきていた。
八百屋の店主が話しかけてくる。
理髪店の前で掃除をしていた初老の男性が顔を上げて短く会釈する。瀬川は名前を呼んで、先日の話の続きとおぼしき一言を添えた。
コンビニから出てきた若い女性が立ち止まって「お疲れ様です」と声をかける。「体調の方は良くなりました?」と瀬川が返すと、女性は少しだけ照れたように笑った。
俺は黙ってその隣を歩きながら、考えていた。
特別なことは何もしていない。瀬川は誰かを助けたわけでも、事件を解決したわけでもない。ただ、相手の名前を呼んでいた。
以前の会話を覚えていて、その続きを自然に繋いでいた。
それだけのことなのに、声をかけてくる人間が途切れない。
悠も住民から好かれていた。だが、悠が向けられる感情には普通のヒーローと同じように憧れや尊敬に近いものがあった。困っている時に助けに来てくれるヒーローという意識が、悠に対する人々の態度に滲んでいた。
瀬川への感情は少し違う。近所に住んでいる顔なじみ、という感じに近かった。だから子供達は呼び捨てで名前を呼ぶし、店主達は当たり前のように話しかけてくる。
「透也ちゃん静かやな」
商店街を抜けたところで、瀬川がこちらを見た。
「ちょっと考え事を」
「考え事?」
「瀬川さんって、住民の人とすごく仲が良いなって思って。なんだか……」
「地元の人みたいって感じか?」
「そういう感じです。みんな自然に話しかけてくる」
「まぁ、そうやな」
瀬川は特に照れた様子もなく頷く。
「この辺は担当になって四年になるから」
「四年……」
「それだけおったら顔覚えるし、向こうも覚えてくれるやろ」
言葉は簡単だったが、四年間通い続けるというのは単純な話ではない。
悠の巡回を見ていてもそれは感じていた。一度や二度顔を出しただけでは、あそこまで気安い距離感は生まれない。
「でも、名前まで覚えてるのは別じゃないですか?」
「そうか?」
「さっきの八百屋さんも、コンビニの人も、全員名前呼んでましたよね」
「そりゃ何度も会っとるし」
「でも、友達でも仕事仲間でもないのにそんなに覚えられるものですか?」
瀬川は少しだけ考えるように視線を前へ向けた。それから当たり前のように言う。
「好きやから覚えとるんちゃう?」
「好き、ですか?」
「俺、人の話聞くのが好きなんやと思う。名前覚えるのは単純に好きな事の延長ってことやないかな」
特別な訓練や意識の話ではなかった。
その言葉に引っかかりを感じたのは、きっと彼の言った言葉が本当のことだからだ。好きだから自然に覚える。覚えているから相手も覚えてくれる。それだけのことが、四年間積み重なるとああいう距離になる。
川沿いの道へ入ると風が少し強くなった。
欄干のそばで釣りをしていた老人が顔を上げ、瀬川へ短く手を振る。瀬川は「おはようございます。釣れてますか」と声をかけて、老人は「さっぱりや」と笑っていた。
俺はそれを見ながら、悠のことを考えていた。
悠との巡回では、困っている人に気付いて声をかけるのは悠の方だった。こちらから話しかけて、手を貸して、事が済んだら離れる。向こうから声をかけてくることは、ほとんどなかった。
でも瀬川は違う。向こうが先に話しかけてくる。
それはどういう違いなのだろうと、歩きながら考えた。
悠が向けられている感情には、少し距離があった。尊敬や安心に近い感情で、瀬川のように日常の延長というよりは、いざという時に頼れる存在、という種類のものだと思う。
困っている時には側にいてほしいが、普段から隣にいるとは思っていない。
住民からの瀬川への感情は悠よりもっと近い。
朝に顔を合わせれば当たり前のように挨拶をして、たわいもない話をして別れる。ヒーローというより近所の気のいいお兄さんって感じだ。
どちらがいいとかではないけど、どこか引っかかるものがある。
「俺と別のヒーローを比べてるやろ」
突然言われて、思わず瀬川を見た。
「顔に出てましたか」
「何か考えとるのは分かった。まあ大体そういうことやろうと思って」
瀬川は特に気にした様子もなく川沿いの遊歩道を歩き続ける。視線は前へ向いていた。
「ASCのブレイバーやろ。相良さんから聞いとる」
「はい」
「あの人の巡回って、どんな感じやった?」
少し考えた。
「彼は、巡回しながら困っている人を探して、見つけたら自然に手を貸すって感じですね」
「ほな俺と何が違った?」
「……瀬川さんは、向こうから話しかけてきますよね。住民の人から」
「そうやな」
「なんでそうなったのか気になってました」
瀬川はしばらく黙って歩いた。遠くで電車の音がして、橋の上を通り過ぎていく影が水面に映る。
「相良さんが認めるくらいやしブレイバーってかなり強いんやろ?」
「そうですね。組み手した事あるんですけど、その時は手も足も出なかったです」
「やっぱりそういう人ってさ、頼りになる、助けてくれる、って感じで周りに見られると思うんや」
「そうですね」
「俺、そういうのが苦手でな」
意外な言葉だった。思わず瀬川を見ると、本人は苦笑いをしていた。
「俺のイデアって別に派手やないし、見てて格好いいもんでもない。後輩に序列抜かれることもある。そういうの全部考えたら、強いヒーローとして住民に見られようとしてもしゃあないな、と思って」
「それで、名前を覚えたり話を聞いたりするようになったんですか」
「最初はそういう考えじゃなかったけど」と瀬川は言う。
「まあ結果的にそうなったな」
欄干の向こうで、川面が風に揺れていた。
「ヒーローって戦うだけじゃないやん。俺はどんな時でも困っとる人の側にいるってことが大事って考えとる。何かあった時に真っ先に顔を思い出してもらえるヒーローでいたいって考えとるんや」
その言葉が、静かに胸の中へ落ちていった。
悠への憧れは変わらない。あの人のような在り方を俺は本物だと思っている。でも、瀬川がやっていることも、同じくらい本物だと思った。
華やかではないし、誰かに武勇伝のように語られるような話でもない。ただ四年間、同じ街を歩き続けて、同じ人間の顔と名前と話を覚えていった。その積み重ねが、朝の商店街で何人もの人間が自然に声をかけてくる距離を作った。
どんな時でも側で助けられるように。
俺は眼鏡のフレームに触れながら、小さく息を吐いた。
「……瀬川さんって、ちゃんとヒーローなんですね」
「何、急に」
「いや、なんとなくそう思ったので……」
瀬川は少しだけ間を置いてから、照れたのか呆れたのか分からない顔で笑った。
「当たり前やろ、そんなん」
♢
河川沿いの遊歩道を戻る頃に、瀬川の端末が鳴った。
それまでの穏やかな空気が変わったのは、通知音よりも、それを確認した瀬川の表情が僅かに引き締まったからだった。
「少し待っといてな」
短くそう言って、端末を耳に当てる。
俺は少し離れた位置でそれを見ていた。川沿いの風が穏やかに吹いていて、桜並木の葉が静かに揺れている。
FRに来てから初めて見る穏やかな景色だったが、瀬川の背中を見ているとその穏やかさが別のものに見えてきた。
会話の内容は聞こえない。ただ、端末を持つ手に僅かに力が入っている。
通話は長くなかった。一分もかからないうちに瀬川は端末を下ろし、こちらを振り返る。
「FRから連絡や」
その声は、朝食堂で聞いたものとは少し違った。気安さはそのままだったが、その奥に別の何かが混じっている。
「廃棄区画で新しい被害者が出た。現場確認に入るから、一緒に来てもらうわ」
「分かりました」
「危険やと思ったらすぐ逃げる、いいな?」
俺は小さく頷く。
端末をポケットへ仕舞いながら、瀬川はすでに歩き始めていた。さっきまでの巡回の足取りとは明らかに違う。同じ速度でも、その一歩一歩の重さが変わっている。
俺はその隣を並んで歩きながら、胸の中で静かに何かが組み上がっていくのを感じていた。
昨日の資料が頭の中に戻ってくる。被害者の証言。聞き覚えのあるアステリオンという名前。そして廃棄区画という場所。
原作が今より大きく変わる可能性を、俺は昨日から考え続けていた。確信はない。だが否定する根拠もない。
「透也ちゃん。またなんか考え事か?」
「……はい」
一瞬だけ迷った。
「昨日の資料のことを思い出してました」
「廃棄区画のやつか」
「はい」
瀬川は前を向いたまま、少しだけ歩幅を緩めた。
「まぁ、現場見てから話そか。今は俺も全部分かっとる訳やないし」
「そうですね」
「ただひとつだけ言うとくわ」
瀬川がこちらを見る。視線は穏やかだったが、その奥には昨日と同じ重さがあった。
「廃棄区画に入るっていうのは、普通の街とは訳が違う。危険やから最初は無理はせんといてな」
その言葉が、今の俺への配慮なのか、それとも経験から来る忠告なのか、あるいは両方だろうか。
「廃棄区画には慣れているから大丈夫」と言おうとしたが、瀬川の真剣な様子に思わず言葉が詰まる。
街の密度が少しずつ変わっていった。
整備された歩道が途切れ、路面の継ぎ目が増える。看板の色が褪せ始め、人の流れが薄くなる。
それでもまだここは普通の街だったが、足を踏み入れる先に何があるのかは、昨日の写真で見ていた。
歪な形をした建物。無理やり繋げられた鉄骨の通路。上下左右に増築を繰り返した結果、大きく広がった迷宮。
俺は静かに息を吸った。
湊のことを考えるのをやめた方がいいのか、考え続けるべきなのか、まだ分からない。
原作知識があることと、目の前の現実に対応できることは別の話だ。
原作で読んでいた出来事でも、今の自分の立場から見れば全く違う景色になる。
それは昨日、瀬川の口から語られる廃棄区画の事件を聞きながら感じたことだった。
原作知識だけで知っているつもりになるのが、一番危ないのかもしれない。
瀬川の背中が少し先を行く。
その歩みに迷いはなかった。どこへ向かうのかを知っていて、何に向き合うことになるのかも知っていて、それでも足を止めない。長い間、この街を守り続けてきた人間の足取りだった。
俺はその後を追いながら、胸の中で静かに決めた。
原作とは違う景色だとしても、目を逸らさないようにしよう。