TS転生失敗作ちゃんが頑張る話   作:cannolo

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19.変貌

 

廃棄区画へ近付くにつれて、人の気配は少しずつ薄れていった。

 

元々この辺りは人通りの多い場所ではないが、それでも市街地から完全に切り離されたような静けさには独特の不気味さがある。道路脇に並ぶ古い建物はどれも使われなくなって久しく、錆びた外壁や割れた窓ガラスが放置されたままになっていた。

 

吹き抜ける風がどこかへ引っ掛かるたびに金属の軋む音が響き、その度に俺は無意識のうちに周囲へ視線を巡らせてしまう。

 

この世界に来てからヴィランとも戦ったし、何度か死にかけた。短い間だが廃棄区画で暮らしていたこともある。普通なら一生経験しないようなことも見てきた。

 

それでもこういう場所は少し落ち着かない。

 

原作でも廃墟や工場跡地は何度も登場していた。ヴィランの拠点だったり、ヘリオスの隠れ家だったり、主人公達がヴィランと死闘を繰り広げたり。

読者だった頃はそういう展開に興奮していたが、実際に足を踏み入れる側になると感想はだいぶ違う。

 

正直に言えば、あまり来たい場所ではなかった。

 

「結構広いなぁ」

 

前を歩く瀬川が周囲を見回しながら呟く。

軽い調子だ。まるで休日に散歩でもしているような声色だった。

 

もちろん本気で気楽に考えているわけではないだろう。

ここへ来る途中も何気ない会話を続けながら、視線だけは常に周辺を警戒していた。

 

廃棄区画の入口が見えてくる。

朽ちたフェンスに崩れかけた管理棟。その向こうには骨組みだけになった建物がいくつも並んでいた。

 

瀬川が足を止める。

 

「ほな、この辺からやな」

 

そう言って手首へ視線を落とした。

次の瞬間、瀬川の体を淡い光が走り、デバイスから展開された光のラインが全身を駆け巡り、普段着の上からライダースーツのような見た目のヒーロースーツが形成されていく。

 

何度見ても未来的だ。

 

現代のヒーロースーツは悠のスーツと違って携帯型デバイスから瞬時に装着できるものが主流になっている。

戦闘や救助の現場へ一秒でも早く対応するための技術で、今では当たり前のように普及しているらしい。

 

前世の感覚が残っているせいだろうか。

俺は未だにこういう光景を見ると少し興奮してしまう。

瀬川は装備の状態を確認すると、何気ない様子でこちらを振り返った。

 

「透也ちゃんは装着せぇへんの?」

 

その瞬間、嫌な汗が背中を伝った。

完全に忘れていた。いや、正確には思い出した。

思い出してしまった。

 

「……スーツならあります」

 

「うん」

 

「ASCに……」

 

「ASCに?」

 

「……はい」

 

「なんで持って来てへんの?デバイスなんて腕時計とそう変わらんし、いつでも身につけとるもんやろ」

 

視線を逸らした。

逃げ場はない。

 

「えっと、あの、私まだ自分のスーツ持ってなくてですね、借りたんですけど、そのスーツが旧型なので……」

 

風が吹いた。どこかで金属が軋む音が響く。

瀬川はしばらく無言のまま俺を見つめていたが、やがて額へ手を当てた。

 

「透也ちゃん」

 

「はい」

 

「ここ一応危険区域やで?」

 

「分かってます……」

 

「なんで忘れんねん」

 

「泊まりになるなんて思わなかったから持ってきてなくてぇ……」

 

「あぁ、なるほど……」

 

気まずい。仮にも推薦を貰いにヒーロー企業へ行くのだからスーツを持っていくのは当然だろう。こればかりは考えが及ばなかった俺が悪い。

前世でも似たような失敗を何度かやった記憶がある。我ながら学習能力がない。

瀬川は呆れたような顔をしていたが、やがて諦めたように肩を竦めた。

 

「まぁええわ。スーツなくても動けるんやろ?」

 

「それは大丈夫です」

 

「なら行こか」

 

そう言って先へ進む背中を見ながら、俺は小さく息を吐いた。

推薦人の前で何をやっているんだろう。

正式なヒーローですらないのに。

 

情けない気持ちを抱えたまま、俺は瀬川の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廃棄区画の中は思った以上に静かだった。

 

建物同士が密集しているせいで風の通り道が限定されているらしく、外で聞こえていた音もほとんど届かない。

瓦礫の上を踏む足音だけがやけに大きく響き、その度に周囲の静寂が強調される。

 

空を見上げると、崩れた天井の隙間から灰色の雲が見えた。

原作でも見覚えのあるような景色だった。

だからこそ落ち着かない。

この世界のこういう場所は、大抵ろくなことが起きない。

 

そんなことを考えていた時だった。

 

不意に瀬川が足を止めた。その動作はあまりにも自然で、一見すると何かに気を取られただけにも見える。

だが、そのわずかな変化から彼が警戒を強めていることはすぐに伝わってきた。

 

俺もつられるように視線を瀬川の見ている方に向ける。

 

建物の角、その陰から半ば姿を現すようにして三人の人影が立っていた。距離にして二十メートルほど。

最初に脳裏をよぎったのはヴィランの存在だったが、すぐにその考えは揺らぐことになる。

 

とても妙だった。

 

こちらの存在には気付いているはずなのに、相手からは何の反応も返ってこない。

いや、正確には反応がないわけではない。ただ、その在り方がどこかおかしかった。

 

三人とも立ってはいる。しかし、そこに生きた人間らしい安定感がない。

重心は頼りなく揺れ、身体はわずかにふらつき続けている。

視線も定まらず、焦点の合っていない目が虚ろに空間を漂っていた。

 

まるで何日も眠ることを許されず、限界を迎えた身体だけを無理やり立たせているようだった。

あるいは糸の切れかけた操り人形が、辛うじて倒れずにいるだけと言った方が近いかもしれない。

 

その異様さは一目見ただけで理解できた。目の前にいるのは単に様子のおかしい人間ではない。

何かが決定的に狂っている。そう思わせるだけの不気味さが、三人の全身から静かに滲み出ていた。

 

「……人がおるな」

 

瀬川が小さく呟いた。

 

その声には確信まではないものの、見過ごせない何かを感じ取った者特有の硬さがあった。

俺もまた同じ違和感を覚えていた。目の前の三人から漂う異様さは誰の目にも明らかだったが、その正体までは掴めない。

何がおかしいのかと問われれば答えられないのに、本能だけが警鐘を鳴らし続けている。

 

短い沈黙のあと、瀬川がゆっくりと一歩前へ出る。

 

探るような慎重さを滲ませながらも、その足取りに迷いはない。距離を詰めれば何か分かるかもしれない。そんな考えが見えるようだった。

 

「おい。そこで何してる」

 

少し湿ったような空気の中で、瀬川が声を掛ける。

 

しかし返事は返ってこなかった。

 

代わりに、三人のうちの一人がゆっくりと口を動かす。

何かを喋っているのは分かる。だが、その言葉はあまりにも小さく、距離のせいもあって内容までは聞き取れない。

独り言のようにも見えたし、誰かに話しかけているようにも見えた。

 

すると今度は別の一人がぼそぼそと何かを呟き始めた。

 

だが、そこに会話らしさはない。

先ほどの言葉への返答ではなく、互いに別々のものを見て、別々のことを口にしているようだった。

断片的な言葉だけが脈絡なく漏れ出し、意味を結ぶことなく空中へ散っていく。

 

その光景を見ているうちに、背筋を冷たいものが這い上がった。

 

薬物の影響だろうか。あるいは、自分たちの知らない別の何かが起きているのか。

考えはいくつか浮かぶのに、どれもしっくりこない。

 

ただ一つだけ確かなことがあった。

 

目の前にいる三人は、少なくとも正常な状態ではない。

それだけは、距離を隔てていても嫌というほど伝わってきた。

 

次の瞬間、それまでこちらを見ているのかすら分からなかった三人の身体が不意に前へ傾いた。

 

動き自体は決して速くない。むしろ足取りは不安定で、今にも転びそうなくらいだった。

それなのに、そこには嫌な気味の悪さがあった。まるで人間が自分の意思で走っているのではなく、どこか別の場所から無理矢理身体だけを動かされているような違和感がある。

 

瀬川も同じものを感じたらしい。

 

「透也ちゃん、気ぃ付けや」

 

軽い調子のままそう言いながら、一歩前へ出る。

その瞬間にはもう戦闘態勢へ入っていた。

 

目の前まで迫っていた男が腕を振り上げる。しかし軌道は大雑把で、正面から見えている攻撃だった。瀬川は難なく身を捻って避けると、近くへ転がっていた鉄骨へ手を叩く。

 

直後、近くに転がっていた鉄骨がふわりと宙へ浮かび上がる。

瀬川はそれを片手で掴むと、躊躇なく男の胴を横薙ぎに打ち払った。

 

鈍い衝撃音が響き、男の身体が大きく吹き飛ぶ。

地面へ叩き付けられた勢いのまま何度か転がり、そのまま動かなくなってもおかしくない一撃だった。

 

だが男は倒れたままでは終わらなかった。

ゆっくりと身体を起こし、ふらつきながらも再び立ち上がる。

その姿を見て、俺はわずかに眉をひそめた。

立ち上がること自体は不思議じゃない。

イデアを持った人間なら、多少の衝撃で動けなくなるとは限らない。

 

違和感があったのは、その様子だった。

 

男からは痛みを受けた人間特有の反応がまるで感じられない。

苦しそうに呼吸を乱すこともなければ、打ち付けた箇所を庇うこともない。

ただ倒されたから起き上がる。それだけの行動を機械的に繰り返しているように見えた。

 

普通の人間なら本能的に危険を避ける。傷付けば身を守ろうとするし、恐怖を感じれば距離を取る。

だが目の前の連中からは、そうした人として当たり前の反応がごっそり抜け落ちていた。

 

まるで身体だけが動き続けていて、その奥にある筈の意識がどこかへ消えてしまったかのようだった。

 

嫌な感覚が胸の奥に引っ掛かったまま消えない。

そんな俺の思考を断ち切るように、別の一人がこちらへ向かって駆け出してきた。

 

勢い任せに振り上げられた拳が一直線に迫る。

だが、その動きはあまりにも単調だった。

力はあるのかもしれない。けれど技術も駆け引きもなく、身体の使い方にも粗さが目立つ。

 

遅い。そう判断した時には、もう身体が動いていた。

 

半歩だけ軸をずらして拳を外し、すれ違いざまに腕を掴む。

そのまま前へ流れる勢いを利用して体勢を崩すと、男の身体は抵抗する間もなく宙へ浮き、近くの壁へ激しく叩き付けられた。

 

鈍い衝突音が周囲に響く。

コンクリートへ背中を強打した男は、その場へ崩れ落ちた。

普通なら立ち上がるどころか、しばらく呼吸を整えることすら難しいはずだった。

 

だが男は倒れたまま口を動かし続けていた。

途切れることなく、まるでそれだけが重要だと言わんばかりに何かを喋っている。

断片的な単語が途切れ途切れに漏れ出しているのに、肝心の内容だけが霧の向こうに隠れているようだった。

 

思わず耳を澄ませるが、言葉そのものは最後まで聞き取れなかった。

それでも声の奥に滲む感情だけは伝わってくる。

 

何かに追い立てられているような焦燥か。

得体の知れないものへ怯える恐怖か。

あるいは誰かへ必死に手を伸ばそうとする切実な願いか。

 

正体は分からない。

 

それでも、その切迫感だけは妙にはっきりと伝わってきた。

誰かの名前を呼んでいるようにも聞こえるし、夢の中で漏れる寝言のようにも聞こえる。

断片的な言葉だけが途切れ途切れに耳へ届き、そのどれもが意味を結ぶ前に消えていく。

 

その声に滲む切迫感は、聞いているだけで妙な不安を掻き立てた。

 

ヴィランとの戦闘経験ならある。

暴力を振るう相手を止めることにも慣れている。

だが今回の感覚は、それとはどこか違っていた。

 

目の前の連中は確かに危険だ。放置できる状態ではない。

それでも、ヴィランを相手にしているという感覚が薄い。

むしろ正常な判断力を失い、追い詰められた人間を相手にしているような感覚の方が近かった。

 

理由は分からない。

ただ、その説明し難い違和感だけが胸の奥に残り続けている。

 

俺は意識を切り替えるように視線を上げた。

 

瀬川は既に二人目を制圧していた。

 

やはり強い。

 

周囲に散乱した瓦礫や鉄骨を自然に利用しながら相手を追い込み、最小限の動きで無力化していく。

その戦い方には経験に裏打ちされた確かな技術があった。

 

その時だった。

 

突如として遠方から轟音が響き渡り、腹の底を殴られたような衝撃が全身を震わせた。

一拍遅れて足元の地面が揺れ、砕けたコンクリートの破片がかすかに跳ねる。

 

反射的に顔を上げる。

 

視線の先にあったのは、廃棄区画のさらに奥に建つ巨大な建造物だった。

 

その一角が崩れている。

 

コンクリートの外壁が内側から押し潰されたように砕け、巨大な瓦礫が次々と地上へ降り注いでいた。

遅れて灰色の土煙が噴き上がり、建物の輪郭を覆い隠していく。

 

老朽化による崩落には見えなかった。

長い年月をかけて脆くなった建物が自然に壊れたというより、何かが内部で暴れ回り、力ずくで壁を引き裂いたように見える。

 

もちろん距離がある以上、本当に何が起きたのかは分からない。

それでも、あの崩壊の中心に何らかの異常があることだけは直感的に理解できた。

 

立ち昇る土煙を見つめながら、俺は無意識に眉をひそめる。

 

「っ!?」

 

何が起きたのか。

 

崩れ落ちる建物を見つめながらそう考えた直後、不意に視界の端を人影が横切った。

 

反射的にそちらへ目を向けると、そこにいたのは瀬川に倒され、先ほどまで地面へ倒れていた男だった。

 

瀬川に制圧されたはずのヴィランは、まともに歩くことすら困難そうな足取りで、それでも転びそうになりながら前へ進んでいる。

身体はふらつき、今にも倒れそうなのに、その足だけは何かに引き寄せられるように廃棄区画の奥へ向かっていた。

 

逃げている。

 

そう判断するには少し違和感があった。

 

周囲を警戒する様子もなければ、追手を振り切ろうとする素振りもない。ただ一つの方向だけを見据え、何かに急かされるように進み続けている。

 

その異様な動きに眉をひそめたところで、隣にいた瀬川も俺と同じように眉をひそめている。

 

瀬川は鋭く視線を向けたまま、わずかに表情を険しくした。

 

「待て!」

 

 声が響く。

 

 だが男は止まらない。

 

 俺は反射的に地面を蹴った。

 

「追います!」

 

「待ち!」

 

瀬川の声が耳に届く。だが、その直後だった。

 

付近の建物の崩落が始まった。

支えを失った巨大な壁が、耳を劈くような轟音と共に傾く。

視界の端で鉄骨がひしゃげ、砕けたコンクリートの塊が豪雨のように降り注いだ。

 

反射的に身を引いた刹那、俺と瀬川の間に瓦礫の山が雪崩れ込んできた。

巻き上がる土煙が、一瞬で視界を真っ白に塗り潰す。

腕で口元を覆い、衝撃に耐えながら激しい耳鳴りに歯を食いしばる。

 

咳を堪え土煙の向こうを凝視すると、そこに瀬川の姿はなく、崩れ落ちた壁と積み重なった瓦礫だけが、俺達を隔てるように立ちはだかっていた。

 

「瀬川さん!」

 

思わず名前を叫ぶと、一拍遅れて、向こう側から返答がある。

 

「透也ちゃん! 無事か!」

 

心底から安堵する。

声の調子からして、大した怪我は負っていないはずだ。

だが、事態が好転したわけではない。

 

目の前を遮る瓦礫はあまりに巨大で、質量も多過ぎた。

俺のイデアなら、制御装置を外せばこの程度の障害物など容易く吹き飛ばせるだろう。

だが、それをやってしまえば周囲の建物や、瓦礫の向こうにいる瀬川まで巻き添えにしてしまう。

無闇に力を行使できないこの状況が、ひどくもどかしい。

 

すぐに合流するのは難しいだろう。

 

土煙が渦巻く向こう側で、再び瀬川の声が響く。

 

「無理に進むな! 一回合流を──」

 

その時だった。

 

瓦礫の隙間から、逃走するヴィランの背中が再び視界に飛び込んできた。

崩れた建物の残骸を縫うように、ふらついた足取りで奥へと遠ざかっていく。

嫌な予感がする。ここであいつを見失ってはいけないと、そう思わずにはいられない。

 

迷う。

 

ほんの数秒の躊躇が、男との距離をさらに広げていく。

胸の奥で、形容し難い嫌な感覚がどす黒い波紋のように広がっていた。

なぜかは分からない。だが、理屈を超えた直感が「あの男を逃がしてはならない」と警鐘を鳴らし続けている。

 

俺は拳を強く握り込み、瓦礫の向こう側へと声を張り上げた。

 

「大丈夫です!」

 

瓦礫の向こうへ向かって叫ぶ。

 

「ヴィランを追います!後で合流します!」

 

瀬川が何かを言い返そうとした気配がした。しかし、俺は返事を待たずに地面を蹴っていた。

 

崩落した廃墟の闇の奥へ。

 

逃げゆくヴィランの背中を標的に、俺はただひたすらに走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荒い息を吐きながら、ヴィランの影を追う。

だが、入り組んだ廃墟の迷宮を抜けた先で、確かな足取りは途絶えた。

無機質なコンクリートの壁が幾重にも交差する路地裏に、俺は立ち尽くす。

遮蔽物が多すぎるせいで、自分が今どの区画にいるのか、位置すら判然としない。逃げられた。そう悟り、焦燥に駆られながら周囲を見回した。

 

その時だった。

 

静寂を切り裂くような、凍てつくほどに張り詰めた声が、耳を掠めた。

心臓が不規則に脈打つ。

何かが起きている。俺は身を隠すように壁へ背を沿わせ、気配を殺しながら声の主を追った。

 

路地の角を回り込んだ先に、異様な光景が広がっていた。

壁にもたれかかり、力無く項垂れている男。そして、その側に立つ人影。

 

逆光に晒されたその姿を視界に焼き付け、俺は眉をひそめた。見覚えのあるその装甲に、反射的に瞳孔が開く。

視界の端から端まで、細部まで凝視した瞬間、俺の喉から名前がこぼれ落ちた。

 

「……湊?」

 

その呼びかけに、鋭利な刃のような視線が、一拍置いて俺を射抜いた。

 

「……お前がどうしてここにいる」

 

警戒心を滲ませながら湊が話かけてくる。

 

「えっと、ヒーロー免許取得の推薦を得るため、正式な調査依頼を受けて別企業のヒーローとこの廃棄区画に来ました。……まあ、同行していたヒーローとは別行動中ですが」

 

前のような無用な疑念を抱かれないよう、淡々と、しかし簡潔に事情を説明する。

 

湊の目的は明白だ。

彼の目の前にいる男はおそらくヴィランだろう。男からヘリオスに関する情報を吐き出させようとしているのだ。

 

張り詰めた空気の中で、湊は俺を一瞥した。

だが、そこに宿っていたのは興味ではなく、単なる「障害物の確認」に過ぎなかった。

すぐさま冷ややかな視線は、再び目の前の獲物へと戻される。

 

俺を相手にする気などないらしい。

その反応に、胸の奥で複雑な感情が渦巻く。

物語の主人公である湊とこうして対峙しているというのに、今の彼にとっての俺など、数あるノイズの一つに過ぎない。

 

自分という存在が、物語からどれほど遠い場所にいるかを突きつけられたような気分だった。

 

でも、それは当然のことだ。

今の湊にとって重要なのはヘリオスの行方であり、その手がかりである目の前のヴィランだけなのだから。

俺の存在など、彼が背負っている重圧の前ではあまりにも軽い。

 

「もう一度聞く」

 

湊は低く、抑揚のない声で言い放った。

掴み上げたヴィランの髪を力任せに引き上げ、無理矢理にその顔を正面へ向かせる。

 

「ヘリオスについて知っていることを話せ」

 

返事はない。いや、正確には言葉が返ってこないのだ。

ヴィランの口が、カチリと音を立てるように開閉する。だが、そこから紡がれる言葉は意味を成していなかった。

 

男の目は虚ろだった。焦点はどこにも合っておらず、ただ虚空を見つめている。

先ほど路地で遭遇した連中と、まったく同じ状態だ。

呼吸は荒く、額には嫌な脂汗がびっしりと浮かんでいる。

尋問に耐えられる状態ではないのは誰の目にも明らかだった。

 

「……きこえる」

 

掠れた、削り取られたような声。

 

「ずっと……」

 

「聴こえる?何がだ」

 

湊が即座に食い下がる。だが、返ってきたのは「ああ……」という、意味のない呻きだけだった。

会話は成立していない。俺に分かっている以上、湊に分からないはずがない。

 

それでも彼は手を緩めなかった。ヴィランの襟元を掴む指には、白く力がこもっている。

 

焦っているのだ。

 

ヘリオスという巨大な影を追い続けているにもかかわらず、その核心には一向に手が届かない。

掴みかけたはずの手が、砂のように零れ落ちていく感覚。

そんな強烈な苛立ちが、湊の背中から滲み出ているようだった。

 

原作でもそうだった。

 

ナオを守るために、湊は何度も危うい橋を渡っていた。

だから、気持ちは分かる。

 

けれど、目の前の男はどう見ても正常ではない。

情報源としては、機能しないだろう。

 

「……もうやめましょう」

 

思わず口を開くと、湊は苛立ちを露わに冷ややかな視線を俺に向けた。

 

「何がだ」

 

「見れば分かるでしょう。この人はまともな状態じゃありません」

 

「だから?」

 

返答は冷酷なまでに早い。

迷いもなければ躊躇もない。最初からその程度のことは承知の上だと言わんばかりの態度だった。

 

「だからって、放っておけと言っているのか」

 

「そういう話じゃありません」

 

「じゃあどういう話だ」

 

声は低く抑えられている。怒鳴ってはいない。

だが、その底には確かな怒りがマグマのように渦巻いていた。

 

「少なくとも、今の状態で尋問しても無駄です。本当に彼がヘリオスの情報を持っているのかさえ怪しいのに、これ以上続ける必要があるんですか」

 

「意味があるかどうかは俺が決める。それに、こいつは俺がヘリオスの名を出した途端、大慌てで逃げ出したんだ。後ろめたい情報を持ってなきゃ、そんな反応はしねえだろうよ」

 

「でも彼はもう限界です。こんな状態で尋問を続けて死なせてしまったら、それこそ元も子もないでしょう」

 

そう言った瞬間だった。

 

空気が凍りつく。湊の目が細められる。

ぞっとするほど冷たい、殺気を含んだ瞳だった。

 

原作を読んでいた頃には気づけなかった。

いや、読者という特等席にいたからこそ、見えなかったのかもしれない。

 

「主人公」であり、「正しい側」の人間。そう決めつけていたからこそ、彼の抱える危うさから目を背けていたのだ。

けれど今、目の前にいる湊は、決して慈悲深いだけの人間ではない。

 

「死ぬ……?」

 

湊が小さく、冷笑にも似た呟きを零す。

 

「ヘリオスのせいで、何人消えたと思ってる」

 

静かな声だった。だからこそ、その言葉は鼓膜の奥まで深く突き刺さる。

 

「こいつらのせいで人生を奪われた奴が大勢いる。今もどこかで、助けを待っている奴がいるかもしれない。手遅れになってからじゃ遅いんだよ」

 

湊の視線が、再び虚ろなヴィランへ落ちる。そこには一切の迷いがない。

 

「だったら、吐かせるしかないだろ」

 

その言葉に、一片の嘘もなかった。

彼は本気だ。心から誰かを救おうとしている。だが、その強烈な正義感こそが、彼を冷徹な手段へと突き動かしている。

 

だからこそ、厄介なのだ。

正しいことをしようとする彼の意志を、俺には否定する術がない。

 

間違っていると切り捨てることは、俺にはできない。

俺は原作の展開を知っている。湊がどれほど過酷な運命を背負うことになるのか。そして、誰を守るためにその身を削っているのかも知っている。

 

それでも、目の前で繰り広げられる惨状を、是とすることはできなかった。

ヴィランが苦悶に満ちた咳を吐き出す。口元から零れ落ちた赤黒い血が、乾いた地面に染みを作る。

その様子を眺めるうち、胸の奥で得体の知れないざわめきが波打った。

この男はただ消耗しているのではなく、何か決定的なものが欠けているように感じる。

 

その時だった。湊がヴィランを追い詰めるように一歩踏み出し、再びその襟元へ手を伸ばした。

 

反射だった。

思考が追いつくよりも早く、俺の身体が動いていた。

気付けば二人の間に割り込み、俺は湊の腕を強く掴んでいた。

 

自分でも驚く。俺は本当に、この男を止めるつもりなのか?一度、大敗を喫しているのに。

だが、一度踏み出した足はもう引けない。

 

「私は、やめろと言ったんですよ」

 

自分でも信じられないほど、毅然とした声が出た。

湊が、ゆっくりと俺に視線を向ける。

今までは、鬱陶しい部外者を値踏みするような目だった。

だが、今の瞳は違う。

そこには、明確な敵意が宿っていた。

 

「離せ」

 

低く、地を這うような声だった。

背筋に冷たいものが走る。正直に言って、恐ろしかった。

原作の主人公だとか、そんな知識はもはや何の防波堤にもならない。

純粋に、強者としての圧倒的な殺気と威圧感に、本能が震えていた。

それでも、俺は手を離すことはできない。

 

「やめるなら離します」

 

喉が枯れ果てたように渇き、心臓が耳元でやかましく脈打っている。だが、俺は湊の瞳から視線を逸らさなかった。

 

「それに、この人、何かおかしいんです」

 

「は?ヴィランなんて元から全員おかしいやつしかいねえだろ」

 

「いや、そうじゃなくて──」

 

言いかけた、その瞬間だった。

 

背後で、異様な音が聞こえた。

 

言葉の続きが、喉の奥で凍りつく。

 

それは湿った、陰湿な音だった。

まるで濡れた肉の塊を、硬質なコンクリートの上に無造作に叩きつけたような、生理的な嫌悪感を催す嫌な音。

思考よりも早く、俺の身体が硬直した。

 

反射的に振り返る。

 

拘束されていたヴィランは、深く俯いたままだったが、全身が、小刻みに、あわただしく震えている。

最初は怯えによる震えかと思った。だが、どこか違う。

 

その震えはあまりにも異常だった。寒さでも恐怖でもない。

内側にあるもっと根本的な何かが、音を立てて崩れ去ろうとしているような、そんな根源的な危うさを孕んでいた。

 

湊も異変を察知したのだろう。

俺の腕を振り払うことすら忘れ、驚愕の表情でヴィランを見つめている。

 

「……おい、あれは何だ」

 

湊の緊張した硬い声が響く。

突然の事態に返事はできなかった。代わりに、男の喉の奥から掠れたような呻きが漏れ出す。

ひどく苦しそうだった。呼吸をするたびに胸が大きく跳ね上がり、そのたびに全身が痙攣する。

肺の中に無数の異物でも詰め込まれているかのような、酷く湿った呼吸音が、静寂の中で耳障りに響いた。

 

嫌な予感が、風船のように膨れ上がっていく。

理由は分からない。だが、決して目を離してはいけない、そんな本能的な確信が脳裏をよぎる。

 

そして、次の瞬間だった。

 

ヴィランの身体が、弓なりに大きく跳ねた。

直後、濁流のように血が溢れ出した。

口や鼻から大量の赤黒い液体が、飛沫となって地面へ飛び散る。

思わず息を呑み、俺は立ち尽くした

 

だが、異変は終わらない。

 

皮膚の下で、何かが蠢いている。生き物のように、筋肉のように。

いや、そんな生易しい言葉で片付けられるものではない。

肉そのものが、まるで意志を持ったかのように形を歪め、膨らみ、盛り上がっていく。

それは人間の身体が、人間であることを激しく拒絶し、別の何かに作り変えられていく、あまりに冒涜的な変貌だった。

 

「っ……ぁあ!」

 

ヴィランが、喉を切り裂くような悲鳴を上げた。

その声に、俺の身体が反射的に強張る。

それは助けを乞うような声だった。耐えがたい痛みに、自我を崩壊させまいと必死に縋りつく、紛れもない人間の声だ。

それなのに、皮膚は無残に引き裂かれ、筋肉は異常な速度で肥大し続ける。

骨格が軋み、きしむ音を立てて強引に拡張されていく。

 

聞きたくもない不快な破壊音が、廃棄区画の静寂を塗りつぶすように響き渡った。

俺は目を逸らせなかった。逸らしたかった。今すぐこの場から逃げ出したかった。

それでも、瞬きすらできない。

知っていたからだ。この地獄のような光景を。この現象を。

 

原作で何度も見てきた光景だ。

けれど、これはおかしい。

早すぎる。こんなところで、こんなタイミングで出てくるはずがない。

頭の中で、警告の鐘が鳴り止まない。

 

俺の知る原作の線路が、今まさに音を立てて脱線しようとしていた。

 

冷や汗が、背中を伝い落ちる。

 

本来、この状況が発生するのはもっと先のはずだった。

この時期でも、この場所でもない。こんな無残な形でもない。

だから、違うと思いたかった。見間違いだと、ただの幻影だと信じたかった。

だが、突きつけられた現実は、そんな淡い希望を容赦なく踏み潰していく。

 

膨張した肉が裂け、歪んだ骨格が悲鳴のような音を立てる。

人間だったものが、人間でなくなっていく。

その無惨な光景を前に、俺の心臓は警鐘のように激しく脈打ち、嫌な音を立て続けていた。

 

やめてくれと、そう願うほどに、頭の中では残酷なまでの答えが明滅する。

 

やがて、その変貌は終わりを告げる。

そこに立っていたのは、もはや人間ではなかった。

異様に肥大化した腕。不自然なまでに膨れ上がった筋肉の瘤。裂けた皮膚の隙間から、どろりとした赤黒い肉が覗いている。

 

怪物だった。誰がどう見ても、そう呼ぶしかない異形の塊。

湊が僅かに身構え、俺も反射的に身体に力を込めた。

 

だが次の瞬間、その怪物の歪な口が、音を立てて動いた。

 

「……たす、け……」

 

掠れた、湿った声。

聞き逃しかねないほど微かな囁き。だが、俺は確かに聞いた。

 

息が止まる。背筋が、芯まで凍りついた。

知っている。これも、痛いほどによく知っている。

こいつは怪物なんかじゃない。その中身は、まだ人間なのだから。

 

彼の意識は、まだ鮮明に焼き付いている。

痛みを感じ、己の身に起きている地獄を理解し、苦しみ、あがき、そして誰かに助けを求めている。

 

なのに、誰にも救えない。

その絶望的な事実こそが、この現象の真の恐ろしさだった。

湊もまた、戦う姿勢を維持したまま言葉を失っている。

その瞳は怪物を捉えていたが、そこには純粋な警戒心だけではない、形容しがたい感情が混じっていた。

 

目の前で起きたあまりに異様な現象を、彼もまた理解しきれていないのだろう。

当然だ。俺だって、原作という予備知識がなければ、ただ茫然と立ち尽くすしかなかったはずだ。

 

その時だった。

 

「なるほど」

 

頭上から、静かな声が降ってきた。

冷徹で、抑揚のない声。だが、その一言だけで辺りの空気が塗り替えられるような威圧感があった。

 

俺と湊は、引き寄せられるように同時に顔を上げた。

 

崩れた建物の残骸の上。

鉄骨が剥き出しになった三階の梁に、一人の男が立っていた。

 

白衣を纏い、細身の身体に整った顔立ち。

男は眼下の怪物を、ただ静かに見下ろしていた。

それは人間を捉える瞳ではない。苦しむ被害者への同情など微塵もない。研究者が実験結果の数値を読み取るかのような、無機質で冷徹な視線だった。

 

「……あの量で、ここまで定着するか」

 

男は呟く。驚きもなければ、苦悶する怪物への慈悲もない。

ただ、そこには観察という名の好奇心だけが横たわっていた。

その異常なまでの冷酷さに、俺は全身の毛が逆立つような悪寒を覚える。

 

男の視線がゆっくりと動く。

 

怪物から、湊へ。そして、俺の顔を捉えた。

 

その瞬間だった。男の表情が、僅かに変化した。

不快感。嫌悪。理解の範疇を超えたものを見た時の、生理的な拒絶反応。

男は数秒間、沈黙したまま俺を見つめ続けた。

その視線に、肺の空気がすべて押し出されるように息が詰まる。俺は原作知識で相手のことを知っているが、相手にとっては初対面のはずだ。

 

「……何故、お前がここにいる」

 

低く、温度のない声。怒りではない。驚きでもない。ただ計算が狂ったことへの不快感。その響きに、心臓が大きく跳ねた。

 

「どう言う意味……?」

 

問い返す俺を無視し、男は興味を失ったように視線を外し、再び湊へと目を向けた。

 

「会いたかったよ。灰崎湊」

 

その名を呼ばれただけで、周囲の空気が張り詰める。

 

「予定より遅くなったが、まあいい」

 

男は静かに、淡々と告げた。その声音には、確信しかなかった。

抵抗されることも、すべてが失敗に終わる可能性さえも、最初から考慮に入れていない。絶対的な自信に裏打ちされた響きだった。

 

「本来なら、ランページとの戦いで君のデータを得るはずだったが、余計な邪魔が入ったからな」

 

その言葉を聞いた瞬間、俺は理解してしまった。

俺の知る「原作」という枠組みが、今まさに音を立てて壊れ始めているのだと。

 

そして目の前にいるこの男こそが、その崩壊の始まりそのものだった。

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