白衣の男の姿を見た瞬間、俺の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
忘れるはずがない。原作に登場したヘリオスの幹部だ。
登場回数こそ決して多くないが、一度見ればその記憶は脳裏に焼き付いて離れない人物だ。
常に冷静で、理性的で、そして何より人間というものに決定的に欠けている何かを感じさせる男。
だが、おかしい。早すぎる。
ブライトが表舞台へ姿を現すのは、もっと物語が進んでからのはずだった。少なくとも今じゃない。
ましてや、湊とこんな場所で遭遇する展開なんて、存在しなかったはずだ。
俺の知る未来が、少しずつ形を変えて崩れていく。そんな予感が胸の奥でどす黒く膨らんでいた。
「お前は誰だ」
湊が問い掛けると、ブライトはわずかに視線を向けた。
その動作に無駄はない。まるで質問されることさえ想定済みだったかのような淡々とした仕草だ。
「名前か、そうだな」
静かな声だった。
「ブライトと、そう呼ばれている」
それだけだった。名乗ることすら面倒だと言わんばかりの簡潔さ。
これ以上説明する気も、取り入る気も皆無らしい。湊の眉が僅かに動く。
「お前はヘリオスの構成員か?」
「……そうだと言ったら?」
「なら、力尽くで情報を吐かせてやるよ……!」
空気が張り詰める。普通ならそれは軽口か脅しだと受け取るだろう。だが湊は本気だ。その場にいる誰もが直感する。必要なら、彼は本当にそうするつもりなのだと。
しかし、ブライトは動じない。
「残念だが、君には無理だ」
声音は変わらない。余裕とも、見下しとも少し違う。
まるでただの気温を述べるかのような、無機質な事実の提示だった。
「随分自信があるみたいだな」
「事実を言ったまでだ」
湊の視線が殺気を帯びて鋭くなる。
だがブライトそれを意に返さず、視線を逸らした。
その先にいるのは、異形と化した人間。
「っ……」
苦しそうな呻き声が聞こえる。全員の視線がそちらへ吸い寄せられた。巨大な身体が、ひどく震えている。肥大化した腕、裂けた皮膚、血に濡れた肉。
人間だった痕跡がかろうじて残っているだけの異形、それでも。
「たすけ……」
助けを求める声が聞こえる。俺は思わず拳を握りしめた。
まだ残っている。意識が、理性が、人間としての欠片が。
怪物の身体が大きく揺れる。内側から何か別の異質なものに、無理やり引き裂かれているみたいだった。
その様子を、ブライトはただ黙って見ていた。
助けるでもなく、止めるでもなく、ただ冷徹な観察者として。
その眼差しは怪物の苦しみではなく、その内側で起きている「現象」の推移だけを追っているかのようだった。
怪物が地面へ手をつく。コンクリートが砕け、巨大な指が深くめり込んだ。
「ぐ……ぁ……」
苦しそうな声。まるで泥の海で溺れているみたいだった。助けを求めている。なのに、俺には救えない。
その時だった。怪物の身体が大きく痙攣した。その瞬間。
咆哮。
それはもはや声と呼べる代物ではなかった。
鼓膜を直接叩き割るような、それでいて湿った肉が引き裂かれる音が混ざり合った異様な轟音。
廃棄区画の空気を物理的に震わせ、床に溜まっていた埃を爆風のように弾き飛ばす。
俺の思考を強制的に停止させるほどの暴力的な響きが、迷宮のような街へと際限なく拡散していった。
轟音に思わず顔をしかめた、次の瞬間だった。
怪物の巨大な腕が振り下ろされ、硬質なコンクリートの床が爆ぜる。
破片が周囲へ飛散し、足元を伝う激しい衝撃が全身を揺さぶった。
湊が一歩前へ出る。その背中には一切の迷いがない。
彼はこの怪物を完全に「討伐すべき対象」として認識していた。
「待ってください!」
思わず叫ぶ。しかし湊は振り返らない。
怪物は即座に追撃へ転じ、再び腕を振り回した。その巨体からは想像もつかない鋭い速度だ。
湊の姿が視界から掻き消える。直後、凄まじい風圧と共に怪物の腹へ彼の拳が叩き込まれた。
衝撃で巨体が大きく傾ぐ。本来なら吹き飛んでいてもおかしくない一撃だった。だが。
「イだ、いっ……」
微かな、しかし確かに届いた声。
俺は息を呑み、目を見開いた。怪物の歪な口が動いている。
今のは間違いなく、人間の悲鳴だった。
怪物自身の威嚇する咆哮ではない。殴られた痛みに対する、紛れもない生者の反応だ。
「っ……!」
胸が締め付けられる。
怪物は苦悶に身を震わせ、巨大な腕で地面を深く抉った。
その姿は獣というよりも、逃げ場のない痛みに耐え抜こうとする一人の人間そのものだった。
「やめてください!」
気付けば俺は叫んでいた。湊が苛立たしげに眉を寄せる。
「何だよ」
「あの人は苦しんでます。聞こえたでしょう!」
「ああ、聞こえた」
「だったら!」
「だから何だ。攻撃をやめろって?」
即答だった。湊は怪物から一瞬も視線を外さない。
「アイツを止めるのが最優先。元が人間だろうが関係ないだろ」
「関係あります!」
「ない」
その一言は冷え切っていた。怪物が再び突進してくる。
湊は躊躇なく踏み込み、迎撃の拳を突き出した。鈍い衝撃音が響き渡る。
「ウゥっ……」
掠れた吐息のような声。その言葉に俺の心臓が引き攣る。
湊の動きがわずかに淀んだが、それも刹那のことだった。
「ここで止めなきゃ、取り返しのつかない被害が出る」
そう断じ、彼は再び前へ出る。
「まだ……助けられるかもしれないでしょう!」
「助けるって、具体的にどうやるんだよ」
問い返され、言葉に詰まる。
答えは持っていない。俺は知っている。原作知識があるからこそ、救う手段などどこにも存在しないことを。
物語の中で、あの状態になった者は、誰一人として救われなかったという残酷な結末を。
それでも、目の前で苦しんでいる人間を、自分の手で傷つけることだけはできなかった。
「だからって、殺していい理由にはなりません!」
「殺すためにやってるんじゃねえよ。止めるためだ」
「結果は同じでしょう!」
空気が張り詰める。湊の瞳が鋭く細められた。
「お前は今、何を見てる。アイツを攻撃せずに放置して死人でも出たらどうする。その結果に対して責任を取れるのかよ」
怪物が遠くの壁を粉砕する。轟音と粉塵が舞う。
もしあそこに人がいたら。その想像が脳裏をよぎり、俺の思考を凍らせる。
「助けたいなら、今ここでアイツを終わらせるべきだ」
湊の言葉には、峻烈な覚悟が宿っていた。
「それができないんなら下がってろ」
悔しさが込み上げる。反論したい。そのやり方は間違っていると叫びたい。だが、喉の奥で言葉が空転する。
助ける術を知らない俺に、彼の言葉を否定する資格はあるのか?
その時だった。怪物がふらりとこちらを向く。
血走った瞳、歪んだ形相、そして異形の肉塊。
それなのに、一瞬だけ。その瞳が救いを求めて俺を見つめているように思えた。
直後、怪物が地面を蹴る。
巨大な身体が、真っ直ぐにこちらへ迫りくる。
怪物の腕が振り上がる。反射的にイデアを発動させ、その運動量を奪おうと試みる。
相手の動きを鈍らせるだけなら、奪うだけで事足りる。
本来は一瞬で終わるはずの簡単な作業だった。
だが──
「……っ」
頭の中に、先ほど聞いた男の苦痛に満ちた声が響く。
怪物の姿と、人間だった男の面影が重なる。集中が乱れ、感覚が指先から逃げていく。
イデアの淡い光は、まるで霧散するように虚しく消えた。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
振り下ろされた巨大な腕を咄嗟に避けようと後退するが、速度が足りない。肩への直撃を食らい、衝撃が全身を貫いた。
視界が回転し、瓦礫へ叩きつけられる。
肺の空気が強制的に吐き出され、激痛に思考が白濁する。
右腕が痺れ、呼吸さえ満足にできない。
馬鹿だ。いつもなら防げたはずなのに。
怪物が再び迫ってくる。俺は震える手を這い出し、再び前へ向けた。今度こそ、今度こそ止める。
再度のイデア発動。怪物の動きがわずかに減速する。
成功した、そう思った矢先だった。
「…………ク、るし……」
掠れた、紛れもない人間の声。
その瞬間、俺の制御は完全に崩壊した。
言葉を言い終わる前に、怪物が突進してくる。
回避の余裕はない。真正面から殴り飛ばされ、肋骨が軋む音とともに地面を何度も転がった。口の中に鉄の味が広がる。
痛いし、苦しい。だが、彼の方がもっと苦しいのではないか。
その思考が消えない限り、満足に俺は力を振るえず、戦うこともできず、何も守れない。
ヒーローになるためにここにいるのに、今の俺はただ、嬲り殺されるのを待つだけの無力な観客でしかなかった。
このままでは死ぬ。そう直感した瞬間だった。
轟音とともに怪物の身体が横へ吹き飛ぶ。
湊が拳を叩き込み、奴を吹き飛ばしたのだ。
だが、怪物の喉からはまたも苦痛の呻きが漏れる。
その声に胸が締め付けられる。
湊は迷わない。止めるべきだと理解し、躊躇なく攻撃できる。
それに比べて俺は一体何をしている。
助けたい。だが助ける方法を知らない。止める術もない。戦うこともできない。
結局、俺は湊の足手まといになっているだけだ。
情けない。目の前の一人すら救えないような人間が、ヒーローになれるはずなどなかった。
吹き飛ばされた怪物がふらりと立ち上がり歩き始める。
湊ではなく、少し離れた建物へ向かって。
巨大な腕が壁面に叩き込まれ、コンクリートが四散する。建物全体が悲鳴を上げて大きく揺れた。
「チッ!」
湊が苛立ちを隠さずに大きく舌打ちをする。
建物の一部が崩れ、大量の瓦礫が降り注ぐ。怪物は止まらない。自分が何をしているのかさえ理解していないかのように、ただ破壊という名の暴走を繰り返している。
俺は唇を噛みしめ、その光景をただ見つめることしかできない。
分かっている。このままじゃ駄目だ。
だけど、俺はどうすればいい?何をすれば、この終わりのない地獄を終わらせられるんだ。
湊が怪物を蹴り飛ばし、その巨体が瓦礫の山へと突き刺さる。
轟音とともにコンクリート片が霧のように宙を舞った。
だが、湊は追撃しなかった。最初から異形の怪物など見ていない。
彼の視線は、その先、崩れた建物の上に立つブライトを鋭く射抜いていた。
「大元を潰しちまえばいい話だろ!」
湊が剥き出しの感情を吐き捨てる。
次の瞬間、足元の地面が悲鳴を上げて砕け散った。
湊の身体が一直線に飛び出す。俺が視認した時には、既に数十メートル先の懐へと踏み込んでいた。
だが、その瞬間瓦礫の山が爆ぜた。
咆哮と共に吹き飛ばされたはずの怪物が、凄まじい執念で再び立ち上がった。そして湊とブライトの間へ割って入り、まるで壁のように立ちはだかる。
奴は唸り声を漏らしながら、ブライトの前を守るように陣取った。敵意を向けているのは、湊ただ一人。
「邪魔だッ!!」
湊の拳が容赦なく振るわれる。
轟音と共に怪物の身体が大きく吹き飛び、骨が軋む嫌な音が廃墟に響いた。
「が……ぁ……!」
苦悶の呻きが漏れる。俺の身体が強張った。
怪物は瓦礫へ叩き付けられながらも、再び膝をつき、身体を痙攣させながら立ち上がる。
それでも、何度も何度も、ブライトの前へと戻っていく。何かに縋るように、あるいは操り人形のように。
そのあまりに痛々しい姿を前に、胸の奥が鉛を飲み込んだかのように重く沈んだ。
助けを求めている。なのに、誰も救えない。
「クソッ……!」
思わず喉から声が漏れた。湊が振り返る。苛立ちを隠そうともしない、氷のような瞳で。
「……何だよ」
怪物が苦しげに呻く。痙攣し、引きつった身体でなお立ち上がるその姿は、到底正常とは言えない。
「どうして苦しんでる相手に躊躇わずに攻撃できるんですか……!」
「苦しんでるから何だよ。さっきも言ったろ。止めるのが最優先だってな」
即答だった。湊は怪物を指差す。
その直後、怪物の腕が振るわれ、近くの建物が粉砕された。コンクリートの豪雨が俺たちを襲う。
「っ……!」
反射的にイデアを発動しようとする。
だが、脳裏に焼き付いた「たすけて」という声が、思考をかき乱す。
苦しい。痛い。助けてほしい。
そんな悲痛な願いが頭から離れない。集中が乱れ、イデアが上手く形を成さない。結果、瓦礫の速度が僅かに落ちただけだった。
次の瞬間、身体に強烈な衝撃が走り、呼吸が強制的に遮断される。地面を転がり、肺が悲鳴を上げた。
情けない。こんな攻撃、普段の俺なら防げたはずなのに。
「……何やってんだよ」
湊が冷たく吐き捨てる。
「そんな状態で助けるなんて、無理に決まってるだろ」
冷たい声だった。反論できない。実際、その通りだからだ。
助けたい。でも方法を知らない。戦いたくない。でも止める術を持たない。
結局、俺は何もできないままだ。
怪物が再び立ち上がり、湊へ向かって突進する。
迎撃する拳の轟音。激しい衝撃。瓦礫が飛び散るたび、怪物の口からこぼれる苦痛の音が俺の心を削る。
だが、湊は止まらない。止まれるはずがない。怪物を放置すれば、さらに被害が広がる。それもまた紛れもない事実だからだ。
「……お前はどうしたいんだよ」
突然、湊が呟いた。怪物を殴り飛ばしながら。
「助けたいのか。それとも、自分の手を汚したくないだけか。どっちだ」
答えられなかった。そんな俺の醜態を見て、湊は苛立ったように舌打ちをする。
「どっちも選べねえから、何もできねえままなんだろ」
言葉が心臓を鋭く刺す。反論できない。全部その通りだったからだ。
すると、高所から冷ややかな声が降ってきた。
「……理解できないな。なぜそこまで迷う」
今まで沈黙を貫いていたブライトが、初めてこちらを見た。
その冷たい視線は、研究対象を解剖するような鋭さを帯びている。
「技術も思考も何もかもが未熟。救えないのなら排除すればいい。それだけの話だろう」
淡々と、当然のように元凶から告げられたその言葉。
それは湊の言葉よりもずっと、俺の心に毒のように残り、激しい怒りと嫌悪を呼び起こしていた。
その言葉が、なぜか湊の言葉よりもずっと腹立たしかった。
「……元凶はお前だろ」
気付けば口が動いていた。ブライトは何も答えない。
ただ、不快になるほど静かな顔で俺を見下ろしている。
「殺せばそれで終わりだって……?」
「ああ、最初からそう言っている」
「人が死ぬんだぞ……!」
「アレは既に人ではない」
即答だった。その冷徹な宣告に、背筋が凍る。
怪物の口から漏れる苦痛の呻きを聞いていないわけじゃない。
聞いた上で、彼はそう切り捨てたのだ。
「まだ意識だってあるのに」
「だからどうだと言うんだ」
「だから──」
言葉が詰まる。ブライトの表情には微塵も変化がない。
理解できないものを見るようなその瞳に、話の通じなさを痛感させられる。価値観の断絶を感じる。その時だった。
「おい」
湊が苛立ちを隠そうともしない声で割って入った。
「敵と呑気に喋ってる場合かよ」
そう言い捨て、彼は怪物を睨む。
身体中から血を流しながらも、倒れることを拒むかのように立ち上がる怪物。自分の身体が崩壊していることすら理解できず、ただ人形のようにブライトを守ろうとする姿がそこにはあった。
「だったらどうするんですか。このまま殴り続けるんですか」
「ああ、アイツが止まるまでな」
「それで本当に解決すると思ってるんですか」
「少なくとも被害は減るだろ」
迷いのない返答。腹が立つ。だが、間違っているとも言い切れない。
「苦しんでる相手を叩き潰すことが正しいと、そう言いたいんですか」
「……正しいとか正しくないとかの話じゃねえよ」
湊が低く吠える。
怪物が再び吠えた。直後、近くの壁が爆ぜて飛散する。
湊が怪物を指差す。
「見ろ。このままアイツに廃棄区画の外に逃げられでもしてみろ。被害は一人や二人じゃ済まねえぞ」
「だからってこんなのは間違っ──!」
「だったらどうするってんだよ!」
言葉が遮られた。湊の声が、重く空間を叩く。
「さっきからずっと否定ばっかりしてっけどよ、だったらアイツを助ける方法があんのかよ」
「それは……!」
言葉が出ない。俺は知っているのだ。原作を。この状態になった人間を元に戻す方法など、どこにも存在しないことを。
「無いんだろ」
胸が痛む。図星だった。
「でも!」
「でもじゃねえんだよ!」
怒鳴り声が響いた。こんな風に湊が激昂する姿を見るのは、これが初めてだった。
「考えてる間にも被害は増え続ける!」
崩れた建物、砕けた道路。散乱する瓦礫を指し示し、湊は言い放つ。
「お前が迷ってる間にもだ!」
「じゃあ諦めろって言うんですか!助けられないならさっさと殺せって!?」
「違う!」
湊が怒鳴り返す。
「止めろって言ってんだ!」
怪物が再び疾走する。湊が迎撃する。轟音、衝撃。殴られるたびに怪物の口から苦悶の声が漏れる。
「彼はずっと苦しんでいるんですよ!」
「そんなの最初から分かってんだよ!」
その言葉に、俺は固まった。
湊の声音は苦しそうだった。怒りや苛立ちだけじゃない。彼だって誰かの為に戦ってるんだ。苦しんでいる人の声を聞いて、何も感じていないはずがない。
「分かってるから、これ以上苦しませないために止めるんだろうが!」
一瞬、思考が停止した。その間も湊はしっかりと怪物を見ていた。
敵を見る目でも、救助対象を見る目でもない。どうしようもなく追い詰められた人間を見つめる、昏い瞳だった。
その時だった。怪物が咆哮する。
今までで一番大きな、地面を揺らし、瓦礫を跳ね飛ばす異常な咆哮。周囲に歪な圧力が広がる。湊も異変を察知したようだ。
怪物の身体が膨張を始める。筋肉が脈打ち、血管がミミズのように浮き上がる。何かが限界を超え、臨界点に達しようとしていた。
高所から見下ろしていたブライトが、僅かに目を細める。
轟音が響き響かせながら先ほどまでとは比べ物にならない速度で怪物が湊へと突進していく。
怪物の拳と湊の拳が正面から衝突し、周囲の空気が爆ぜた。
砕けたコンクリート片が跳ね上がり、近くの建物の窓ガラスが一斉に割れる。
だが均衡は一瞬で崩れた。怪物が腕を振り抜き、湊を後方へ弾き飛ばす。
着地した湊の視線は、倒すべき対象、ブライトただ一人を射抜いていた。
湊が地面を蹴り、一瞬で怪物の懐を抜ける。
だが、怪物もまた異様な反応速度で巨体を無理やり方向転換させた。地面が陥没するほどの力で急加速し、再び湊へ飛び掛かる。
「チッ……!」
湊が舌打ちし、回避の後に拳を叩き込む。巨体が吹き飛ぶが、即座に起き上がり、再びブライトの前に壁として立ちはだかる。
何度叩き伏せられても、ブライトへ近づこうとする者を阻む。
その異様さに、背筋が粟立つ。
「邪魔なんだよクソが!」
湊の声には限界を超えた苛立ちが滲む。
だがブライトは何も言わない。ただ静かに戦況を見下ろしている。
まるで、この凄惨な戦いさえも興味深い実験データであるかのように。
怪物の姿が咆哮と共に視界から消えて、次の瞬間、目の前にいた。
「えっ──」
早すぎて反応が遅れた。巨大な拳が迫る。
慌ててイデアを発動させ、軌道を逸らそうとしたが、思考がまとまらない。
動揺が制御を乱す。拳が肩を掠め、凄まじい衝撃が俺の身体を吹き飛ばした。
「ぐっ……!」
瓦礫の山へ叩き込まれ、肺の空気が強制的に吐き出される。
視界が明滅し、何か顔に違和感を感じたが、確認する余裕などない。
怪物はゆっくりと、獲物を仕留める捕食者の足取りで俺へ歩み寄ってくる。
まずい。立て、立たなきゃ。
身体に力を込めるが、足に力が入らず、上手く立ち上がれない。
巨大な拳が振り上げられ、影が俺を飲み込む。避けられない。
そう直感した瞬間だった。
──人影が、割り込んだ。
「っ!」
それは湊だった。
怪物の拳が振り下ろされ、轟音とともに湊の身体が一直線に吹き飛ぶ。
崩れかけた建物へ叩き込まれ、鉄骨がひしゃげ、大量の瓦礫が崩れ落ちた。
「湊!」
叫んでも返事はない。土煙の向こうで、人影が動く気配すら消えた。
胸の奥が冷え切る。怪物は追撃の手を緩めず、瓦礫の山へと向かっていく。あの状態で追撃を受ければ、湊は死ぬかもしれない。
俺は無理やり立ち上がった。足が震え、焦点すら合わない。だがそんなことはどうでもいい。
怪物が拳を振り上げる。瓦礫の向こうには湊がいる。
間に合え、間に合え、間に合え。地面を蹴り、悲鳴を上げる身体を無視して突き進む。
俺は無我夢中で右手を突き出した。イデアを使い運動量を奪って動きを封じる。ただそれだけのはずだった。
その瞬間、身体に凄まじい違和感が走る。
「……え?」
おかしい。制御が全く効かない。
出力が異常だ。慌てて調整しようとしたが、遅すぎた。
黒と紫の光に包まれた怪物の身体が凄まじい勢いで震え、骨が軋み、肉が裂けて、嫌な音が響き渡る。
「待っ──」
次の瞬間、怪物の巨体が、まるでねじ切られるように崩れ落ちた。
地面が大きく揺れ、砂埃が舞い上がる。
辺りに静寂が広がり、何も聞こえなくなる。先ほどまで暴れ回っていた巨体は、力なく地面に横たわったまま微動だにしない。
俺はその場に立ち尽くした。今の状況を理解できなかった。いや、理解したくなかった。
ただ一つだけ。絶対に認めたくない「真実」が、どす黒い形となって脳裏を支配し始めていた。
「……」
震える足で一歩、また一歩と怪物へ近付く。嫌な汗が止まらない。
心臓が、耳を塞ぎたくなるほど大きな音で警鐘を鳴らしていた。
その時、視界の端に何かが映った。
地面に転がる黒い物体。見覚えがある。
数秒かけて、ようやくそれが何であるかを理解した。
それは、俺の眼鏡だった。
「……あ」
思考が停止する。自分の顔へ手を伸ばしても、そこには何もない。
制御装置が、いつの間にか外れていた。
吹き飛ばされたあの時に外れたのだろう。俺はそれに気付けなかったのだ。
「そんな……」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。血の気がサーッと引いていく。
じゃあ、さっきの出力は。あの暴走は。全部、全部、俺のせいなのか。
膝がガクガクと震える。視線を向けても、怪物はもう立ち上がらない。
違う、そんなはずはない。肉体があれだけ変異しても意識があったのだ。まだ、生きているかもしれない。
すがるような思いで駆け寄り、その傍らで様子を確認する。
呼吸は荒く、捻じ切られた身体は力無く倒れ伏している。そこで気付いてしまう。もう手遅れなのだと。
怪物はゆっくりと目を開いた。濁った瞳ようなだが、ほんの一瞬だけ、確かにそこには光が宿っているように見えた。
彼の口が動く。俺は息を呑み、何も言えずに固まった。
謝罪か、弁解か。いや、そんなものに何の意味がある。
怪物は小さく、呟くように掠れた息を吐き出した。
「……あリ、がとウ」
本当に小さな、消え入りそうな声だった。
次の瞬間、彼の身体からすべての力が抜け落ちる。
瞳から光が消え、静寂が広がった。もう二度と、動くことはない。
「……っ」
息が詰まる。胸の奥が千切れそうなほど痛い。視界が滲み、気付けば膝から崩れ落ちていた。
倒れないように身体を支えようと地面に掌をつくと、ぬるりとした温かい感触が広がった。
血だ。彼はさっきまで生きていた。助けを求めていたのだ。
何故か涙が溢れて止まらない。声は出ない。大泣きしているわけでもないのに、次から次へと溢れてくる。
弱音ばかり吐いて、助けられなかった。救えなかった。それどころか、最後に手を下したのは俺だ。
「フッ、無力だな」
静かな声が降ってくる。顔を上げると、崩れた建物の上でブライトが白衣を揺らしながら見下ろしていた。
「……黙れよ」
自然と言葉が漏れる。ブライトは不快になるほど楽しそうに目を細めた。
「事実だろう。救おうとし、止めようとし、守ろうとした。だが結果は?」
「やめろ……」
「救おうとしていた相手を、自分の手で殺した気分はどうだ」
「やめろッ!!」
怒鳴る俺を、ブライトは感情のない瞳で見下ろし続ける。
「現実から目を逸らし、自らの行いを指摘されて激昂する。愚かなことだ」
その時だった。俺の背後で瓦礫が吹き飛び、湊が立ち上がった。
装甲は所々ひび割れていて、割れた隙間から僅かに顔が見えた。
戦意の衰えていないその目は真っ直ぐにブライトを射抜いていた。
「テメェ……!」
ブライトは呆れたように湊から視線を逸らすと、白衣の内側から黒い拳銃を取り出した。
銃口が俺を向く。心臓が跳ねたが、身体が動かない。恐怖と絶望で、神経が焼き切れたように麻痺している。
「……この程度で潰れるとは、やはり所詮は失敗作か」
ブライトの指が、ゆっくりと引き金へ掛かる。
次の瞬間。
空から何本もの巨大な鉄骨が、隕石のような勢いでブライトの真上へ降り注いだ。
爆発のような衝撃。土煙が一気に噴き上がる。
「──透也ちゃん。やっと見つけたわ」
聞き慣れた声と共に肩に手が置かれる。振り返ると、ヒーロースーツを土埃に汚した瀬川がいた。
「ここ迷路みたいでめっちゃ探すの大変やったで」
呆れたように笑う彼の視線は、油断なくブライトがいた場所へ向けられている。
土煙が晴れていくと、鉄骨の山の上には無傷のブライトが立っていた。
ブライトは瀬川を数秒間無言で見つめ、静かに口を開く。
「フォアランナーか」
淡々とした確認するように、彼のヒーローネームを口にする。
だが次の瞬間にはもう興味を失ったように視線を逸らした。
「今日はここまでだな」
「待て!」と湊が叫ぶが届かない。
空気が蜃気楼のように歪み、ブライトの姿が消える。
残されたのは怪物の亡骸と、重苦しい静寂だけだった。
俺の耳には、彼の最期の言葉だけが残り続けている。
『ありがとう』
その一言が、どうしても頭から離れない。
何で礼なんて言うんだ。俺は救えなかったのに。殺してしまったのに。
「透也ちゃん……?」
「おい、顔色悪いぞ」
瀬川と湊の声が、遠くの水底から聞こえるように遠ざかる。
立ち上がろうとして、足から力が抜けた。
怪物の血に染まった掌が、嫌になるほど赤い。
「……俺、は」
言葉は空中で霧散する。誰かが身体を支えてくれた気がした。
けれど、確認する余裕もない。意識が急速に沈んでいく。
暗闇が広がる中、最後に見えたのは、血に濡れた自分の掌だった。
そして、俺の意識は深い泥の中へ落ちていった。