知らない天井にも、少し慣れてしまった。
崩れかけた天井を見上げながら、俺は小さく息を吐く。
割れた窓ガラスの隙間から朝日が差し込み、埃の舞う空間をぼんやりと照らしていた。
フィンとの戦いから、一週間。
今の俺は、廃棄区画にある廃ビルを仮住まいにしている。
「……っ」
身体を起こした瞬間、脇腹へ鈍い痛みが走った。
思わず顔を顰めながら、ゆっくり壁へ背中を預ける。
傷はまだ治りきっていない。
脇腹、背中、肩、腕。
特にフィンの蹴りをまともに受けた脇腹辺りは、今でも強く動かすと痛みがある。
包帯を巻き直しながら小さく息を吐く。
使っている医療用品は、フィンの倉庫から持ち出したものだった。
あの場所には拘束された人間を商品として扱うためか、最低限の道具や薬品が置かれていた。思い出すだけで気分が悪くなる。
「痛い…」
思わず呟く。
フィン戦の最後の方なんて、ほとんど勢いだけで動いていたような気がする。
まともに考える余裕なんて無かったし、体はどこもボロボロで満身創痍だった。
なのに、一週間でこうして動けている。
もちろん完治なんてしていない。
今でも傷は痛むし、無理に能力を使えば傷口が引き攣る感覚もある。
それでも回復は明らかに早かった。
「やっぱり普通じゃないんだよな、この身体」
目覚めた時から感じていた違和感。
身体能力、反応速度、耐久力。
どれも前世の自分とは比べ物にならない。
ナオと同じ実験で作られた存在だからなのか、それとも別の理由があるのか。
詳しいことは分からない。
だが少なくとも、この身体が普通じゃないのは確かだった。
まぁ、それでも痛いものは普通に痛いんだけど。
俺は小さくため息を吐きながら立ち上がる。
床へ転がっていた空き缶を軽く蹴ると、乾いた音を立てて転がっていった。
♢
廃棄区画というのは都市開発から見捨てられた、街の最底辺だ。
ヴィラン発生率が異常に高く、ヴィラン同士の戦闘も日常茶飯事。
夜中に爆発音や銃声が聞こえても、廃棄区画の人間は誰も気にしない。
ここではセキュリティもヒーローも、基本的には深く介入しない。
いや、正確には“できない”。
下手に手を出せば被害が拡大するのだ。
ヴィラン同士の縄張り争い、違法薬物、人身売買、犯罪組織。
色々な人や犯罪が複雑に入り乱れすぎていて、もはや完全な制御が不可能になっているのだ。
だから誰も、本気でこの地区を平和にしようとしない。
世間から見捨てられた街。
行き場の無い人間達の集まる場所。
それが、廃棄区画。
誰が呼び始めたのかは知らないが、随分と的確な名前だと思う。
まぁ、今の俺には都合が良かった。
ここなら多少傷だらけでも誰も気にしない。
裏社会の連中も多いせいか、余計な詮索をする奴も少なかった。
俺は窓際へ近付き、遠くの街並みを見下ろす。
廃棄区画の外縁、そのさらに向こう。
朝日に照らされた高層ビル群が見えた。
巨大モニターや派手な企業広告が溢れかえるこの街の“表側”。
ここからじゃ別世界みたいに遠い。
その巨大モニターの一つには、最近やたら見慣れた名前が流れていた。
《マスカレイド》。
「本当にその名前やめてほしい…」
思わずぼやく。
フィンの逮捕から一週間。
スピードヒーローブリッツの転落劇は、未だに世間を騒がせ続けていた。
ヴァルハラは所属ヒーローの不祥事のことで謝罪会見を行ったらしい。
ヒーローによる違法薬物や人身売買、失踪事件。
そのことが連日ニュースで報道されている。
そして、その事件とセットみたいに扱われているのが俺だった。
フィンの倉庫で被害者達を救出した、正体不明の少女。
身体的特徴からフィンを倒した人物とマスカレイドを同一人物と断定。
未登録状態でイデアを使用し、戦闘行為を行った危険人物。
ヒーローもセキュリティも普通に捜索対象扱いしている。
それが今の俺、《マスカレイド》。
呼び名が普通に恥ずかしい。
顔を隠すのに仮面なんて使わなければよかった。
最近は街中でセキュリティドローンを見る度、反射的に顔を逸らしてしまうようになっていた。
完全に逃亡者の思考だ。
「……はぁ」
ため息が漏れる。
一週間前まで、俺はどうにか生き残る方法を探していただけだったはずなのに。
どうしてこうなったんだ、本当に。
「…まぁ、収穫が無かったわけじゃないけど」
フィンとの戦いで分かったことは多い。
まず一つ、俺にはイデア抑制剤が完全には効かなかったことだ。
あの時、確かに身体は重かった。
能力の感覚も鈍っていたし、普段みたいには動けなかった。
でも、消えてはいなかった。
理由は分からない。
この身体が特殊なのか、それともイデア自体に原因があるのか。
そもそも俺は、未だに自分の能力を完全には理解できていなかった。
最初は単純に、運動量を増減させる能力だと思っていた。
物を加速させたり減速させたり止めたり。
その程度の力だと。
だが、フィンとの戦いで認識が変わった。
あれは、そんな単純な能力じゃない。
俺の力は恐らく運動量そのものを支配する能力だ。
増やすだけじゃない。減らすだけでもない。
流れを変える。向きを捻じ曲げる。進む勢いを、回転へ変えることすらできた。
正直、自分でも意味が分からない。
能力の規模だけなら、かなり危険な部類なんじゃないかと思う。
しかも厄介なことに、フィンとの戦い以降、前より感覚が鋭くなっていた。
以前は意識しなければ使えなかった能力が、少しずつ感覚で使えるようになってきている。
透明化もそうだ。
前はただぼんやり薄くなるだけだったのに、最近はある程度輪郭を調整できるようになってきた。
運動量操作も、前より細かい制御が効く。
まだ全然使いこなせてはいないが、確実に成長していた。
「実践で経験値を得て強くなった的な感じかな」
ゲームみたいだな、と思って少し苦笑する。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
問題は別にある。
それは、原作との差異だ。
銀髪の少女へ賞金が懸けられる。
俺が知っている原作に、こんな展開は存在しない。
いや、そもそも原作にいない存在がいるのだから多少の変化も仕方がないのか?
俺は本来この世界にいない人間なんだから。
そこまで考えた時、不意に嫌な事実を思い出す。
『アステリオン』。
あの作品はまだ連載中で完結していないのだ。
思わず顔を覆う。
俺が知っているのは、あくまで連載途中までの情報だけ。
つまり、この先どんな事件が起きるのか。
誰が生きて誰が死ぬのか。
黒幕がどう動くのか。
俺は全てを知っているわけじゃない。
原作知識で有利に立ち回れる。
転生系でよくある話だ。
だが今の俺は、その前提そのものが崩れ始めている。
賞金の件だけじゃない。
ブリッツ関連の騒ぎだって、本来なら存在しない。
ヘリオスの動きも、原作より早くなる可能性だってある。
そう考えると、急に背筋が寒くなった。
俺はゆっくり目を閉じる。
今までの俺は、可能ならできるだけ原作へ関わりたくないと思っていた。
目立たないように、危険へ近付かないように。
静かに生き残れる方法を探そうと思っていた。
「……もう無理だよな」
小さく呟く。
フィン事件の時点で、少しずつだが原作は変わり始めてる。
つまり、俺が何もしなくても、未来はもう変わってしまう可能性があるということだ。
「それなら道くらい自分で決めるか…」
ぽつりと零れる。
別に世界を救いたいわけじゃない。
ヒーローになりたいわけでもない。
俺の第一目標は、今でも変わっていない。
平和な生活。
安全な場所でまともな食事をして、安心して眠れる生活。
前世では当たり前だったはずのもの。
今の俺には、それがやけに遠かった。
だから強くなる必要がある。
フィンみたいな賞金狙いのヴィランに対抗するため。
誰かを助けたいとか、立派な理由じゃない。
まずは、自分が生き残るためだ。
だから最近は、廃棄区画で暴れているヴィランや半グレ相手に能力の練習もしていた。
透明化、加速、減速、軌道変更。
フィン戦で覚えた感覚を忘れないよう、少しずつ実戦で試している。
そして最近、もう一つ気になっていることがあった。
「別に、一つずつイデアを使う必要はないんじゃないか?」
俺は小さく呟く。
今までの俺は、加速、減速、停止、回転。それぞれを別々の能力みたいに使っていた。
だが、運動量そのものを支配できるなら、複数を同時に扱うこともできるんじゃないか。
例えば、空気を圧縮しながら、前方向へ加速させるとか。
「超強い空気砲みたいになったりするのかな」
少し気になる。
まぁ、今ここで試すのはやめておこう。
どんな威力になるか分からないし。
「次、誰かと戦うことになった時にでも試してみるか」
そんなことを考えた、その時だった。
遠くから、爆発音が響く。
ドォンッ、と低い衝撃音と共に窓ガラスが微かに揺れる。
俺はそちらへ視線を向けた。
「……またヴィランの抗争か」
廃棄区画では珍しくもない。
ヴィラン同士の縄張り争いなんて日常茶飯事だ。
だから最初は無視するつもりだった。
関われば面倒になる。
賞金の件もあるし、あまり目立ちたくもない。
だが。
『ぐぁっ!?』
遠くから聞こえた声に、俺は少しだけ眉を寄せる。
続けて怒鳴り声。
『しぶてぇなこのヒーロー!』
『もう諦めろって言ってんだろ!!』
その瞬間、俺の思考が止まった。
「……ヒーロー?」
廃棄区画で?
思わず窓際へ近付く。
遠くの通りに黒煙が上がっていた。
しかも、聞こえてくる音の感じからしてかなり劣勢だ。
「……いや、でも」
少し迷う。
廃棄区画で活動するヒーローはかなり少ないが全くいないわけではない。
戦うのが好きだったり、本気で平和のために戦ってるようなヒーローはここでも活動している。
正直関わりたくない、だって今の俺は指名手配のような状態なのだ。
今は仮面はしていないが、下手にヒーローへ接触してマスカレイドとバレたら最悪だろう。
『殺っちまえ!!』
『ヒーローなんざここじゃ役に立たねぇんだよ!!』
響く怒号に、思わず舌打ちする。
「……クソ」
結局、身体が先に動いていた。
崩れた通路を蹴り抜けながら、俺は爆発音の方向へ走る。
廃棄区画は入り組んでいる。
まともに整備されていない道路。
崩落した高架、放置車両、違法建築。
おまけに、どこから飛んでくるか分からない流れ弾まである。
普通の人間なら長く生きていける場所じゃない。
だが逆に言えば、そういう場所だからこそ俺みたいな人間も紛れ込めるのだろう。
「……っ」
脇腹が痛む。
まだ全力で動ける状態じゃない。
だから無意識に能力を使っていた。
足元の運動量を増幅、跳躍、着地寸前で減速。
そのまま次の壁を蹴って跳躍しながら先へ進む。
フィン戦以降、こういう細かい使い方にも少し慣れてきた。
前までは加速や減速を一々念じなければ使えず、コントロールも甘かった。
でも今は息をするみたいに自然にコントロールできている。
自分で言うのもなんだが、本当に便利な能力だ。
黒い光が足元で微かに滲み、そこへ紫の光が混ざる。
以前よりも光が強い気がする。
そんなことを考えている間にも、爆発音はどんどん近付いてくる。
怒号、金属音、何かが崩れる音。
そして。
「がっ……ぁ……!」
苦しそうな声。
俺は思わず速度を上げた。
通路を抜けた瞬間、視界が開ける。
そこは廃棄区画でも比較的広い道路だった。
瓦礫や燃える車、砕けたアスファルト。
戦闘の跡がそこら中に広がっている。
その中心で、一人のヒーローが膝をついていた。
「はぁ……っ、は……!」
ボロボロだった。
ヒーロースーツは何箇所も破損している。肩からは血が流れ、呼吸も乱れていた。
その周囲を、五人ほどのヴィランが囲んでいる。
「はっ、随分粘ったじゃねぇかヒーロー!」
「でも終わりだなァ!!」
武器を持った男達が笑う。
鉄パイプ、ナイフ、銃。
廃棄区画らしい雑多で荒っぽい装備だった。
しかも全員、似たような装備を持っている。
銃なんて、本来なら一般人がそう簡単に手に入れられるものじゃない。
「どこで仕入れてるんだろ…」
思わず小さく呟く。
廃棄区画のヴィランは誰も彼もが同じような装備をしている。
ここには、武器を流してる連中でもいるのだろうか。
原作でも、廃棄区画のヴィランの武装率が高かった。
普通の街で銃なんか持ち出せば大騒ぎになる。
でも廃棄区画だと違う。
銃声も爆発も日常の一部みたいに扱われている。
その異常さを、改めて実感した。
ヒーローの方に目を向けると、彼は荒い呼吸のまま立ち上がろうとしていた。
だが、足が震えている。
限界なのは見れば分かる。
「んん...?」
廃棄区画は危険だから、ここで活動するヒーローは自分の力に自信を持っている人ばかりだ。
実際、私がここで見たことのあるヒーローは実力者ばかりだ。
フィンと同等か、最低でもそれ以上。
けど、あんなにボロボロになるまで戦うヒーローはここでは見たことがない。
援軍だって期待できない場所だ。
普通はもっと早く撤退する。
なのに、そのヒーローはまだ前を向いていた。
「まだ……終わってない……!」
ヒーローの掠れた声を聞いて、ヴィラン達が笑う。
「うぜぇなぁ!」
「死にかけのくせに!」
その瞬間、一人のヴィランが銃を構えた。
ヒーローは傷が痛むみたいで動けない様子だ。
このままでは避けられないだろう。
俺はその光景を見ながら、小さく息を吐いた。
「まぁ、ちょうどいいか」
せっかくヴィランもいる。
少し前に思いついたことを試すには丁度いい。
黒と紫の光が指先から滲む。
俺は前方の空間へ意識を集中させる。
空気を圧縮して前方へ射出するイメージで。
大丈夫、ちゃんとイメージはできてる。
問題は、それを本当に再現できるかだ。
「よし!とりあえず発射!」
黒紫の光が弾けて、次の瞬間、空気が爆発した。
「──へ?」
轟音が廃棄区画へ響き渡る。
圧縮しきれなかった空気が制御を失ったまま一帯へ炸裂し、暴風みたいな衝撃が前方へ広がった。
アスファルトが捲れ上がり、ヒビ割れた道路が砕け、破片が弾丸みたいに周囲へ飛び散った。
付近の車が浮かび上がり、そのまま金属音を響かせながら吹き飛ぶ。
ヴィラン達の身体もまとめて衝撃へ飲み込まれた。
「がっ!?」
「な、ぁああっ!!」
身体が軽々と宙へ浮く。
一人は回転しながら地面へ叩き付けられ、鈍い音と共にアスファルトへ亀裂が走った。
別の男は建物の壁へ直撃し、そのまま潰れるみたいに瓦礫へ埋まる。
瓦礫が空中でバラバラになって飛び散り、銃や鉄パイプやナイフまで暴風に巻き込まれて転がっていく。
遅れて粉塵が一気に舞い上がった。
崩落音や金属音、それとヴィランの呻き声。
それら全部が数秒遅れて一気に押し寄せてくる。
「…………え?」
俺は固まった。
今のは何。
俺はただ空気弾みたいなものを撃つつもりだった。
もっとこう、小規模な。
「怖……」
道路半分消えてるんだけど。
威力がおかしい。
全然制御できてないし複合使用危険じゃねぇか。
お気楽な思考をした数秒前の自分を殴りたい。
そんなことを考えていた時だった。
「っ……」
掠れた声。
そこでようやく、俺はヒーローの存在を思い出した。
「あっ」
さっきの暴発に巻き込んでないよな?
一瞬で血の気が引く。
俺は慌てて視線を向けた。
煙の向こう。
崩れた瓦礫の近くで、ヒーローが呆然とこちらを見ていた。
どうやら生きてはいるらしい。
俺は思わず大きく息を吐いた。
「よ、良かった……」
いや本当に。
危うく助けるつもりで巻き込むところだった。
だが安心したのも束の間だった。
ヒーローの視線が、ゆっくり周囲へ向く。
砕けた道路に吹き飛んだ車、壁へめり込むヴィラン、崩れた瓦礫。
そして最後に、俺。
「…………」
気まずい、ものすごく気まずい。
完全にやりすぎた。
ヒーローからしたら、一瞬でヴィラン達を壊滅させるような力を持つ存在が無言で自分に視線を向けている。
普通に怖いだろこれ。
とりあえず何か話して緊張を解こうと思い、俺は跳躍して彼の前に着地した。
「えっと……」
なんて言えばいい。
俺のコミニケーション能力が低すぎるせいで言葉が出てこない。
そんな空気の中、ガラ、と瓦礫が崩れる音がした。
「っ、クソが……!」
一人の男のヴィランが血を吐きながら起き上がる。
男は震える手で近くへ落ちていた銃を掴んだ。
その視線が、ゆっくり俺へ向く。
「テメェ……!!」
「ッ!」
直後、男が引き金を引いた。
銃声が響く。
だがその瞬間。
「危ない!!」
ヒーローが叫び、ボロボロの身体を無理矢理動かして俺を庇うように前へ出た。
「え?」
思わず目を見開く。
いや、この人。
さっきまでまともに立つのも辛そうだっただろ。
なのに俺を守ろうとしている。
その事実に、一瞬思考が止まりかける。
だが弾丸は待ってくれない。
俺は反射的に自分とヒーローの周囲を対象にイデアを発動する。
空間が微かに揺れた。
次の瞬間、飛来してきた銃弾が急激に減速してヒーローの目の前で静止する。
「……は?」
ヴィランの顔が引き攣る。
ヒーローも驚いている様子だ。
止まった弾丸は、空中でゆっくり回転している。
俺はそれを見ながら、小さく息を吐いた。
……危な。
普通に考えて銃って危険だなと、今更みたいな感想が頭を過る。
ヴィランの方に視線を向けると、彼は銃を構えたまま固まっている。
「あ、ぁ……」
震えている。
恐怖か、怒りか、自分でも分からなくなっているような顔だった。
俺は空中で止まっている弾丸へ視線を向ける。
「……」
黒い光が滲む。
次の瞬間、止まっていた弾丸が今度はヴィランへ向かって撃ち返された。
「っ!?」
空気を裂く音と共に弾丸はヴィランの頭スレスレを通過し、そのまま背後のコンクリート壁へ突き刺さった。
轟音が響いて、壁へ蜘蛛の巣みたいなヒビが走る。
ヴィランの顔からは血の気が引いていた。
頬を冷や汗が流れる。
「あ……ぁ……」
震える声。
男は数秒その場で固まった後、
「ば、化け物がぁぁぁ!!」
叫びながら銃を捨て、そのまま逃げ出した。
足をもつれさせながら、転ぶように路地裏へ消えていく。
俺はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
化け物なんて初めて言われた、少し傷つく...
そんなことを考えていた時だった。
不意に視線を感じる。
ヒーローだ。
ボロボロのまま、呆然とこちらを見ている。
「…………」
まぁ、そりゃそうなるよな。
急に辺り一帯吹き飛ばした後、ヴィランへ銃弾を飛ばしている。
自分でやっておいてなんだけど、新手のヴィランが来た、みたいな勘違いをされていたら嫌だな。
そんなことを考えていると、ヒーローがゆっくり息を吐いた。
「ありがとう、助かったよ…」
掠れた声だった。
そこでようやく、俺はこの人がかなりボロボロだったことを思い出す。
「大丈夫ですか?」
思わずそう聞く。
ヒーローは少し驚いたような様子を見せた後、小さく笑った。
「あぁ、なんとかね」
柔らかい声だった。
どこか安心させるような喋り方。
俺は彼の様子を確認するために少し距離を詰める。
近付くほど、このヒーローがどれだけボロボロなのかよく分かった。
スーツは裂け、肩口から血が流れている。
腕にも火傷みたいな痕があった。
それなのに、まだ立っている。
「怪我が酷いですね…」
「まぁ、ちょっと無茶しすぎたかな」
ヒーローは苦笑する。
「でも、君のおかげで助かったよ」
そう言って壁へ手を付きながら身体を起こす。
だが、その瞬間、彼の足が大きく揺れた。
「っ……!」
俺は反射的に前へ出る。
「危なっ」
咄嗟に肩を支える。
思ったより身体が熱かった。
戦闘と出血のせいだろう。
ヒーローはゆっくりと息を吐いた後、小さく笑った。
「ありがとう」
「い、いえ……」
距離が近い。
なんか変に緊張する。
しかもこの人、なんかいい香りする。
コーヒーみたいな...
廃棄区画で戦ってるヒーローってもっと強くてギラついたタイプを想像してたんだけど、彼は真逆の雰囲気だ。
そんなことを考えている時だった。
ヒーローがふと、自分の顔へ手を伸ばす。
カチ、と小さな音。
次の瞬間、ヒーロースーツの顔部分がゆっくり外れた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
だってその顔を、前世で読んだ原作で何度も見ていたから。
ヒーローはそんな俺へ、小さく笑った。
どこか困ったみたいな、柔らかい笑みだった。
「改めて礼を言うよ、ありがとう」
そして。
「僕は《ASC警備保障》所属のヒーロー、《ブレイバー》だ」
その瞬間、俺の思考が完全に止まった。
ブレイバー、俺が原作で一番好きだったヒーローだ。
ブラック企業で心を擦り減らしていた頃、唯一の楽しみだった漫画。
その中でも、何度も俺を救ってくれた存在。
仕事へ行くのが嫌で、全部投げ出したくなった夜。
それでも明日を頑張ろうと思えたのは、彼の活躍を見たからだ。
怖くても傷だらけでも、それでも誰かを守るために立ち上がる。
そんな姿に、何度勇気を貰ったか分からない。
「……っ」
息がしづらいし、心臓がうるさい。
現実感が無かった。
まさか、本当に。
俺の推しが、今、目の前にいるなんて。