朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
目が覚めた。
知らない天井――では、なかった。
たぶん、知っている。
薄い木目の天井。壁際に寄せられた本棚。カーテンの隙間から差し込む朝の光。枕元に置かれた充電器。机の上に積まれたレシートと、飲みかけのペットボトル。
見慣れている。
はずだった。
けれど、いつからここで寝ていたのか。
昨日、何をしていたのか。
そもそも、ここがどこなのか。
その答えだけが、頭の中からごっそり抜け落ちていた。
「……は?」
声が出た。
その瞬間、全身が固まった。
知らない声だった。
高い。
柔らかい。
喉の奥で震える音が、まるで自分のものじゃない。
寝起きで声がかすれている、とか、そういう問題ではなかった。明らかに、女の子の声だった。
「いや、待て……」
もう一度、声を出す。
やっぱり同じだった。
俺の声じゃない。
俺。
そうだ。
俺、だ。
名前は出てこない。年齢もすぐには浮かばない。昨日の予定も、職場も、友達の顔も、家族の名前も分からない。
けれど、そこだけは妙にはっきりしていた。
俺は、たぶん男だった。
理屈じゃない。
思い出したわけでもない。
ただ、身体の奥に残った重心みたいなものが、そう訴えている。
なのに。
布団から出した手は、細かった。
白くて、指が長くて、骨ばった感じがない。爪の形も違う。手の甲に浮く血管も、記憶の中にあるはずのものよりずっと薄い。
慌てて起き上がろうとした。
その瞬間、何かが頬にかかった。
「うわっ」
髪だった。
長い。
肩どころじゃない。顔の横をさらりと落ちて、胸元のあたりまで流れている。指でつまむと、黒い髪が数本、朝の光を吸って揺れた。
俺はしばらく、それを見つめた。
見つめるしかなかった。
「……寝癖、ってレベルじゃないだろ」
口から出た声に、自分でまたびくつく。
情報量が多すぎる。
知らない天井。
知らない声。
知らない手。
知らない髪。
それなのに、部屋だけは妙に見覚えがある。
ベッドの横にスマホがあることも、充電ケーブルが少し断線しかけていることも、机の引き出しが上から二段目だけ妙に引っかかることも、分かる。
分かるのに、思い出せない。
気持ち悪い。
記憶の棚が全部空っぽになっているのに、棚の開け方だけは身体が覚えているみたいだった。
下の階から、かちゃり、と食器の音がした。
心臓が跳ねた。
誰かいる。
テレビの音。水道の音。フライパンに何かを落とす音。
味噌汁の匂いが、階段を伝って薄く上がってくる。
生活の音だった。
家族のいる家の音だった。
それが今は、どんな怪談より怖かった。
「起きてるー?」
女の人の声。
たぶん、母親。
たぶん。
その“たぶん”が、胸の奥を冷たくする。
普通なら分かるはずだ。
声を聞いただけで、誰なのか。
どう返事すればいいのか。
いつもの調子で、なんて言えばいいのか。
でも、何も出てこない。
黙っていると、下の声がもう一度飛んできた。
「ねえ、起きてる?」
まずい。
返事しないと怪しまれる。
でも返事したら、声で怪しまれる。
どっちにしても詰んでいる。
俺は布団を握りしめ、喉を押さえながら、なるべく低く声を出した。
「……起きてる」
全然低くなかった。
普通に女の子の声だった。
下が、少しだけ静かになった。
「声、変じゃない? 風邪?」
終わった。
いや、まだ終わるな。
風邪。
そうだ、風邪。
人類には風邪という便利な言い訳がある。
「たぶん……風邪」
自分でもびっくりするくらい弱々しい声だった。
でも、弱々しいのが逆に良かったのか、下からは心配そうなため息が返ってきた。
「熱あるんじゃない? ご飯食べられる?」
「あとで……」
「薬あるからね。無理しないで」
「うん……」
階下の気配が遠ざかる。
俺はその場で、布団に沈むように息を吐いた。
助かった。
いや、助かってない。
何一つ助かってない。
とにかく、情報が必要だった。
自分が誰なのか。
ここがどこなのか。
今、何が起きているのか。
俺はベッドから足を下ろした。
床に触れた足が、やけに小さい。
立ち上がると、身体が軽かった。寝起きの重さがない。いや、軽すぎる。膝も腰も、今までの感覚と違う。重心が少しずれている。
ふらつくと思った。
けれど、身体は妙にすんなり立った。
まるで、最初からそういう形だったみたいに。
部屋の隅に姿見があった。
見たくない。
でも、見ないと始まらない。
俺はゆっくり近づいた。
一歩。
もう一歩。
鏡の前に立つ。
そこにいたのは、知らない少女だった。
黒い髪。
整った顔。
白い肌。
どこか和風の雰囲気があるのに、現実の人間というより、画面の中から出てきたみたいに輪郭がはっきりしている。
大きな目が、こちらを見ていた。
いや。
違う。
俺が見ているんだ。
鏡の中の少女は、俺と同じタイミングで息を止めた。
俺と同じように青ざめた。
俺と同じように、震える手で自分の頬に触れた。
だから、分かってしまった。
これは俺だ。
「……誰だよ」
少女の声が、部屋に落ちた。
自分で言って、自分で笑いそうになった。
笑えるわけがなかった。
俺は机の上を探った。
財布。鍵。ワイヤレスイヤホン。何かの会員証。使いかけの目薬。ぐしゃぐしゃになったレシート。
スマホは枕元にあった。
さっきから何度も目に入っていたのに、そこにあることを“思い出す”より先に、手が勝手に伸びた。
充電ケーブルを抜く。
画面をつける。
顔認証。
失敗。
当然だった。
スマホは俺を俺だと認めなかった。
「だよな。俺もお前の判断は正しいと思う」
妙に冷静なツッコミが口から出た。
笑えない。
ただ、指は迷わなかった。
数字を打つ。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
画面が開いた。
「……開くんかい」
パスコードは覚えていない。
でも、指が覚えていた。
やっぱりそうだ。
全部なくなっているわけじゃない。
スマホの使い方は分かる。文字も読める。部屋の中でどこに何があるかも、なんとなく分かる。
でも、自分の人生だけがない。
ホーム画面には、通知が溜まっていた。
LINE。
ニュースアプリ。
天気。
シフト管理アプリ。
メール。
YouTube。
俺はまず、カレンダーを開いた。
今日の日付に予定が入っている。
『出勤 B』
「……出勤」
その二文字を見た瞬間、胃が冷えた。
仕事がある。
俺は社会人だった。
たぶん。
画面の隅に、年齢確認用に登録されたプロフィールが見えた。二十五歳。
二十五。
社会人。
実家暮らし。
今日、仕事。
この顔で?
この声で?
いや、そもそも俺はどこへ出勤するんだ。
会社名を探そうとして、指が止まる。
知りたい。
でも知ったところで、行けるわけがない。
俺はスマホを握りしめたまま、深く息を吸った。
落ち着け。
まずは現状確認だ。
自分が誰か。
今の身体が誰なのか。
なぜこうなったのか。
そこを――
YouTubeの通知が目に入った。
『【切り抜き】らでん、また語りが止まらない』
らでん。
その文字を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
知っている。
たぶん、俺はこの名前を知っている。
でも、何の名前だ。
人の名前?
配信者?
アニメ?
続けて通知欄を下に動かす。
『ReGLOSS 最新配信まとめ』
『ホロライブDEV_IS』
ホロライブ。
今度は、さっきより強く反応した。
胸の奥が熱くなる。
懐かしい、ような。
恥ずかしい、ような。
安心する、ような。
でも、思い出せない。
誰を見ていたのか。
何を好きだったのか。
どうしてその名前に反応したのか。
何も。
ただ、スマホの中には履歴があった。
チャンネル登録。
切り抜き。
配信予定。
グッズの購入履歴らしきメール。
俺は、ホロライブを見ていた。
たぶん、かなり見ていた。
その事実だけが、無言で積み上がっていく。
その時だった。
階段が軋んだ。
ぎし、と。
一段。
また一段。
誰かが上がってくる。
「ねえ、本当に大丈夫?」
母親らしき声が、さっきより近い。
心臓が、嫌な音を立てた。
まずい。
鏡。
スマホ。
この顔。
この声。
部屋にいるはずの二十五歳の息子。
ドアを開けたら、そこにいるのは知らない少女。
言い訳?
ない。
俺は慌ててドアへ向かった。
向かった、つもりだった。
次の瞬間には、もうドアの前にいた。
「……は?」
速い。
速すぎる。
ベッドの横からドアまで、数歩はあるはずだった。なのに、身体が勝手に距離を詰めた。足の裏が床を捉える感覚だけが、妙に鮮明に残っている。
俺はドアノブに手をかけ、内側から押さえた。
「開けるよ?」
「ま、待って!」
声が裏返る。
完全に少女の声。
ドアの向こうで、気配が止まった。
「……誰?」
血の気が引いた。
それはそうだ。
今の声は、俺じゃない。
少なくとも、向こうが知っている“息子”の声ではない。
俺は口を開いた。
何か言わないと。
風邪。
喉。
寝起き。
変声期。
二十五歳で変声期は無理がある。
頭の中で言い訳がぐちゃぐちゃに絡まる。
その時、手の中のスマホが震えた。
新しい通知。
YouTube。
画面に、文字が浮かんでいた。
『儒烏風亭らでん 最新配信』
儒烏風亭らでん。
その名前を見た瞬間、鏡の中の少女の顔が脳裏に重なった。
知らないはずなのに。
まだ何も分かっていないのに。
なぜか、その名前だけが俺の胸の奥を指で突いた。
ドアの向こうで、もう一度声がする。
「ねえ、開けてもいい?」
俺はスマホを握りしめた。
自分の名前も思い出せない。
仕事も、家族も、昨日の自分も分からない。
なのに。
画面の中のその名前だけが、まるで俺を指差すみたいに光っていた。
ドアノブが、ゆっくり回った。