朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
避難所の固定投稿に、新しい返信がついた。
『助けて』
『耳、隠せない』
『家に帰れない』
その三行を見た瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
短い。
短すぎる。
けれど、そこに詰まっているものが重かった。
耳。
隠せない。
家に帰れない。
俺は思わず、自分の帽子に触れた。
黒い髪は、なんとか中に収まっている。
顔はマスクと眼鏡とフードでごまかせる。
声を出さなければ、まだ怪しい人で済む。
でも、耳があるなら。
それが本当に生えているなら。
帽子に収まらないほど大きくて、感情で動くものなら。
その人は、最初から隠れられない。
ニコさんが避難所にメッセージを送った。
『耳って何』
『いや分かるけど分かりたくない』
ハジさん。
『人外勢か』
スウさん。
『すぐ担当Aさんに共有した方がいいです』
俺はもう、担当Aへの連絡画面を開いていた。
『避難所の固定投稿に、外見特徴を隠せない実体化者と思われる方から返信がありました』
『内容は「助けて」「耳、隠せない」「家に帰れない」です』
『公開リプのため、対応方針を確認したいです』
送信。
担当Aの返信は早かった。
『公開リプでは詳細対応しないでください』
『相手にDMへ移動するよう誘導してください』
『位置情報・写真・本名等は公開で送らないよう伝えてください』
『こちらでも該当投稿を確認します』
『落ち着いて、短い文で誘導してください』
短い文。
落ち着いて。
分かっている。
分かっているのに、胸がうるさい。
俺は固定投稿の返信欄に、慎重に文字を打った。
『ここでは詳しいことを書かないでください』
『写真・場所・本名は出さないでください』
『安全なら、このアカウントへDMしてください』
『声を出さず、目立たない場所にいてください』
送信。
ニコさんが避難所で言う。
『ラさん、緊急時めっちゃ冷静』
『助かるけど怖い』
冷静なんじゃない。
言葉で囲っていないと、自分が崩れそうなだけだ。
俺は画面を見つめた。
返信はない。
一分。
二分。
スマホを握る指が、じわじわ冷たくなる。
もしかして、もう見つかったのか。
誰かに連れて行かれたのか。
パニックで移動しているのか。
その時、DMが届いた。
表示名は、耳なしになりたい。
最初の文は、ほとんど悲鳴だった。
『助けてください』
『帽子に耳が入らない』
『いや、入るわけなかった』
『何これ』
『耳が動く』
『最悪ぺ……最悪です』
ぺ。
その一文字で、避難所の空気が固まった。
俺は口には出さず、ゆっくり息を吸った。
兎田ぺこら。
たぶん、そうだ。
長い兎耳。
高い知名度。
語尾。
目撃されたら一瞬で広がる。
でも、いきなり名前を決めつけるのは危ない。
今必要なのは、本人確認ではなく安全確認だ。
『落ち着いてください』
『まず、公開の場所には何も書かないでください』
『今、ひとりですか』
『怪我はありますか』
『周りに人はいますか』
送信。
すぐ返ってくる。
『たぶん一人』
『怪我はない』
『スーパーの外のトイレにいます』
『さっき駐車場で見られました』
『動画撮られたかも』
『声は出してない、たぶん』
『いや一回「やめろぺこ」って言いかけた』
『死にたい』
ニコさんに共有すると、すぐ反応が来た。
『語尾漏れ、精神ダメージでかいな』
スウさん。
『笑いごとじゃないです』
ニコさん。
『分かってる』
『でも笑わないと怖い』
それも分かる。
怖い。
これは、今までとは違う。
俺たちは自分の部屋に戻れた。
スウさんも、ニコさんも、ハジさんも、少なくとも一時的には隠れられた。
でもこの人は、外にいる。
耳が隠せない状態で。
人目のあるスーパーの近くに。
俺は担当Aへ状況を送る。
『相手はスーパー外のトイレにいるとのこと』
『駐車場で目撃、動画撮影の可能性あり』
『長い耳があり、隠せない状態』
『語尾・口調の漏れあり』
『怪我はないとのこと』
担当Aの返信。
『該当エリアの特定はできますか』
『ただし、公開チャットには書かないでください』
『本人には、可能な範囲で施設名や周辺情報をDMで送るよう促してください』
『こちらで削除要請と現地支援の調整を行います』
『本人には、移動せず待機するよう伝えてください』
俺はDMへ戻る。
『場所を公開では書かないでください』
『施設名や周辺の目印を、このDMだけに送れますか』
『写真は不要です』
『今は移動しないでください』
『走らないでください』
返事は荒い。
『ここにいたら見つかる』
『逃げたい』
『走ればたぶん逃げられる』
『耳聞こえすぎて人の声が全部怖い』
『足も速い気がする』
『いける気がする』
『いや、いけるわけない』
『どうすればいいの』
胸が痛い。
耳がいい。
人の声が全部怖い。
それだけで、どれだけ追い詰められているか分かる。
俺は短く打つ。
『走らないでください』
『動く耳と跳躍力は、遠くからでも目立ちます』
『今は“見つからないこと”より、“これ以上撮られないこと”が優先です』
『個室にいるなら、まずそこから動かないでください』
ニコさんが避難所に書く。
『ラさん、救急指令室みたいになってる』
俺は返す。
『茶化さないでください。今は本当に危ないです』
ニコさんから少し間が空いて、短く返ってきた。
『ごめん』
『本当に危ないな』
そう。
本当に危ない。
ぺこら化したその人から、施設名と簡単な周辺情報が送られてきた。
俺はそのまま担当Aへ共有する。
担当Aの返信は、さらに速くなった。
『確認します』
『該当エリアのSNS投稿も監視します』
『本人には、スマホの通知音を切ること、画面の明るさを下げること、可能なら耳を押さえず頭全体を抱えるようにして刺激を減らすことを伝えてください』
『耳を強く押さえつけないよう注意してください』
俺はそのまま伝える。
『通知音を切ってください』
『スマホの明るさを下げてください』
『耳を強く押さえないでください』
『頭全体を抱えるようにして、耳の動きを抑えてください』
『返信は短くて大丈夫です』
しばらくして、返事。
『わかった』
『暗くした』
『通知切った』
『耳、まだ動く』
『感情を表示するな』
『勝手にぴこぴこするの本当に無理』
俺は思わず目を閉じた。
感情が、身体に出る。
隠したくても隠せない。
それはどれほど怖いだろう。
スウさんが避難所から、俺にではなく、その人へ送る文案を出してくれた。
『怖い時は、無理に強がらなくていいです』
『今は文字だけで大丈夫です』
『私たちも同じように、姿が変わっています』
『一人ではありません』
俺はその文を少し整えて送った。
返事が来る。
『同じじゃない』
『そっちは耳ないでしょ』
『ごめん』
『でも耳あるの本当に無理』
『ドアにぶつかる』
『頭の幅がバグってる』
『もう一生部屋に入れないぺ……入れない』
語尾を消そうとして、消しきれていない。
でも今は、それを指摘する場面じゃない。
俺は短く返す。
『謝らなくて大丈夫です』
『耳がある状態は、こちらよりずっと大変だと思います』
『今は、安全確保を優先しましょう』
少し間が空く。
『ありがとう』
『ちょっと落ち着いた』
『たぶん』
たぶん。
その言葉に、少しだけ笑いそうになった。
俺たちは、みんな“たぶん”で生きている。
担当Aから次の連絡が来た。
『現地支援を調整中です』
『到着まで時間がかかります』
『現在地から動かないよう伝えてください』
『トイレ外に人がいるか確認できますか。ただし、声は出さないように』
俺が伝えると、耳なしになりたいさんから返事が来た。
『外に人いる』
『声が聞こえる』
『さっきの兎耳の子どこ行ったって言ってる』
『コスプレじゃないのって』
『動画撮った?って言ってる』
『無理』
『耳が震えてる』
『音でバレそう』
『助けて』
心臓が冷えた。
探されている。
もう。
ニコさんが珍しく短文で送る。
『やばい』
ハジさん。
『動くな』
『出たら囲まれる』
スウさん。
『大丈夫です』
『今は出ないでください』
『文字だけ見てください』
俺は、なるべく短い指示を送る。
『深呼吸』
『足を床につけてください』
『スマホを胸の前に』
『耳は強く押さえず、頭全体を抱えるように』
『音を立てない』
『返信は「はい」だけでいいです』
返事。
『はい』
少しして、もう一つ。
『ありがと』
『落ち着いたぺ……落ち着いた』
避難所に、誰もツッコまなかった。
ニコさんだけが、ぽつりと書いた。
『今のは聞かなかったことにする』
耳なしになりたいさんには送っていない。
でも俺は、その優しさが少しありがたかった。
担当Aから新しい指示が来る。
『現地近くで協力可能なスタッフが到着しました』
『スタッフは直接ホロライブ関係者とは名乗りません』
『施設管理者を通じて、一時的な人払いを行います』
『本人には、こちらの指定タイミングまで個室で待機するよう伝えてください』
『移動時は、ストール・上着・フード等で耳の輪郭を崩してください』
俺は伝える。
耳なしになりたいさんから即返信。
『ストールない』
『フードあるけど耳が入らない』
『タオル巻いたら謎の生き物になる』
『どうしろと』
ハジさんが避難所で言う。
『大きめの上着を頭からかぶれないか』
『耳の形が分からなければ、体調悪い人に見えるかもしれない』
ニコさん。
『現代社会、選択肢が全部地獄』
スウさん。
『トイレ内の清掃用具や備品は使わない方がいいです』
『衛生的に危ないです』
『服や持ち物だけで覆える方法がいいと思います』
俺はまとめる。
『最優先は、耳の輪郭を崩すこと』
『次に、声を出さないこと』
『移動距離を短くすること』
『担当Aさんの指定するタイミングまで待つこと』
耳なしになりたいさんから返事。
『上着を頭からかぶる』
『怪しいけど耳丸出しよりマシ』
『もう全部マシとかそういう話になってる』
『泣きたい』
俺は打つ。
『泣いてもいいです』
『ただ、耳が動くなら、移動前は深呼吸を優先してください』
『感情管理まで必要なの、この身体だるすぎる』
『でも分かった』
少しだけ、返事が落ち着いてきた。
担当Aから、移動タイミングの指示が来る。
『これから二分後、清掃確認の名目で周辺の人払いを行います』
『本人は、スタッフが三回ノックした後、十秒待ってから個室を出てください』
『声は出さない』
『目線を下げる』
『走らない』
『裏口へ誘導します』
俺はそのまま伝える。
避難所の四人が、自然と短く言葉を送った。
ニコさん。
『走るな』
ハジさん。
『跳ぶな』
スウさん。
『大丈夫です。ゆっくり』
俺。
『一歩ずつ』
耳なしになりたいさん。
『みんな保護者?』
『いや助かってる』
『ありがとう』
それから、返信が途切れた。
一分。
二分。
スマホを見つめる。
何もできない。
ただ文字を送るだけ。
その文字が、本当に届いているのか。
その人が今、ちゃんと移動できているのか。
誰かに見られていないのか。
耳が出ていないのか。
声が漏れていないのか。
分からない。
分からないのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
やがて、担当Aからメッセージが来た。
『該当者の安全確保を確認しました』
『現地スタッフが一時的に保護しました』
『皆様のご協力に感謝します』
俺は、その一文を見たまま、しばらく動けなかった。
助かった。
少なくとも、今は。
避難所に共有すると、ニコさんが真っ先に反応した。
『初救助成功?』
『いや俺ら何者?』
ハジさん。
『避難所、名前通りになってきたな』
スウさん。
『よかったです』
『本当によかった』
俺も、ようやく息を吐いた。
何もできないと思っていた。
部屋に閉じこもり、SNSに怯え、家族に嘘をつき、公式に疑われるかもしれないと震えていた。
でも、言葉で誰かを助けることはできた。
少なくとも、少しだけ。
らでんの姿になった俺が持っているもの。
脚力。
頑丈さ。
文化知識。
説明癖。
話す力。
それが初めて、ただ怖いだけのものではなくなった気がした。
しばらくして、担当A経由で、耳なしになりたいさんが避難所へ入った。
表示名はそのまま、耳なし希望。
ニコさんが言う。
『仮名どうする?』
『耳さん?』
『もっと嫌だわ』
返事が来た。
無事だ。
それだけで、少し安心する。
スウさん。
『ぺこさん、でどうでしょう』
『直球すぎない?』
ハジさん。
『でも分かりやすい』
ニコさん。
『じゃあペさん』
『短すぎる』
俺は少し迷ってから送った。
『ぺこさんが一番分かりやすいと思います』
『嫌なら変えます』
少し間。
『もういい』
『ぺこさんで』
『多数決に負けたぺ……負けた』
避難所が一瞬、静かになった。
ニコさん。
『今のは聞かなかったことにする』
ぺこさん。
『ありがとう』
『優しさが痛い』
少しだけ、空気が緩んだ。
助かったからこそ、笑える。
笑っていいのかは分からないけれど、笑わないと保たない。
ぺこさんは、安全な場所へ移動した後、少しずつ状況を話してくれた。
朝起きたら、長い耳があったこと。
鏡を見て、叫びそうになったこと。
家族の足音が近づいて、帽子をかぶろうとして失敗したこと。
耳がドアにぶつかったこと。
窓からではなく、勝手口からなんとか外へ出たこと。
人の少ない方へ逃げたつもりが、スーパーの駐車場で見られたこと。
動画を撮られたかもしれないこと。
ずっと耳が動いていたこと。
そして。
『本家の配信、少しだけ見た』
その一文で、俺は画面を見つめた。
ぺこさんの次の文が来る。
『見た瞬間、耳が勝手に動いた』
『声を聞いたら、胸が変になった』
『懐かしいというか、怖いというか』
『自分じゃないのに、自分を呼ばれたみたいだった』
避難所が、また静かになる。
担当Aからもメッセージが来た。
『その情報は重要です』
『本家配信・音声への反応は必ず記録してください』
『今後、強い反応が出る可能性があります』
俺は、ぺこさんの一文を何度も読み返した。
本家の声を聞いたら、耳が勝手に動いた。
俺は、らでんの配信を見て、言葉の間を知った。
スウさんは、枢の姿を見て、誰かに見られている感覚を強めた。
ニコさんは、笑虎の切り抜きを見て、笑わせようとする衝動が増えた。
ハジさんは、はじめの動きを見た後、身体が先に動く感覚が強くなったと言っていた。
そして、ぺこさんは。
本家の声で、耳が動いた。
画面の向こうは、もうただの向こう側じゃない。
あちらの声が、こちらの身体を動かしている。
その事実が、静かに俺たちの避難所へ落ちてきた。