朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
第11話 家族同席面談
朝、目が覚めて最初に見たのは、鍵のかかっていないドアだった。
ただ、それだけ。
昨日までなら、鍵をかけていないなんて考えられなかった。
誰かが入ってくるかもしれない。
顔を見られるかもしれない。
この姿を説明しなければならないかもしれない。
その全部が怖くて、俺はずっと、ドアの向こうに家族を追いやっていた。
でも今は、鍵がかかっていない。
たったそれだけで、部屋の空気が少し違って見えた。
もちろん、平気になったわけじゃない。
鏡を見れば、そこにはまだ儒烏風亭らでんの姿をした俺がいる。
佐伯悠真の顔はどこにもない。
声も違う。
身体も違う。
記憶も、ほとんどない。
それでも昨日、母親は俺の手を握って言った。
その癖は悠真のだよ、と。
父親は、今すぐ警察や病院に連れて行くより、まず担当Aと話した方がいいと言った。
完全に信じてもらえたわけじゃない。
全部を受け止めてもらえたわけでもない。
でも、俺はこの家から追い出されなかった。
それだけで、呼吸が少し楽だった。
ドアの向こうで、足音が止まった。
「起きてる?」
母親の声。
俺は少し迷ってから答える。
「起きてる」
「入っていい?」
胸が跳ねた。
昨日、顔は見せた。
でも、見せたからといって、今日から平気になるわけじゃない。
俺は慌ててマスクを探した。
「ちょっと待って。マスクする」
ドアの向こうで、母親が少し黙った。
「しなくてもいいよ」
「いや、俺がまだ無理」
そう言うと、母親はすぐに返した。
「じゃあ、待つ」
その一言で、少し肩の力が抜けた。
待ってくれる。
昨日までは、開けるよ、顔見せなさい、病院行くよ、と迫られている感じだった。
もちろん、それも心配からだったのだと思う。
でも今は、待ってくれる。
俺が自分で準備する時間をくれる。
それが、思った以上にありがたかった。
俺はマスクをつけ、髪を軽く整え、フードだけかぶった。
帽子まではいらない。
いや、いらないと思いたい。
「いいよ」
ドアがゆっくり開いた。
母親が、そっと顔を覗かせる。
昨日より驚いた顔はしなかった。
でも、まだ目の奥に迷いがある。
それはそうだ。
朝起きたら、二十五歳の息子が知らない少女の姿になっていた。
そんなもの、二日三日で慣れられても困る。
「おはよう、悠真」
名前を呼ばれた。
胸の奥が、ほんの少しだけ反応する。
その名前にまだ実感はない。
けれど、呼ばれること自体は嫌じゃなかった。
「おはよう」
「ご飯、食べられそう?」
「たぶん」
「また、たぶん」
母親はそう言って、小さく笑った。
昨日より、その笑い方は自然だった。
俺も少しだけ笑った。
マスクの下だから、ちゃんと見えたかは分からないけど。
「今日、担当Aさんと話すんだよね?」
「うん。家族同席で面談できるって」
「お父さんも同席するって」
「分かった」
母親は部屋の中を少し見回した。
散らかった机。
布団。
スマホ。
鏡。
そこに映る、俺ではない俺。
母親は何か言いかけて、やめた。
代わりに、静かに言った。
「無理そうなら、途中でやめていいからね」
その言葉に、俺は少しだけ詰まった。
「……うん」
無理ならやめていい。
それだけで、逆に少し進めそうな気がした。
午前十時。
俺はリビングではなく、自室で面談をすることにした。
俺のスマホを机に置き、母親と父親は少し離れた位置に座る。
俺はベッドの端。
昨日よりは距離が近い。
でも、触れるほどではない。
このくらいが、今はちょうどよかった。
担当Aから、事前の注意事項が届いている。
『ご家族同席の面談を行う場合、以下の点をご確認ください』
『本名・住所・職場・学校名等はチャットに記載しないでください』
『画面のスクリーンショットは撮らないでください』
『面談内容を第三者に共有しないでください』
『本来のタレント本人に関する検索・詮索は控えてください』
『医療機関や警察に相談する場合は、情報の扱いに注意してください』
『佐伯悠真さん本人の意思を確認しながら進めてください』
父親はその文章を何度も読んだ。
「向こうも、情報を出さないことを徹底してるな」
「うん」
「少なくとも、面白半分ではない」
父親のその言葉に、少しだけ安心する。
完全に信用したわけではない。
けれど、頭ごなしに疑うだけでもなくなっている。
面談開始の時間になった。
スマホが震える。
担当Aからだ。
『ご家族の方にもご同席いただきありがとうございます』
『まず、本件については現在確認中の事案であり、断定できない点が多くあります』
『ただし、佐伯悠真さんが危険な行為を行った結果ではない可能性が高いと見ています』
俺が読み上げると、母親がすぐに顔を上げた。
「危険な行為じゃないって……本当に?」
俺はそのまま文字にして送る。
『家族からの質問です。危険な行為によるものではないと考えていいのでしょうか』
担当Aの返信。
『現時点で、本人が意図的にこの状態を招いたと判断する材料はありません』
『同様の事例が複数確認されており、個人の行動のみで説明することは困難です』
母親はその文章を読んで、深く息を吐いた。
俺が何かしたせいではない。
完全な証明ではない。
それでも、その可能性が示されたことは、母親にとって大きかったのだと思う。
父親が口を開く。
「質問していいか」
「うん」
「これは病気なのか」
俺はそのまま打つ。
担当Aから返信が来る。
『医療的な診断はできません』
『ただし、外見・声・身体感覚・記憶状態が通常とは大きく異なるため、医療的支援の必要性は否定できません』
『一方で、本人確認や外見差異の問題があるため、一般的な受診には慎重な準備が必要です』
父親は眉を寄せる。
「つまり、病院に行けばいい、で済む話じゃないってことか」
「たぶん」
「また、たぶん」
「担当Aも断定してないし」
「それはそうだな」
父親は続けて質問した。
「戸籍や保険証はどうなる。仕事はどうする。警察に相談した場合、どう扱われる」
俺は全部打つのに少し時間がかかった。
担当Aの答えも慎重だった。
『法的身分については、現時点では佐伯悠真さんとしての生活記録・所持品・端末・書類等を慎重に保全してください』
『職場への連絡は、本人の安全とプライバシーを優先し、体調不良・療養が必要という範囲に留めることを推奨します』
『警察・医療機関への相談は選択肢ですが、情報が広がるリスクもあるため、事前に相談内容を整理してください』
父親は、かなり真剣に読んでいた。
俺より冷静かもしれない。
いや、俺は自分のことだから冷静でいられないだけか。
母親は、父親とは違う質問をした。
「記憶は戻るんですか」
その言葉に、俺の指が止まる。
聞きたい。
でも、聞きたくない。
戻ると言われたら、期待してしまう。
戻らないと言われたら、怖い。
それでも送る。
担当Aの返信は、すぐには来なかった。
少し間を置いて、画面に文字が表示される。
『現時点では不明です』
『無理に思い出させようとすることで、強い混乱や不安が生じる可能性があります』
『安心できる環境で、反応したもの・思い出せそうなもの・身体が覚えているものを記録することを推奨します』
母親は黙って読んでいた。
目が少し赤い。
「戻るかは、分からないんだね」
「うん」
俺は頷く。
「でも、全部消えたわけじゃないみたい」
そう言うと、母親が俺の手元を見る。
「昨日の癖?」
「うん」
母親は少しだけ笑った。
「昔からだよ」
「俺、それ知らない」
「でしょうね」
そのやり取りが、少しだけ普通の親子みたいで、逆に胸が痛くなった。
母親が、担当Aに一番聞きたかったことを口にした。
「この子は、本当に悠真なんですか?」
部屋の空気が固まる。
父親も黙った。
俺も、何も言えなかった。
それは、俺自身も聞きたいことだった。
俺は本当に、佐伯悠真なのか。
それとも、佐伯悠真の部屋で目覚めた、別の何かなのか。
担当Aにそのまま送る。
返信は、慎重だった。
『第三者が完全に証明することはできません』
『ただし、本人の所持品・端末操作・生活環境への反応・身体的な癖・ご家族への反応など、複数の要素を総合して確認する必要があります』
『大切なのは、今目の前にいる本人が、佐伯悠真さんとしての繋がりを持っている可能性を前提に、安全に対応することです』
完全に証明はできない。
その言葉は重い。
でも同時に、切り捨てる言葉でもなかった。
父親が静かに言った。
「いくつか、確認してもいいか」
怖かった。
もし何も答えられなかったら。
もし全部外したら。
その時、俺はこの家で何になるのか。
でも、逃げるわけにはいかない。
「いいよ」
父親は少し考えた。
「階段、どこが鳴る」
不意の質問だった。
記憶にはない。
でも、頭で考えるより先に、口が動いた。
「……下から四段目」
言ってから、自分で驚いた。
父親も少しだけ目を見開く。
母親が小さく言う。
「そう。いつもそこだけ避けてた」
心臓が鳴った。
俺は知らない。
でも、身体は知っていた。
父親が続ける。
「机の引き出し。引っかかるのは」
「上から二段目」
「そうだ」
母親が聞く。
「小さい頃、苦手だった食べ物は?」
これは分からない。
何も浮かばない。
俺は首を振った。
「分からない」
「じゃあ、好きだったものは?」
それも分からない。
でも、なぜか少しだけ、甘い匂いの記憶とも呼べないものが胸の奥をかすめた。
「……プリン?」
母親が口元を押さえた。
「好きだった。今も冷蔵庫にあるよ」
「あるんだ」
「昨日、買ってきた」
その言葉に、胸が痛くなった。
俺が食べられるか分からないのに。
母親は、俺が好きだったらしいものを買ってきていた。
父親が最後に聞いた。
「小さい頃のあだ名」
これは、まったく出てこなかった。
どれだけ待っても、何も。
「分からない」
「そうか」
父親は、それ以上追及しなかった。
全部答えられるわけじゃない。
でも、いくつかは答えられた。
それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。
担当Aからメッセージが来る。
『無理のない範囲で十分です』
『答えられないことを責めないでください』
『反応があった項目は記録してください』
『記憶を取り戻すことより、現在の安全と安定を優先してください』
父親は頷いた。
「ルールをまとめよう」
また現実的な声だった。
俺は少しだけ安心する。
父親はノートを開いた。
母親がペンを持つ。
佐伯家ルール。
そう書かれる。
一、悠真の写真・動画は撮らない。
二、親戚・職場・近所には話さない。
三、外出は家族または担当Aと相談してから。
四、体調・身体変化・記憶の反応をノートに記録する。
五、本来のタレントやホロライブについて過度に検索しない。
六、仕事への連絡は、悠真のスマホを一緒に確認して行う。
七、医療機関への相談は、担当Aと手順を確認してから。
八、悠真を無理に過去の記憶で追い詰めない。
母親が、最後に少し迷ってから書いた。
九、今の悠真を、佐伯悠真として扱うことはやめない。
その一文を見た瞬間、喉の奥が詰まった。
「それ、いいの?」
思わず聞いた。
母親が顔を上げる。
「何が?」
「俺、こんな姿なのに」
「姿が変わっても、悠真って呼ぶのをやめたくない」
母親はそう言ってから、少しだけ不安そうに続けた。
「でも、それがつらいなら言って」
つらい。
確かに、つらい。
佐伯悠真。
その名前には、まだ実感がない。
呼ばれるたびに、胸の奥がざらつく。
でも、それでも。
「……つらいけど、呼んでほしい」
母親の目が潤んだ。
父親は黙ってノートを閉じた。
担当Aとの面談は、そこで一度区切られた。
『本日の内容は、無理のない範囲で記録してください』
『ご家族の協力が得られたことは大きな前進です』
『今後も、本人の意思と安全を優先してください』
前進。
その言葉が少しだけ眩しかった。
面談後、俺は避難所に報告した。
『家族同席面談が終わりました』
『家族ルールができました』
『父親が思ったより冷静でした』
『母親は泣きそうでしたが、悠真と呼び続けると言ってくれました』
スウさん。
『よかったです』
『名前を呼んでもらえるの、少し羨ましいです』
ニコさん。
『佐伯家、避難所外部協力者第一号では?』
『いや勝手に任命するなって話だけど』
『でも強い』
ハジさん。
『家族ルール、参考になる』
『俺もいずれ必要かもしれない』
ぺこさんからは、少し遅れて返事が来た。
『その説明文、俺も使いたい』
『でも耳がある状態で帰るの怖い』
『家族に見られる前に逃げたから、余計に戻りづらい』
俺はしばらく、その文を見つめた。
ぺこさんは、まだ家に帰れていない。
俺は家族に見せた。
怖かったけど、見せられた。
でもぺこさんは、耳を隠せない。
家族に何も言わずに逃げた。
戻るには、俺よりもっと大きな壁がある。
俺はスマホを伏せて、部屋の外に出た。
廊下で母親と鉢合わせる。
「あ、悠真」
名前に、少しだけ反応する。
「どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがある」
「うん」
俺は少し迷った。
避難所のことを詳しく話すわけにはいかない。
でも、聞きたかった。
「もし、俺よりもっと見た目が変わってて、家に帰れない人がいたら、どう説明すればいいと思う?」
母親の表情が変わった。
「他にもいるの?」
俺は少し迷って、頷いた。
「いる。たぶん、俺より大変な人が」
母親はしばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。
「まず、帰ってきていいって伝えることじゃない?」
「説明より先に?」
「説明はあとでもできるよ」
母親は少し悲しそうに笑った。
「でも、帰ってきちゃだめって思い込んだら、その子は帰れなくなる」
胸に、重いものが落ちた。
帰ってきていい。
たったそれだけ。
でも、今の俺たちには、それがどれだけ大きいか分かる。
「見た目が変わってても?」
「怖いとは思う」
母親は正直に言った。
「驚くし、混乱するし、たぶんすぐには分からない。でも、帰ってきたら、まず入れると思う」
「どうして?」
「外にいる方が危ないから」
その言葉は、ものすごくシンプルだった。
そして、強かった。
「ありがとう」
「役に立つか分からないけど」
「たぶん、役に立つ」
「また、たぶん」
母親はそう言って、少し笑った。
俺は部屋に戻り、避難所に母親の言葉を共有した。
『母親に聞いてみました』
『まず、帰ってきていいって伝えることじゃない?と言っていました』
『説明はあとでもできる』
『でも、帰ってきちゃだめって思い込んだら、その子は帰れなくなる、と』
ぺこさんの返信は、すぐには来なかった。
数分後。
『帰ってきていいって、言われたい』
『それだけで泣きそう』
俺はその文を見て、何も言えなかった。
避難所は、ただのチャットではなくなり始めていた。
最初は、俺たちが怖くて逃げ込んだ場所だった。
でも今は、誰かが「助けて」と言える場所になっている。
そして、誰かが「帰りたい」と言える場所にもなりかけている。
そのことが、少し誇らしくて、同じくらい怖かった。
担当Aから新しいメッセージが届く。
『皆様の避難所は、実体化者同士の初期接触に有効に機能しています』
『ただし、今後人数が増える場合、情報管理と安全確認が必要です』
『希望される場合、公式側と連携した安全な連絡窓口を設けることを検討します』
安全な連絡窓口。
避難所が、もっと大きなものになろうとしている。
俺は画面を見つめた。
最初は、自分が怖くて作った場所だった。
今は、誰かを助ける入口になっている。
でも、それは責任も増えるということだ。
画面に、ぺこさんからのメッセージが浮かぶ。
『俺、家に帰りたい』
『でも、一人じゃ無理』
『手伝ってほしい』
俺はその文字を見つめた。
家に帰る。
それは、昨日まで当たり前だったことなのに、今の俺たちには、ひとつの作戦名みたいに重かった。