朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
ドアノブが回った。
俺は反射的に、内側からドアを押さえた。
押さえた、つもりだった。
けれど実際には、足の裏が床を噛み、膝が沈み、腰が勝手に重心を作っていた。腕に力を込めた感覚はほとんどない。ただ、身体全体が自然にドアの前へ立ちはだかっている。
何だ、これ。
妙に安定している。
押されても倒れない姿勢を、身体が知っているみたいだった。
「ちょっと、開かないんだけど」
ドアの向こうで、母親らしき人の声がした。
らしき、という時点で終わっている。
普通なら分かるはずだ。
母親の声なら、聞いただけで分かる。たぶん、名前だって呼べる。いつもの返し方もある。
でも、今の俺には何もない。
ドア越しに聞こえる声が、家族のものだという感覚だけが、薄く胸の奥に残っている。
それが余計に怖かった。
「ねえ、誰かいるの?」
その一言で、喉が凍った。
誰か。
そうだ。
今の声は、俺じゃない。
少なくとも、向こうが知っているはずの二十五歳の息子の声ではない。
俺は息を吸った。
落ち着け。
ここで黙ったら終わる。
何か言え。
何でもいい。
「お、俺だって……!」
声が裏返った。
完全に女の子の声だった。
ドアの向こうが静かになる。
俺も静かになりたかった。
できれば存在ごと消えたかった。
「……本当に?」
「本当に」
「声、すごい変だけど」
「喉が……」
「喉?」
「喉が、たぶん、壊れた」
言ってから、俺は心の中で頭を抱えた。
喉が壊れたって何だ。
壊れたのは喉じゃない。
人生だ。
「病院行く?」
「行かない」
「なんで即答なの」
そりゃ行けないからだ。
この顔で病院に行ったら、診察より先に事件になる。
俺はドアノブを握る手に力を込めた。
いや、力はほとんど入っていない。
なのにドアはびくともしない。
「今、着替えてるから!」
咄嗟にそう叫んだ。
ドアの向こうで、また一瞬だけ沈黙。
「あんた、部屋で着替えるのにそんな必死になる年齢だっけ?」
正論だった。
二十五歳社会人男性が、実家の自室で母親相手に「着替えてるから!」と必死になる。
確かに変だ。
でも、今は変で済ませてほしい。
頼む。
怪異より、ちょっと変な息子で処理してくれ。
「とにかく、開けないで」
「……分かったけど」
ドアの向こうの気配が少しだけ下がった。
助かった。
いや、まだ助かってない。
「今日、仕事あるでしょ?」
「……仕事」
その単語が、心臓に直接刺さった。
そうだ。
さっきスマホに出ていた。
出勤。
B。
何のBだか知らないが、とにかく仕事がある。
「休むなら早めに連絡しなさいよ」
「うん」
「ご飯は?」
「あとで」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「全然大丈夫そうじゃないけど」
それはそう。
俺もそう思う。
ドアの向こうで、ため息が落ちた。
「薬、あとで持ってくるから」
「置いといて」
「顔見せなさい」
「あとで」
「絶対だからね」
「……うん」
階段を下りる足音が遠ざかっていく。
俺はドアに額をつけたまま、ゆっくり息を吐いた。
膝から力が抜ける。
そのまま床に座り込みそうになって、なぜか身体は崩れなかった。
腰が残る。
足が残る。
変なところで安定する。
「……何なんだよ、この身体」
俺は自分の手を見た。
細い指。
白い肌。
自分のものじゃない。
でも、この手でドアを押さえた。スマホを開いた。パスコードを打った。
今、震えているのも俺だ。
俺はスマホを拾い直し、画面を開いた。
顔認証は当然のようにまた失敗した。
「だよな」
数字を打つ。
今度も指は迷わなかった。
ホーム画面に戻ると、通知の中に職場らしきものがあった。
メッセージアプリ。
グループ名は、知らない。
でも社会人の勘だけは、嫌なほど働いた。
これは職場だ。
開く。
『今日B番だよね? 朝礼の確認よろしく』
『昨日の件、主任に共有しておいてください』
『体調どう? 昨日ちょっとしんどそうだったけど』
知らない名前。
知らない人たち。
知らない昨日。
けれど、画面の向こうでは俺が普通に職場の人間として存在している。
二十五歳。
実家暮らし。
社会人。
今日も普通に出勤する予定だった人間。
それが今、知らない女の子の姿で自室に閉じこもっている。
「無理だろ……」
電話はできない。
声で一発アウトだ。
俺はメッセージ入力欄を開いた。
何を書けばいい。
体調不良。
無難。
社会人として最低限。
指が勝手に動く。
『すみません。体調不良のため、本日お休みをいただきたいです。急で申し訳ありません』
送信。
すぐ既読がついた。
速い。
怖い。
『了解です。無理しないでください。声出ない感じなら電話しなくて大丈夫です。お大事に』
俺はスマホを握ったまま、ベッドに沈んだ。
「助かった……」
今日だけは。
今日だけは、なんとかなる。
でも明日は?
明後日は?
この顔で職場に行けるのか。
保険証は?
免許証は?
身分証の写真は?
そもそも、この身体は戸籍上どういう扱いなんだ。
考えた瞬間、頭が痛くなった。
考えることが多すぎる。
俺は一度、部屋を見回した。
情報。
情報が必要だ。
俺が何者だったのか。
何をしていたのか。
何を好きだったのか。
机の引き出しを開ける。
上から二段目が、思った通り引っかかった。
なぜそこだけ分かる。
中には、細々としたものが入っていた。
古いイヤホン。ライブの半券。コンビニのレシート。何かのアクリルスタンド。クリアファイル。未開封のラバーストラップ。
キャラクターグッズ。
見覚えは、ある。
でも思い出はない。
その中に、ホロライブのロゴがあった。
胸の奥が、また小さく反応した。
俺はそれを手に取る。
好きだったんだろうな。
そう思う。
でも、誰をどれくらい好きだったのかは分からない。
推し。
その言葉だけは自然に出てきた。
俺には、たぶん推しがいた。
けれど、その顔が思い出せない。
好きだった気持ちの輪郭だけが残っていて、中身が空っぽになっている。
きつい。
思ったより、きつい。
俺はスマホを開き、YouTubeを立ち上げた。
ホーム画面には、見慣れているはずのサムネイルが並んでいた。
ホロライブ。
ReGLOSS。
DEV_IS。
FLOW GLOW。
知らない。
いや、知っている。
知っているのに、覚えていない。
指が検索欄に触れる。
さっきの通知にあった名前。
儒烏風亭らでん。
一文字打つ前に、検索候補に出てきた。
その名前を見た瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。
俺は動画を開いた。
画面の中で、黒髪の少女が笑っていた。
息が止まった。
同じ顔だった。
鏡の中にいた少女と、同じ顔。
同じ髪。
同じ雰囲気。
同じ声。
画面の中の彼女は、楽しそうに話している。
コメントが流れている。
笑い声がある。
彼女はそこにいた。
普通に。
今も活動している存在として。
「……いるじゃん」
声が震えた。
俺は、彼女になったわけじゃない。
だって彼女は画面の向こうにいる。
笑っている。
喋っている。
コメントを拾っている。
なら、俺は何だ。
中の人になったわけでもない。
その人はその人で、たぶんこの世界のどこかにいる。配信も続いている。画面の向こうで、この姿を動かしている。
なのに俺は、その姿そのものになっている。
配信画面の中にいる“儒烏風亭らでん”という存在が、現実に一人、増えたみたいに。
「いや……意味分かんないだろ」
分からない。
分からないのに、鏡を見れば答えはある。
俺は儒烏風亭らでんではない。
でも、今の俺は儒烏風亭らでんの姿をしている。
画面の中の彼女が、美術の話を始めた。
聞き流すつもりだった。
なのに、耳が勝手に拾う。
言葉の流れ。
間の置き方。
次に何を言うのか。
笑わせる場所。
話題の広げ方。
分かる。
分かってしまう。
「これは……たぶん、余白の取り方が」
口から言葉が漏れた。
俺は慌てて口を押さえる。
何を言おうとした。
知らない。
俺は知らないはずだ。
美術に詳しい記憶なんてない。
落語も、伝統芸能も、工芸も、何も思い出せない。
なのに、分かる。
その絵の見どころが。
言葉の置き方が。
どこで一拍置けば相手が聞いてくれるのかまで。
画面の中の彼女が、一拍置いた。
俺がさっき、頭の中で思った場所だった。
ぞっとした。
「……やめろ」
動画を止める。
部屋が静かになる。
俺はスマホを伏せ、鏡を見た。
そこには、同じ顔の少女が青ざめていた。
俺が息を止めると、彼女も止める。
俺が唇を噛むと、彼女も噛む。
俺のものじゃない顔で、俺が怖がっている。
それが、何より気持ち悪かった。
「俺は……誰なんだよ」
答えはない。
ただ、スマホの画面の中にいる彼女だけが、さっきまで当たり前みたいに笑っていた。
下から声がした。
「ご飯、部屋の前に置いとくからね」
俺は飛び上がりかけた。
いや、飛び上がるどころか、体がベッドから少し浮いた気がした。
何この脚力。
怖い。
「わ、分かった!」
「薬も置いとくよ」
「ありがとう」
ドアの向こうに、お盆を置く音。
少しの沈黙。
「ねえ」
「何?」
「本当に、病院行かなくていいの?」
「大丈夫」
「声、女の子みたいになってるよ」
直球。
俺は硬直した。
ドア越しでよかった。
顔を見られていたら終わっていた。
「喉が……」
「喉でそこまで変わる?」
「変わる時は、変わる……たぶん」
「たぶん?」
「医学的には、分からないけど」
何を言っているんだ俺は。
看護師でも医者でもないのに。
いや、俺の職業もまだ分からないけど、少なくともこの場で医学的に語れる立場ではない。
ドアの向こうで、またため息。
「あとで入るからね。薬飲んだか見る」
「え」
「え、じゃない」
「いや、その……部屋が散らかってるから」
「いつもでしょ」
何も言えない。
たぶん事実なのだろう。
「あとでね」
足音が遠ざかる。
俺はもう一度、床に座り込んだ。
「あとで、っていつだよ……」
時間制限ができた。
この姿を見られたら終わる。
部屋に知らない少女がいたら、どう考えても警察沙汰だ。
しかも、その少女はホロライブのタレントの姿をしている。
説明できるわけがない。
俺は慌ててクローゼットを開けた。
服。
男物の服。
パーカー。
ジャージ。
黒いキャップ。
マスク。
とにかく隠すしかない。
長い髪をどうにかまとめようとして、ヘアゴムを探す。
机の上にあった。
なぜある。
俺が使っていたものか?
家族のものか?
いや、考えるな。
今は使えるものは全部使え。
髪を束ねる。
失敗。
もう一回。
失敗。
三回目。
髪が指の間からさらさら逃げる。
「人生最大の敵がヘアゴムになる日が来るとは思わなかった」
二十五歳社会人男性だったはずの俺が、鏡の前で黒髪の美少女の髪を必死にまとめている。
地獄の絵面だ。
ただ、四回目で突然うまくいった。
指が迷わなくなった。
髪を集める位置も、結ぶ強さも、自然に分かる。
綺麗にまとまった。
俺は鏡を見た。
少し印象が変わった少女が、そこにいる。
「……できるのも怖いんだよ」
声が小さく落ちた。
知らないことができないのは怖い。
でも、知らないはずのことができるのは、もっと怖い。
俺は帽子を深くかぶり、マスクをつけ、パーカーのフードを重ねた。
顔はかなり隠れた。
たぶん。
声を出さなければ、少しはごまかせる。
そう思いたかった。
少し落ち着くため、俺はSNSを開いた。
今起きていることを調べるためでもあった。
検索欄に、震える指で打つ。
『ホロメン 現実』
候補が出る。
『ホロメン 実体化』
『兎耳 目撃』
『狐耳 駅前』
『ホロライブ コスプレ 本物』
胃が沈んだ。
俺はトレンド欄を開く。
そこには、冗談みたいなタグが並んでいた。
#ホロメン実体化
#現実ホロメン
#推しが三次元に出てきた件
「……は?」
動画を開く。
駅前らしき場所。
人混みの奥。
帽子を深くかぶった少女の頭から、長い耳のようなものが見えていた。
動画はブレている。
距離も遠い。
でも、耳が動いた。
作り物ではない動きだった。
別の投稿。
商店街の防犯カメラ風の粗い映像。
白っぽい髪の人物が、通行人の視線を避けるように小走りで横切る。帽子の下から、狐耳のようなものが一瞬だけ覗く。
コメント欄は半分祭り、半分疑惑だった。
『コスプレのクオリティ高すぎ』
『AI動画だろ』
『いや耳の動き自然すぎる』
『ホロメン実体化してて草』
『公式困惑案件』
『これ本物だったらやばくね?』
俺は笑えなかった。
なぜなら、分かってしまったからだ。
コスプレではない。
少なくとも、俺という前例がここにいる。
俺だけじゃない。
その事実は、少しだけ俺を安心させた。
ひとりじゃない。
頭がおかしくなったわけではない。
同じようなことが、他にも起きている。
でも、その安心はすぐに恐怖へ変わった。
『これ、ホロメン全員いるんじゃね?』
『人外勢は隠れるの無理だろ』
『逆に人間っぽいメンバーは紛れてそう』
『ReGLOSSとか見た目だけならギリ街にいそう』
『らでん、どっかにいても気づかんかも』
『いや、らでんは声出したら一発でバレる』
指が止まった。
喉に手を当てる。
この声。
この顔。
この身体。
俺はまだ、部屋から出てすらいない。
家族にすらまともに顔を見せていない。
なのに、ネットの知らない誰かがもう言っている。
らでんも、どこかにいるんじゃないか。
声を出したら、バレるんじゃないか。
「……探すなよ」
呟いた声が、震えていた。
俺はスマホを伏せた。
何もしていない。
まだ、何も始まっていない。
それなのに世界はもう、俺を探し始めていた。