朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している   作:好きな性癖発表ドラゴン

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第22話 外に出る練習

 

 

 担当Aから届いた外出訓練案は、思っていたよりもずっと細かかった。

 

『短時間の外出訓練について、第一案を共有します』

『目的は、世間の目にさらされることではありません』

『本人が必要な生活行動を少しずつ取り戻すことです』

『今回は、三分から五分程度の屋外歩行を想定します』

『施設内には入りません』

『買い物はしません』

『会話を目的としません』

『外へ出て、短時間歩き、帰宅することが目的です』

 

 外へ出て、短時間歩き、帰宅する。

 

 それだけ。

 

 それだけのはずなのに、画面の文字を見ているだけで、胸の奥が少しざわついた。

 

 昨日、俺は「怖いだけじゃない」と思えた。

 

 好きだったかもしれないものを、全部怖いものにしたくないと思った。

 

 いつか美術館に行きたいとも思った。

 

 でも、思うことと実際に外へ出ることは違う。

 

 玄関の扉を開ける。

 

 車に乗る。

 

 知らない場所へ行く。

 

 この姿で、外の空気の中に立つ。

 

 それはやっぱり、簡単なことではなかった。

 

 担当Aの文章は続いている。

 

『場所は、人通りが少ない公共施設周辺を候補とします』

『完全に人気のない場所は避けます』

『孤立せず、かつ目立ちにくい場所を選定します』

『本家関連の広告・映像・音楽が流れにくい環境を優先します』

『移動は車』

『同伴者あり』

『外出開始時・終了時に担当A側へ連絡』

『予定時間を超過した場合は、こちらから確認します』

 

 遊びではない。

 

 散歩でもない。

 

 訓練。

 

 その言葉が少し重い。

 

 けれど、同時に少し安心もした。

 

 無防備に外へ放り出されるわけではない。

 

 見られない努力をする。

 

 でも、もし見られたとしても、そこで終わりではないと確認する。

 

 俺はその一文を、ゆっくり読み返した。

 

『見られない努力はします』

『ただし、万が一見られた場合も、そこで終わりではないことを確認します』

 

 そこで終わりではない。

 

 昨日から、ずっと考えていた言葉だった。

 

 外に出るのが怖いのは、誰かに見られるかもしれないからだ。

 

 撮られるかもしれないからだ。

 

 名前をつけられるかもしれないからだ。

 

 けれど、見られた瞬間に全部が終わると思い続けていたら、俺たちは一歩も動けなくなる。

 

 俺はスマホを置いて、息を吐いた。

 

 避難所を開く。

 

『外出訓練、俺が先にやってみます』

『三分から五分だけです』

『文化施設の近くを歩いて戻る予定です』

『施設には入りません』

 

 すぐに反応が来た。

 

 ぺこさん。

 

『三分でも外は外』

『すごい』

 

 ニコさん。

 

『三分外出RTA』

 

 ハジさん。

 

『走るな』

 

『歩きます』

 

 スウさん。

 

『帰ってきたら、どうだったか教えてください』

 

 ニコさん。

 

『ラさん外出ログ期待』

 

『長くならないようにします』

 

 ほぼ同時に、何人かが返した。

 

『無理』

 

 俺は画面の前で固まった。

 

『せめて努力します』

 

 ニコさん。

 

『それなら分かる』

 

 ぺこさん。

 

『ラさんの短文、努力目標』

 

 軽いやり取りなのに、少し落ち着いた。

 

 みんなが見ている。

 

 でも、それは世間の視線とは違う。

 

 消費するための視線ではなく、帰りを待ってくれる視線だ。

 

 そう思うと、外へ出ることが少しだけ現実的になった。

 

 準備は昼前から始まった。

 

 母親が玄関近くに小さなかごを置いて、持ち物を並べている。

 

 マスク。

 

 眼鏡。

 

 目立たない帽子。

 

 大きめの上着。

 

 飲み物。

 

 ハンカチ。

 

 担当Aへの緊急連絡先。

 

 スマホ。

 

 そして、小さなカード。

 

 カードには、短い文が二つだけ書かれていた。

 

 撮影はご遠慮ください。

 失礼します。

 

 俺はそのカードを見て、少し眉を寄せた。

 

「もう少し説明があった方がよくない?」

 

 父親が即答した。

 

「いらない」

 

「でも、状況を説明するには」

 

「説明しないためのカードだ」

 

「……なるほど」

 

 母親がカードを持って、少し笑う。

 

「これくらいなら、すぐ読めるね」

 

「短すぎない?」

 

「短いからいいんだ」

 

 父親が言う。

 

「入らない部分は言わない」

 

 俺は黙った。

 

 正論だった。

 

 俺は説明したくなる。

 

 相手が驚いたなら、こちらの状況を分かってもらおうとする。

 

 誤解されたくない。

 

 悪意がないなら、丁寧に話せば分かってもらえるかもしれない。

 

 でも、外ではそれが危ない。

 

 長く話せば目立つ。

 

 相手に情報を渡しすぎる。

 

 自分が混乱する。

 

 だから短く。

 

 撮影はご遠慮ください。

 

 失礼します。

 

 それだけ。

 

 父親はさらに、俺のポケットに小さく折ったメモを入れた。

 

「何これ」

 

「読め」

 

 開くと、三行だけだった。

 

 短く。

 説明しない。

 帰ってから書く。

 

 俺は少しだけ笑った。

 

「俺用すぎる」

 

「お前用だからな」

 

 否定できない。

 

 母親が帽子を手に取る。

 

「これ、深くかぶりすぎると逆に怪しいかも」

 

「そう?」

 

「うん。体調悪くて軽く顔を隠してる人、くらいが自然」

 

 父親も頷く。

 

「変装しすぎるな。目立つ」

 

 俺は鏡の前に立った。

 

 マスク。

 

 眼鏡。

 

 帽子。

 

 大きめの上着。

 

 黒い髪の印象は少し隠れた。

 

 顔も、かなり見えにくい。

 

 でも完全に隠れているわけではない。

 

 休日に体調が悪くて、少し顔を隠している人。

 

 たぶん、そんな感じだ。

 

 鏡の中の自分を見て、息を整える。

 

 この姿は、まだ慣れない。

 

 でも、昨日よりは少しだけ見られるようになった。

 

 全部拒絶しなくていい。

 

 全部任せなくてもいい。

 

 少しずつ、扱えるようになればいい。

 

「スマホは?」

 

 父親が聞く。

 

「持った」

 

「位置情報は」

 

「切った」

 

「通知は」

 

「本家関連とSNSは切った」

 

「音楽アプリは」

 

「開かない」

 

「動画サイトは」

 

「開かない」

 

「トレンドは」

 

「見ない」

 

「説明は」

 

「しない」

 

「帰ってから」

 

「書く」

 

 父親は満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

 母親が飲み物を渡してくれる。

 

「無理そうなら、すぐ帰ってきていいからね」

 

「うん」

 

「三分でも、一分でも、外に出て戻れたら十分」

 

「うん」

 

 俺は玄関に立った。

 

 前回の対面確認会の時と同じように、胸の奥がざわざわしている。

 

 でも、少し違う。

 

 今日は誰かに会いに行くわけではない。

 

 何かを見に行くわけでもない。

 

 外を歩いて、帰ってくる。

 

 それだけだ。

 

 父親が車の鍵を持つ。

 

「今日は何をしに行く」

 

「外を歩いて、帰ってくる」

 

「正解」

 

「文化施設を見る」

 

「見るだけ」

 

「入らない」

 

「正解」

 

 父親が玄関を開けた。

 

「今日の目的は、外で勝つことじゃない」

 

 外の光が入ってくる。

 

「外に出て、帰ってくることだ」

 

「うん」

 

 靴を履く。

 

 一歩、外へ出る。

 

 空気が肌に触れた。

 

 怖い。

 

 でも、外の空気は敵ではなかった。

 

 ただ少し冷たくて、乾いていて、当たり前みたいにそこにあった。

 

 その当たり前に触れただけで、胸が少し広がった気がした。

 

 車に乗り込むと、父親が担当Aへ開始連絡を送った。

 

『外出訓練を開始します』

『同伴者あり』

『予定時間、三分から五分』

『終了後、帰宅連絡します』

 

 すぐに返信が来る。

 

『確認しました』

『無理をしないでください』

『予定変更時は連絡してください』

 

 車が動き出す。

 

 母親からメッセージが届いた。

 

『帰ってきたら温かい飲み物作っておくね』

 

 その一文で、少し肩の力が抜けた。

 

 外に出る。

 

 帰る。

 

 温かい飲み物がある。

 

 ただそれだけの流れが、今はとても大事だった。

 

 文化施設は、家から車で少し行った場所にあった。

 

 大きすぎない。

 

 目立ちすぎない。

 

 でも、ちゃんと人の出入りがある。

 

 担当Aが言っていた通り、完全に人気がない場所ではなかった。

 

 遠くに数人。

 

 駐車場に車が数台。

 

 施設の入口には、閉館時間を知らせる掲示。

 

 壁には企画展のポスターが貼られている。

 

 暮らしの中の器展

 手の跡をたどる

 

 文字を見た瞬間、胸の奥が小さく反応した。

 

 行きたい。

 

 その気持ちは、確かにあった。

 

 説明文を読みたい。

 

 展示室の空気に触れたい。

 

 自分の中に残っている好きの形を、少しだけ確かめたい。

 

 でも、今日は入らない。

 

 好きなものへ近づくために、今日は近づきすぎない練習をする。

 

 俺は自分のポケットに触れた。

 

 短く。

 

 説明しない。

 

 帰ってから書く。

 

 父親が隣で言う。

 

「入らないぞ」

 

「分かってる」

 

「本当にか」

 

「……分かってる。でも、行きたい」

 

「それでいい。行きたいまま、今日は入らない」

 

 その言葉で、少し落ち着いた。

 

 行きたい気持ちを否定しなくていい。

 

 でも、今日の目的も忘れない。

 

 好きだったかもしれないものに近づくことは、悪いことじゃない。

 

 ただ、急ぎすぎない。

 

 父親と並んで歩き始めた。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 靴音が聞こえる。

 

 風が上着の裾を揺らす。

 

 施設のガラスに、自分の姿が映った。

 

 家の鏡とは違う。

 

 車の窓とも違う。

 

 外のガラスに映った俺は、ちゃんと世界の中にいた。

 

 そのことに、少し息が止まる。

 

 変な感じだった。

 

 俺はここにいる。

 

 部屋の中でも、画面の中でも、避難所の文字の中でもなく。

 

 外の光の中に、立っている。

 

 父親が少しだけ歩調を緩める。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫」

 

「戻るか」

 

「まだ歩ける」

 

「よし」

 

 たったそれだけの会話。

 

 でも、その一歩一歩が、昨日までよりずっと重くて、ずっとはっきりしていた。

 

 施設の外周を半分も歩かないうちに、向こうから人が来た。

 

 若い女性だった。

 

 たぶん学生か、近くの施設を利用していた人。

 

 手にはスマホ。

 

 最初はただ歩いていただけだった。

 

 でも、俺の方を見た瞬間、少し足が止まった。

 

「あれ……?」

 

 小さな声。

 

 胸が冷える。

 

 その人の視線が、俺の帽子と眼鏡とマスクの奥を探るように動く。

 

 スマホが少し上がる。

 

 撮られる。

 

 そう思った瞬間、身体が固まった。

 

 頭の中で、いくつもの言葉が溢れかける。

 

 違います。

 

 人違いです。

 

 今は外出訓練中で。

 

 いや、外出訓練って何だ。

 

 説明したら余計に変だ。

 

 何を否定する。

 

 何を肯定する。

 

 父親が一歩前に出た。

 

 でも、その前に俺はポケットの中のメモを握った。

 

 短く。

 

 説明しない。

 

 帰ってから書く。

 

 息を吸う。

 

 声は震えた。

 

 でも、出た。

 

「撮影は、ご遠慮ください」

 

 女性は、はっとしたようにスマホを下げた。

 

「あ、すみません」

 

 悪意のある顔ではなかった。

 

 ただ、驚いただけ。

 

 見覚えがあると思っただけ。

 

 何かを撮ろうとしたことが、俺にとってどれだけ大きいかまでは、たぶん分かっていなかった。

 

 父親が短く言う。

 

「失礼します」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 俺の肩に軽く手を添え、歩く方向を変える。

 

「行くぞ」

 

「うん」

 

 足が少し震えている。

 

 でも、走らなかった。

 

 相手のスマホを取り返そうともしなかった。

 

 説明しすぎなかった。

 

 ただ、歩いて車へ戻った。

 

 車のドアが閉まった瞬間、息が一気に抜けた。

 

 手が震えている。

 

 父親が水を渡す。

 

「飲め」

 

「うん」

 

 キャップを開けるのに少し手間取った。

 

 水を飲む。

 

 冷たい。

 

 それだけで、身体が少し戻ってくる。

 

 父親はエンジンをかけずに、しばらく待った。

 

「できたな」

 

「怖かった」

 

「言えた」

 

「声、震えた」

 

「震えても言えた」

 

 その言い方に、胸の奥が少し熱くなった。

 

「三分、長すぎない?」

 

「初回にしては十分だ」

 

「美術館、遠いな」

 

 父親は文化施設の方を見た。

 

「でも、ゼロではなくなった」

 

 ゼロではなくなった。

 

 その言葉が、静かに残った。

 

 父親は担当Aへ終了連絡を送った。

 

『訓練終了』

『予定より早めに車へ戻りました』

『小さな目撃あり』

『撮影されそうになりましたが、本人が短く制止』

『トラブルなし』

『帰宅します』

 

 すぐに返信が来る。

 

『確認しました』

『帰宅後、休息してください』

『詳細ログは落ち着いてからで構いません』

 

 帰宅する。

 

 その言葉が、今はとてもありがたかった。

 

 家に着くと、母親が玄関まで出てきた。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

 声が少し掠れた。

 

「どうだった?」

 

「怖かった」

 

「でも?」

 

 母親は、前と同じように続きを待ってくれた。

 

 俺は少しだけ笑った。

 

「……歩けた」

 

 母親も笑った。

 

「じゃあ今日は、それで十分」

 

 リビングには、本当に温かい飲み物が用意されていた。

 

 湯気が上がっている。

 

 座って、それを両手で包む。

 

 ようやく帰ってきたのだと、身体が理解した。

 

 部屋に戻ってから、避難所を開く。

 

 みんなが待っていた。

 

 ニコさん。

 

『三分外出RTAどうなった』

 

 ぺこさん。

 

『言い方』

『でも気になる』

 

 ハジさん。

 

『走った?』

 

 スウさん。

 

『無事ですか?』

 

 俺はゆっくり打った。

 

『外出訓練、終了しました』

『約三分歩きました』

『施設には入りませんでした』

『撮影されそうになりましたが、「撮影はご遠慮ください」と言えました』

『声は震えました』

『でも、帰ってこられました』

 

 送信してから、指先がまだ少し震えていることに気づいた。

 

 でも、さっきとは違う震えだった。

 

 恐怖だけではない。

 

 できたことの余韻も混ざっている。

 

 ニコさんから返事が来る。

 

『ラさん、ちょっと短くなってる』

 

『努力しました』

 

 ぺこさん。

 

『そこ努力できたのすごい』

 

 ハジさん。

 

『走らなかった?』

 

『走りませんでした』

 

 ハジさん。

 

『えらい』

 

 ぺこさん。

 

『子ども扱い返し』

 

 ハジさん。

 

『今のは必要なえらい』

 

 ニコさん。

 

『声震えても言えたの偉い』

『満点』

 

 スウさん。

 

『帰ってこられた、が一番大事ですね』

 

 俺は画面を見つめた。

 

 その通りだった。

 

『はい』

『見られても、そこで終わりではありませんでした』

 

 打った瞬間、自分の中で何かが一段、下に降りた気がした。

 

 見られても、そこで終わりじゃない。

 

 もちろん、危ない。

 

 油断していいわけじゃない。

 

 撮影されたら、拡散されたら、大変なことになる。

 

 でも、今日の俺は、見られた。

 

 撮られそうになった。

 

 声は震えた。

 

 それでも、言えた。

 

 帰ってこられた。

 

 終わらなかった。

 

 ニコさんが送ってくる。

 

『見られても、そこで終わりじゃない、強い』

 

 ぺこさん。

 

『俺も家の前くらいなら、いけるかな』

『耳隠し装備で』

『スーパーはまだ無理』

『でも玄関の外ならいけるかも』

 

 ハジさん。

 

『俺は階段を普通に降りる』

『外出以前の問題』

『走らない』

 

 ニコさん。

 

『俺は家族とコンビニ手前まで行く』

『入らない』

『外で笑えなくても戻る』

 

 スウさん。

 

『私は、家族と短く散歩したいです』

『名前を呼ばれなくても、立てるようにしたいです』

 

 その並びを見て、胸がじんとした。

 

 みんなが、それぞれの三分を探し始めている。

 

 ぺこさんは玄関の外。

 

 ニコさんはコンビニ手前。

 

 ハジさんは階段。

 

 スウさんは短い散歩。

 

 俺は文化施設の外周。

 

 どれも小さい。

 

 でも、どれも今の俺たちには大きい。

 

 夜。

 

 俺は机に向かった。

 

 外出訓練のログを書く。

 

 三分歩いた。

 

 見られた。

 

 撮られそうになった。

 

 声は震えた。

 

 でも、言えた。

 

 帰ってこられた。

 

 その下に、もう一行足す。

 

 見られても、そこで終わりじゃない。

 

 文字を見て、少しだけ息を吐いた。

 

 まだ世間は怖い。

 

 外に出れば、誰かに見られるかもしれない。

 

 撮られるかもしれない。

 

 名前をつけられるかもしれない。

 

 それでも、今日の俺は三分だけ外を歩いた。

 

 いつか、あの扉の向こうへ行きたい。

 

 展示室の静けさの中で、器を見て、説明文を読んで、自分の中に残った好きの形を確かめたい。

 

 でも今日は、扉の前まで続く道を三分歩けた。

 

 それだけで、昨日より少しだけ遠くへ行けた気がした。

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