朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
避難所に、昨日の俺のログが残っていた。
『外出訓練、終了しました』
『約三分歩きました』
『施設には入りませんでした』
『撮影されそうになりましたが、「撮影はご遠慮ください」と言えました』
『声は震えました』
『でも、帰ってこられました』
その下に続いた、自分で打った一文。
『見られても、そこで終わりではありませんでした』
朝になって読み返すと、少しだけ照れくさかった。
たった三分。
文化施設の外を少し歩いただけ。
施設には入っていない。
展示も見ていない。
ただ歩いて、見られて、震えた声で一言だけ言って、帰ってきた。
でも、その三分は俺にとって大きかった。
そして、俺だけのものではなくなっていた。
避難所には、夜のうちにいくつかの返信が増えていた。
帽子じゃないさん。
『外に出るのはまだ怖いです』
『でも、頭上の存在が少し前向きな気がします』
『前向きとは?』
『なぜ私より先に前向きなのか』
声デカいさん。
『三分外出すごい』
『自分は玄関で声量バグるので無理』
『まず小声練習から始めます』
『小声ってどうやるんですか』
白い耳さん。
『外に出る前に、まず家の中で耳の情報量に慣れる必要がありそうです』
『でも、怖いだけではない、という考え方は参考になります』
『私も、今日の生活ログを残してみます』
三人の言葉を読んで、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
俺たちだけじゃない。
避難所には、まだ画面の向こうにいる人たちがいる。
会ったことのない人。
顔も知らない人。
でも、それぞれの部屋で、それぞれの朝を迎えている人たちがいる。
それぞれの三分を、探そうとしている。
その日、避難所には三つの生活ログが届いた。
ひとつ目は、帽子じゃないさんのものだった。
――帽子じゃないさんの生活ログ。
朝、洗面所の鏡の前に立った。
まず思った。
今日も外れない。
頭上の存在は、当然のような顔でそこにいた。
いや、顔はない。
たぶん。
ないはず。
でも、たまに表情があるような気がする。
これを言うと、避難所でたぶん「帽子側の表情とは」と言われる。
私もそう思う。
「……洗顔の時くらい、外れる気はありませんか」
返事はない。
けれど、なぜか“ない”という圧だけは返ってきた気がした。
「圧だけ返すな」
言ってから、自分で固まった。
私は朝から何に話しかけているんだ。
頭上の存在に話しかけている。
それも、わりと自然に。
おかしい。
おかしいのに、もう三日目くらいの自然さがある。
慣れたくない。
でも、慣れないと顔も洗えない。
指先で縁のような部分に触れる。
柔らかいような、布のような。
でも、ただの布ではない。
少しだけ、温度がある。
「いや、体温あるの本当に何?」
また沈黙。
今度は、少し気まずそうな沈黙に感じた。
「気まずそうにするな。いや、してるのか分からないけど」
私はもう一度、そっと引っ張ってみた。
外れない。
痛くはない。
でも、明確に拒否されている感じがある。
帽子に拒否される人生。
いや、帽子じゃないのか。
だから帽子じゃないさんなのか。
自分で名乗っておいて、朝から少し腹が立った。
「洗顔できないんですが」
そう言った瞬間、頭上の存在がほんの少しだけ角度を変えた。
視界が開く。
前髪のあたりに水がかかりにくくなる。
「……え」
できる。
顔が洗える。
「今、気を遣いました?」
返事はない。
でも、ちょっとだけ得意そうな気配がした。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。
でも、顔は洗いやすくなった。
「助かるけど。助かるのが一番困るんだけど」
水を出す。
冷たい水で顔を洗う。
洗面台に水が落ちる音。
鏡に映る、まだ慣れない自分。
頭上にいる、外れない何か。
困る。
本当に困る。
でも、今日の洗面所は、昨日より少しだけ怖くなかった。
一人で鏡を見るよりは、ましだった。
そう思ってしまったことに、また少し困った。
ドアの外から、家族の声がした。
「朝ごはん、食べられそう?」
私はタオルで顔を拭きながら答える。
「い、行ける……と思う」
そこで、胸の奥から別の言葉が滑り出た。
「まあ、なんとかなるでしょ。ビビってても腹は減るし」
言ってから、止まる。
鏡の中の自分と目が合った。
「今の誰?」
頭上の存在が、少しだけ得意そうに揺れた気がした。
気のせいだ。
絶対に気のせいだ。
でも、その言葉で足が動いたのも事実だった。
怖くても腹は減る。
ビビってても朝は来る。
なら、とりあえず食卓へ行く。
そのくらいなら、できる気がした。
リビングへ入ると、家族が一瞬だけ頭上を見た。
見ないようにしている。
でも、見る。
それは仕方がない。
私だって、逆の立場なら絶対に見る。
「帽子……今日も、あるね」
「ありますね」
「外れない?」
「外れないです」
「痛い?」
「痛くはないです」
「じゃあ……よかった、のかな」
「よかったかは分かりません」
沈黙。
でも、以前ほど苦しくはなかった。
家族がトーストを皿に乗せる。
「食べられそうなら、食べて」
「うん」
椅子に座る。
頭上の存在が、少しだけ揺れた気がした。
私は小さく息を吐いた。
「今日、避難所にログ書く」
「ログ?」
「怖いだけじゃなかったこと」
家族は少し驚いた顔をした。
「何かあったの?」
「帽子が気を遣った」
「帽子が?」
「いや、たぶん」
「そっか」
家族は、少し笑った。
「なら、少しだけよかったね」
よかった。
その言い方が、なんだか変に染みた。
よかったと言っていいのか分からない。
外れないのは大問題だ。
頭上の存在は謎だ。
私はまだ、鏡を見るたびに少し固まる。
でも、洗顔の時に少し角度を変えてくれた気がした。
食卓へ向かう足を、少しだけ押してくれた。
怖いだけじゃない。
その言葉を、私はあとでログに書くことにした。
ふたつ目は、声デカいさんのログだった。
――声デカいさんの生活ログ。
小声練習を始めた。
家族が紙を出してきた。
声量レベル表。
レベル一、図書館。
レベル二、家の中の小声。
レベル三、普通の会話。
レベル四、元気すぎ。
レベル五、近所が起きる。
やめてほしい。
でも、たぶん必要だった。
昨日、家の中で普通に返事をしたら、隣の部屋の窓が開いたらしい。
普通に返事をしただけだ。
普通とは。
私は正座して、目の前の家族を見た。
「これ、本当に必要?」
「必要」
「そこまで?」
「必要」
圧がすごい。
声じゃなくて家族の圧がすごい。
「まず、レベル一を出してみよう」
「図書館?」
「図書館」
「無理では?」
「最初から諦めない」
正論だった。
私は一度、深呼吸した。
力を入れない。
腹から出さない。
朝から元気を出さない。
静かに。
静かに。
「おは……」
いける。
これは小さい。
今のところ完璧。
「おはよぉぉぉ!」
家の空気が震えた。
廊下の向こうで、何かが落ちた。
家族が目を閉じた。
「レベル五」
「嘘だろ!?」
「今のも四」
「ああああ!」
「五」
「もう喋れない!」
「今のは四」
私は口を両手で押さえた。
おかしい。
小声で言うつもりだった。
本当に、心から、小声で言うつもりだった。
なのに「おはよう」の「よ」あたりで、何かが勝手に跳ねる。
明るさが乗る。
勢いがつく。
朝が始まる。
始まらなくていい。
近所を巻き込むな。
「もう一回」
家族が言った。
「今度は、息を先に抜いて」
「息?」
「力を入れるんじゃなくて、抜く」
「なるほど」
私はふーっと息を吐いた。
今度こそ。
今度こそ、静かに。
「おはよう」
家族が少し目を開いた。
「レベル三」
「え、まだ三?」
「でも、さっきより全然いい」
「まじか!」
「今の四」
「しんどい!」
「声」
「ごめん……」
「今のは三」
「基準が厳しい!」
「四」
もう駄目だ。
声量判定が厳しすぎる。
私は机に突っ伏した。
すると、家族が笑った。
小さく。
でも、ちゃんと笑った。
私は顔を上げる。
「なに」
「いや」
家族はまだ少し笑っている。
「大変だけど、なんか朝から明るいなと思って」
明るい。
この声が。
困っている。
近所バレも怖い。
外なんてまだ無理。
声を出せば出すほど目立つ。
それは本当だ。
でも、家の中が少し明るくなった。
家族が笑った。
それも本当だった。
私は少し照れくさくなって、視線を逸らした。
「……まあ、近所迷惑にならない範囲なら」
「うん」
「悪くない、かも」
「今の声量は?」
「レベル二?」
「三」
「厳しい!」
「四」
「もう黙る!」
「今の四寄りの五」
「判定が怖い!」
家族がまた笑った。
私はノートを開いて、今日の結果を書いた。
小声練習。
レベル一、無理。
レベル二、未達。
レベル三、可能。
レベル四、頻発。
レベル五、朝イチで発生。
備考。
家族が笑った。
悪いことだけじゃない。
書いてから、少しだけ頷いた。
小声はまだ無理。
でも、今日の朝は昨日より少し明るかった。
それなら、たぶんゼロ点ではない。
三つ目は、白い耳さんのログだった。
――白い耳さんの生活ログ。
朝は、静かなはずだった。
でも、耳は静かではなかった。
湯が沸く音。
廊下の床が鳴る音。
遠くの車。
窓の外の鳥。
隣の家の玄関。
誰かの小さな咳。
世界が、少し近すぎる。
私は机に向かってノートを開いた。
音を文字にすると、少し落ち着く。
午前七時十二分。湯沸かし音。方向、台所。
午前七時十三分。家族の足音。廊下。こちらへ向かう。
午前七時十四分。窓外、鳥の羽音。二羽。
書いていて、少し疲れる。
でも、記録している間は、音がただ押し寄せてくるものではなくなる。
ひとつずつ、置いていける。
廊下の足音が近づいた。
家族だ。
歩き方で分かる。
少しゆっくり。
部屋の前で止まる。
ノックの前に、私は言った。
「入って大丈夫です」
ドアの向こうで、家族が止まった。
「……まだノックしてないよ?」
「聞こえました」
「そっか」
少し戸惑った声。
でも、怖がっているわけではない。
家族はゆっくりドアを開けた。
「朝ごはん、食べられそう?」
「はい」
私は立ち上がる。
その時、耳がぴくりと動いた。
自分でも分かった。
家族も見た。
でも、何も言わなかった。
それが少しありがたかった。
「よく聞こえるの、大変?」
「大変です」
私は正直に答えた。
「音が多いので」
「そっか」
「でも、家族の足音が分かるのは、少し安心します」
言ってから、自分で少し驚いた。
安心。
そう言えた。
耳は困る。
情報量が多すぎる。
外へ出るなんて、まだ考えただけで疲れる。
でも、家族が近づいてくるのが分かる。
誰かが部屋の前に立つ前に、心の準備ができる。
それは、悪いことだけではなかった。
家族は少しだけ笑った。
「じゃあ、朝ごはんできたら、呼ばなくても分かる?」
「たぶん分かります」
「試してみる?」
私は少し考えた。
それから頷く。
「はい」
家族が部屋を出ていく。
足音が遠ざかる。
台所へ戻る音。
食器が置かれる音。
椅子が引かれる音。
私は、その音を聞きながらノートに書いた。
家族の足音は安心材料になる。
情報量は多いが、選別できれば支えになる可能性あり。
そこまで書いて、ふと口が動きかけた。
「こん……」
途中で止まる。
私は、静かに口を閉じた。
それから、言い直す。
「……おはようございます」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
でも、不快ではなかった。
怖いというより、言葉の選択肢が増えたような感覚。
出かけた言葉を無理に潰すのではなく、今の自分が選び直す。
それができたことに、少しだけ安心する。
ノートに追記した。
狐っぽい挨拶が出かけた。
ただし、不快感は少ない。
自分が消えるというより、言葉の選択肢が増えた感覚に近い。
食器の音が止まった。
椅子がひとつ引かれる。
家族の足音は聞こえない。
けれど、朝食の準備が終わったことは分かった。
私は立ち上がる。
ドアを開けて、台所へ向かった。
呼ばれなくても、行けた。
それも、今日の記録に入れることにした。
昼前、避難所に三つのログが並んだ。
帽子じゃないさん。
『頭上の存在は外れません』
『洗顔時に少し角度を変えた気がします』
『気のせいかもしれません』
『でも、今日は一人ではない感じに少し助けられました』
『怖いだけではありませんでした』
『ただし外れません』
『そこは大問題です』
ニコさん。
『最後の主張が強い』
ぺこさん。
『外れないのは確かに大問題』
ハジさん。
『帽子が協力的なのか反抗的なのか分からない』
帽子じゃないさん。
『私が一番分かりません』
次に、声デカいさん。
『小声練習、失敗』
『レベル一、無理』
『レベル二、未達』
『レベル三、可能』
『レベル四、頻発』
『レベル五、朝イチで発生』
『でも家族が笑いました』
『近所迷惑にならない範囲なら、声が出るのも悪くないかもしれません』
『近所迷惑にならない範囲なら』
ニコさん。
『大事なので二回言った』
声デカいさん。
『大事です!!!』
ぺこさん。
『文字も声デカい』
声デカいさん。
『ごめん』
白い耳さんのログは、静かだった。
『耳の情報量は多いです』
『ただし、家族の足音が分かるのは安心します』
『狐っぽい言葉が出かけました』
『不快感はありません』
『自分が消えるというより、言葉の選択肢が増えた感覚に近いです』
『呼ばれなくても朝食に行けました』
『小さいですが、今日の三分です』
俺は、その三つのログをゆっくり読んだ。
帽子。
声。
白い耳。
どれも困る。
どれも生活を変えてしまう。
でも、どれも少しだけ助けにもなっている。
頭上の存在が、洗顔の時に気を遣ったかもしれない。
大きな声が、家族を笑わせた。
白い耳が、家族の足音を安心に変えた。
避難所の向こうに、それぞれの生活がある。
それは問題が増えたということでもある。
でも同時に、帰ってくる場所が少し広くなったということでもあった。
俺は返信欄に指を置く。
『怖いだけじゃないログ、継続しましょう』
『それぞれの三分を探すために』
すぐにニコさんが返す。
『それぞれの三分、いいじゃん』
ぺこさん。
『ラさん、たまに短くいいこと言う』
『たまにですか』
ハジさん。
『たまに』
スウさん。
『でも、今日のは分かりやすいです』
俺は少しだけ笑った。
その時、白い耳さんから追加のメッセージが来た。
『それと、もう一つ』
『今日、窓の外に出た時、遠くで誰かが歌っているような気がしました』
『音ではありません』
『でも、呼ばれている感じがしました』
避難所の空気が、一瞬だけ止まった。
歌。
音ではない歌。
呼ばれている感じ。
前にも似たような反応はあった。
けれど、白い耳さんの言葉はいつも静かだからこそ、余計に奥へ沈む。
俺が返信を考えていると、声デカいさんが割り込んだ。
『怖いこと言ったあとにすみません』
『小声レベル表、誰か見ます?』
ニコさん。
『見たい』
ぺこさん。
『見たい』
ハジさん。
『見たい』
白い耳さん。
『見たいです』
声デカいさん。
『なんで全員見る気なんですか!?』
『いや出しますけど!』
画面の向こうで、少し笑いが起きた気がした。
不穏は消えない。
呼ばれている感じも、遠くの歌も、きっと無視できない。
でも、それだけでは終わらない。
帽子が外れない朝も。
声が大きすぎる練習も。
耳が拾いすぎる生活音も。
全部、避難所に持ち寄れる。
怖いだけじゃない。
困るだけでもない。
それぞれの三分が、今日またひとつ増えた。