朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
朝、避難所を開くと、昨日のログがまだゆっくり流れていた。
帽子じゃないさんの、頭上の存在が気を遣ったかもしれない話。
声デカいさんの、声量レベル表。
白い耳さんの、家族の足音が安心材料になった話。
どれも、普通ではない。
けれど、どれも生活だった。
困っている。
でも、少し笑える。
怖い。
でも、少し助かる。
その両方が同じ画面の中に並んでいることが、今は少し心強かった。
俺の三分外出から始まった「怖いだけじゃないログ」は、避難所の中で少しずつ広がっている。
外に出る人ばかりではない。
部屋の中で立ち止まる人もいる。
鏡の前で固まる人もいる。
椅子に座れない人もいる。
挨拶や語尾が勝手に事故って、家族を振り向かせてしまう人もいる。
それでも、みんなそれぞれの場所で、自分の三分を探していた。
ニコさんが朝から書き込んだ。
『昨日の生活ログ回、続きある?』
『他にも生活事故起きてる人いるでしょ』
ぺこさん。
『生活事故って言い方』
ハジさん。
『間違ってはいない』
そこに、見慣れた避難所名がいくつか続いた。
座れないさん。
『あります』
『座れません』
ニコさん。
『一文が強い』
笑い声事故さん。
『あります』
『正確には笑い声というより、挨拶と語尾が事故ります』
声デカいさん。
『名前より深刻になってる』
ぺこさん。
『事故仲間増やすな』
笑い声事故さん。
『増やしたくて増やしてないにぇ』
『あ』
『今のなしで』
ニコさん。
『もう事故ってる』
さらに、少し間を置いて。
見たいけど怖いさん。
『あります』
『鏡を見たいけど怖いです』
その一文で、少しだけ空気が変わった。
見たいけど怖い。
それは、俺にも分かる気がした。
見なければ、まだ少しだけ曖昧にしておける。
でも、見ないままでは今の自分に触れられない。
誰かに見られる前に、自分で見る。
それはたぶん、外に出るのと同じくらい大きな一歩だ。
俺は返信欄に指を置いた。
『よければ、今日の生活ログとして共有してください』
『無理に詳しく書かなくても大丈夫です』
『できたこと、困ったこと、怖いだけじゃなかったことを、書ける範囲で』
ニコさん。
『ラさん、朝から司会進行』
ぺこさん。
『でも今日は短め』
ハジさん。
『成長』
『努力しています』
そう返すと、少しだけ笑いが流れた。
その日の昼前。
避難所に、三つの生活ログが届いた。
最初は、座れないさんだった。
――座れないさんの生活ログ。
朝、椅子に座ろうとした。
座れなかった。
正確には、座れる。
座れるけど、普通に座ると背中側の何かが全部つぶれる。
つぶれる、という表現が正しいのかは分からない。
尻尾なのか。
衣装なのか。
装飾なのか。
自分でもまだ判定できていない。
ただひとつ分かることがある。
普通の椅子が、普通に使えない。
「これ、椅子が悪いのでは?」
朝食の前で、私は真顔でそう言った。
家族は椅子を見た。
それから私を見た。
「椅子は昨日まで普通だったよ」
正論だった。
あまりにも正論だった。
反論できない。
「でも、今日からは普通じゃないかもしれない」
「椅子が?」
「椅子が」
「変わったのは椅子じゃないと思う」
「それは、そう」
分かっている。
分かっているけど、椅子のせいにしたかった。
自分の身体のせいにすると、少しだけ落ち込むから。
私は椅子の前でしばらく立ち尽くした。
朝食は目の前にある。
温かい。
食べたい。
でも座れない。
立ったまま食べるのは、さすがに落ち着かない。
家族が言った。
「横向きに座る?」
「やってみる」
横向きに座った。
少しマシ。
でも、食べにくい。
次に、浅く腰掛けた。
落ちそうになった。
床に座ろうとした。
背中側の何かが、床と喧嘩した。
ソファに移動した。
少しマシ。
クッションを挟んだ。
かなりマシ。
「……いける」
思わず言った。
家族がクッションをもう一つ持ってくる。
「これも使う?」
「使う」
さらに安定した。
背中側の何かが、つぶれない。
身体が少し楽になる。
私はようやく息を吐いた。
「座れた」
「座れてるね」
「でも、これ専用席みたいになってない?」
「なってる」
「やめて」
「でも座れてる」
「座れてるけど、座長っぽいのが嫌」
言ってから、止まった。
座長。
なぜ、その言葉が自然に出たのか。
家族も少し首を傾げた。
「座長?」
「今のなし」
「でも、自分で言ったよ」
「事故です」
「座る事故?」
「座れない事故」
言いながら、自分でも少し笑ってしまった。
笑ったら、少し楽になった。
私はクッションに寄りかかりながら、朝食を食べ始めた。
いつもの椅子ではない。
いつもの座り方でもない。
でも、食べられる。
それは大事だった。
家族が、ふと聞いてきた。
「その座り方、しんどくない?」
「普通よりはしんどい」
「じゃあ、あとで別のクッションも探そうか」
「いいの?」
「いいよ。座れないままだと大変でしょ」
その言葉で、少し喉が詰まった。
座れない。
それは、困りごとだ。
でも、家族はそれを笑って終わらせなかった。
普通に戻れと言わなかった。
普通の椅子に合わせろとも言わなかった。
自分に合う座り方を探そうとしてくれた。
それが、少し嬉しかった。
私はトーストをかじりながら言った。
「まあ、座れないなら座れる場所を作ればいいだけだし」
言ってから、また止まった。
今の、少し強かった。
自分の言葉のようで、自分だけの言葉ではない気がした。
でも、不思議と嫌ではなかった。
家族が笑う。
「いいじゃん」
「いいかな」
「うん。今日の結論っぽい」
「普通に座れないけど?」
「座れる場所は作れた」
私はクッションの上で、少しだけ姿勢を整えた。
普通には座れない。
でも、自分用の座り方なら作れた。
今日の三分。
椅子に負けなかった。
いや、少し負けた。
でも、朝ごはんは食べられた。
それは、勝ちにしていい気がした。
次は、笑い声事故さんのログだった。
――笑い声事故さんの生活ログ。
朝、牛乳をこぼした。
そこまでは、まあ普通の事故だった。
問題は、そのあとだった。
「あっ」
と言うつもりだった。
なのに、口から出かけたのは違う言葉だった。
「にゃっはろ……」
途中で止めた。
止めた。
今は挨拶の時間ではない。
牛乳をこぼした床に、朝の挨拶をする必要はない。
家族がこっちを見た。
私は牛乳より先に、自分の口を拭きたかった。
「今の何?」
「事故です」
「挨拶?」
「事故です」
「床に?」
「事故です」
同じ単語で押し切ろうとした。
床の牛乳は、現実から目を逸らすなと言わんばかりに広がっている。
私は慌てて布巾を取りに行った。
足元が少し滑った。
転びかける。
なんとか踏みとどまる。
ここで大事なのは、落ち着いて処理すること。
私はできる。
私はエリート。
私は冷静に対処できる。
そう思った瞬間、口が勝手に動いた。
「大丈夫、エリートに処理するにぇ」
言った。
完全に言った。
家族が固まる。
私も固まる。
布巾を持ったまま、時間が止まった。
「今、にぇって言った?」
「言ってません」
「言ったよ」
「言ってないにぇ……あ」
終わった。
牛乳より先に、私が終わった。
家族が肩を震わせている。
笑っている。
笑ってはいけない場面だと思う。
床は牛乳まみれだ。
私は真面目に処理しようとしている。
挨拶も語尾も事故っているが、心は真面目だ。
「笑わないでください」
「ごめん」
「私は真剣です」
「うん」
「エリートなので」
「牛乳こぼしてるけど」
「そこは見ないでほしいにぇ……あ」
また出た。
また、にぇが出た。
私は布巾で床を拭きながら、額を床につけたい気持ちになった。
でも床は牛乳なので無理だった。
家族がとうとう声を出して笑った。
その笑い声で、少しだけ空気が変わった。
昨日まで、家の中はずっと慎重だった。
私が変わってから、みんな言葉を選んでいた。
話しかける前に、一度迷う。
目を合わせる前に、少し止まる。
笑っていいのか分からない顔をする。
それが、今日は少し違った。
牛乳はこぼれた。
挨拶もこぼれた。
語尾もこぼれた。
エリートもこぼれた。
こぼれすぎではある。
でも、そのせいで家族が笑った。
笑えるなら、まだ大丈夫。
家族はそう思ってくれたのかもしれない。
私も、床を拭きながら少しだけ笑ってしまった。
「にゃっは……いや、だから!」
「今度は笑い声?」
「違います」
「違うの?」
「違うにぇ……あ」
「忙しいね」
「忙しいです!」
「声も大きくなってる」
「それは声デカいさんの担当です!」
家族がまた笑った。
私は布巾を洗いに行きながら、自分の口を押さえた。
挨拶が出る。
語尾が出る。
言い間違える。
真面目にしようとすると、余計にぽんと転ぶ。
恥ずかしい。
困る。
でも、笑えることは悪いことじゃない。
今日の三分。
牛乳を拭いた。
挨拶が事故った。
語尾も事故った。
家族が笑った。
私も少し笑った。
事故ではある。
でも、全部悪い事故ではなかった。
三つ目は、見たいけど怖いさんのログだった。
――見たいけど怖いさんの生活ログ。
鏡の前に立った。
見たい。
でも、見たくない。
それが今日の最初の矛盾だった。
部屋の姿見には、布をかけてある。
昨日までは、それでよかった。
見なければ、少しだけ曖昧にしておける。
自分がどうなっているのか。
今の顔がどんな顔なのか。
この服が似合っているのか。
目が合った時に、私は何を思うのか。
見なければ、分からないままにできる。
でも、分からないままだと、ずっと怖い。
スマホには、痕跡が残っている。
歌。
ダンス。
アイドル。
明るい色。
笑顔。
誰かに見つけてもらうこと。
そこに惹かれていたらしい自分の痕跡。
はっきりした記憶はない。
それでも、文字を見た時に胸の奥が少し跳ねる。
見つけてほしい。
そんな言葉が、ふいに浮かぶ。
でも、次の瞬間には怖くなる。
誰に。
どう見つけてほしいのか。
知らない人に見られるのは怖い。
勝手に撮られるのも怖い。
なのに、見つけてほしい気持ちもある。
その矛盾が、自分でもよく分からなかった。
ドアの外から、家族の声がした。
「無理に見なくていいよ」
私は布のかかった鏡を見たまま答えた。
「でも、見たい」
「じゃあ、少しだけにする?」
「少しだけ」
「全部見なくていいよ」
「うん」
私は鏡にかけた布の端を握った。
手が震えている。
まず、少しだけめくる。
最初に見えたのは、手だった。
自分の手。
でも、まだ少し慣れない手。
次に、袖。
服の端。
髪の先。
色。
質感。
胸の奥が跳ねる。
怖い。
でも、目を離せない。
布をもう少し上げた。
頬が見えた。
口元が見えた。
最後に、目が見えた。
息が止まった。
鏡の中の誰かが、こっちを見ている。
でも、その誰かは私だった。
私ではないようで、私だった。
見つけてほしい。
また、その言葉が浮かんだ。
でも今回は、少し違った。
知らない誰かに見つけてほしいのではない。
まず、自分に見つけてほしかったのかもしれない。
鏡の中の自分を、いないことにしないために。
家族が、ドアの外から静かに言った。
「大丈夫?」
「……分からない」
「戻す?」
「もう少しだけ」
「うん」
私は鏡を見た。
一秒。
二秒。
三秒。
それだけで、限界だった。
布を戻す。
心臓がうるさい。
でも、逃げ切った感じではなかった。
見た。
三秒だけ。
確かに、見た。
家族が少ししてから言った。
「似合ってるよ」
私は固まった。
「それ、私に言ってる?」
「うん」
「この姿に?」
「今ここにいるあなたに」
その言葉が、胸に落ちた。
この姿に。
でも、私に。
今ここにいる私に。
嬉しいと思った。
そう思ってしまったことに、また少し怖くなった。
でも、嫌ではなかった。
私はもう一度、布のかかった鏡を見る。
今日はもう開けない。
でも、明日も三秒なら見られるかもしれない。
今日の三分。
正確には、三秒。
鏡を三秒見た。
誰かに見つけてもらう前に、少しだけ自分で見つけた。
怖かった。
でも、似合ってると言われて、少しだけ嬉しかった。
昼過ぎ、三人の要約ログが避難所に並んだ。
座れないさん。
『普通の椅子に負けました』
『でもクッションを使えば朝ごはんは食べられました』
『座れないなら座れる場所を作る、という結論です』
『座長っぽいので不本意です』
ニコさん。
『座長っぽいって自分で言った』
ぺこさん。
『椅子に負けるの、生活感すごい』
ハジさん。
『専用席は大事』
座れないさん。
『専用席と言われると少し嫌です』
『でも座れます』
次に、笑い声事故さん。
『牛乳をこぼしました』
『挨拶もこぼれました』
『語尾もこぼれました』
『エリートもこぼれました』
『家族が笑いました』
『事故です』
『でも、全部悪い事故ではなかったです』
声デカいさん。
『挨拶こぼれるの分かる』
『声もこぼれる』
ぺこさん。
『こぼれすぎ』
笑い声事故さん。
『拭きますにぇ』
『あ』
『拭きます』
ニコさん。
『訂正が早い』
笑い声事故さん。
『エリートなので』
ぺこさん。
『牛乳こぼしてたのに?』
笑い声事故さん。
『そこは見ないでください』
最後に、見たいけど怖いさん。
『鏡を三秒見ました』
『怖かったです』
『でも、家族に似合ってると言われて、少し嬉しかったです』
『誰かに見つけてもらう前に、少しだけ自分で見つけました』
そのログだけ、少し返信が止まった。
茶化す空気ではなかった。
でも、重いだけでもなかった。
大事なものを、みんなが落とさないように受け取っているような沈黙だった。
俺はゆっくり打った。
『それは、すごく大事な三分だと思います』
見たいけど怖いさん。
『三秒です』
『三秒でも、大事だと思います』
ニコさん。
『ラさん、今のは短くて良い』
ぺこさん。
『たしかに』
ハジさん。
『分かりやすい』
スウさん。
『三秒でも、自分で見たのは大きいと思います』
白い耳さん。
『自分で自分を見つける、という表現が近いかもしれません』
自分で自分を見つける。
その言葉に、指が止まった。
座れないなら、座れる場所を作る。
挨拶や語尾が事故るなら、笑える場所を残す。
見られるのが怖いなら、まず自分で見る。
それぞれのログは、まったく違う内容だった。
でも、向かっている方向は同じだった。
普通に戻ることだけじゃない。
今の自分で生活できる形を探すこと。
俺はメモを開いた。
担当Aからも、少し遅れて反応が来た。
『皆様のログを受け、次の段階として“個別生活適応メニュー”を作成します』
『外出訓練だけでなく、座位、声量、挨拶・語尾事故、鏡、感覚過敏など、個別の困りごとに対応します』
『目的は、元の生活を無理に再現することではありません』
『今の身体・反応を前提に、生活できる形を増やすことです』
今の身体・反応を前提に、生活できる形を増やす。
それは、昨日までの俺たちにはなかった言葉かもしれない。
俺たちは、ずっと戻る方法を探していた。
もちろん、それも大事だ。
今も大事だ。
でも、それだけでは今日を過ごせない。
朝ごはんを食べるには、座る場所がいる。
牛乳をこぼしたら、語尾が事故っても拭く必要がある。
鏡が怖くても、いつかは自分の顔を見なければならない。
外に出るなら、帰ってくる道を作らなければならない。
俺たちは、ただ隠れているだけではなくなっている。
それぞれの生活を、少しずつ作り直している。
俺はメモの端に、見たいけど怖いさんの言葉を書いた。
誰かに見つけてもらう前に、少しだけ自分で見つけた。
その下に、もう一行足す。
自分で自分を見つける。
外に出る練習も。
椅子に座る練習も。
声を抑える練習も。
挨拶や語尾を怖がりすぎない練習も。
鏡を見る練習も。
全部、そこへ続いているのかもしれない。
避難所では、また少しずつ会話が戻っていた。
座れないさんがクッションのおすすめを聞いている。
声デカいさんが声量表に「レベル六」を追加するか迷っている。
笑い声事故さんが「レベル六は近所会議では」と返している。
見たいけど怖いさんが、明日も三秒だけ鏡を見るかもしれないと書いている。
その全部が、生活だった。
普通ではない。
でも、生活だった。
俺はスマホを伏せる前に、短く送った。
『個別生活適応メニュー、みんなで使える形にしていきましょう』
『戻る方法を探すことと、今日を生活することは、両方大事だと思います』
ニコさん。
『ラさん、短くまとまってる』
ぺこさん。
『これは成長』
ハジさん。
『明日は長くなりそう』
『否定できません』
画面の向こうで、誰かが笑った気がした。
俺はメモを見下ろす。
自分で自分を見つける。
その言葉は、今日の終わりに置くには、少しだけ眩しかった。