朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
ほとんど眠れなかった。
布団には入った。
目も閉じた。
スマホも一度は伏せた。
でも、頭の中ではずっと、知らない言葉がぐるぐる回っていた。
画面の向こうに、自分がいる。
同じですよね。
明日の朝六時。
河川敷の東屋。
そこに、本当に来るのか。
来たとして、相手は本当に昨日のあの人なのか。
同じ状況の人なのか。
それとも、ただの罠なのか。
考えすぎて、気がつけば窓の外が薄く明るくなっていた。
「……朝か」
呟いた声は、やっぱり俺のものじゃない。
もう何度も聞いたのに、まだ慣れない。
いや、慣れたら終わりな気もする。
俺は布団から起き上がり、スマホを確認した。
時刻は五時十二分。
会社への連絡は、まだしていない。
昨日は体調不良で休んだ。
今日も当然、出勤なんてできない。
記憶がない。
身体が違う。
声が違う。
SNSでは探されている。
なのに、欠勤連絡だけはしなきゃいけない。
「現実、しぶとすぎるだろ……」
俺は職場のグループを開き、震える指でメッセージを打った。
『すみません。まだ体調が戻らず、本日もお休みをいただきたいです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
送信。
すぐには既読がつかない。
早朝だから当たり前だ。
それでも、胸がざわついた。
昨日も今日も休んだ。
明日はどうする。
明後日は。
この身体が戻らなかったら。
考え始めると、足元が抜けるような感覚がした。
だから、いったん考えるのをやめた。
今は河川敷だ。
行くと決めた。
決めたのだから、準備するしかない。
俺は鏡の前に立つ。
そこにいたのは、やっぱり儒烏風亭らでんの姿をした少女だった。
黒い髪。
整った顔。
妙に通りそうな声を出しそうな口元。
自分の顔じゃない。
でも、俺が眉を寄せれば、鏡の中の彼女も眉を寄せる。
「……今日だけでいいから、目立つなよ」
言ってから、無理な相談だと思った。
俺は黒いキャップを深くかぶり、昨日買ったマスクをつけた。
伊達眼鏡。
大きめのパーカー。
フード。
髪はまとめて、できるだけ服の中へ入れる。
昨日よりはマシだ。
たぶん。
この“たぶん”を信じる人生、そろそろ危険すぎる。
スマホのメモアプリを開く。
『喉が痛いので声が出ません』
昨日使った文面。
今日はさらに一つ、家族用に追加する。
『少し散歩してくる。すぐ戻る』
よし。
声を出さない。
目を合わせない。
早く行って、早く戻る。
できる。
できるはず。
俺はドアを開けた。
廊下は静かだった。
家の中は、まだ朝の暗さを残している。
階段の下から、少しだけ冷えた空気が上がってくる。
誰も起きていない。
そう思った。
台所の方から、かちゃり、と小さな音がした。
「……嘘だろ」
早い。
母親、早すぎる。
いや、もしかしたら普段からこの時間に起きているのかもしれない。
俺が忘れているだけで。
それがまた、少し胸に刺さった。
俺は階段を下りる。
昨日の反省を活かし、一段一段、慎重に。
音を立てない。
跳ばない。
人類らしく降りる。
そう思っているのに、身体は妙に優秀だった。
足の裏が床を撫でる。
膝が沈む。
重心が滑る。
音がほとんどしない。
忍び足、うますぎないか。
俺はただ、普通にこそこそしたいだけなのに、身体の方が妙に洗練された隠密移動をしている。
落語家って隠密職だったか?
玄関まであと少し。
台所の明かりが廊下に漏れている。
そこを横切れば、外へ出られる。
俺は息を止め、壁際を進んだ。
「……起きてるの?」
背中が固まった。
母親の声。
見られた。
俺はゆっくり振り向く。
台所の入口に、母親が立っていた。
寝起きらしい髪。
エプロンはまだしていない。
手にはマグカップ。
その顔には、心配と疑いが半分ずつ乗っている。
俺はスマホを出し、用意していたメモを見せた。
『少し散歩してくる。喉が痛いから声出せない。すぐ戻る』
母親は画面を読んで、眉を寄せた。
「熱あるかもしれないのに散歩?」
俺はメモを打ち直す。
『外の空気吸いたい』
「昨日もそれ言ってた」
『部屋にいるとしんどい』
「顔は?」
来た。
俺はマスクと帽子を指差し、さらにメモを打つ。
『風邪顔だから無理』
「風邪顔って何」
俺も分からない。
でも、もう押し切るしかない。
『六時半までに戻る』
母親はしばらく俺を見ていた。
怖い。
この人、たぶん俺の母親だ。
だからこそ、見方が鋭い。
小さな変化を、知らない人よりずっと拾ってくる。
「六時半までね」
助かった。
そう思った瞬間、母親が続けた。
「戻ったら顔見せること」
助かってなかった。
俺は曖昧に頷いた。
「あと、あんまり帽子深くかぶると余計怪しいよ」
分かっている。
でも浅くかぶったら終わる。
俺は軽く頭を下げ、玄関を開けた。
朝の空気が、顔に触れた。
冷たい。
昨日の外出より、人が少ない。
車の音も少ない。
鳥の声と、どこか遠くの新聞配達のバイク音だけが聞こえる。
俺は歩き出した。
昨日よりは、少しだけこの身体の動かし方が分かってきた気がする。
歩幅を小さくする。
蹴りすぎない。
背筋を伸ばしすぎない。
会釈を美しくしすぎない。
注意点が多い。
人間の歩行って、こんなに設定項目あったか?
河川敷までは、普通なら十五分くらいかかる。
はずだった。
けれど、スマホの地図を見ると到着予想がどんどん縮んでいく。
俺は走っていない。
早歩きでもない。
たぶん、普通に歩いているつもりだ。
なのに、足が進む。
軽い。
速い。
便利だ。
便利なのが、怖い。
この身体に慣れていくことが、少しずつ自分を明け渡しているみたいで。
俺は歩く速度を落とした。
落としたつもりだった。
それでも、約束の十五分前には河川敷に着いていた。
「早すぎるだろ……」
川沿いの道には、ほとんど人がいない。
薄い朝日。
川面に反射する光。
湿った草の匂い。
鳥の声。
昨日SNSで見た騒ぎが、嘘みたいに静かだった。
東屋は少し先にある。
木製の屋根とベンチ。
周囲は開けていて、遠くからでも人の姿が分かる。
逃げ道もある。
密室じゃない。
でも、人目は少ない。
悪くない。
俺は東屋に近づき、周囲を確認した。
カメラは見当たらない。
散歩している人も、今のところいない。
土手の上に上がれば、すぐ逃げられる。
川側は危ないが、逆方向なら住宅街へ戻れる。
……何の訓練だ、これ。
自分の行動がどんどん不審者じみている。
いや、今は仕方ない。
俺はベンチには座らず、少し離れた位置で待った。
五時五十六分。
スマホが震える。
『着きました』
俺は反射的に周囲を見る。
少し離れた道の端に、人影があった。
帽子。
マスク。
大きめの上着。
小柄な体格。
スマホを握っている。
昨日、ドラッグストア前で目が合った人だ。
胸の奥が、きゅっと締まった。
俺は返信する。
『見えています』
『人はいなさそうです』
『少しずつ近づきますか』
相手から返事。
『はい』
『危ないと思ったら離れてください』
慎重だ。
ありがたい。
俺たちは、数メートルずつ距離を詰めた。
お互い、すぐ逃げられる距離を残している。
東屋の端と端。
向かい合う。
無言。
近くで見ると、やっぱり普通じゃなかった。
服装は地味だ。
帽子も深い。
マスクもしている。
でも、雰囲気が違う。
画面の中から抜け落ちてきたみたいな、現実の空気に少しだけ馴染まない輪郭。
たぶん、俺も同じように見えている。
俺はスマホのメモを見せた。
『声、出したくないです』
相手もスマホを見せる。
『私もです』
沈黙。
川の音だけが聞こえる。
文字で話すことはできる。
でも、ここまで来て、それだけでは足りない。
相手が先に、小さく息を吸った。
「……本当に、らでんさんなんですね」
声が聞こえた瞬間、背筋がぞくっとした。
画面の向こうで聞いたことがある気がする声。
でも、目の前にいる。
現実の空気を震わせている。
俺は少しだけ顔をしかめた。
「その呼び方、やめてもらえますか。俺も処理できてないので」
自分の声が出た。
儒烏風亭らでんの声で。
相手が固まる。
「……声まで」
「言わないでください。今一番言われたくないやつです」
「す、すみません」
「いや、こっちこそ」
会話が成立した。
それだけで、変な感動があった。
けれど、確認しなければいけない。
本当に。
お互いが、本当に同じなのか。
俺はマスクに手をかけた。
「確認、しますか」
相手も、少し震えながら頷く。
「同時で」
「はい」
「三つ数えます」
「お願いします」
俺は息を吸った。
「一、二、三」
同時に、帽子とマスクを少しだけ外した。
朝の冷たい空気が顔に触れる。
目の前にいたのは、水宮枢だった。
少なくとも、俺のぼやけたホロライブ知識がそう告げている。
小柄で、どこか不安そうで、でも妙に目を引く。
画面の中で見たはずの存在が、今、現実の河川敷に立っていた。
相手も俺を見て、息を止めた。
「……本当に、画面の外にいる」
「こっちの台詞です」
俺たちは慌ててマスクと帽子を戻した。
数秒だけ。
たった数秒だけ顔を見せただけなのに、心臓がうるさい。
でも、その数秒で十分だった。
俺だけじゃない。
本当に、同じ現象が起きている。
俺は東屋のベンチに座った。
相手――水宮枢になった人も、少し距離を空けて座る。
「呼び方、どうします?」
相手が小さく聞いた。
「本名は言わない方がいいですよね」
「言わない方がいいです。というか、俺は思い出せません」
「私もです」
重いはずの言葉なのに、同じだから少しだけ軽くなる。
「じゃあ……スウ、で」
「それ、ほぼそのままじゃないですか」
「でも、本名じゃないので」
「まあ、そうですけど」
スウさんは少しだけこちらを見る。
「あなたは、らでんさんで」
「だめです」
「じゃあ、ラデさん」
「近づけないでください」
「ラさん」
「なんか急に記号みたいになりましたね」
少しだけ、スウさんが笑った。
俺も、笑いそうになった。
笑っていい状況ではない。
でも、笑わないとやっていられない状況でもある。
「じゃあ、仮でラさんとスウさんで」
「雑ですけど、まあ……今はそれで」
俺たちは、改めて情報を確認した。
朝起きたら姿が変わっていたこと。
元の自分のエピソード記憶がないこと。
スマホや生活動作はできること。
家族がいること。
ホロライブを見ていた痕跡があること。
画面の中に、自分と同じ姿の本人が普通に存在していること。
中の人になったわけではないこと。
同じだった。
ほとんど、全部。
ただ、違うところもあった。
「俺は、なんか……知識が出ます」
「知識?」
「美術とか、工芸とか、落語とか。いや、詳しい記憶はないんですけど、見ると勝手に言葉が出るというか」
「らでんさんっぽいですね」
「その言い方も刺さるんですけど、事実なのが嫌です」
俺は手を見る。
「あと、脚力が変です。昨日も今日も、ちょっと動くだけで速い。階段とか、落ちても大丈夫そうな動きするんですよ」
「落ちても?」
「落ちてないです。まだ。落ちたくはないです」
「まだって言い方、怖いですね」
「俺も怖いです」
スウさんは少し考え込むように、手元のスマホを握った。
「私は……見つけてほしいって思います」
その声は小さかった。
「でも、見つかったら終わるのは分かってます。写真を撮られたら怖いし、家族にも言えないし、SNSにも出たくないです。でも、誰かに見てほしいというか、反応してほしいというか……」
「矛盾してますね」
「はい」
「でも、分かる気がします」
俺がそう言うと、スウさんは少し安心したように息を吐いた。
「食べ物を見ると落ち着くのも、あります」
「昨日も言ってましたね」
「はい。今も、お腹は空いてないのに、何か食べたら落ち着く気がしてます」
「持ってますよ。ゼリーなら」
俺は昨日買ったゼリー飲料を一本、袋から出した。
スウさんの目が少しだけ輝いた。
めちゃくちゃ分かりやすい。
「……飲みます?」
「いや、あげますよ」
「いいんですか?」
「その反応見せられたら、しまう方が罪悪感あります」
スウさんは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
その声が、少しだけ明るくなる。
水宮枢っぽい。
そう思った。
でも、目の前にいるのは本人ではない。
俺と同じように、記憶をなくして、姿を奪われたのか与えられたのかも分からない人だ。
「ラさん」
「はい」
「今、変なこと考えてます?」
「え」
「黙ったので」
「ああ、すみません。考えてました」
「怒ってないですか」
「怒ってないです」
「引いてませんか」
「引いてないです」
「よかったです」
早い。
反応への不安が早い。
俺は少しだけ笑った。
「スウさん、分かりやすいですね」
「やめてください。自分でも分かってます」
「俺も人のこと言えないですけど」
「ラさんは、考え出すと説明が長くなりそうです」
「……今、ちょうど状況整理を始めそうになってました」
「聞きますよ」
「聞かれると喋りたくなるのでやめてください」
危ない。
今、完全に話を組み立てかけた。
現象の共通点。
発生条件。
元ホロリスだった可能性。
キャラ性の身体反映。
SNSの危険性。
家族への対応。
頭の中で勝手に目次ができ始めていた。
怖い。
この身体、話す気満々すぎる。
スウさんがゼリーを少し吸って、ほっとした顔をした。
その時だった。
遠くで犬の鳴き声がした。
俺とスウさんは同時に振り向く。
土手の上を、犬を連れた男の人が歩いていた。
まだ距離はある。
でも、こちらに向かってくる。
「隠しましょう」
「はい」
俺たちは慌てて帽子とマスクを整えた。
スウさんが焦ってフードを引っ張る。
その拍子に、隠していた髪が少し外へ出た。
「あっ」
俺が手を伸ばそうとした瞬間、自分のマスクもずれた。
「こっちもかよ」
犬がこちらに反応した。
わん、と一声。
男の人がこちらを見る。
「あれ、君たち……」
まずい。
距離があるのに、足がこちらへ向き始めている。
スウさんの身体が固まった。
顔が青ざめている。
逃げるか。
でも走ったら目立つ。
残るか。
でも近づかれたら終わる。
判断は一瞬だった。
「逃げます」
「えっ」
俺はスウさんの手首を掴んだ。
掴んだ瞬間、力加減に気をつける。
腕で引っ張るんじゃない。
足で運ぶ。
そう考えるより先に、身体が動いた。
一歩目で地面を蹴る。
景色が流れた。
「速っ、速いです!」
「俺も今知りました!」
スウさんの声が後ろで跳ねる。
俺は河川敷の道を駆けた。
足が軽い。
地面を蹴るたび、身体が前へ飛ぶ。
でも、怖いくらい姿勢が崩れない。
走るというより、滑るように進んでいる。
土手の斜面に差しかかる。
普通なら息が切れる。
足がもつれる。
スウさんを連れていたら、なおさら。
なのに、俺の足は止まらなかった。
斜面を蹴る。
上る。
抜ける。
風が耳元で鳴る。
これは、戦うための身体じゃない。
逃げるための足だ。
そう思った瞬間、妙に腑に落ちた。
殴って壁を壊すとか、そういう力じゃない。
倒れないための腰。
逃げ切るための脚。
語り続けるための喉。
人前に立ち続けるための身体。
儒烏風亭らでんの身体は、そういう形で強い。
たぶん。
俺たちは土手を越え、人目の少ない小道へ入った。
しばらく進んでから、ようやく足を止める。
スウさんは肩で息をしていた。
俺は、少し息が上がっている程度だった。
それがまた怖い。
「らでんさんって……そんなに速いんですか……?」
「俺が聞きたいです」
「引っ張られてる時、ちょっと浮きました」
「すみません」
「いえ、助かりました」
スウさんは息を整えながら、少し笑った。
初めて、ちゃんと笑った気がした。
俺もつられて、少しだけ肩の力が抜けた。
でも、安心しきることはできない。
便利だ。
便利なのが怖い。
使えば使うほど、この身体が俺のものになっていく気がする。
それが、本当に怖い。
「今後、外で会うのは危ないですね」
俺が言うと、スウさんは頷いた。
「はい。写真を撮られたら終わります」
「SNSでは不用意に反応しない。写真も動画も出さない。本名も住所も言わない。家族には……まだ言えない」
「言えません」
「会社とか学校は、一旦体調不良でごまかすしかないですね」
「私も、そうしました」
「他の同じ状況の人は……探すべきですかね」
スウさんは少し迷った。
「探したいです。でも、公開で探すのは危ないと思います」
「固定投稿、残します?」
「少し文面を変えます。写真の人に直接呼びかけるのは、もう危ないかもしれません」
「ですね。俺も見た瞬間、心臓止まるかと思いました」
「すみません」
「いや、助かりました。たぶん」
たぶん。
またそれだ。
でも今回は、少しだけ前向きなたぶんだった。
スウさんがスマホを開いた。
「実は、気になることがあります」
「何ですか?」
「昨日の写真のリプ欄に、変な人がもう一人いました」
「変な人?」
「私たちを見て、すごく焦っているアカウントがあって」
スウさんは画面をこちらに見せる。
そこには、昨日の写真投稿のリプ欄が映っていた。
『待って、近くにいるの?』
『これ、やっぱり同じやつだよな』
『俺も、たぶん――』
そこで文章は途切れている。
消したのかもしれない。
怖くなったのかもしれない。
「……同じ状況かもしれない?」
「たぶん」
俺は画面を見つめた。
ひとりじゃなかった。
ふたりになった。
そして、もう三人目の気配がある。
安心より先に、胃が重くなる。
人数が増えれば、助け合える。
でも同時に、目撃も増える。
騒ぎも大きくなる。
いつか公式も、マスコミも、警察も動くかもしれない。
「とりあえず、今日は戻りましょう」
俺はスマホで時刻を見る。
六時十九分。
やばい。
「六時半までに戻らないと、母親に詰められます」
「それは大変です」
「すでに大変です」
スウさんは小さく頷いた。
「次は、文字で」
「はい。外で会うのは、しばらく危ないですね」
「今日すでに危なかったですし」
「ですね」
少し沈黙。
別れるのが、思ったより心細かった。
さっきまで一人だった。
今は、同じ状況の人が目の前にいる。
でも、ずっと一緒にはいられない。
スウさんがマスク越しに、少しだけ目を細めた。
「でも、会えてよかったです」
その声は小さくて、でも本音だった。
俺は一瞬迷ってから、頷いた。
「……俺もです」
本当に。
会えてよかった。
怖さは減っていない。
状況はむしろ悪くなっているかもしれない。
それでも、俺だけじゃない。
それだけで、少し息ができる。
俺たちは別々の方向へ歩き出した。
何度も振り返りそうになって、そのたびに我慢した。
振り返ると、また何かに見つかる気がした。
家までは急げば間に合う。
急ぎすぎると不自然。
人類らしく、でも少し速く。
難しい。
俺はスマホを取り出し、時間を確認する。
その瞬間、通知が震えた。
見なければよかった。
そう思いながら、結局見てしまう。
『今朝、河川敷でそれっぽい二人組を見た気がする』
写真はなかった。
ただの目撃談。
それでも、背筋が冷えた。
さっきの犬の散歩の人か。
それとも別の誰かか。
分からない。
分からないのが、一番怖い。
俺は投稿の下に目を落とす。
そこには、ひとつだけ妙な返信がついていた。
『やっぱり近くにいる』
『俺も、たぶん同じ』
足が止まった。
朝の空気が、急に冷たくなる。
ふたりになったばかりの現実が、
もう三人目の気配を連れてきていた。