朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
第5話 笑えないのに、笑わせにくる
六時二十九分。
玄関の前でスマホの時計を見た瞬間、俺は小さく息を吐いた。
間に合った。
ぎりぎり。
六時半までには戻る。
母親と交わした、ほぼ脅迫に近い約束は守った。
俺は玄関のドアをそっと開ける。
中は静かだった。
よし。
このまま二階へ戻る。
部屋に入る。
鍵をかける。
寝たふり。
完璧。
「六時半までって言ったよね」
完璧ではなかった。
廊下の奥に母親が立っていた。
腕を組んでいる。
待っていた。
完全に待っていた。
俺は一瞬固まってから、スマホのメモを出そうとする。
けれど焦りすぎて、先に声が出た。
「まだ六時半じゃない」
出た。
声を出してしまった。
しかも、儒烏風亭らでんの声で。
母親の眉がぴくりと動いた。
「……声、やっぱり変」
俺は慌ててスマホを出す。
『喉が痛いから声出したくない』
「今、普通に喋ったよね」
『無意識』
「喋るのに無意識とかある?」
ある。
今はある。
というか、今の俺はかなりの割合で無意識に乗っ取られている。
足は速い。
姿勢は良い。
手は綺麗に髪をまとめる。
口は勝手に余計な説明を始める。
「六時半ギリギリに帰ってくるくらいなら、もっと早く戻ればよかったでしょ」
「いや、そもそも時間というものはですね、数字上の区切りと体感時間の差が――」
そこまで言って、俺は口を押さえた。
違う。
今、母親に時間論を語る場面じゃない。
しかも何だ、その“というものはですね”って。
俺はいつから講演会を始めた。
母親が目を細める。
「あんた、そんな喋り方だった?」
まずい。
かなりまずい。
俺は即座にスマホを見せる。
『熱で変』
「便利ね、熱」
『風邪って怖い』
「風邪のせいにしすぎ」
昨日から何回目だ、このやり取り。
母親は一歩近づいた。
俺は反射的に一歩下がる。
下がり方が、また変に綺麗だった。
足が床を擦らない。
重心が揺れない。
絶対に体調不良の動きではない。
母親の目がさらに鋭くなる。
「歩き方も変」
『風邪』
「姿勢が良すぎる」
『風邪』
「風邪で姿勢が良くなるの?」
ならない。
俺もそう思う。
けれど、ほかに使える言い訳がない。
母親はしばらく俺を見ていた。
俺の帽子。
マスク。
伊達眼鏡。
フード。
隠しすぎて逆に怪しい顔周り。
その視線が怖い。
この人は、俺を知らない他人じゃない。
たぶん、俺のことを二十五年見てきた人だ。
だから、違和感を拾う。
小さなズレを見逃さない。
「あんた、本当に何か隠してるでしょ」
胸の奥が冷えた。
隠している。
全部。
でも、言えるわけがない。
俺だって、まだ俺に何が起きたのか分かっていない。
画面の向こうには本物の儒烏風亭らでんがいる。
なのに、俺はその姿で実家の玄関に立っている。
自分の記憶はなく、声も顔も違って、SNSでは探され始めている。
これをどう説明しろというのか。
俺はスマホに打つ。
『寝不足で変になってるだけ』
『昼まで寝る』
『起きたら顔見せる』
母親はその文字を読んで、深くため息をついた。
「昼には絶対顔を見るから」
またタイムリミットが増えた。
この家、時限爆弾の設置がうますぎる。
俺は頷き、逃げるように階段を上がった。
上がりかけて、足が勝手に二段飛ばしをしようとする。
抑える。
普通に。
普通に上れ。
人類らしく。
部屋に戻り、鍵をかけた瞬間、ようやく息が抜けた。
「……無理だろ、これ」
ベッドに倒れ込みたい。
けれど、その前にスマホを開いた。
スウさんへ連絡。
『戻りました』
『六時半ギリギリでした』
『母親にめちゃくちゃ怪しまれました』
すぐに返事が来た。
『私も帰りました』
『外で会うの、やっぱり危ないですね』
『危ないです』
『河川敷でも見られてましたし』
『見ました』
『写真がなかったのが救いです』
救い。
たしかに救いだ。
写真がなければ、まだ都市伝説で済む。
でも、目撃談だけでも十分怖い。
『今後、外で会うのは控えましょう』
『連絡用の場所を作った方がいいかもです』
スウさんからそう来た。
俺は少し考えて、新しく小さなグループを作る。
名前を入力する。
同じ状況の人用
見た瞬間、自分で嫌になった。
「直球すぎるだろ」
秘密組織としてのセンスが死んでいる。
いや、秘密組織でも何でもないけど。
消す。
次。
ホロメン化被害者の会
「もっとだめだな」
被害者という言葉が重い。
しかも万が一見られたら終わる。
さらに消す。
しばらく迷って、最終的にこうした。
避難所
これなら、少しだけやわらかい。
スウさんを招待する。
『作りました』
『名前は避難所です』
スウさんから返信。
『ちょっと安心する名前ですね』
『今は安心の供給が少なすぎるので』
『助かります』
その短い返事を見て、少しだけ胸が落ち着いた。
避難所。
俺たちはたぶん、逃げている。
家族から。
SNSから。
公式から。
自分の姿から。
少なくとも、そこに一人でいなくていい場所があるのは、悪くなかった。
次に、例のリプを確認する。
『やっぱり近くにいる』
『俺も、たぶん同じ』
そのアカウントを開く。
表示名は、
笑えない
アイコンは初期。
プロフィールには一文。
『笑ったら負け。でももう負けてる。』
「……すでに濃いな」
スウさんからもメッセージが来る。
『この人、たぶん本当に焦ってますね』
『焦ってるけど、ボケようとしてますね』
『ボケようとしてるんですか?』
『たぶん。怖いから笑いに逃がしてる感じがします』
固定投稿を見る。
『朝起きたら知らん女になってた』
『しかも画面の中に同じ顔のやつがいた』
『怖すぎて笑うしかない』
『笑えないけど』
『誰か同じやついない? いないなら俺が終わる』
情報管理が甘い。
めちゃくちゃ甘い。
でも、怖がっているのは分かる。
笑おうとしているのに、文字の奥が震えている。
俺はスウさんに送る。
『接触します』
『でも慎重に』
『この人、放置すると自爆しそうです』
『分かります』
『すでに危ないです』
俺は捨てアカからDMを送った。
『あなたも、画面の向こうに自分がいますか』
返信は、ほぼ即だった。
『いる』
『いるんだけど、いるの意味が分からん』
『助けて』
『いや助けなくてもいいから笑って』
『いや笑うな。笑えないから』
速い。
文章のテンションが速い。
俺はスウさんにスクショではなく、内容を文章で共有する。
『返信が来ました』
『かなり焦ってます』
『焦ってるのにボケようとしてます』
『大丈夫なんでしょうか』
『大丈夫ではなさそうです』
俺はDMに返す。
『落ち着いてください』
『写真や動画は送らないでください』
『本名や住所も言わないでください』
『公開投稿は危ないです』
『落ち着いてる』
『落ち着いてる人間は朝から知らん女になってない』
『つまり落ち着いてない』
『ごめん』
自分でツッコんでいる。
忙しい。
『あなたは誰の姿になっていますか』
『言いたくなければ言わなくていいです』
少し間があった。
それから返信。
『たぶん虎金妃笑虎』
『名前の時点で情報量が多い』
『鏡見た時、最初に出た言葉が「これ笑うとこ?」だった』
『笑うとこじゃなかった』
『でも口が勝手に笑わせようとしてくる』
虎金妃笑虎。
FLOW GLOW。
ジョーク担当、という言葉がぼんやり浮かぶ。
ホロライブ知識は相変わらず霧がかっている。
けれど、名前を見た瞬間、何となく分かる。
この人は、笑わせる方向に引っ張られている。
俺が語りたくなるように。
スウさんが見つけてほしくなるように。
この人は、怖くても笑いに変えようとしてしまう。
『あなたも記憶がないですか』
『ない』
『自分の名前が分からん』
『スマホは使える』
『家族いる』
『たぶん親』
『声出したら詰みそう』
『あと鏡見るたびに「今日のドッキリ大成功〜」って言いたくなる』
『大失敗だよ』
俺は額を押さえた。
情報量が多い。
でも、共通点ははっきりしている。
朝起きたら姿が変わっていた。
エピソード記憶がない。
手続き記憶はある。
画面の向こうに同じ姿の本家がいる。
本人ではない。
中の人でもない。
キャラ性が漏れている。
俺は「避難所」にスウさんを呼び、ニコさん――仮にそう呼ぶことにした第三者を招待する準備をする。
その前に確認。
『他にも同じ状況の人がいます』
『連絡用の場所があります』
『入りたいですか』
『ただし、写真・個人情報は禁止です』
返信。
『入る』
『入れて』
『一人でいると笑えないのに笑わせようとして死ぬ』
『いや死なないけど死ぬ』
俺はグループに招待した。
表示名は、笑えないのまま入ってきた。
スウさんが最初に送る。
『よろしくお願いします』
『ここでは仮名で呼び合っています』
『よろしく』
『仮名助かる』
『本名分からんし』
『俺は何? ニコ?』
『怖いけどしっくり来るのが腹立つ』
『じゃあ、ニコさんで』
『ラさんとスウさんです』とスウさん。
ニコさんからすぐ返信。
『ラさん?』
『スウさん?』
『秘密結社にしては名前ゆるくない?』
『秘密結社ではないです』と俺。
『じゃあ何?』
『避難所です』
『急に重い』
テンポが早い。
スウさんが少し遅れて、
『でも安心します』
と送った。
ニコさんの返信が一瞬止まる。
『それはそう』
『ごめん、茶化した』
『安心する』
画面の前で、俺は少しだけ息を吐いた。
この人も、ふざけているだけじゃない。
ふざけないと、保てないのだ。
俺は三人で状況を整理するため、メッセージを打った。
『おそらく、これは単なる外見変化ではなく、該当タレントのキャラクター性・身体性・ファンや視聴者からの認知イメージが人格の表層に――』
途中で手を止めた。
長い。
長くなりかけている。
『待ってください』
『今、説明が長くなりかけました』
スウさん。
『なってました』
ニコさん。
『落語始まるかと思った』
『始まりません』
『いや、ちょっと聞きたかった』
『聞かれると続くのでやめてください』
『ラさん、燃料あると喋るタイプ?』
『今それを自覚して怖がっています』
ニコさんがスタンプらしきものを送ろうとして、すぐ文字が来た。
『スタンプ送っていい?』
『いやこれも身バレになる?』
『何もできんやん』
『現代こわ』
『スタンプくらいなら大丈夫かもしれませんが、念のため控えましょう』とスウさん。
『スウさん真面目』
『怖いだけです』
『それはそう』
会話が成立している。
三人。
俺たちは、まだ何も解決できていない。
でも、一人で震えていた時よりは明らかに呼吸がしやすい。
ニコさんが続ける。
『で、みんな何か漏れてる?』
『俺は怖いと笑わせようとする』
『地獄』
『鏡見た時も「誰だこの美少女、俺だよ!」って言いかけた』
『言わなかった俺えらい』
スウさん。
『私は、見てほしくなります』
『誰かに反応してほしいです』
『でも見つかるのは怖いです』
『あと食べ物を見ると落ち着きます』
ニコさん。
『かわいそうだけど分かりやすい』
『ゼリーあげたい』
スウさん。
『今朝いただきました』
ニコさん。
『もう支援物資システムできてるの?』
『避難所じゃん』
俺は少し笑ってしまった。
本当に笑った。
口元が緩む。
鏡の前で自分の顔を見た時とは違う。
今の笑いは、たぶん俺のものだった。
俺も書く。
『俺は、説明したくなります』
『文化や美術っぽいものを見ると、知らない知識が出ます』
『あと脚力が強いです』
『逃げ足が異常です』
ニコさん。
『逃げ足特化のらでん、字面が面白すぎる』
『笑い事ではないです』
『ごめん』
『でもちょっと笑った』
『俺のせいじゃない』
『たぶんニコのせい』
スウさん。
『口調や思考が引っ張られるのは、共通みたいですね』
俺はその文を見て、頷いた。
そうだ。
外見だけじゃない。
声だけでもない。
ホロメンの話し方。
反応の癖。
精神性。
身体能力。
ふとした瞬間に、それが漏れる。
俺たちは本人ではない。
なのに、本人たちのキャラクター性が、俺たちの表面に浮かんでくる。
『使えば使うほど強くなる可能性があります』と俺。
スウさん。
『使う、というのは?』
『話す、動く、見る、反応する』
『本家の配信を見るのも影響するかもしれません』
ニコさん。
『え、じゃあ見ない方がいい?』
『でも見ないと自分が何か分からん』
『詰みでは?』
『詰み寄りです』
『ラさん、言い方が淡々としてて怖い』
俺は少し迷って、次の文を送った。
『ただ、情報は必要です』
『本家が普通に活動している以上、私たちは本人ではない』
『でも完全な偽物とも言い切れない』
『この現象のルールを知らないと危険です』
ニコさん。
『やっぱり落語始まってない?』
『始まってません』
スウさん。
『でも分かります』
『ルールは必要です』
そこで、三人で最低限のルールを決めることになった。
俺が箇条書きで送る。
『仮ルール』
『一、本名・住所・家族情報は言わない』
『二、写真・動画は送らない』
『三、公式へ連絡するかは保留』
『四、SNSに直接状況を書かない』
『五、新しい同類を見つけても、まずは安全確認』
『六、家族バレしたら即共有』
『七、口調や精神性が強く出たら互いに止める』
ニコさん。
『つまり俺が変なこと言ったら殴っていいってこと?』
『殴りません』とスウさん。
『言葉で止めます』と俺。
『ラさんが言葉で止めたら説教長そう』
『やめてください。自覚があります』
『自覚あるのえらい』
スウさん。
『ニコさんも、SNSに投稿しようとしたら止めます』
『え』
その一文字で、嫌な予感がした。
『今、何か投稿しようとしてませんか』
返信が少し止まる。
止まった時点で答えだった。
『してない』
『いや、しかけた』
『下書きにしただけ』
『セーフ?』
『アウト寄りです』
『見せてください』とスウさん。
ニコさんが下書き内容を貼った。
『朝起きたら虎金妃笑虎になってました質問ある?』
『釣りじゃないです』
『いや釣りであってほしい』
『助けて、でも笑って』
俺とスウさんは、ほぼ同時に送った。
『投稿するな』
『絶対に投稿しないでください』
ニコさん。
『息ぴったりで怖』
『それは終わります』
『世界に向けて自己紹介しないでください』
『でも黙ってると怖いんだよ!』
その言葉で、画面の向こうの温度が変わった。
ニコさんの次の文は、少しだけ間が空いた。
『黙ってると、本当に自分が消えそうになる』
『誰かに反応してもらわないと、俺が俺なのか分からなくなる』
『笑わせようとしてるのも、たぶんそのせい』
『怖いって言うだけだと、怖さに負けるから』
俺は返信できなかった。
さっきまでの軽さが、急に胸に刺さった。
スウさんが先に返す。
『分かります』
『私も、誰かに見てほしいです』
『でも、見つかるのは怖いです』
俺もゆっくり打つ。
『俺も、説明してないと怖いのかもしれません』
『分からないことを、言葉で囲いたくなる』
『でも、外に向けてやったら危険です』
『ここでやりましょう』
ニコさんから、短い返信。
『了解』
『投稿しない』
『ここで滑る』
『滑らないでください』
『滑る前提で止めないで』
少しだけ空気が戻る。
俺は、今度こそちゃんと笑った。
状況は何も解決していない。
家族には疑われている。
仕事は休み続けている。
SNSでは探されている。
本家は画面の向こうにいる。
俺たちは何者かも分からない。
それでも。
ひとりなら、たぶん押し潰されていた。
ふたりになって、息ができた。
三人になって、少しだけ笑えた。
それがいいことなのかは、まだ分からない。
でも今は、それだけで十分だった。
しばらく三人で細かい確認を続けた。
家族への対応。
欠勤連絡。
SNSの監視。
新しい同類の探し方。
固定投稿の文面修正。
昼には顔を見せろと言われていることを思い出して、俺は胃が重くなる。
逃げ続けるにも限界がある。
そんなことを考えていた時、SNSの通知に本家らでんの切り抜きが流れてきた。
『らでん、配信中に一瞬言葉に詰まる』
『今日なんか変だった?』
心臓が嫌な音を立てた。
俺は動画を開くか迷った。
見るべきじゃない。
でも、見ないと分からない。
結局、開いた。
画面の中の儒烏風亭らでんは、いつものように笑っていた。
声も、話し方も、俺の身体に沈んでいる何かと重なる。
彼女は楽しそうに話している。
コメントも流れている。
何も変ではない。
そう思った瞬間。
彼女が、一瞬だけ言葉を止めた。
ほんの一秒。
配信を見ている人なら、気にしないかもしれないくらいの間。
けれど、俺には分かった。
その沈黙の形を、俺の身体が知っていた。
言葉が出そうで、出ない。
何かが喉に引っかかったような間。
画面の中の彼女が、少しだけ首を傾げる。
「……なんか今日、変な感じがするんですよね」
俺の背筋が冷えた。
スマホが震える。
スウさんから。
『本家の枢さんも、今日少し変だったみたいです』
続けて、ニコさんから。
『こっちも』
『笑虎さん、なんか一瞬止まってたって言われてる』
俺たちは、画面の外にいるだけじゃない。
もしかしたら、画面の向こうにも、何かが届き始めている。