ふかふかのクッションが顔面へ飛来する。
だが真夜は慣れた動きでそれを受け止めた。実に鮮やかだった。
「危ないわねぇ」
「真夜が変なこと言うからでしょう!?」
深夜は羞恥で真っ赤になりながら抗議する。その姿があまりにも珍しくて、真夜はますます笑みを深めた。
普段の姉は冷静沈着。
感情を滅多に表へ出さない。
四葉の次代を担う者として、常に完璧であろうとしている。
そんな姉がたった一人の男の子の話でここまで取り乱しているのだ。
妹として面白がらない方が無理だった。
「だって本当でしょう?」
「ち、違うわよ……!」
「何が?」
「初恋とか、そういうのじゃ……」
途中で言葉が止まる。
真夜はニコニコしていた。
逃がす気が一切無い笑顔である。
「じゃあ何かしら?」
「それは……その……」
深夜は視線を逸らした。
答えに詰まる。
真夜はそこで、ふと真面目な声音になった。
「姉さん」
「……なによ」
「龍郎さん、覚えていたのかしら?」
その問いに深夜はぴたりと固まった。
「…………」
答えられない。いや──
答えは分かっている。
───『おそらく覚えていない』
あれは一年前。
ほんの短い時間の出来事。旅行先で偶然出会っただけの少女。
しかも当時の深夜は帽子を深く被っていて四葉の娘であることを悟られないよう、警備も最低限だった。
だから司波龍郎からすれば、あれは“たまたま困っていた女の子を助けた”程度の記憶でしかないだろう。
だが深夜にとっては違った。
彼は普通に話しかけてくれた。
警戒も、恐怖も、媚びも無く。
ただ自然に。
『一人? 迷ったの?』
そう言ってベンチへ座り、
『暑いし溶ける前に食べた方がいいよ』
──なんて笑いながらアイスを差し出してきた。
四葉深夜としてではなく、ただの少女として扱われた。
それがどうしようもなく嬉しかったのだ。
「……覚えてない、わよね」
ぽつり、と深夜が呟く。
その声は少しだけ沈んでいた。
真夜はそんな姉を見つめ、くすりと笑う。
「でも、姉さんのことジッと見てたじゃない」
「そ、それは……!」
思い出した瞬間、深夜の顔が再び熱を帯びる。
あの視線。
真っ直ぐで、不思議そうで、どこか困ったような目──まるで“知っている誰か”を見るような視線だった。
「もしかしたら、何か思い出しかけてたのかもしれないわよ?」
「……そう、かしら」
深夜は小さく呟く。
その紅い瞳に、ほんの僅かな期待が宿った。
だが、次の瞬間にはまた顔を覆う。
「でも嫌われたわ……」
「まだ言ってるの?」
「だってあんな態度……!」
差し出された手を無視した。
睨み付けた。
挙句の果てに逃げた。
客観的に見れば最悪である。
「普通嫌うでしょうあんなの……!」
深夜は半泣きだった。
真夜はもう限界だった。
「ふふっ……あははっ!」
「笑わないでぇ……!」
姉妹のやり取りが続く中、ふと真夜は思う。
(でも……)
司波龍郎、あの少年。
姉の態度を前にしても、怒ってはいなかった。困ってはいたが、どこか本気で嫌がっている感じでもない。
むしろ──
──深夜の反応そのものを、不思議がっているような雰囲気だった。
そして何より真夜は見逃していない。
深夜が部屋を出て行った時、龍郎は少しだけ寂しそうな顔をしていた。
「……案外」
「え?」
「龍郎さん、姉さんのこと嫌ってないかもしれないわよ?」
その言葉に深夜が勢いよく顔を上げた。
「ほ、本当に……!?」
「ふふっ」
真夜は悪戯っぽく微笑む。
「さあ、どうかしら?」
どっちなの、と問い詰めてくる姉が面白いので真夜は黙っていることにした。
何かと溜め込みがちな片割れである深夜のそんな姿を引き出す龍郎が羨ましくもあり、誇らしくもあり。
四葉真夜は、姉の幸せを心から願っているのだ。
□
その夜。
龍郎は人生最大級の緊張を味わっていた。
場所は四葉家本邸、その会食室。
重厚な扉。
磨き抜かれた床。
静かに控える使用人達。
そして中央に置かれた長大なテーブルには、見るからに高級そうな料理が芸術品のように並べられている。
(帰りたい……)
心の底からそう思った。
事の発端は、四葉家当主――四葉元造の一言である。
『せっかくだ。若い者同士、食事でも共にするといい』
にこやかだった。
だが断れる空気では一切なかった。
その結果どうなったか。
司波龍郎。
七草弘一。
四葉深夜。
四葉真夜。
という、とんでもない組み合わせの会食が爆誕したのである。
なお、元造本人は同席していない。
若者同士の交流を見守る、などという建前らしい。
(絶対面白がってるだろあの人)
龍郎は半眼になった。なにせ部屋を出ていくときの元造の顔は愉快愉悦に塗れていた。性悪である。
とはいえ、逃げられないものは仕方ない。
現在の龍郎は、両親から最低限のテーブルマナーを叩き込まれている。
四葉家の婿になるのだからと。
だから“形”だけならどうにかなっている。
ただ唯一の問題は中身が庶民メンタルなことだった。
(なんだこれ……何料理……?)
目の前に置かれている料理を見ながら、龍郎は内心で震える。
白い皿の中央にちょこんと乗った何か。ソースが芸術的に散らされている。
量が少ない。異様に少ない。
(足りる!? これ足りるのか!?)
庶民感覚が叫んでいた。
しかもカトラリーの数が多い。
(外側から使うんだっけ? いやでもこの料理どれ用!?)
頭の中が軽くパニックである。
一方、向かい側では真夜が楽しそうに微笑んでいた。
「龍郎さん、緊張してます?」
「……多少は」
「多少どころじゃない顔をしてるわ」
くすくす笑われた。
くそ、良い性格してるなこの未来の魔王。
龍郎は内心で呻く。
ちなみに深夜は真夜の隣に座っている。
そしてさっきから一度も目が合わない。完全に避けられていた。
(うわ気まずっ)
いやまあ昼間の件を考えれば当然なのだが。
ただ龍郎が視線を向ける度、深夜の肩がぴくっと揺れるのが気になった。
(怒ってる……訳ではなさそう?)
むしろ妙に挙動不審というか。
(なんだ……?)
そんなことを考えていると、
「龍郎」
隣から小声が飛んできた。
弘一だった。
「ん?」
「魚料理だ。外側二本目」
「……あっ」
危なかった。
龍郎は今まさに肉用っぽいナイフへ手を伸ばしかけていたのである。慌てて修正。
「助かった……」
「顔に全部出てる」
「うるさい」
弘一は肩を震わせながら笑いを堪えていた。
こいつ絶対楽しんでる。
「仲が良いんですね」
真夜が面白そうに言う。
「腐れ縁だよ」
「弘一さんは優しいものね」
「いやぁ、それほどでも――」
「お顔も整っていますし」
「真夜?」
「モテますし」
「真夜さん???」
弘一が困惑する。
龍郎はちょっとスッキリした。ざまぁみろ。
そんな和やかな空気の中、不意に小さな音が響いた。
見ると、深夜のフォークが僅かに滑っていた。
「……っ」
珍しく、彼女が表情を揺らす。
龍郎は反射的に口を開いていた。
「大丈夫?」
「……え?」
深夜が目を丸くする。
まるで声を掛けられると思っていなかったような顔だった。
「いや、落としそうだったから」
「あ……」
深夜は僅かに視線を彷徨わせる。
そして──
「……問題ありません」
小さな声でそう答えた深夜は昼間ほど刺々しくない。むしろどこかぎこちなく感じる。龍郎は首を傾げた。
一方で真夜はニヤニヤしていた。弘一は微妙に察した顔をしていた。
そして深夜本人は──
(また優しい……!!)
内心で完全にパニックになっていた。
昼間の態度を考えれば、気まずく接されても仕方ないと思っていたのだ。
なのに彼は普通に話しかけてきた。
怒っている様子もない。責める様子もない。
その事実だけで、深夜の心拍数はどんどんおかしくなっていく。
(どうしてそんな普通に話せるのよぉ……!)
深夜は必死に平静を装いながら、震えそうになる指先を誤魔化すのだった。
会食は表面上は穏やかに進んでいた。
料理は次々と運ばれてくる。
前菜。
魚料理。
スープ。
そして龍郎には名前すら怪しい何か。
(待ってこれどう食うのが正解?)
しかし愛すべき庶民である龍郎の内心ではずっと修羅場だった。とはいえ、一度ミスしかけたことで逆に吹っ切れた部分もある。
分からなければ弘一を見る。真似する。
これである。
実に合理的だ。
ありがとう弘一、フォーエバー弘一。しかしイケメン死すべし慈悲はない。
そんな龍郎の必死さに気付いているのかいないのか、真夜は楽しそうに微笑み続けている。
「龍郎さんって面白い方ですね」
「よく言われる」
「褒めてますよ?」
「なら良かった」
軽口を返しつつ、龍郎は肉料理へナイフを入れる。
柔らかい。というか美味い。
(えっ、なにこれ凄……)
思わず感動した。
前世でも高級料理など殆ど食べたことがない。社畜時代の夕飯など、コンビニか牛丼チェーンが基本だった。酷い時はもやしだけで乗り切ったこともある。
だから余計に衝撃だった。
すると──
「……ふふ」
不意に、小さな笑い声が聞こえた。
龍郎は顔を上げる。そこには口元を押さえた深夜がいた。
「……え?」
思わず間抜けな声が出る。
深夜自身も、自分が笑ったことに気付いたらしい。
はっとしたように目を見開き、すぐに顔を逸らした。
「な、何でもありません」
「いや絶対なんかあっただろ」
「ありません」
「今笑ったよな?」
「笑ってません」
「いや笑って――」
「笑 っ て い ま せ ん」
あまりに強い否定の言葉だった。押し切られた。
龍郎は困惑しながら弘一を見る。
弘一は肩を震わせて笑いを堪えている。ファッキュー弘一。
「お前さては分かってるな?」
「いやぁ?」
「その顔で誤魔化せると思うなよ」
龍郎がジト目になる。
一方で真夜はとうとう耐え切れなくなったらしい。口角が上がるのを抑えきれなくなっている。
「姉さん」
「……なに」
「今のはちょっと失礼では?」
「っ」
深夜の肩が跳ねる。
「べ、別に失礼とかじゃ……!」
「でも笑ったでしょう?」
「それは……」
深夜が言葉に詰まる。
そしてちらり、と龍郎を見る。
その視線が合った瞬間、また慌てて逸らした。
「……その、あまりにも表情に出るから」
「俺?」
「……美味しいものを食べた子供みたいな顔をしていたもの」
ぼそり、と深夜はそう言った。
数秒の沈黙。
次の瞬間──
「ぶっ」
弘一が吹き出した。
「っ、弘一さん!?」
「いや、すまない……っ、だが確かに龍郎、さっき凄く分かりやすい顔をしていたから……!」
「マジかよ……」
龍郎は思わず顔を覆った。
恥ずかしい。
年甲斐もなく高級料理でテンション上がっていたのがバレていたらしい。
しかも深夜が少しだけ笑っている。
さっきより明らかに表情が柔らかかった。
(……あれ?)
龍郎はふと違和感を覚える。
昼間はあれだけ刺々しかったのに、今の深夜はどこか普通だ。
いや、むしろ妙に距離感がおかしい。
警戒されているような。
でも嫌われている感じではないような。
そんな不思議な感覚だった。
「……あのさ」
龍郎は思い切って口を開く。
瞬間。
深夜の背筋がぴんと伸びた。
「は、はい」
明らかに緊張している。
「俺、なんかした?」
「…………え?」
「いや、昼間からずっと気になってたんだけど」
龍郎は苦笑する。
「なんか妙に警戒されてる気がして」
「っ」
深夜の顔がみるみる赤くなる。
真夜がニヤニヤし始めた。
弘一は察して目を逸らした。
「そ、そんなこと……!」
「ない?」
「…………」
言葉が止まる。
深夜は俯き、ぎゅっとナプキンを握り締めた。
どう答えるべきなのか分からない。
本当のことなど言える訳がない。
――貴方のことをずっと覚えていました。
――また会いたいと思っていました。
――会えた嬉しさでおかしくなっていました。
そんなこと。
恥ずかしくて絶対言えない。
「……その」
深夜は震える声で絞り出す。
「少し、緊張していただけです」
「緊張?」
「……初対面でしたから」
深夜の言葉に嘘はない。ある意味では。
龍郎はきょとんとした後、ふっと笑った。
「なんだ。俺だけじゃなかったのか」
「……え?」
「いや俺もめちゃくちゃ緊張してたし」
そう言って肩を竦める。
「四葉家ってもっとこう……怖い感じかと思ってたから」
深夜の目が丸くなる。
「……怖い?」
「うん。なんか皆すごい威圧感あるし」
「…………」
「でも真夜さんは話しやすいし、弘一はいつも通りだし」
そこで龍郎は、少しだけ困ったように笑った。
「深夜さんも、思ってたより普通で安心した」
その瞬間、深夜の思考が止まった。
普通。
四葉深夜が。
そんな言葉を向けられたのは、初めてだった。
時系列で言うと今は西暦2060年なので深夜真夜姉妹と龍郎くんは十歳、弘一くんは十二歳となります。
龍郎くんは分かるけど他の三人、君らなんか大人びすぎてない???