壊れる前の音を、君は知らない   作:シュユ

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第10話 声を出せない私へ

――佐倉愛里視点

 

 最悪だ。

 

 本当に、最悪だった。

 

 部屋の隅に座り込んで、私は壊れたカメラを抱えたまま、何度も同じことを考えていた。

 

 どうして、あんな写真を撮ってしまったんだろう。

 

 どうして、須藤君たちの喧嘩なんて見てしまったんだろう。

 

 どうして、堀北さんたちに知られてしまったんだろう。

 

 頭の中が、ぐるぐるする。

 

 生徒会審議。

 

 証言。

 

 人前。

 

 注目。

 

 知られる。

 

 見られる。

 

 無理。

 

 そんなの、絶対に無理だ。

 

 もし前に出れば、みんなが私を見る。

 

 名前を聞かれる。

 写真を撮った理由も聞かれるかもしれない。

 

 下手をしたら、学校のみんなに私のことだって――。

 

「うぅ……」

 

 考えるだけで、息が苦しくなる。

 

 嫌だ。

 

 怖い。

 

 消えたい。

 

 カメラを抱く腕に、ぎゅっと力が入る。

 

 画面は暗いまま。

 何度電源を押しても、反応はない。

 

 中のデータがどうなっているのかも分からない。

 

 もし壊れていたら。

 もし写真が消えていたら。

 

 少しだけ、ほっとするのかもしれない。

 

 そんなことを考えてしまって、すぐに自分が嫌になった。

 

 須藤君は悪くないかもしれない。

 

 あの時、私は見た。

 

 全部ではないけれど、少なくとも、Cクラスの人たちが言っているような一方的な暴力には見えなかった。

 

 でも。

 

 だからって、私が前に出られるわけじゃない。

 

 机の上には、カメラから取り出したメモリーカードが置いてある。

 

 小さな黒いカード。

 

 こんな小さいものの中に、須藤君を助けられるかもしれない写真が入っている。

 

 でも同時に、私をみんなの前へ引きずり出すものでもある。

 

 見てしまった。

 

 撮ってしまった。

 

 持っている。

 

 それだけで、逃げ場がなくなっていく気がした。

 

 私は膝を抱え込む。

 

 学校では、なるべく目立たないようにしていた。

 

 話しかけられても、うまく返せない。

 視線を合わせるのも怖い。

 誰かに名前を呼ばれるだけで、胸の奥がきゅっと縮む。

 

 教室の中にいるだけで、息をひそめる癖がついた。

 

 声を出さなければ、誰にも気づかれない。

 顔を上げなければ、誰とも目が合わない。

 カメラを抱えていれば、少しだけ自分と世界の間に壁を作れる。

 

 そうやって、ずっとやり過ごしてきた。

 

 それなのに、あんな場所で写真なんて撮ってしまった。

 

 カメラを持っていたから。

 ただ、いつもの癖で。

 

 遠くからなら、平気だった。

 

 レンズ越しなら、少しだけ世界と距離が取れる気がした。

 

 でも、今は違う。

 

 そのレンズが、私自身を見つけてしまった。

 

 私はメモリーカードを指でつまむ。

 

 小さい。

 軽い。

 少し力を入れたら、どこかへ飛んでいってしまいそうなくらい。

 

 これをなくしてしまえば。

 

 そんな考えが一瞬、頭をよぎった。

 

 すぐに、怖くなって手を離す。

 

 違う。

 

 そんなことをしたいわけじゃない。

 

 でも、したくないと言い切れるほど、私は強くもなかった。

 

 インターホンが鳴ったのは、その時だった。

 

「ひっ……」

 

 びくりと肩が跳ねる。

 

 誰。

 

 堀北さん?

 櫛田さん?

 それとも、綾小路君?

 

 出たくない。

 

 誰にも会いたくない。

 

 二度目のチャイム。

 

 しばらく無視していたけれど、諦める気配がない。

 

 私はカメラを胸に抱え直す。

 

 大丈夫。

 

 出なければいい。

 

 そう思ったのに、三度目のチャイムは鳴らなかった。

 

 代わりに、扉の向こうから静かな声がした。

 

「佐倉さん。無理なら帰るよ」

 

 知らない声ではない。

 

 でも、予想していた誰の声でもなかった。

 

 恐る恐るドアスコープを覗いて、私は目を瞬かせた。

 

 そこにいたのは、予想外の人物だった。

 

 白峰奏君。

 

 Aクラスの、ほとんど話したことのない男子生徒。

 

「……え?」

 

 思わず声が漏れる。

 

 どうして、この人が。

 

 戸惑いながら少しだけドアを開けると、白峰君はいつもの穏やかな顔で軽く手を上げた。

 

「こんばんは」

 

「こ、こんばんは……」

 

 反射で返してしまう。

 

 何で普通に挨拶しちゃったの、私。

 

「少し話せる?」

 

「え、えっと……」

 

 断ろうとした。

 

 でも白峰君は、ぐいぐい来る感じが全くない。

 

 ただ静かに立っているだけ。

 

 そのせいで、追い返す理由も作りづらい。

 

「本当に無理なら帰る。話したくないなら、それでもいい」

 

「あ……」

 

 その言葉に、逆に困ってしまった。

 

 帰ってほしい。

 

 誰にも会いたくない。

 

 そう思っていたはずなのに、白峰君の声は、私を責める音ではなかった。

 急かす音でもない。

 

 扉の前に、ただ置かれたみたいな静かな声だった。

 

 私はおずおずと、ドアを少し広く開けた。

 

「……す、少しだけなら……」

 

「ありがとう」

 

 部屋に入っても、白峰君はすぐ本題に入らなかった。

 

 部屋を見回すでもなく、私をじろじろ見るでもなく、椅子の端に静かに座る。

 

 それだけで少し、息がしやすくなった。

 

 この人は、見ているのに、見すぎない。

 

 それが不思議だった。

 

「カメラ、壊れた?」

 

「あ……」

 

 私は慌てて、抱えていたカメラを隠す。

 

「み、見てたの……?」

 

「少し」

 

 またその言い方。

 

 少し、って絶対少しじゃない。

 

 でも、不思議と責められている感じはしなかった。

 

 白峰君は続ける。

 

「データは無事かもしれないよ。メモリーカードなら」

 

「……ほ、ほんと?」

 

「うん。カメラ本体が壊れてても、カードが無事なら取り出せることはある」

 

 少しだけ、胸の奥が軽くなる。

 

 でも、すぐに重さが戻った。

 

 データが無事でも、意味はない。

 

 私は出られない。

 

 証言なんて無理だ。

 

「堀北さんたちに……頼まれたの?」

 

 聞くと、白峰君は少し考えてから首を横に振った。

 

「頼まれてはない」

 

「じゃ、じゃあ……何で……」

 

「佐倉さんが困ってそうだったから」

 

 あまりにも自然に言われて、私は返事を失う。

 

 そんな理由で、他クラスの人がわざわざ来るの?

 

 意味が分からない。

 

 でも、その声は嘘っぽくなかった。

 

「……私、証言できません」

 

 先に言ってしまう。

 

 期待されたら困る。

 

 無理なものは、無理だ。

 

「うん」

 

「人前とか……ほんとに無理で……」

 

「うん」

 

「みんなに見られるの、嫌で……」

 

「うん」

 

「こ、声、出なくなるし……手も震えるし……何を言えばいいか、分からなくなって……」

 

「うん」

 

「それに……」

 

 言いかけて、止まる。

 

 その先は言えない。

 

 言ったら、私が私でいられなくなる気がした。

 

 学校では、誰にも知られたくなかった。

 

 写真を撮られる側の私も。

 画面の向こうで笑っている私も。

 知らない誰かに見られている私も。

 

 全部、隠しておきたかった。

 

 白峰君は、私の言葉の続きを待たなかった。

 

 続きを聞き出そうともしなかった。

 

 ただ、静かにそこにいた。

 

 白峰君は、私の言葉を遮らない。

 

 正しいことを言わない。

 早く決めろとも言わない。

 大丈夫だよ、と簡単にも言わない。

 

 ただ、相槌だけを置いてくれる。

 

 その静けさが、かえって苦しくて、少しだけ安心した。

 

「学校で知られたくないこと、あるんだよね」

 

 心臓が跳ねた。

 

 私は顔を上げる。

 

 白峰君は静かにこちらを見ていた。

 

 責めるでもなく、驚くでもなく、ただ確かめるように。

 

「……し、知ってるの?」

 

「全部は知らないよ」

 

「で、でも……」

 

「言いふらしたりしない」

 

 白峰君は、慌てたようにではなく、はっきりと言った。

 

「佐倉さんが隠したいなら、それでいいと思う」

 

 その返答は、予想外だった。

 

 私はてっきり、秘密を握って脅されるんだと思っていた。

 

 堀北さんみたいに正論を言われるか。

 櫛田さんみたいに優しく説得されるか。

 綾小路君みたいに、静かに核心を突かれるか。

 

 なのに白峰君は、隠したいなら隠せばいい、と言った。

 

「……え?」

 

 間の抜けた声が出る。

 

 白峰君は少し笑う。

 

「別に、全部さらけ出す必要はないよ」

 

「で、でも……須藤君が……」

 

「助けたい?」

 

 その問いに、私は詰まる。

 

 助けたい。

 

 それは本当だ。

 

 須藤君は乱暴で、怖いところもある。

 

 でも、あの時、一方的に悪いようには見えなかった。

 

 写真だって、偶然とはいえ、その証拠だ。

 

 助けられるなら、助けたい。

 

 でも。

 

「……怖い」

 

 絞り出した本音は、情けないくらい震えていた。

 

「すごく、怖い……です」

 

 白峰君は頷く。

 

「うん」

 

 否定しない。

 

 甘えだとも言わない。

 

 ただ、受け止める。

 

 それだけで、少し泣きそうになる。

 

「怖いのに、助けたいって思ってる時点で、君はすごいよ」

 

「……」

 

「だから、無理に強くならなくていい」

 

 胸が熱くなる。

 

 そんなこと、誰にも言われたことがなかった。

 

 みんな、正しいことを言う。

 

 出るべきだ。

 話すべきだ。

 クラスのためだ。

 

 全部、正しい。

 

 でも、私は怖い。

 

 その怖さごと認めてもらえたのは、初めてだった。

 

 気づけば、涙が滲んでいた。

 

 慌てて袖で目元を拭う。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「謝らなくていいよ」

 

「で、でも……」

 

「泣くのも、怖いのも、悪いことじゃない」

 

 そう言われて、余計に涙が出そうになった。

 

 私は顔を伏せる。

 

 白峰君は、やっぱり急かさない。

 

 気まずい沈黙のはずなのに、不思議と逃げ出したくならなかった。

 

「じゃ、じゃあ……どうしたら……」

 

 白峰君は少しだけ考えて、穏やかに言う。

 

「顔を出すことだけが、全部じゃないと思う」

 

「え……?」

 

「僕が決められることじゃない。学校側がどう扱うかも分からない」

 

 白峰君は、ゆっくり言葉を選んだ。

 

「でも、佐倉さんが何を怖がっているのかは、先に伝えた方がいい」

 

「私が……?」

 

「うん。言えないなら、誰かに伝えてもらってもいい」

 

 白峰君は、私をまっすぐ見なかった。

 

 見ていないのに、ちゃんと聞いてくれている。

 

 そんな感じがした。

 

「証言が怖いんじゃなくて、見られる形が怖いんだって」

 

「そんなこと……言っても、いいの?」

 

「言っていいと思う。怖いことは、隠さなくていい」

 

 怖いことは、隠さなくていい。

 

 その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。

 

 私は、全部隠さなきゃいけないと思っていた。

 

 怖いことも。

 嫌なことも。

 知られたくないことも。

 

 全部隠して、平気な顔をしなければいけないと思っていた。

 

 でも、本当は平気じゃない。

 

 ずっと、平気じゃなかった。

 

「写真を出すこと、見たことを伝えること、みんなの前に立つことは、全部同じじゃない」

 

「……同じじゃ、ない……」

 

「うん」

 

 白峰君は小さく頷いた。

 

「写真は、あの日そこにあった事実を示すものだと思う。佐倉さんの秘密を見せるためのものじゃない」

 

 言葉が、ゆっくり胸の中に落ちていく。

 

 写真を出したら、全部知られる。

 

 ずっとそう思っていた。

 

 証言したら、全部見られる。

 

 そう決めつけていた。

 

 でも、違うのかもしれない。

 

 全部じゃなくてもいいのかもしれない。

 

 怖いままでも、ほんの少しだけなら。

 

「佐倉さんは、写真を出す意思だけ決めて」

 

「……」

 

「無理に今、強くならなくていい。声が出ないなら、出ないままでもいい」

 

「声が……出ないまま……?」

 

「うん。佐倉さんが何を怖がっているのかを伝えれば、別の形を考える余地はあると思う」

 

 私はメモリーカードを握りしめる。

 

 怖い。

 

 今も、すごく怖い。

 

 だけど。

 

 この人の前だと、不思議と“無理です”だけで逃げるのが少し悔しくなる。

 

 白峰君は急かさない。

 

 ただ待っている。

 

 静かな沈黙の中で、私は何度も息を吸った。

 

 喉が震える。

 

 声が出ない。

 

 でも、出さなきゃいけない気がした。

 

 誰かに押されたからじゃない。

 

 怒られたからでもない。

 脅されたからでもない。

 正しいことを言われたからでもない。

 

 私が見たものを、なかったことにしたくなかったから。

 

 私は、メモリーカードを両手で包む。

 

「……出します」

 

 自分でも驚くくらい、小さな声だった。

 

 けれど、ちゃんと声になった。

 

「写真……出します」

 

 白峰君は、柔らかく笑った。

 

「ありがとう」

 

 その笑顔を見た時、少しだけ思った。

 

 この人は優しい。

 

 でもたぶん、全部を見ているわけじゃない。

 

 私が隠したい場所には、無理に踏み込んでこない。

 

 見えているのに、見ないふりをしてくれる。

 

 それが少し怖くて。

 

 でも、嫌じゃなかった。

 

 白峰君が帰った後、部屋はまた静かになった。

 

 でも、さっきまでの静けさとは少し違った。

 

 私は机の上にメモリーカードを置き直す。

 

 小さな黒いカード。

 

 さっきまでは、私を追い詰めるものにしか見えなかった。

 

 今は少しだけ違う。

 

 これは、私が見たもの。

 

 私が怖くても、消してはいけないもの。

 

 そう思えた。

 

 

 

 

 ――数日後の生徒会審議。

 

 私は直接、大勢の前へ立つことはなかった。

 

 提出された写真データと、必要最低限の確認だけで済むよう調整されていた。

 

 詳しい経緯は分からない。

 

 ただ堀北さんが少し驚いた顔で白峰君を見ていたから、たぶん本当に何か動いたんだと思う。

 

 Cクラスの主張は崩れた。

 

 ただ、それだけで須藤君の件が完全に終わったわけではなかった。

 

 写真だけでは、まだ足りない部分がある。

 

 けれど少なくとも、須藤君が一方的に悪いという話ではなくなった。

 

 少しだけ、息ができるようになった気がした。

 

 全部終わった後。

 

 廊下の端で、私は白峰君を見つけ、小さく頭を下げた。

 

「あ、あの……ありがとう、ございました……」

 

 白峰君は少しきょとんとしてから笑う。

 

「ううん。頑張ったのは佐倉さんだから」

 

 私は首を横に振る。

 

 たぶん、一人だったら絶対無理だった。

 

「で、でも……白峰君が、来てくれなかったら……私、ずっと……」

 

 そこまで言って、言葉が詰まる。

 

 白峰君は、続きを急かさなかった。

 

 ただ、静かに待ってくれる。

 

 その沈黙に、私は少しだけ助けられる。

 

「……声、出せなかったと思います」

 

「そっか」

 

「だから……その……ありがとう、ございます」

 

 白峰君は柔らかく笑った。

 

「どういたしまして」

 

 それ以上、何も言わなかった。

 

 いつものように穏やかに手を振って、白峰君は去っていく。

 

 名前を呼び止めることはできなかった。

 

 ただ、一つだけ分かる。

 

 あの人は、静かだ。

 

 静かすぎて、気づいた時にはもう隣にいる。

 

 そんな人だった。

 

 私は胸の前で、ぎゅっと手を握る。

 

 怖いものがなくなったわけじゃない。

 

 人前はまだ怖い。

 見られるのも、知られるのも怖い。

 急に話しかけられたら、きっとまた声が詰まる。

 

 それでも。

 

 怖いままでも、出せる声がある。

 

 そのことを、少しだけ知った。

 

 私は廊下の向こうへ消えていく白峰君の背中を見つめながら、小さく息を吸った。

 

 今度は、さっきよりも少しだけ深く。

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