――佐倉愛里視点
お礼を言わなきゃ、と思っていた。
須藤君の件が終わってから何日か経っているのに、まだちゃんと伝えられていない。
廊下ですれ違っても、教室が違うから話しかけるタイミングがない。
ううん。
本当は、タイミングがないんじゃない。
話しかける勇気が出ないだけだ。
でも、このまま何もしないのも嫌だった。
放課後。
私は胸の前で指をもじもじさせながら、中庭の方へ向かっていた。
白峰君はよくあそこにいる。
それを知ったのは、櫛田さんが「またピアノ弾いてたよ」と教えてくれたからだ。
本当にいるのかな。
いなかったらどうしよう。
いや、いたらいたで困るけど。
そんなことを考えているうちに、中庭の端が見えてきて――。
ぽろん、と。
静かな音が耳に届いた。
いた。
グランドピアノの前に座る、白い背中。
夕方の光を受けて、鍵盤へ指を落とす姿は、相変わらず学校の風景から少しだけ浮いて見える。
私は、しばらく遠くで立ち尽くしてしまった。
綺麗だな、と思う。
ピアノのことなんて詳しくない。
何の曲かも分からない。
でも、音がすごく静かで、やさしい。
焦っていた頭の中が、少しずつ落ち着いていく。
一曲終わったところで、白峰君がこちらを見ないまま言った。
「佐倉さん?」
「ひゃっ」
気づかれてた。
私は変な声を出して、肩を震わせる。
白峰君がくすっと笑った。
「そんなに驚く?」
「だ、だって……」
「立ってるだけだと疲れるよ。座れば」
促されるまま、私は近くのベンチへ腰掛けた。
心臓がうるさい。
何か言わなきゃ。
「え、えっと……あの、この前は……」
「うん」
「あの……ありがとう、ございました……」
ようやく絞り出した言葉に、白峰君は軽く首を傾げる。
「何の話?」
「えっ」
忘れてるの?
そんなわけないよね?
私があたふたしていると、白峰君は少しだけ笑った。
「冗談」
あ、この人、たまにこういうことするんだ。
少しだけ拍子抜けして、緊張が緩む。
「す、須藤君の……その、ことで……。わ、私、一人じゃ、絶対無理だったから……」
「でも、最終的に決めたのは佐倉さんだよ」
「そ、それでも……」
白峰君は、それ以上その話を広げなかった。
恩を着せる感じが全然ない。
まるで、本当に大したことじゃなかったみたいに。
私は膝の上で手を握る。
こういうところが不思議だ。
助けてくれたのに、距離を縮めようとしてこない。
優しいのに、妙にさらっとしている。
少し、沈黙が流れる。
気まずい、と思う前に、白峰君がまた鍵盤へ触れた。
ぽろぽろと、短い音が続く。
私は、思い切って聞いてみた。
「あ、あの……どうして、いつもここで弾いてるんですか?」
「ん?」
「音楽室もあるのに……」
白峰君は少し考えてから答える。
「こっちの方が、誰か来るから」
「……誰か来るから?」
意外な答えだった。
一人になりたいから弾いているんだと思っていた。
白峰君は穏やかに続ける。
「完全に一人だと、考えすぎる時があるんだ」
「考えすぎる……」
「でも、人がいすぎると落ち着かない」
私は小さく頷く。
なんとなく、分かる気がした。
「だから、このくらいがちょうどいい。誰か来るかもしれないし、来なくてもいいし」
その言い方が、少し寂しく聞こえた。
来てほしいのか。
来なくていいのか。
自分でも、決めていないみたいな。
白峰君って、やっぱり少し変わってる。
でも、その変さは嫌じゃない。
「……白峰君って」
「うん?」
「一人が好きなんですか?」
聞いてから、変な質問をしたかも、と後悔する。
でも白峰君は怒らなかった。
少しだけ空を見て、
「好きかどうかは分からない」
と呟いた。
「ただ、慣れてる」
その一言が、妙に胸に残った。
慣れてる。
なんだろう。
すごく普通の言葉なのに、少しだけ切ない。
私は無意識にピアノを見る。
黒と白の鍵盤。
白峰君の細い指。
「……わ、私」
気づけば、口が動いていた。
「ピ、ピアノって……触ったこと、なくて……」
白峰君がこちらを見る。
「弾いてみる?」
「む、無理です!」
即答してしまう。
でも白峰君は笑って、鍵盤の端を軽く叩いた。
「一音だけでも」
私はおそるおそる立ち上がる。
ピアノの隣に立つなんて、場違いすぎて落ち着かない。
恐る恐る、人差し指で鍵盤を押す。
ぽん、と単純な音が鳴った。
……それだけなのに、少し楽しかった。
白峰君が、もう一音鳴らす。
私も真似して鳴らす。
ぽん。
ぽろん。
意味のない音が並ぶ。
曲にも何にもなっていない。
なのに不思議と、少し笑ってしまった。
「……変なの」
「うん」
「でも、なんか……落ち着きます」
「それはよかった」
白峰君は柔らかく笑う。
その笑顔を見て、私は少しだけ思う。
この人は、人を安心させるのが上手い。
でもきっと、自分が安心するのは下手なんだ。
どうしてそんなことを思ったのかは、分からない。
ただ、ピアノに触れる白峰君の横顔が、少しだけ遠く見えた。
私は小さく息を吸う。
「あの……また来てもいいですか?」
白峰君は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「困らないのが一番だけど」
「……」
「来たいならどうぞ」
それは許可なのか、放任なのか分からない返事だった。
でも、拒絶じゃない。
それだけで、少し嬉しい。
夕方の風が吹く。
白峰君がまた鍵盤を鳴らし、私は隣で一音だけ真似をする。
ぽろん。
ぽん。
噛み合っているようで、噛み合っていない。
それでも、妙に心地よい時間だった。
私の音は小さくて、頼りなくて、すぐに消えてしまう。
でも、白峰君の音は、それを急かさなかった。
間違えてもいい、と言われているみたいだった。
声を出せなかった私の代わりに、指先から落ちた小さな音。
それを、白峰君は何も言わずに受け取ってくれた。
だから私は、もう一度だけ鍵盤に触れた。
ぽん、と。
さっきよりほんの少しだけ、軽い音がした。
――綾小路清隆視点
須藤の件が一応の決着を見せてから、数日が経っていた。
Cクラス側の主張は崩れ、須藤が一方的な加害者として処分される流れは避けられた。
だが、今回の件を振り返れば、危うい場面はいくつもあった。
須藤自身の証言だけでは弱い。
Cクラスの三人は、自分たちが被害者であることを前提に話を組み立てていた。
こちらに必要だったのは、それを崩すための客観的な材料。
その意味で、佐倉の写真は重要だった。
問題は、その写真を持っていた本人が、誰よりも人前に立つことを恐れていたということだ。
「佐倉さん、少し変わったよね」
教室で櫛田がそう言った。
視線の先には、いつものように席で小さくなっている佐倉がいる。
劇的に明るくなったわけではない。
誰とでも話すようになったわけでもない。
ただ、以前よりも少しだけ、顔を上げる時間が増えたようには見えた。
「そうかもな」
「うん。なんていうか……前より、息がしやすそう」
櫛田らしい言い方だった。
オレは答えず、佐倉から視線を外す。
今回、佐倉を動かしたのは堀北ではない。
櫛田でもない。
もちろん、オレでもない。
最終的に決めたのは佐倉自身だ。
だが、その決断の前に、白峰が何かを置いた。
脅しではない。
取引でもない。
正論でもない。
ただ、逃げ道を塞がずに、選択肢だけを残した。
それが佐倉には必要だったのだろう。
堀北なら、証言の必要性を説く。
櫛田なら、優しく背中を押す。
オレなら、佐倉が動ける状況を整える。
白峰は、そのどれとも違った。
あいつは、相手が壊れない位置を探しているように見える。
そんな表現をすれば、白峰本人は笑うかもしれない。
だが、近い言葉を探すなら、そうなる。
「綾小路君」
不意に、堀北が声をかけてきた。
「何だ」
「あなた、今回の件で白峰君の動きをどう見た?」
「どう、とは?」
「彼は余計なことをしたのか。それとも、必要なことをしたのか」
珍しい問いだった。
堀北が白峰をどう扱うべきか測りかねているのは、前から分かっていた。
有能ではある。
だが、味方として数えるには曖昧すぎる。
敵ではない。
けれど、こちらの思い通りに動く人間でもない。
「少なくとも、今回は必要だったんじゃないか」
オレがそう答えると、堀北はわずかに眉を動かした。
「あなたがそう言うのは意外ね」
「堀北のやり方だけじゃ、佐倉は動かなかった可能性が高い」
「……否定はできないわ」
堀北は小さく息を吐いた。
納得したというより、認めざるを得ないという顔だった。
「でも、あの人のやり方は不安定よ。再現性がない」
「そうだな」
「偶然その場にいて、少しだけ言葉を置いて、後は本人に任せる。そんなもの、戦略とは呼べないわ」
「白峰は、戦略としてやってるわけじゃないんだろう」
堀北は黙った。
それが一番、彼女には理解しづらいのかもしれない。
勝つために動く。
負けないために考える。
クラスを上げるために手段を選ぶ。
堀北の行動には、常に目的がある。
だから、目的が見えない白峰は扱いにくい。
オレにとっても、それは同じだ。
白峰奏。
あいつは、佐倉を救おうとしたわけではないのかもしれない。
白峰の言い方を借りるなら、壊れそうな音を聞いた、ということになるのかもしれない。
だから、少しだけ手を伸ばした。
そう考えると、行動としては理解できる。
理解はできるが、予測はしづらい。
「……気に入らないわね」
堀北がぽつりと言った。
「白峰がか?」
「ええ。私の正しさを否定しないくせに、私とは違う答えを出すところが」
「それは、確かに面倒だな」
「他人事みたいに言わないで」
堀北はそう言って、視線を佐倉の方へ戻した。
佐倉は教室の端で、カメラのストラップを指先で弄っている。
以前と同じように目立たない。
でも、完全に閉じているわけでもない。
その変化は小さい。
だが、小さいからこそ見落とされやすい。
白峰は、そういう変化に気づく。
正確には、気づいてしまう。
それが今回、佐倉にとっては救いになった。
だが、いつもそうなるとは限らない。
誰かの壊れる前の音に気づいてしまう人間が、自分自身の音をどこまで聞けているのか。
それはまだ分からない。
オレは窓の外へ視線を向ける。
中庭の方から、かすかにピアノの音が聞こえた気がした。
小さく、頼りない音が一つ。
続けて、別の音がそれに寄り添う。
曲と呼ぶには拙い。
けれど、不思議と耳障りではなかった。
「……また弾いているのね」
堀北が呟く。
「そうみたいだな」
「まったく、呑気なものね」
そう言いながらも、堀北の声には、以前ほどの刺はなかった。
オレは少しだけ考える。
白峰がこのクラスに何をもたらすのか。
まだ判断するには早い。
ただ一つ言えるのは、あいつが関わると、誰かの動きがほんの少し変わるということだ。
堀北の正しさ。
佐倉の沈黙。
須藤の処分。
それらの隙間に、白峰は小さな音を置いた。
それだけで盤面が大きく変わるわけではない。
だが、見落とすには少し気になる。
オレにとって、白峰奏はまだ敵ではない。
味方とも言えない。
ただ、観察しておく価値はある。
そう判断するには、今回の一件だけで十分だった。