――葛城康平視点
初動で遅れるわけにはいかない。
無人島特別試験の開始が告げられた時点で、俺はすでに一つの場所に目をつけていた。
洞窟だ。
この島へ上陸する前、船は一度、島の外周をなぞるように進んでいた。
ただの偶然ではない。
少なくとも俺はそう判断した。
教師たちが何も説明しない以上、生徒側に与えられた情報は限られている。
ならば、視界に入るものはすべて情報として扱うべきだった。
南側の砂浜。
東側に広がる林。
岩場の位置。
起伏。
水場らしき窪地。
そして、島の内側へ少し入った先に見えた、岩肌に口を開けた黒い穴。
船上から見えたそれが、洞窟であることは遠目にも分かった。
日差しを避けられる。
雨風をしのげる。
入口を押さえれば、防衛にも使える。
物資の保管場所としても悪くない。
無人島で一週間を過ごすと告げられた今、あの洞窟は拠点候補として極めて価値が高い。
試験開始直後。
俺は物資管理班と仮設営班に最低限の指示を出した後、戸塚と数名を連れて島の内側へ向かった。
砂浜を離れると、空気は一変する。
潮の匂いが薄まり、湿った土と草木の匂いが濃くなる。
木々は思ったよりも密集していた。
足元には木の根が張り出し、慣れていない生徒なら簡単に躓く。
虫の羽音。
枝葉が擦れる音。
遠くで聞こえる他クラスの声。
それらが混じり合い、船上とは違う種類の圧迫感を生んでいた。
「葛城さん!」
後ろから戸塚が声を上げる。
「この先に何かあるんですか?」
「船から見えた。岩場に洞窟らしきものがある」
「船から……?」
戸塚が目を丸くする。
「上陸前に確認していたんですか?」
「船が島の外周を回っていた。見る機会があった以上、見ておくのは当然だ」
「さすが葛城さんです!」
戸塚は分かりやすく声を弾ませた。
「俺なんか、周りが騒がしくてそこまで気が回りませんでした。やっぱり葛城さんは違いますね!」
「声を落とせ」
「あ……す、すみません!」
戸塚は慌てて口を押さえる。
だが、すぐにまた前のめりになる。
気持ちが前に出ている。
悪い傾向だ。
戸塚は俺に忠実だ。
指示を出せば動く。
それ自体は悪くない。
だが、忠実さと慎重さは同じではない。
まして、この試験での戸塚はAクラスのリーダーだ。
この試験において、その一挙手一投足は通常の生徒よりも重い。
本人には、まだその自覚が足りない。
「葛城さん、前方に岩場が見えます!」
「分かっている」
木々を抜けると、視界がわずかに開けた。
斜面に走る岩肌。
その中腹に、ぽっかりと口を開けた洞窟がある。
入口は想像よりも広く、人が数人並んで入れるだけの幅があった。
中を覗けば、奥行きも十分にある。
外の熱気に比べ、洞窟の内側はひんやりとしていた。
拠点としては申し分ない。
さらに、入口付近には学校側が設置した端末があった。
予想通りだ。
スポット。
この洞窟は、単なる地形ではない。
試験上の拠点として設定されている。
「……悪くない」
俺は周囲を確認しながら呟いた。
「日差しを避けられる。雨風もしのげる。入口を押さえれば見張りもしやすい。物資保管にも向いている」
「ここを押さえれば、Aクラスがかなり優位に立てますね!」
戸塚が言う。
「そうですね、葛城さん! ここは絶対に取るべきです!」
「判断を急ぐな。周囲確認が先だ」
「はい! 俺が見てきます!」
「待て」
今にも走り出しそうな戸塚を制する。
「単独で動くな。二人連れて行け。周囲に他クラスがいないか確認するのが先だ」
「分かりました!」
戸塚は二人を連れて周辺へ向かった。
その背中を見送り、俺は端末の前に立つ。
占有にはキーカードが必要になるはずだ。
リーダーに渡されているカード。
つまり、戸塚が扱わなければならない。
だがそれを他クラスに見られれば、リーダー看破に直結する。
誰がカードを持つか。
誰が端末に近づくか。
誰がその場にいるか。
全てを情報として見られる。
この試験は、物資と体力だけの勝負ではない。
視線の勝負でもある。
「葛城くん」
背後から声がした。
振り返ると、白峰奏が洞窟の入口近くに立っていた。
探索班に入れていたはずだが、いつの間にこちらへ合流したのか。
「白峰。お前の班はどうした」
「近くにいるよ。水場を探してる」
「勝手に離れるな」
「ごめん。こっちの音が大きかったから」
相変わらず、意味の取りづらい言い方をする。
白峰は洞窟の奥を覗き込むでもなく、端末を見ていた。
「ここ、良さそうだね」
「拠点候補としては最有力だ」
「うん。だから、たぶん危ない」
「何がだ」
「良い場所って、皆が見に来るから」
それは正しい。
洞窟ほど分かりやすい拠点候補なら、他クラスの探索班もいずれ辿り着く可能性がある。
早く押さえるべきだ。
しかし、押さえ方を誤れば情報を漏らす。
厄介な状況だった。
「葛城さん!」
戸塚が戻ってきた。
「周囲に他クラスの姿は見えません! 今なら占有できます!」
「本当に確認したか」
「はい! この辺りには誰もいません!」
言い切る戸塚の声には、確信よりも高揚が混じっていた。
見つけた。
役に立てた。
葛城に報告できた。
その感情が先に出ている。
俺はわずかに眉を寄せる。
「戸塚。確認は一方向だけでは意味がない」
「え?」
「林は視界が通りにくい。姿が見えないからといって、誰もいないとは限らない」
「……すみません」
戸塚は一瞬だけ肩を落とした。
だが、すぐに顔を上げる。
「ですが、ここは押さえるべきです! この洞窟ならAクラスの拠点として十分使えます!」
「それは俺も同意見だ」
だからこそ、慎重に動く必要がある。
俺は周囲の生徒へ指示を出した。
「入口から離れた場所に二名を置く。周囲に人影があればすぐ報告しろ。中の確認は最低限でいい。危険がなければここを拠点にする」
「はい!」
返事が揃う。
白峰は少し離れた位置で、何も言わずにこちらを見ていた。
その沈黙が気に障る。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「今はないよ」
「なら黙っていろ」
「うん」
素直に頷く。
だが、その視線は端末ではなく、戸塚と俺の間を行き来していた。
俺は戸塚へ向き直る。
「カードを出せ」
「はい!」
戸塚は制服の内側からキーカードを取り出した。
その動作に迷いはない。
迷いがなさすぎる。
この試験において、リーダーのカードはクラスの命綱だ。
それを扱う者が、ここまで分かりやすく動けば、見る者が見れば疑いを持つ。
俺はあえて一歩前に出た。
戸塚の動きを遮るように。
「周囲を確認しろ。俺が端末を見る」
「はい!」
俺は端末の前に立ち、操作を確認する。
外から見た時、俺が中心に見えるようにする。
それが最低限のカモフラージュだった。
端末の表示を確認する。
洞窟スポット。
占有可能。
リーダーカード認証。
やはり、カードが必要だ。
「戸塚」
「はい!」
「声を落とせ」
「あ……はい」
戸塚が慌てて声を潜める。
その反応自体が、すでに目立つ。
俺は周囲を一度見回した。
木々の間。
岩陰。
斜面の上。
見える範囲には、他クラスの姿はない。
だが、完全に安全とは言えない。
「今だ」
俺が小さく言うと、戸塚が端末にカードをかざした。
短い電子音が鳴る。
洞窟スポット占有完了。
端末の表示が切り替わる。
処理は成功した。
ここまでは問題ない。
だが、本当の問題はここからだった。
俺はカードを戸塚から受け取り、何気ない動作に見えるように手の中に収めた。
自分がキーカードを持っているように見せる。
端末を確認していたのも俺。
カードを持って洞窟から出てくるのも俺。
そう見えれば、外部からは俺がリーダーである可能性を強く意識するはずだ。
少なくとも、戸塚へ向かう視線を分散できる。
その狙いだった。
「戸塚。少し遅れて出ろ」
「はい」
「慌てるな。俺の後についてくるだけでいい」
「分かりました」
俺はカードを手にしたまま、洞窟の入口へ向かった。
外へ出る。
強い日差しが視界を白く焼いた。
洞窟の中の冷えた空気から一転して、湿った熱気が肌にまとわりつく。
俺は何気ないふりで周囲を見渡した。
木々の間。
岩陰。
斜面の上。
見える範囲に、他クラスの姿はない。
数拍遅れて、戸塚が洞窟から出てきた。
俺のすぐ隣ではない。
少し後ろ。
それでも、近い。
普段なら何の問題もない距離だ。
俺の指示を聞くため、戸塚がその位置につくのは自然なことだった。
だが今は違う。
リーダーを隠さなければならない状況で、その距離は近すぎる。
そう気づいたのは、戸塚が俺の斜め後ろに立った直後だった。
木々の間で、葉が一度だけ揺れた。
風か。
鳥か。
あるいは、人か。
俺は反射的に視線を向ける。
しかし、そこにはすでに何もない。
木々の隙間に、緑の影が揺れているだけだった。
「……」
気のせいだ。
そう処理するには、胸の奥に残る引っかかりが邪魔だった。
「葛城さん?」
戸塚が小さく声をかけてくる。
「何でもない」
俺は短く返した。
ここで余計な反応を見せるべきではない。
洞窟は押さえた。
拠点候補も確保した。
なら、次に確認すべきは周辺の地形と水場だ。
「次だ。移動する」
「はい!」
戸塚が頷く。
その声は、先ほどより少しだけ抑えられていた。
白峰は少し離れた場所で、何も言わずにこちらを見ていた。
何かに気づいたのか。
それとも、いつものように何も考えていない顔をしているだけなのか。
判断はつかなかった。
洞窟から離れ、林の中をしばらく進んだ。
足元の土は湿っている。
木々の隙間から差し込む光が、まだらに地面を照らしていた。
周囲に他クラスの気配はない。
先ほどの岩場からも十分に距離を取った。
そこで、白峰がようやく口を開いた。
「葛城くん」
「何だ」
「今の、少し硬かったね」
「何の話だ」
「カードを持って出てきた時の音」
俺は返答しなかった。
白峰は端末ではなく、俺の手元を見る。
「隠してる音じゃなかった」
「……」
「隠してるように見せる音だった」
その言葉に、わずかに喉が詰まる。
白峰の言葉はいつも曖昧だ。
証拠も結論もない。
だが今だけは、妙に聞き流せなかった。
「どういう意味だ」
「葛城くんが大きく鳴りすぎると、隣の小さい音が目立つよ」
「隣?」
白峰の視線が戸塚へ向く。
戸塚が眉をひそめた。
「何だよ」
「戸塚くん」
「だから何だよ」
「隠れるなら、葛城くんの後ろは少し近すぎたと思う」
戸塚の顔が強張る。
「俺は葛城さんの指示を聞いてただけだ!」
「うん」
「だったら何が悪いんだよ!」
「悪いっていうより、聞こえやすかった」
「だから何がだよ!」
白峰は少しだけ間を置いた。
「戸塚くんが、隠してる音」
戸塚が言葉を失う。
怒りたい。
否定したい。
だが、白峰の言葉のどこを否定すればいいのか分からない。
そんな顔だった。
「白峰」
俺は低く名を呼ぶ。
「今さら指摘してどうする」
「今さらだから、言ってる」
「何?」
「洞窟の近くで言ったら、もっと聞こえるかもしれなかったから」
その言葉に、戸塚が息を呑んだ。
俺も、すぐには返せなかった。
やはり、白峰も気づいていた。
洞窟の周囲に、誰かがいた可能性。
あるいは、少なくとも聞かれる危険性。
「見たのか」
「見てないよ」
「なら断定するな」
「うん。だから、あの場では言わなかった」
白峰は歩きながら、静かに続けた。
「でも、音は残ってた」
「音、音って……!」
戸塚が苛立ったように言う。
「結局、俺がミスしたって言いたいのかよ!」
「違うよ」
白峰は首を振った。
戸塚は一瞬、意外そうに顔を上げた。
「違うのかよ」
「うん。戸塚くんだけの音じゃなかった」
「……?」
「葛城くんと戸塚くん、二人で作った音だと思う」
戸塚は黙った。
俺も、すぐには言葉を返せなかった。
二人で作った音。
つまり、戸塚の未熟さだけではない。
俺のカモフラージュもまた、読まれる要素になり得るということ。
白峰はそれを言っている。
「葛城くんがリーダーに見えるように鳴りすぎた」
白峰は続けた。
「でも、戸塚くんはその後ろで息を浅くしてた」
「息……?」
「うん。隠れてる人の息じゃない。隠されてる人の息だった」
戸塚が唇を噛む。
俺は、先ほどの洞窟の入口を思い返す。
俺がカードを持って先に出た。
少し遅れて、戸塚が出た。
戸塚は俺の斜め後ろにいた。
俺を中心に見せるつもりだった。
だが、もしその光景を冷静に見る者がいたなら。
葛城が不自然にカードを持っている。
その後ろに、戸塚が控えている。
その構図自体が、むしろ何かを隠しているように見えた可能性がある。
「……戸塚」
「はい」
「以後、必要以上に俺の近くへ来るな」
「え……」
戸塚が不安そうに顔を上げる。
「ですが、俺はリーダーとして――」
「だからだ」
俺は短く遮る。
「お前がリーダーだから、俺の隣や後ろに立ち続けるなと言っている」
「……はい」
「俺が指示を出す。お前はそれを受け取る。だが、受け取る場所と距離を考えろ」
「分かりました」
戸塚は悔しそうに俯いた。
その様子を、白峰は責めるでも慰めるでもなく見ていた。
ただ、聞こえたものを置いただけ。
それだけだ。
それだけなのに、空気に小さな棘が残る。
「葛城さん」
戸塚が小さく言った。
「俺……そんなに、分かりやすかったですか」
俺は即答しなかった。
慰めることは簡単だ。
だが、ここで甘い言葉をかけることが戸塚のためになるとは思えなかった。
「分かりやすかったな」
俺は正直に告げる。
戸塚の肩がわずかに揺れた。
「ただし、お前だけの責任ではない」
「……はい」
「今後の動きで取り返せ」
「分かりました!」
声がまた少し大きい。
戸塚はそれに気づき、慌てて口を押さえた。
白峰が小さく笑った。
「今のは、少し下がったね」
「うるせえよ」
戸塚が吐き捨てる。
だが、怒鳴り声ではなかった。
林の中を、さらに奥へ進む。
足元の土はやや柔らかく、靴底に湿り気がまとわりつく。
さっき押さえた洞窟の中は、外の熱気が嘘のようにひんやりとしていた。
岩肌には湿気があり、奥には狭い空間が続いている。
寝床として使うには工夫が必要だが、日中の拠点としては申し分ない。
ここを押さえたこと自体は正しい。
船上で目をつけた判断も間違ってはいない。
問題は、正しい行動が、必ずしも正しい結果に繋がるとは限らないことだ。
木々の隙間から差す光が、地面に細く伸びている。
その光の向こうで、白峰がふと立ち止まった。
彼は進行方向ではなく、先ほどの洞窟があった方角を見ている。
「何を見ている」
「さっき、少し音が切れた」
「音?」
「うん。誰かがいたのかもしれない」
俺は足を止める。
「見たのか」
「見てないよ」
「なら、気のせいだ」
「うん。かもしれないね」
白峰はあっさりそう言った。
だが、その横顔はいつもよりわずかに冷めていた。
「ただ、ああいう場所って、音がよく響くから」
「……」
「隠したつもりの音も、外に出る」
白峰はそれだけ言って、再び歩き出した。
俺は一度だけ、洞窟の方角へ視線を向けた。
木々は静かだった。
他クラスの姿はない。
風が枝葉を揺らしているだけだ。
それでも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
スポットは取った。
拠点候補も確保した。
初動としては悪くない。
数字だけ見れば、むしろ順調だ。
だが、白峰の言葉が耳に残る。
隠してる音じゃなかった。
隠してるように見せる音だった。
俺は自分がカードを持ち、戸塚を隠したつもりだった。
だが、もしその姿を誰かが見ていたなら。
葛城が不自然にカードを持っている。
少し遅れて、戸塚が出てくる。
葛城が前に出すぎている。
そう読まれた時、隠したはずのものは逆に浮かび上がる。
今はまだ分からない。
分からないまま、試験は進む。
俺は拳を握った。
あの洞窟は、Aクラスにとって拠点になる。
だが同時に、最初の綻びが鳴った場所にもなった。
まだ小さい音。
そう白峰は言った。
だが、小さい音ほど、静かな場所ではよく響く。
「葛城さん」
戸塚の声が聞こえた。
先ほどより、いくらか抑えられている。
「この先、水場があるかもしれません。足元の土が少し湿っています」
「確認する。先走るな」
「はい」
戸塚は一瞬、返事を飲み込むように声を抑えた。
その変化が成長なのか、ただの萎縮なのか。
今はまだ判断できない。
だが少なくとも、戸塚は先ほどの言葉を無視できていない。
白峰奏。
あの男は、やはり厄介だ。
勝ちに必要なものを与えるわけではない。
間違いを正すわけでもない。
ただ、こちらが見なかったことにしたい音を拾ってしまう。
それがこの試験で、どんな意味を持つのか。
俺にはまだ分からなかった。