――葛城康平視点
洞窟を押さえたこと自体は、悪くない判断だった。
日差しを避けられる。
雨風をしのげる。
物資をまとめて保管できる。
入口を見張れば、他クラスの接近にも気づきやすい。
水場の位置も、探索班の報告によっておおよその目星がつき始めていた。
初動としては、決して遅れていない。
むしろ、他クラスよりも早く有利な拠点を確保できたと言っていい。
だが、拠点を手に入れたことと、クラスが安定することは別だ。
無人島生活一日目の夕刻。
Aクラスの空気には、早くも疲労の色が滲み始めていた。
洞窟周辺に荷物を運び込む者。
水場へ向かう経路を確認する者。
購入した物資を記録する者。
入口付近で見張りに立つ者。
それぞれが役割を与えられ、表面上は秩序立って動いている。
だが、返事の声は朝より重くなっていた。
照りつける日差し。
慣れない荷物運び。
砂と土で汚れる靴。
まとわりつく湿気。
船上の快適さを知った直後だからこそ、今の不自由さは余計に堪える。
Aクラスだからといって、肉体的な疲労に無縁なわけではない。
むしろ、優秀であるという自負が強い分、想定外の不便に対する耐性は低い者もいる。
「葛城さん!」
戸塚が物資の一覧を手に駆け寄ってきた。
額には汗が浮かんでいる。
だが、声にはまだ張りがあった。
無理をしている。
そう見えなくもない。
「水と食料の消費予定をまとめました! 現状、予定通りです!」
「見せろ」
「はい!」
受け取った紙に目を通す。
水、保存食、簡易トイレ、寝具、最低限の衛生用品。
初期ポイントの使用は抑えられている。
余計なものは買っていない。
後半を考えれば、妥当な配分だ。
ただし、妥当であることと、不満が出ないことは同じではない。
「不満は」
俺が問うと、戸塚は一瞬だけ口を閉じた。
「……少し出ています」
「内容は」
「配給が少ない、休憩が短い、洞窟の中が思ったより使いづらい、といったものです」
「他には」
「女子の方から、衛生面の不安も出ています」
当然だ。
一週間という期間を考えれば、衛生面の不安は軽視できない。
水や食料だけではなく、体調を崩す者が出れば、それだけで全体の損失になる。
「正直、少し甘いと思いますけどね」
戸塚が低く言った。
「まだ初日です。Aクラスなら、この程度で文句を言うべきじゃないと思います」
「戸塚」
「はい」
「その考えを、そのまま口に出すな」
「……すみません」
戸塚はすぐに頭を下げた。
しかし、納得している顔ではない。
自分は正しいことを言っている。
だが、葛城に止められたから黙る。
そういう反応だった。
俺は紙を返し、洞窟の入口付近へ向かう。
そこでは数人の女子生徒が、木陰に集まっていた。
坂柳側に近い生徒も混じっている。
こちらを見る視線には、疲労と不満があった。
隠そうとしている者もいる。
だが、隠しきれていない。
「葛城くん」
一人が口を開いた。
「今日の配給、少なすぎない?」
「まだ初日よね。夜もこれだけなの?」
「水も、もっと自由に飲めないの? この暑さだときついんだけど」
「洞窟も、思ったより湿気があるし……荷物置きにはいいけど、ずっとあそこにいるのは無理じゃない?」
不満は想定内だった。
配給。
水分。
休憩。
衛生。
洞窟の居心地。
どれも完全には切り捨てられない。
だが、すべてを満たせばポイントが足りなくなる。
「水分補給は作業量に応じて調整する。体調不良者が出れば全体の損失になるからだ」
「じゃあ、食事は?」
「予定通りだ。初日に消費を増やせば、後半に余裕がなくなる」
「それは分かるけど……」
「分かってるなら従えよ」
戸塚が横から口を挟んだ。
俺が制するより早かった。
「葛城さんは先のことまで考えてるんだ。今ちょっと腹が減ったくらいで、いちいち文句を言うなって」
空気が固まる。
女子生徒の一人が眉をひそめた。
「ちょっとって……」
「こっちだって朝から動いてるんだけど」
「それに、戸塚くんは葛城派だからそう言えるんじゃない?」
その言葉に、戸塚の顔色が変わった。
「は? 何だよ、それ」
「だってそうでしょ。葛城くんの指示には全部従えって感じじゃない」
「当たり前だろ! 今Aクラスをまとめてるのは葛城さんなんだから!」
「坂柳さんがいないから、でしょ」
洞窟の入口に、嫌な沈黙が落ちた。
坂柳不在。
その言葉は、今のAクラスにとって見えない棘だ。
誰もが分かっている。
しかし、わざわざ口にすれば、派閥の境界線をなぞることになる。
戸塚が一歩前へ出た。
「お前、今それを言う必要あるのかよ!」
「あるわよ。みんな思ってることだし」
「みんなって誰だよ!」
「少なくとも、私は思ってる」
周囲の何人かが黙って視線を逸らした。
同意はしない。
だが、否定もしない。
厄介だ。
配給への不満が、派閥への不信に変わり始めている。
ここで感情的に押し込めば、火種は残る。
だが、甘く見せれば統制が緩む。
どちらも避けなければならない。
「クラス内で揉める暇はない」
俺は低く言った。
「配給は予定通りとする。ただし、水分補給と休憩については見直す。設営と探索を同時に進めている以上、体力の消耗は無視できない」
「でも、食事は増えないの?」
「今日の夜に再度確認する。余裕があるとは言わないが、最低限の栄養は確保する」
「最低限、ね」
不満は消えていない。
だが、表立った反論は止まった。
ここで終わらせるべきだった。
だが、戸塚はそれができなかった。
「ほら見ろ! 葛城さんはちゃんと考えてるんだよ!」
勝ち誇ったような声だった。
「文句を言う前に少しは頭使えって。下位クラスじゃないんだからさ!」
「戸塚」
俺は即座に制した。
しかし、遅い。
女子生徒の一人が、はっきりと顔をしかめる。
「そういう言い方、やめてくれない?」
「何だよ」
「下位クラスじゃないから我慢しろってこと? それ、こっちの不満を馬鹿にしてるだけじゃない」
「馬鹿になんかしてないだろ! 俺はAクラスとして――」
「戸塚!」
今度は強く呼んだ。
戸塚はびくりと肩を揺らす。
「……すみません」
俺は女子生徒たちへ視線を戻す。
「不満は把握した。夜に改めて方針を伝える。それまでは、各班の作業を続けろ」
何人かは頷いた。
何人かは不満げなまま去っていく。
完全な納得は得られていない。
だが、これ以上ここで話を続けても、感情が広がるだけだ。
俺は戸塚を連れて、少し離れた場所へ移動した。
「葛城さん、すみません。俺、余計なことを……」
「自覚があるならまだいい」
「でも、あいつらがあんな言い方をするから……! 坂柳がいないからって、そんな……」
「だから感情で返すなと言っている」
「……はい」
戸塚は悔しそうに唇を噛んだ。
悪意があるわけではない。
忠誠心もある。
だが、視野が狭い。
自分が何を守ろうとしているのか。
その言葉が相手にどう届くのか。
そこまで考えが及んでいない。
俺がもう一度注意しようとした時、木陰から声がした。
「戸塚くん」
白峰だった。
木の幹にもたれ、いつからそこにいたのか分からない。
戸塚はすぐに顔をしかめる。
「何だよ」
「今の声、少し硬かったね」
「は?」
戸塚の眉が吊り上がる。
白峰は、女子生徒たちが去っていった方へ視線を向けた。
「葛城くんを守ろうとしたのは分かるよ」
「だったら何だよ」
「でも、守る声というより、押し返す声に聞こえた」
「……お前、喧嘩売ってんのか?」
「売ってないよ」
「俺は葛城さんのために言ったんだよ!」
「うん」
白峰は否定しなかった。
「でも、相手にはそう届いてなかったと思う」
戸塚が言葉を詰まらせる。
「……っ、意味分かんねえよ」
「言った側の理由と、聞いた側に残るものは違うから」
「だから、何が言いたいんだよ!」
戸塚の声が荒くなる。
白峰は怯えもしない。
ただ少しだけ首を傾げる。
「戸塚くんは、葛城くんを守りたいんだよね」
「当たり前だろ!」
「うん。でも今は、葛城くんを支えるより、周りを遠ざけてるように聞こえた」
戸塚の顔が強張った。
「俺が……何だって?」
「葛城くんの声じゃない。戸塚くん自身の声にも、まだなってなかったと思う。Aクラスって言葉と、葛城くんの名前だけが前に出てた」
「……馬鹿にしてんだろ」
「してない」
「してるだろ!」
戸塚が一歩詰め寄る。
俺は止めようとした。
だが、白峰は静かに言った。
「今の怒り方の方が、戸塚くんの声だと思う」
「は?」
「そっちの方が、まだ分かりやすい」
戸塚は完全に混乱していた。
怒鳴り返したい。
だが、どう返せばいいか分からない。
そんな顔だった。
「白峰」
俺は低く声をかける。
「戸塚を混乱させるな」
「ごめん」
白峰は素直に謝った。
だが悪びれているようには見えない。
「ただ、今のうちに言っておいた方がいいと思った」
「またそれか」
「うん。まだ、小さいから」
その言葉は、洞窟で聞いたものとよく似ていた。
小さな違和感。
放置すれば大きくなるもの。
白峰は、俺たちが大きな問題になるまで見ないふりをするものを、まだ形になる前に拾う。
それが有用なのか、厄介なのか。
今の俺には判断しきれなかった。
「戸塚」
「……はい」
「今は物資管理に戻れ。班分けの調整もある」
「分かりました」
戸塚は白峰を睨みつけた後、足早に去っていった。
その背中には、怒りと戸惑いが混ざっている。
俺は白峰へ視線を戻した。
「お前は何がしたい」
「別に」
「その答えは聞き飽きた」
白峰は少しだけ笑った。
「戸塚くん、悪い人じゃないよ」
「分かっている」
「でも、強い人でもない」
「それも分かっている」
「じゃあ、葛城くんが気をつけた方がいい」
白峰は木陰から拠点の方を見る。
その視線の先には、戸塚がいた。
戸塚は物資の置き場へ戻り、何人かに指示を出している。
その声は相変わらず大きい。
葛城さんが言った。
葛城さんの指示だ。
葛城さんに確認する。
どの言葉にも、俺の名前が混ざっている。
「戸塚くんは、葛城くんの声を大きくするのは得意だと思う」
白峰が言った。
「でも、大きくなった声って、別のものまで乗せるから」
「……お前の言い方は回りくどい」
「よく言われる」
「改善する気はないのか」
「できるならしてる」
白峰は真面目な顔でそう言った。
本気なのか冗談なのか分からない。
俺は深く息を吐く。
「戸塚は未熟だ。だが、今のAクラスでは必要な存在でもある」
「うん」
「俺の指示を実行できる人間は多くない」
「それも分かる」
「なら余計に、あいつを揺らすな」
白峰はしばらく黙った。
潮風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
「揺らした方がいい時もあるよ」
やがて、白峰はそう言った。
「倒れる前なら」
俺は眉をひそめる。
「倒れる?」
「うん」
白峰は拠点の方を見たまま、静かに続ける。
「戸塚くん、たぶん倒れてからじゃないと、自分で立ってたつもりだったことに気づけない」
「……」
「でも、倒れる前に少し揺れたら、気づくこともある」
意味は分かる。
分かるが、納得したくはない。
今のAクラスに必要なのは安定だ。
揺れではない。
だが、この試験が一週間続く以上、表面だけを固めてもいずれ内側から崩れる可能性はある。
戸塚の未熟さも。
派閥の亀裂も。
橋本の不穏さも。
坂柳不在の重さも。
すべてが、まだ小さいうちに見えている。
見えているのに、処理しきれない。
それが苛立たしい。
「……今は、余計な火種を増やすな」
「分かった」
「本当に分かっているのか」
「たぶん」
信用できない返答だった。
白峰はそれ以上何も言わず、ふらりと歩き出す。
「どこへ行く」
「探索班の方。少しざわついてる」
「また勝手に動くつもりか」
「一人じゃないよ。向こうに二人いる」
白峰が指差した先には、探索班の生徒が数名いた。
いつの間に合流するつもりだったのか。
相変わらず掴めない。
白峰が去った後、俺は再び物資一覧へ視線を落とした。
数字だけ見れば、予定は大きく崩れていない。
消費も想定内。
設営も進んでいる。
水場も確保できた。
洞窟という拠点もある。
だが、数字には現れないものがある。
不満。
不信。
疲労。
派閥。
そして、守ったつもりの言葉が、守るべきものを傷つけること。
戸塚は俺のために声を上げた。
その事実に嘘はない。
だが、その声はAクラスの全員に同じようには届かなかった。
白峰の言葉が耳に残る。
守る声というより、押し返す声に聞こえた。
不快な言い方だ。
だが、否定しきれない。
夕方の光が、洞窟の入口を赤く染めていた。
生徒たちの影が長く伸びる。
その影は、ひとつにまとまっているようで、実際には少しずつ別の方向へ揺れていた。
初日。
まだ一日目だ。
それなのに、Aクラスの足元にはすでに小さな亀裂が入っている。
俺は紙を折りたたみ、拳の中で握りしめた。
勝つためには、他クラスを見るだけでは足りない。
味方を、見なければならない。
それが分かっていても、今の俺にはまだ、全員の声を同じ方向へ向ける術がなかった。