壊れる前の音を、君は知らない   作:シュユ

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第15話 見えない契約

――葛城康平視点

 

 無人島での一日は、想像以上に長い。

 

 時計を見れば、まだ夕方に差しかかったばかりだというのに、体感ではすでに数日が過ぎたようだった。

 

 洞窟を拠点に定めたことで、Aクラスは一定の安定を得た。

 

 物資は一箇所に集められる上に、見張りの配置もしやすい。

 

 雨風をしのげる場所があるというだけで、生徒たちの不安は多少抑えられる。

 

 だが、それは表面上の話だ。

 

 配給への不満。

 

 休憩時間への不満。

 

 洞窟内の湿気。

 

 派閥による小さな距離。

 

 坂柳不在という空白。

 

 それらは消えていない。

 

 ただ、まだ形になっていないだけだ。

 

 だからこそ、初日で余計な消耗をするわけにはいかなかった。

 

 水と食料の確保に、体力の温存。

 

 そして、他クラスとの関係。

 

 その一つとして、俺はCクラスとの接触を選んだ。

 

 正確には、龍園翔との接触だ。

 

 龍園は、まともに信用できる相手ではない。

 

 それは分かっている。

 

 暴力的で、支配的で、他者を駒として扱うことに躊躇がない。

 

 だが同時に、あの男は無能ではない。

 

 むしろ、こうした特殊試験においては危険なほど動ける。

 

 正面からぶつかるより、利用できる部分だけを利用し、こちらの勝率を上げる。

 

 それが、現時点での最善だと判断した。

 

 

 夕方。

 

 洞窟から少し離れた林の中で、俺は龍園と向かい合っていた。

 

 周囲にAクラスの生徒は連れてきていない。

 

 連れてきたところで、龍園に余計な材料を与えるだけだ。

 

 相手もまた、数名のCクラス生徒を遠くに控えさせているだけだった。

 

 真正面に立つ龍園は、試験初日だというのに、すでにこの島の空気に馴染んでいるように見えた。

 

 薄く笑っている。

 

 焦りも、不安も見せない。

 

 それが本心か演技かは、簡単には読めない。

 

「よく来たな、葛城」

 

 龍園が口角を上げる。

 

「随分と早いじゃねえか。Aクラス様は、もっと上品に様子見でもしてるかと思ったぜ」

 

「無駄な駆け引きに時間を使うつもりはない」

 

「ククッ、相変わらず堅いな」

 

「本題に入る」

 

「急ぐなよ。せっかくの無人島だ。もう少し楽しめ」

 

「この状況を楽しめる人間とは、あまり長く話したくない」

 

「言うじゃねえか」

 

 龍園は楽しげに笑った。

 

 その笑いに、友好的な響きはない。

 

 相手の反応を確かめるための笑いだ。

 

 こちらがどこで苛立つか。

 

 どこで譲るか。

 

 どこで警戒を緩めるか。

 

 そういうものを見ている。

 

「Cクラスの動きは見ている」

 

 俺は言った。

 

「お前たちは、初日からかなり自由にポイントを使っているようだな」

 

「ああ?」

 

 龍園は肩をすくめる。

 

「島に来てまで節約生活なんざ、つまらねえだろ。楽しめる時に楽しむ。それだけだ」

 

「お前が本気でそう考えているとは思えない」

 

「買いかぶりすぎだぜ。俺は楽しいことが好きなんだよ」

 

「なら、なぜ俺と話す」

 

 龍園の笑みが深くなる。

 

「お前が来たからだろ」

 

「俺が来ることを予想していたのか」

 

「Aクラスが堅実に動くなら、物資と拠点の確保を優先する。けど、堅実な動きってのは消耗もする。特に、お前みたいなタイプはな」

 

「……」

 

「節約。統制。管理。ご苦労なこった。だが、一週間も続けりゃ不満が出る。上品な連中ほど、泥臭い生活には弱え」

 

 龍園は、こちらの事情を見ている。

 

 それ自体は想定内だ。

 

 洞窟を拠点にしたことも、節約を重視していることも、他クラスから見ればいずれ分かる。

 

 隠しきれるものではない。

 

「Cクラスには物資に余裕がある」

 

「あるように見せているだけかもしれないがな」

 

「お前が無駄に使い切るとは思えない」

 

「へえ」

 

 龍園は目を細めた。

 

「で? Aクラスの葛城様は、俺に何を求める?」

 

「食料と消耗品の一部を融通してもらいたい」

 

「随分とはっきり言うじゃねえか」

 

「遠回しに言っても時間の無駄だ」

 

「代わりに何を出す?」

 

「プライベートポイントだ」

 

 龍園は笑みを消さなかった。

 

 だが、その目の奥がわずかに動いた。

 

 予想していたか。

 

 あるいは、最初からそこを待っていたか。

 

「試験後、一定期間にわたり、AクラスからCクラスへポイントを支払う」

 

「ほう」

 

「金額と期間は交渉次第だ。こちらとしても無制限に出すつもりはない」

 

「今ここで物資が必要なのはお前らだろ。立場が分かってねえな」

 

「お前たちも、ポイントを使いすぎれば試験後の評価に響く」

 

「ククッ」

 

 龍園が低く笑う。

 

「評価ねえ」

 

「この試験は最終的な残ポイントが反映される。お前がそこを無視しているとは思えない」

 

「残ポイントが大事だって? まるで優等生の答えだな」

 

「事実だ」

 

「この試験で大事なのは、残ポイントだけじゃねえ」

 

「リーダー看破か」

 

「さあな」

 

 龍園ははぐらかす。

 

 だが、その一瞬の間で十分だった。

 

 やはり、龍園はリーダー看破を重視している。

 

 当然だ。

 

 この試験で大きく点を動かすには、単なる節約やスポット占有だけでは足りない。

 

 他クラスのリーダーを見抜き、自クラスのリーダーを隠す。

 

 そこが勝敗を分ける。

 

 だからこそ、俺は戸塚を隠す必要がある。

 

 そして、だからこそ、龍園との契約には危険がある。

 

「お前が欲しいのは、物資の対価だけではないということか」

 

「分かってきたじゃねえか」

 

 龍園は口角を上げた。

 

「こっちが出すのは物資だけじゃねえ。情報もだ」

 

「情報?」

 

「ああ」

 

 龍園はわざとらしく肩をすくめる。

 

「この試験で一番価値がある情報は何だと思う?」

 

「……他クラスのリーダー情報か」

 

「そうだ」

 

 龍園の声が低くなる。

 

「物資と、BとDのリーダー情報。こっちはその二つを出す」

 

「その見返りに何を求める」

 

「Aクラス生徒一人につき、毎月二万プライベートポイント」

 

「毎月だと?」

 

「ああ」

 

「期間は」

 

 龍園は笑った。

 

「卒業までだ」

 

 その言葉に、林の空気がわずかに重くなった気がした。

 

 毎月二万。

 

 Aクラス全員分。

 

 卒業まで。

 

 単なる物資の対価ではない。

 

 これは契約ではなく、鎖だ。

 

 今この場で物資を得る代わりに、Cクラスへ長期的にポイントを流し続ける。

 

 金額だけの問題ではない。

 

 AクラスがCクラスに支払い続けるという事実そのものが、後々まで残る。

 

「ふざけた条件だな」

 

「そうか?」

 

 龍園は笑みを崩さない。

 

「物資が欲しい。情報も欲しい。けど、払うものは少なくしたい。そんな都合のいい話があると思ってんのか?」

 

「その条件を飲めば、Aクラスは卒業までCクラスに縛られることになる」

 

「だから価値があるんだろ」

 

 龍園は当然のように言った。

 

「嫌なら契約しなけりゃいい。お前らはお前らで、湿った洞窟の中で節約生活でも続けてろ」

 

「……」

 

「ただし、内部の不満がいつまで抑えられるかは知らねえけどな」

 

 龍園の言葉は、こちらの弱点を正確に撫でていた。

 

 物資の不足。

 

 配給への不満。

 

 洞窟の居心地。

 

 坂柳不在による派閥の空白。

 

 戸塚の未熟さ。

 

 それらはまだ小さい。

 

 だが、小さいまま終わる保証はない。

 

 だからこそ、物資の安定は必要だった。

 

 龍園を信用するのではない。

 

 龍園の利害を利用する。

 

 そう割り切るしかない。

 

 だが、卒業までの支払いは重すぎる。

 

 物資と情報を得る代わりに、Aクラスの未来を差し出すことになる。

 

「即答はできない」

 

 俺は言った。

 

「条件が大きすぎる」

 

「今すぐ契約しろとは言ってねえよ」

 

 龍園は楽しげに言う。

 

「ただ、考える時間は長くねえ。物資は今必要なんだろ?」

 

「書面にする」

 

「あ?」

 

「契約するなら、条件は書面に残す。曖昧な言葉で後から意味を変えられるのは避けたい」

 

「ククッ、慎重だな」

 

「当然だ」

 

「いいぜ。紙でも何でも用意しろ」

 

 龍園は背を向けかけ、そこで一度だけ振り返った。

 

「葛城」

 

「何だ」

 

「鎖ってのは、長い方が便利なんだぜ」

 

「お前にとっては、だろう」

 

「分かってるじゃねえか」

 

 龍園は低く笑った。

 

「せいぜい考えろ。Aクラス様が、どれだけ自分たちの未来を高く売れるのかをな」

 

 龍園が林の奥へ消えていく。

 

 俺はその背中を見送りながら、拳を握った。

 

 物資。

 

 情報。

 

 卒業までの支払い。

 

 毎月二万プライベートポイント。

 

 そのどれもが、重い。

 

 だが、一番重いのは金額ではない。

 

 Aクラスが、Cクラスに支払い続けるという事実。

 

 それを龍園は欲しがっている。

 

 俺は、思った以上のものを差し出そうとしているのかもしれない。

 

 そんな考えが頭をよぎった。

 

「葛城くん」

 

 背後から声がした。

 

 白峰だった。

 

 いつからいたのか。

 

 いや、気配は途中からあった。

 

 ただ、龍園との会話に意識を向けていたため、深く確認しなかっただけだ。

 

「聞いていたのか」

 

「全部じゃないよ」

 

「どこからだ」

 

「龍園くんが、契約は物資とポイントの交換だけじゃないって言ったあたりから」

 

「十分に聞いているな」

 

「うん。たぶん」

 

 白峰は悪びれない。

 

 いつものことだ。

 

 俺はため息を押し殺した。

 

「盗み聞きは褒められたものではない」

 

「ごめん」

 

「謝る気があるようには見えない」

 

「少しはあるよ」

 

「なら今後は控えろ」

 

「たぶん無理だと思う」

 

「なぜだ」

 

「気になるから」

 

 白峰はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。

 

「今の、言い方が悪かったね」

 

「いつもだ」

 

「うん」

 

 否定しない。

 

 白峰はそういう男だ。

 

 自分の言葉が相手に届きづらいことを知っている。

 

 知っていて、それでも言葉を置く。

 

 その距離感が、こちらを苛立たせる。

 

「何か言いたいことがあるのか」

 

「うん」

 

「言え」

 

 白峰はすぐには答えなかった。

 

 龍園が去っていった方角を見る。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「さっきの話、少し重かったね」

 

「取引だ。軽い話ではない」

 

「そうじゃなくて」

 

 白峰は首を振る。

 

「龍園くんの言葉に、葛城くんが少し引っ張られてた」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

「それはどういう意味だ」

 

「契約って、条件だけを見てる時はまだ軽い。でも、相手の言葉まで持ち帰ると重くなる」

 

 白峰の言葉は相変わらず曖昧だ。

 

 だが、完全に意味が分からないわけではない。

 

 龍園は契約条件だけを提示したのではない。

 

 Aクラスの内部事情に触れた。

 

 坂柳不在を指摘した。

 

 戸塚や橋本を匂わせた。

 

 つまり、物資とポイントの取引に、Aクラスの不安を混ぜてきた。

 

 それが、白峰には重く感じられたのだろう。

 

「お前は、契約をするなと言いたいのか」

 

「ううん」

 

 白峰はすぐに否定した。

 

「必要なら、すればいいと思う」

 

「なら何が問題だ」

 

「選んだ相手に、思った以上のものを渡してしまうこと」

 

「……」

 

 俺は眉をひそめる。

 

 白峰は続けた。

 

「物資をもらう。ポイントを払う。それだけなら分かりやすい」

 

「ああ」

 

「でも、龍園くんはたぶん、それだけを欲しがってない」

 

「何を欲しがっている」

 

「葛城くんが、龍園くんを選んだという事実」

 

 白峰の声は静かだった。

 

 責める響きはない。

 

 だが、その分だけ妙に耳に残る。

 

「契約の中身より、誰と結んだか。そこに意味を作る人だと思う」

 

「……龍園らしい見方だな」

 

「うん」

 

「それを俺が分かっていないとでも?」

 

「分かってると思う」

 

「なら問題ないだろう」

 

「分かってても、近くに置くと重くなることはあるから」

 

 白峰は淡々と言う。

 

 その言い方が、不快だった。

 

 まるで、俺がこれから失敗すると決めつけているように聞こえる。

 

「お前はいつもそうだな」

 

「何が?」

 

「結論を出さずに、不安だけを置いていく」

 

 白峰は少しだけ目を伏せた。

 

「結論を出せるほど、知らないから」

 

「なら黙っていればいい」

 

「そうかもしれない」

 

 白峰は否定しなかった。

 

「でも、今の葛城くんは、ちゃんと重さを知っておいた方がいいと思った」

 

「……」

 

「軽いつもりで持ったものが、後で重くなることもあるから」

 

 龍園との契約。

 

 物資の安定。

 

 ポイントの支払い。

 

 Aクラスの内部不満。

 

 坂柳不在。

 

 橋本の不穏な動き。

 

 戸塚の未熟さ。

 

 全てが一つの線で繋がるわけではない。

 

 だが、それぞれが小さな重みを持っている。

 

 その重みをまとめて背負うのは、俺だ。

 

 分かっている。

 

 そんなことは、言われるまでもない。

 

「白峰」

 

「うん」

 

「お前はこの試験で、Aクラスを勝たせる気があるのか」

 

 白峰は一瞬だけ沈黙した。

 

 風が葉を揺らす。

 

 遠くで、誰かが水場を見つけたと声を上げる。

 

 白峰はその声の方を一度だけ見てから、俺に視線を戻した。

 

「勝つために動く人は、もういると思う」

 

「俺のことか」

 

「葛城くんも。戸塚くんも」

 

「なら、お前は何をする」

 

「選ぶ前に、少し立ち止まれる場所を置く」

 

 答えになっているようで、なっていない。

 

 だが、白峰らしい答えではあった。

 

「それで勝てるのか」

 

「分からない」

 

「無責任だな」

 

「うん」

 

 白峰は否定しない。

 

 その素直さが、逆に癇に障る。

 

「お前は、自分では何も背負わないのか」

 

 白峰は少しだけ黙った。

 

 その沈黙は、これまでのものとは少し違った。

 

 柔らかいが、軽くはない。

 

「背負えるものと、背負えないものがあると思う」

 

「……」

 

「葛城くんの決めたことは、葛城くんのものだよ」

 

「なら、なぜ口を出す」

 

「落としそうに見えたから」

 

 白峰はそう言って、視線を逸らした。

 

「全部じゃないよ。ただ、端の方だけ」

 

 俺は返事をしなかった。

 

 理解できるようで、理解したくない言葉だった。

 

 その時、林の奥から戸塚の声が聞こえた。

 

「葛城さん! 水場の確認が取れました!」

 

 戸塚がこちらへ駆け寄ってくる。

 

 途中で、俺と白峰が二人で立っていることに気づき、露骨に眉をひそめた。

 

「また白峰かよ」

 

「戸塚」

 

「あ、すみません」

 

 戸塚はすぐに姿勢を正す。

 

「水場について、班から報告がありました。使用できそうです。ただ、他クラスに見つかる可能性もあります」

 

「分かった。すぐに確認する」

 

「はい!」

 

 戸塚は頷いた後、ちらりと白峰を見る。

 

「お前、葛城さんに変なこと吹き込むなよ」

 

「変なことかどうかは、葛城くんが決めると思う」

 

「そういう言い方が気に食わねえんだよ」

 

「うん」

 

「うんじゃねえ!」

 

 戸塚が噛みつきそうになる。

 

 俺は短く制した。

 

「戸塚。今は水場が先だ」

 

「……はい」

 

 戸塚は悔しそうに口を閉じる。

 

 白峰はそれを見て、少しだけ目を細めた。

 

「今のは、少し我慢できたね」

 

「うるせえよ」

 

 戸塚が小さく吐き捨てる。

 

 以前なら、もっと大きな声で反発していただろう。

 

 その程度の変化。

 

 成長と呼ぶには小さい。

 

 だが、変化ではある。

 

 俺は二人を見比べ、短く息を吐いた。

 

「移動する」

 

 俺たちは水場へ向けて歩き出した。

 

 木々の間を進む。

 

 足元の土は湿り気を帯びている。

 

 水場が近い証拠だ。

 

 背後では、戸塚が白峰を警戒するように歩いている。

 

 白峰は何も言わない。

 

 ただ、周囲の様子を確かめるように、わずかに歩調を緩めていた。

 

 龍園との契約。

 

 水場の確保。

 

 洞窟の拠点化。

 

 Aクラス内の不満。

 

 一つ一つは、まだ処理できる問題だ。

 

 だが、問題は積み重なる。

 

 そして積み重なったものは、いつか重さになる。

 

 白峰の言葉が残る。

 

 選んだ相手に、思った以上のものを渡してしまうこと。

 

 俺は龍園を利用するつもりでいる。

 

 だが、龍園もまた、こちらを利用する。

 

 その事実を忘れたつもりはない。

 

 それでも、今のAクラスには物資が必要だ。

 

 安定が必要だ。

 

 俺は進むしかない。

 

 たとえ、その選択が後に別の重さを生むとしても。

 

 水音が、かすかに聞こえた。

 

 小さな流れだ。

 

 まだ、確かな水場とは言い切れない。

 

 だが、Aクラスが今日を越えるためには十分な希望だった。

 

 俺はその音へ向かって歩く。

 

 背後で、白峰が小さく呟いた。

 

「……少し、重くなったね」

 

 誰に向けた言葉だったのかは分からない。

 

 俺は振り返らなかった。

 

 振り返れば、その言葉を認めることになる気がしたからだ。

 

 

 

 だが、その夜。

 

 俺は龍園から提示された条件を前にして、白峰の言葉を思い出すことになる。

 

 試験後、卒業までAクラスからCクラスへプライベートポイントを支払うこと。

 

 支払い期間は、こちらが想定していたよりも遥かに長い。

 

 金額も軽くはない。

 

 そして、契約を破った場合の条件には、あえて曖昧な余地が残されていた。

 

 龍園らしい。

 

 言葉の隙間に、後から別の意味を差し込めるようにしている。

 

 洞窟の中で、手元の紙を見下ろす。

 

 周囲では生徒たちが寝床の準備をしていた。

 

 疲労で口数は少ない。

 

 それでも、昼よりは不満が抑えられている。

 

 水場を確保し、最低限の追加物資を入手できる見込みが立ったからだ。

 

 つまり、この契約には意味がある。

 

 Aクラスを今日、明日と安定させる意味が。

 

 だが、その先はどうか。

 

 俺は紙を折りたたみ、目を閉じた。

 

 契約って、条件だけを見てる時はまだ軽い。

 

 でも、相手の言葉まで持ち帰ると重くなる。

 

 不快な言葉だ。

 

 だが、的を外していない。

 

 俺は立ち上がった。

 

「戸塚」

 

「はい!」

 

 少し離れた場所で物資を確認していた戸塚が振り向く。

 

「龍園との交渉を一部変更する」

 

「変更、ですか?」

 

「ああ」

 

「条件が悪かったんですか」

 

「悪いというより、長い」

 

 戸塚は意味が分からないという顔をした。

 

「長い?」

 

「支払い期間が長すぎる。卒業までCクラスに首を押さえられる形になる」

 

「でも、物資は必要です。ここで揉めたら……」

 

「分かっている」

 

 俺は短く言う。

 

「だから対価は払う。だが、卒業まで響く契約は飲まない」

 

「……」

 

「不足分は、こちらのポイントを使って補う」

 

 戸塚の表情が揺れた。

 

「で、でもそれだと、残ポイントが減ります」

 

「そうだ」

 

「試験結果に響きますよ!」

 

「それも分かっている」

 

「だったら――」

 

 戸塚は言いかけて、口を閉じた。

 

 感情で返すな。

 

 そう何度も言った。

 

 その言葉を、今の戸塚は飲み込もうとしている。

 

「……葛城さんは、それでもそっちの方がいいと思うんですか」

 

「ああ」

 

 俺は答えた。

 

「短期的には損をするかもしれない。だが、龍園に長く握られるよりはいい」

 

「……分かりました」

 

 戸塚はまだ完全には納得していない顔だった。

 

 だが、反論を飲み込んだ。

 

 それは小さな変化だった。

 

「俺は何をすればいいですか」

 

「物資の再計算だ。追加購入を前提に、明日以降の配給を組み直せ」

 

「はい!」

 

 戸塚はすぐに動き出した。

 

 以前なら、葛城さんの判断なら当然です、と言っただろう。

 

 今は違った。

 

 分かっていない。

 

 だが、分かろうとしている。

 

 それで十分だ。

 

 洞窟の入口近くに、白峰が立っていた。

 

 こちらを見ていたのか、それとも偶然そこにいたのか。

 

 分からない。

 

 俺は白峰へ声をかけるつもりはなかった。

 

 だが、白峰の方が先に口を開いた。

 

「決めたんだね」

 

「聞いていたのか」

 

「少しだけ」

 

「本当に少しだけか」

 

「たぶん」

 

 俺はため息をつく。

 

「お前の言葉で決めたわけではない」

 

「うん」

 

「俺が判断した」

 

「そうだと思う」

 

 白峰は静かに頷く。

 

 その反応が、妙に癪だった。

 

 責任を負わない。

 

 だが、逃げてもいない。

 

 ただ、こちらが選ぶための余白だけを置いていく。

 

「これで点数を失うかもしれない」

 

「うん」

 

「その時は、俺の責任だ」

 

「うん」

 

「お前はそれでいいのか」

 

 白峰は少しだけ考えた。

 

「葛城くんが選んだなら、それでいいと思う」

 

「無責任だな」

 

「そうかもしれない」

 

 白峰は否定しない。

 

「でも、さっきよりは少し、葛城くんの声に戻った気がする」

 

「……何だ、それは」

 

「龍園くんの言葉が、少し離れた」

 

 白峰はそう言って、洞窟の奥へ視線を向けた。

 

「それだけ」

 

 それだけ。

 

 白峰にとっては、そうなのだろう。

 

 勝てるかどうか。

 

 得か損か。

 

 そういうものとは別のところで、あの男は聞いている。

 

 俺は紙を握り直した。

 

 明日以降、Aクラスの残ポイントは想定よりも減る。

 

 龍園との契約は浅くなるが、代わりにこちらの負担は増える。

 

 結果だけを見れば、俺の判断は失点に繋がるかもしれない。

 

 だが、長く縛られるよりはいい。

 

 龍園に、試験の外まで食い込まれるよりは。

 

「戸塚」

 

 俺は再び声をかけた。

 

「明日の朝、配給と作業班を再編する」

 

「はい!」

 

「坂柳派の生徒も要所に入れろ。こちら側だけで固めるな」

 

「……はい」

 

 戸塚はわずかに顔をしかめた。

 

 だが、反発はしなかった。

 

「それと、橋本の動きに注意しておけ」

 

「橋本ですか?」

 

「ああ」

 

「分かりました。あいつ、ふらふらしてますからね」

 

「感情で見るな。動きだけを見ろ」

 

「……はい」

 

 戸塚は真剣な顔で頷いた。

 

 白峰が、それを遠くから見ていた。

 

 何かを言うことはなかった。

 

 ただ、少しだけ目を細める。

 

 俺はその視線を無視し、洞窟の外へ出た。

 

 夜の島は、昼とは違う顔をしている。

 

 虫の声。

 

 遠くの波音。

 

 木々のざわめき。

 

 洞窟の中から漏れるAクラスの小さな話し声。

 

 そのどれもが、妙に近く聞こえた。

 

 見えない契約。

 

 それは、龍園との間にだけあるものではない。

 

 葛城派と坂柳派。

 

 俺と戸塚。

 

 俺とAクラス。

 

 俺と白峰。

 

 言葉にしないまま結ばれているものが、この島にはいくつもある。

 

 その中のどれかを見誤れば、足元を掬われる。

 

 俺は夜の闇を見つめた。

 

 勝つためには、まだ足りないものが多すぎる。

 

 だが、少なくとも一つだけは決めた。

 

 龍園に、必要以上のものは渡さない。

 

 その代わりに、失うものがあるとしても。

 

 それは俺が選んだことだ。

 

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